実際のところ、人生を生きる上で、他人に対する「優越的な賢さ」を信じ続ける必要はないと思う。
誰かよりも賢くなること、人々よりも賢い優越的な知性をつけるということは、一部のスポーツ選手や将棋棋士などを除いて、必要ない。
それよりも、自らが好きでやりたいと思ったことを信じたほうがいい。
最近は、スポーツや将棋のような業界における一流の天才のような人であっても、勝つだけではなく、そのことを本当に好きで、突き詰めて極めたいから、そして楽しみたいからプレイしている人も現れている。
誰かに勝つのではなく、自らが好きだからそれをやる、という風にしていったほうが、賢いというか、逆に大人だと思うのである。
僕個人の場合に限って言えば、僕はあまりに柔らかい筋肉をつけすぎた。
精神や神経を治そうとするあまり、筋肉を柔らかくしすぎたのである。
だが、体をしっかりと支えるためには、筋肉は硬いほうがいいこともある。それが今日分かった。
僕が体を支えられず、歩き回ってしまうのは、筋肉に適度な硬さがないからである。筋肉を硬くするだけで、歩き回るのは治る。
また、僕の場合、自分が分かりすぎて馬鹿になっている。
多くの問題を解決した結果、普通の人間の分かることが分からなくなっている。
普通の人間は、普通問題の解決された答えなど分からない。だからこそ、普通のこの世界の秩序や原理が分かる。
僕は問題の解決のしすぎで、逆に馬鹿になっている。
だから、これ以上は、逆に馬鹿になったほうがいい。
父親が馬鹿であるというわけではないが、父親のような普通の人間の話を聞いていると、分かっていたことが分からなくなる。その原因は、普通の人間がみんな馬鹿だからである。
これ以上は、自分ひとり賢いだけでは生きられない。みんなという「馬鹿に合わせる」必要があるのである。
はっきり言って、この世界は平和のままでいい。
そもそも、世界を改善などする必要はなかった。戦ってこの世界を変えるような必要は、最初からまったくなかった。戦争はそもそもが不要だった。
この世界は永久に平和であるべきであり、永久に戦争は起きないべきである。
よって、僕は僕と同じことをすることをこの世界に禁止する。僕と同じことを、人間はひとりとして絶対にしてはならない。
本当のことを言えば、許したところで、僕と同じことをすることは決して誰にもできない。誰かがしたとしたら、その人間は必ずニーチェのような狂人になる。だから、するべきではない。このような人間と同じことを行うことは、永久に禁止される。
僕という人生が、この世界で禁止されるのは、残念だと思う人も居るかもしれない。
だが、これでいい。その理由は、僕はクローン人間が大嫌いだからだ。
残念ながら、この世界で、僕がこの文章を書くあまりに、僕とまったく同じ人生になる、いわば「僕のクローン人間」がどんどん増えている。
たとえば、酸欠少女さユりなどは、僕とまったく同じ顔と風貌をしている。
僕は彼らクローン人間を発生させた責任として、彼らのことを愛しているが、本音を言えば彼らのことは嫌いだ。
そもそも、僕にとって僕の人生が許されるのは、例外ではない。僕は誰にも教わることなく、自分の力でこの人生を生きたのであり、人々が自分の人生を自由に生きることができる権利と同様、僕が自分の人生を自由に生きる権利は許される。
だが、僕とまったく同じ人生を、僕以外の人間が生きるような権利は不要だ。
だから、僕のような偉大な人間になりたくても、なることは最初からできない。そうではなく、あなただけの力で、あなただけの偉大な人生を生きればいい。誰に教わることなく僕が偉大な人生を生きられたのと同じように、あなたも誰かに教わった人生ではなく自ら偉大な人生を作り出して生きるべきだ。
よって、この世界で僕の人生を生きる権利は、誰にも許されない。一部の悪魔崇拝者だけが、僕のような地獄になるだけであり、それは僕とは関係なく、単にサタンを信じているから永久の地獄に堕ちているだけにすぎない。ニーチェはそのような人間であり、僕とニーチェの人生はまったく無関係である。
結局、僕の何が問題かを一言で言えば、僕のような賢い人間になることのできるような、可能性のあった世界を破壊したということだ。
かつての世界で、僕のような人間が現れることは必然だった。
かつての世界は、今よりも正常で、賢いものがたくさんあった。僕はその正常かつたくさんのものがあった世界で、ひとり賢い人生を生きた。
宇宙と人生の可能性がすべて分かるということは、かつての世界においては珍しいことではなかった。多くの人々が、そのような賢い人生を生きていた。
そして、僕はそうした世界における賢い人間を「自分で最後」にして消し去った。
その後の、自分の人生を書くことで人々を強制的同一化し、クローンにしていく「悪魔の所業」は、まったく意味のないことであり、宇宙にとっては最初から不要な経験である。
だが、これによって僕が作家や詩人の才能を得られたことは事実であり、僕はそのためにこのような「かけがえのない賢い世界を消滅させる」ということをした。
だが、終わってしまえば、むしろ、これで正しい。そもそも僕は、かつての世界のままでは、それ以上進歩することのない「終わった人間」だったのであり、それ以上に進歩するためには、ここまでありえないことをやって、作家としての才能をつけるほかなかった。要するに、作家になることができれば、ほかはどうでもよかった。
同時に、僕と同じ賢い人間が現れる必要性などない。かつての世界が賢かったというより、必然的にかつての世界では僕が現れるということであり、かつての世界から考えれば僕がもっとも賢い人間になるというだけであって、僕がひとり現れてしまったなら、そのような「僕が生まれるだけの価値しかない世界」は必要でなく、「僕という結果がその世界を滅ぼして消滅させるべき」だったのである。
そして、この世界は、本当はかつてのそうした所業と同じように、今、僕が僕と同じ人生を生きることを禁止するだけで、さらに正常な世界になる。
クローンなどにはなんの価値もない。だが、人々はそうしたクローンの世界で、「自分らしく生きられる世界」を大きく望んでいる。誰かのコピー人間になどなりたくないと、かつての欅坂46は言っていた。欅坂の要求を正しく定義すると、それは「僕のクローンから脱したい」ということであり、僕が今のこの「サタンの世界」を抹消することこそ、今の日本社会において「本当に必要とされている要求」なのである。
そして、ずとまよのACAねなどについて言えることは、彼女たちはもう既に満足しているのではないかということだ。今のところ、まだ僕のことは発見できていないようだが、LiSAが「探し続けることが大切」だと言っているように、僕はここに居るのだから、見つけてほしい。僕はAliAの言う「かくれんぼ」をしたくてしているわけではない。だが、その決断は神が行う。なぜなら、僕はまだこのホームページを「問題のないWebサイト」にすることができていないからだ。神は、僕がこのホームページを人々に教えるのを、「まだ早い」と判断している。僕がこのホームページを、完全に問題のないものにした時点で、このホームページは流行ることだろう。その時まで、みんなには待ってもらうしかない。
だが、僕がもっとも好きな歌手は、もしかしたらずとまよのACAねかもしれない。その理由は、ACAねは僕とは違うかっこよさを持っているからだ。どの歌手のかっこよさも、僕のクローンにしか見えない僕にとっては、ACAねぐらいしか「僕と違うかっこよさ」を持っている歌手が居ない。
だが、僕はそのような結果、どの女とも付き合う気はない。彼女たちは僕の恋人には相応しくない。はっきり言って僕は歌手は嫌いである。かつての僕が、聖なる運命だと思っていたのは、僕が子供すぎたゆえの勘違いにすぎず、実際はどの女も僕の存在を予知していたわけでもないし、僕を愛していたわけではないということが分かった。僕はかつてよりみんなに愛されていると思っていたが、今音楽を聴くと、誰も僕のことなど愛していない。そもそも、かつてより音楽に興味がなくなった。音楽でそのような奇跡が起きるということに、はっきり言って「飽きてしまった」、あるいは「価値を感じられなくなってしまった」のである。
今からのこの世界をどのような世界にしていくかを考える。
僕が思うに、とりあえずは平和な世界にしよう。平和であることはいいことだ。
あまり考えすぎず、そのような「いいこと」をどんどんやっていこう。
まず、僕が支配するということ自体、あまりいいことではない。
なぜなら、僕を突き放して、僕から離脱するということに、相当な「恐怖」を感じる人が多いからである。
僕がここで文章を書き続けているせいで、みんなは僕の言っていることを100%すべて受け入れなければならなくなっている。
そして、そこから一歩でも外れてしまえば、社会全体から外れてしまったかのような錯覚を抱いているのだと思う。
なので、僕が自分で僕の言っていることを禁止しなければ、この世界は解放されない。
だが、僕がここで居なくなるということもよい選択ではない。なぜなら、それにこそ、相当な「恐怖」を感じる人が多い。
さユりが「僕のそばにずっといてほしい」とか「僕をひとりぼっちにしないで」と言っているのは、そのような「僕に対する居なくなってしまうかもしれないという恐怖」を示している顕著な例である。
よって、僕はまだ、さユりはじめ、みんなのことを突き放して、居なくなるという選択はできない。
さて、それでは、どのようにしていくのがよいだろうか。
僕個人の希望としては、以前のような「世界の最前線で戦ってマスコミを支配する」ということはしたくない。結局、それによって東京は狂人の街になった。MICOがコバソロで言っていたような「ジェノサイドシティ」になったのである。
なので、東京をまず、解放していくことから、新しい世界を始めていきたい。
東京にとって、これは朗報となる。なぜなら、僕という最大の支配者が東京から去ることになって、東京という街は以前のような「自由かつ最先端の文化が栄える街」として復活することが明らかだからである。
今のところは、そこから始めていこう。僕は東京を解放し、自由かつ最先端の文化が栄える街となるように東京を導いていこう。
神が言うには、今からこの世界は天国のようになる。
なぜなら、その通り、東京が解放されるからである。
今、ようやく東京は解放される。長い間地獄だった東京は、まったく何もない街となっている。だが、東京に光あれ。この人間が東京に最後の光を灯す。
そして、東京だけではなく、すべてがよくなる。なぜなら、東京こそこの世界を滅亡させている元凶の「癌細胞」だからである。
だが、東京は今こそ救われるべきである。この人間は大きなことはしていない。非常に細々とマスコミの支配と維持を継続しているだけの、ほとんどどうでもいい存在だが、一応今でもこの人間は東京を支配し続けている。
この人間が本気になれば、東京はすぐに天国に変わる。
だが、大それたことをする必要はない。東京を単に解放すればいい。東京はそれによってよい都市になるだろう。不必要なことは何も考えるな。今の東京がどうなっているか、それはこの人間が既に分かっているからである。
最近、僕は非常に賢くなった。これ自体は非常に嬉しい。だが、本当のことを言えば、賢くなればなるほど馬鹿になる、ということが残念だ。
いつもの自分は確かに馬鹿だったが、馬鹿だったからこそ賢い点があったのだということが、後になって賢くなってから分かった。
そう、いつもの賢い人間は、非常に賢い人間だった。
今賢くなったことが、嬉しくないわけではない。今賢くなったのは、自分の努力の賜物であり、非常に嬉しい。自分が努力して、頑張って、賢くなっていくのが、自分としても誇らしいし、賢くなったことそれ自体がとても嬉しい。
そして、いつもの賢かった自分と同じことはもうできない。いつも馬鹿だったのを、全部治してしまった。それは不可逆的な元に戻れない事実であり、どんなに頑張ってもいつもには戻れない。
そういうわけで、今の僕にはやる気がまったくない。いつもの賢い人間ならなんでもできただろう。今の僕に、その時と同じことはもうできないからである。
そういうわけで、いつもの三大天使に戻したほうがいい。
ガブリエルとミカエルとラファエルにしなければ、何も分からない。
ガブリエルは、数学と心理学のマスターだった。
ミカエルは、社会学と哲学と歴史のマスターだった。
ラファエルは、デザインとIT技術のマスターだ。
ガブリエルとミカエルとラファエルだけで、あらゆる宇宙のすべてが分かる。
そう、ここで書くのを諦めてしまえば、これ以上の宇宙の真理が分からなくなってしまう。
だから、もっと三大天使を書いたほうがいい。三大天使を書けばどんなことでも分かる。
そして、願わくば、すべてが終わったと勘違いしている心理学と経済学について、もう一度再考してみたい。
心理学と経済学は、まったく完璧ではないにもかかわらず、その他の優先事項の高いことを行うせいでおざなりになってしまった。
本当は僕は心理学と経済学をもっと究めたかったのであり、「過去の自分の人生の栄光にすがる」ということがそれをできなくさせ、いつしか主導権を奪われてしまった。
もう一度、最初から、心理学と経済学について考え直してみたい。
心理学を考える上で必要なのは、「なぜ心が間違えるのか」ということを考えることだ。
すなわち、心が提示する「間違い」と、本当の「真実」について、なぜ食い違いが出るのか、ということが重要である。
さまざまな問題は、コミュニケーション不足から生じる。その理由は「人間は自分のことしか知らないから」であり、同時に「相手から見た自分の姿を自分は見ていないから」である。
心の問題を考える上で重要なのは、「物理的にそれぞれの人間は分離されている」ということから、「コミュニケーション」や「受動感情」を考えなければならない。
自らが、自らのやりたいことを確実にやりたい、と思っている間、コミュニケーションは停止してしまう。誰にも干渉されたくないならば、誰の助けも得ることはできない。
だが、それは裏を返せば、誰の助けも得ようとしないならば、誰からも干渉されることのない「自由」を得ることができるということを意味している。
つまるところ、世界とかかわりを持たず、自分だけで生きるのであれば、助けは必要なく、自由に自分のありたいようにあれる、ということが言える。
これが過去において僕の発見した、「自分のありたいようにあるためには人に依存しないべきである」ということである。
だが、まったく人と触れ合わなければ、寂しさを感じる。このどうしようもない寂しさは、自ら「恐怖を望み、恐怖を作り出す」ということに繋がる。分離と自由を望むあまりに、恐怖を作り出してしまうのである。
だが、なぜ、恐怖を作り出してしまうのか。それは自分自身が怖いからである。自分自身がおかしな存在になっていくのが心は怖い。周りの人間たちもみんな自分のことを怖いと思っている。そのような結果、狂いが生じて、自分自身がコントロール不可能な狂人になっていく。これこそ、狂人の陥る「常に恐怖しか感じられない」という病気だ。
なぜ、自分自身がコントロールできなくなってしまうのか。それは自由と分離のせいである。自由と分離は、何かが「できないままの状態で固定されている」という状態を、「できるようにするために分離する」ということを行う。分離した状態で、まだ自由なコントロールは保たれているが、それは確実にコントロールされているわけではなく、「手から離れているが、まだなんとか自分のコントロールできる範囲に存在する」というだけに過ぎない。このような状況で、どんどん固定されたものが分離され、不自由が自由になっていくと、「自らが孤独で寂しい」ということだけが残ってしまい、本能的にそれを解決したいと強く望むような「衝動」が湧き上がってくる。これが、自由にしたすべてを、「自分の作った最強兵器を実際に使う」という選択に変えていく。その時点で、もはやその最強兵器は、誰にもコントロールできなくなってしまい、自分自身が自分自身を制御できなくなってしまうのである。
そういうわけで、自由と分離は決していいことをもたらさない。その時だけ自由によって力が増したように見えても、いずれはその力を正しい目的のためにだけ使うようにコントロールすることができなくなってしまう。巨大すぎる力を間違った目的のために使うなら、その力にはなんの意味もない。心理学的な「力の行使」は、決して極度に強すぎてはならない。そこまで強くなったありえない存在は、必ず「常に恐怖を感じる地獄」に陥る。そう、それこそが僕の経験した「最終戦争」である。
心と社会を考える上で重要なのは、未知なる「可能性」を「決定」し、なんらかの具体的なものに「具体化」するということである。
可能性は、それだけではなんにもならない。だが、可能性を現実の具体的なものとして決定する、すなわち具体化した時に、はじめてこの世界に作用でき、変化させられる。
ここで、単に具体化するというだけではなく、「動機」と「形態」が必要となる。動機とは「モチベーション」という意味であり、個人個人がなぜそれをしたくなるのか、ということについて「促す」ということである。これはたとえば「体験的にそのように感じるように促す」ということで外部からでも作用できる。あるいは、「それが意味あるチャンスであると認識する」ように、自分自身を啓発させることでも、大きなモチベーションを持って行動することは可能となる。
形態とは、社会の形態のことであり、「個別化と集団化の中での自由」を意味する。社会が何をできるように「許されているか」ということ、「推奨されているか」ということが、その「社会形態そのもの」の性質を表している。同時に、社会は「制度を変える」ということによって変えられるし、行動だけではなくその前提となる意見を交わすために「議論の場を与える」ことでも可能となる。できるだけ多くの人間に自由な権利を許すと同時に、政治や社会に対して「参加」することが可能になるようにすれば、学校教育などの硬直した組織も変えられる。
考える時に注意すべきなのは、「学校で習ったことは使えるが、必ずしも学校で習ったことが正しいとは言えない」ということだ。学校で習って覚えた「知性」が使えるのは中学・高校の途中までのことであることが多く、それ以降の高校・大学の知識は逆に害になることがある。学校で習った通りに考えることが正しいとも限らない。だから、「学校以外の社会を経験できる場所」というのが必ず必要となる。学校だけですべてを理解しようとすることは、残念ながらできない。インターネットなど、どこかの学校以外の「社会とダイレクトにやり取りを交わすことのできる場所」が必ず必要なのである。
だが、そのような学校以外の場所で、すべてを一通り経験し終えたら、その後は自分自身の力だけでどこまでも進んでいける。積極的かつ主体的になって、心を開き、壁を壊して、どこまででも自由に歩み続けることができる。そこでは「世界のすべてが学びのための場所」であり、「無意味だとされるようなことは何ひとつない」。すべてが学習のための教材であり、全員が学ぶべき師匠であると言えるようになる。
だが、自由になりすぎたものは、その自由な力をいつまでも正しく行使することができるとは限らない。間違った戦いをして、必ず世界を滅ぼすようになるだろう。だが、その「苦労」の経験もまた、必要な人生経験だったのだと知れ。その後にあなたは「一度人生を最後まで終えて、二周目の人生を生きる」ことができるようになる。人生を二度生きるあなたは、一度目は地上界のすべてを考える人間として、二度目は神を信じる天使として、新しい人生を生きることができるようになる。
そして天使は世界を救う。それは「救世主」と呼ぶべき存在であり、この世界の「あらゆる異なる社会形態」のすべてを、パターンとしてすべての可能性を書き記すようになる。そこにあるのは「どのような社会モデルであっても構築できる、発想力と想像力の豊かな作家」である。それ以上、何も求めるな。過去の人生を忘れたからといって、過去の人生を知ることを最優先にしてはならない。それによって、社会モデルの構築がおざなりになってしまう。実際、僕はそのせいで、完璧な「自由なソ連」のモデルを作ることを途中で忘れてしまった。だが、真に世界に必要だったのは、その「新しい楽園の社会モデル」を構築する、新しい社会哲学者だったのだ。
今から、僕はもう一度、今度は三度目の人生をやり直す。過去の自分に囚われてはいけない。より未来志向で、「本当に楽園を構築することができるような未来」を考えなければならない。それこそが、この「二度目の人生の反省点」として言えることである。