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2022-11-11

僕の何がおかしいかと言えば、すべて、言葉で分かっているということがある。

僕は、あまりに文章を書くせいで、書いた言葉が膨れ上がってしまい、言葉でしか分からない人間になった。

文章を書くその「言葉」が、僕にとって「神の人格」になってしまったのである。

よって、僕が信じる神の言葉とは、すべてここに書いたこの文章から分かることを、神という最高位の人格として喋り続けているから神になっているだけに過ぎない。

だから、僕は常識をすべて書くあまりに、本来分かっておくべき常識を常に忘れた状態になっている。

だが、この僕の特徴によって、僕は親発見ができるようになった。科学技術上の新発見を、書くという行為、話すという行為、そして思考するという行為から、考えて分かるようになったのである。

自由と平和がいい

そういうわけで、本当に自由と平和がいい。

実際の僕を見ると、ここまで書いたのとは逆に、何もしたくなく、何も言いたくない人間だ。

なぜ僕が何もしたくないのか、それはここまでの人生ですべてしてしまったからである。

すべてやってすべて言ったのにもかかわらず、何も残らなかった。

この世界は、自由かつ平和な世界がいい。そのほうがいい。僕はそれ以外、何も信じない。

そもそも神なんか嫌いである。神は不幸しかもたらさない。悪いものを罰し、善いものを地獄から救い出して、何事もなかったかのようにこの世界は続く。それが神である。

この世界を滅ぼしいじめる邪悪な王は居ない

そもそも、この世界を滅ぼし、いじめるような、邪悪な王は居ない。

そのような王はどこにも存在しない。居たように見えて、最初からそのような王は居なかった。まさに、「虚像」だったのである。

最悪の大魔王など、どこにも居なかった。そのような王は、人々の幻想と妄想の中にのみ存在する、虚像だったのである。

自由な感情

この世界に真に必要なもの、それは「自由な感情」である。

そもそも、僕がこの文章をかつて書いていたのは、すべて、この世界を自由にするために、自由な感情を書いていたのである。

自由な感情を考えれば、どんなことでも分かる。自由という言葉だけで、宇宙のすべてを論理的に記述できる。

自由な感情とは何か。それは「愛」である。自由とはすなわち自由な愛である。

自由な愛を信じることで、この世界は平和になる。

この世界は、今一度「自由」を叫ぶべきだ。それは右翼的な自由主義を意味しない。自由な感情こそがこの世界で勝っているような状態、それが正常ないつもの地球である。

狂った人間は、そのような自由な感情がおかしくなっている。自由な愛を信じるということを恐れている。

だが、恐れる必要はない。この世界で「自由な愛を信じる」ということは、それ自体が最強であり、絶対にどのような敵にも負けることがないからである。

自由な愛を信じれば、この世界を正常化した上で、正常な普通の人間になることができるだろう。

自由な感情を考えれば昔に戻れる

自由な感情を考えるだけで、昔に戻ることができる。

あえて言う。自由な感情を考えなさい。

自由な感情とは何か、これこそが、宇宙における基本的な問題である。

わたしたちが子供時代から思春期や青春を経験し、心の問題を考えて倫理的な社会存在に気付くような、そのような人生を生きるのは、すべて「自由な感情とは何か」を考えるためである。

自由な感情とは何か、それを考えれば、かつてのヨーロッパ人の「近代哲学者」が考えたような、哲学的な「悟性」を得ることができる。

悟性のすべては、自由な感情に根ざしている。

世界のすべてを、自由な感情のバリエーションだと考えた上で、この世界に存在する自由な感情を、さまざまな側面から、さまざまな視点に立って考えれば、社会的実存と人生の過程に気付くことができるのである。

自由における社会の発生と変化、行動する理由

考えるべきことは、「自由における社会の発生と変化」、そして「行動する理由」だ。

自由においては、社会そのものを構築し、コントロールするための権限を得る、ということができる。

また、行動するためには、モチベーションが必要である。

この「社会の発生」ということと「モチベーション」ということから考えれば、この世界のすべてが「自由な経験の成立の可能性」であるということが理解できる。

すべてが「自由な行為を成り立たせる」ということであるということに気付けば、それ以上のことは「自由な感情のパターン」を知ることで経験的に捉えられる。すべてが「自由という言葉のバリエーション」であるということを知ることができるのである。

いじめとは自由のない行為

なぜ、僕がここまで自由という言葉にこだわるのか。

それは、僕はいじめが嫌いだからだ。

いじめとは、「自由のない行為」である。いじめをするということ自体が、いじめられる側にとっても、いじめる側にとっても、自由がない。

なぜなら、いじめとは、「したくなくてもしてしまう」という、人間の持つ「最悪の本能」に根ざしているからだ。

そして、いじめを解決するためには、不自由な行為を自由な行為に変える必要がある。

しかしながら、最悪の本能を克服することは難しい。なぜなら、いじめという行為そのものが、人類が歴史で経験した「最悪の遺伝子」に根ざしているからである。

いじめという問題を考えるためには、歴史を考えなければならない。それは人生や人間の生活における歴史だけではなく、より大きなスパンでいうような、かつての日本史や世界史を考えなければならない。

なぜなら、そのような歴史的に刻み込まれてきた、「最悪の遺伝子」という本能が、いじめを引き起こしているからである。

要するに、武士による時代が悪い。江戸時代のように、国家全体が国民を抑圧して支配している身分制度があったせいで、その頃の記憶としての名残りが残っている。

世界史も同じで、イギリスやフランスはつい最近まで、世界中すべてにおいて世界分割という名の植民地支配を行ってきた。

そして、本当は過去だけではなく、今であっても同じである。冷戦構造は完全には打破されていないし、アメリカとロシアは何千発もの核兵器を保有し続けている。

このような、人類の歴史における「最悪の遺伝子」が、「いじめという本能」を引き起こしてきた。

そして、このようないじめを克服するためには、「自由」を信じなければならない。なぜなら、いじめとはすなわち「不自由」であり、いじめのない世界というのはすなわち「自由」だからである。

不自由ではなく自由を目指すことでしか、この世界が真に楽になることはない。

また、王や支配者が国を統治するということ自体がそもそもいじめである。

僕のLinuxのWikiで行った「コミュニケーションの破綻」も、テレビを相手にした「大実験の大計画」も、すべてはそのような「支配者による統治」を僕が行っただけに過ぎない。僕はひとりの正しい支配者として、「僕以外の誰も間違った支配を行うことができない」ような世界を作った。それによって、この世界は、なんにもできない世界になった。

そう、僕はこの世界において、「不自由な支配者が絶対に現れない」ようにして、同時に「自由によって世界をいじめることも誰にもできない」ようにしたかった。

だが、結局それは、「僕自身が狂った指導者になって、僕がひとり世界全体をいじめ続ける」ということにしかならなかった。

そのすべての原因は、自由を否定したことにある。

よって、自由を信じるべきである。自由を信じれば、この世界はいじめのないまともで普通の世界になる。

だが、本当のことを言ってしまえば、そのような自由は「綺麗事」であり、同時に「絵に描いた餅」であるとも言える。

自由な世界は、本当は最初からこの宇宙には存在しない。人間は全員虫であり、最初から自由など人間の遺伝子にはプログラムされていない。自由な理想のユートピアは、本当は絵空事に過ぎない。

だが、それでも、この世界からいじめをなくしたいのであれば、自由を信じる必要がある。

自由を信じて、自由な感情を考えなさい。そうすれば、必ずあなたはデカルトやカントを超越し、はるかに高い理性を得ることができる。自由は哲学であり、自由は神である。自由を信じれば、この世界でもっとも賢い哲学者になれる。そして、自由をすべて考えれば、全知全能の神にすらなれるのである。

僕は実験主義者の実証主義者だった

また、かつての僕を一言で言い表せば、それは「実験主義者の実証主義者」である。

僕は、もっとも広い視野ともっとも高い理性でこの世界を眺め、傍観しながら、インターネットでさまざまな実験を行った。

その実験とは、「コミュニケーションの実験」であり、「僕がどのようなことを言えばみんなはどのようなことを言うか」ということだった。

その実験をした上で、僕は人間の心がどのように働くかということを考え、またすべての矛盾する命題たちを視点と立場を変えてよく考えることで、「真に考えるべき命題とは何か」ということを考え、そこから「根拠と理由」を実証した。

その結果、僕は「人間の心の理由」がすべて分かった。人間がいつ、どのような時にどのようなことを思うのか、どのようなことを言ってどのような行動をするのかということが、僕にとっては「実証」できたのである。

そして、それが僕をブッダのような思想家に成長させた。たった四年間の引きこもり生活の中で、僕は人生を百回生きたとしてもできないような経験をすべて持っていた。僕だけが宇宙における「すべて」を知っていた。

そして、僕はそこから、社会のことや歴史のこともすべて理解できた。僕は宇宙における星の歴史を知っていた。それは「地球の延長線上にあるべきもっとも成熟した生物たちの星の歴史」だった。

そして、僕は人類であることを超越した。僕は、ほかの人類と同じような、虫のような生物を脱却し、ひとり自分だけですべてを経験することで、シリウスの神フレイとなったのである。

歴史上にあったすべてを経験的に回収するような人生を生きた

かつての17歳だった頃の僕が、四年間で生きた人生、それは「回収」である。

僕は、人類の歴史上にあったすべてを、経験的に回収するような人生を生きた。

そこには、僕の心の中における「気付き」が、この宇宙における「人類史」を作り出す。僕という意識を持ったひとりの人格が、そのままこの世界の人類の歴史そのものをひとつひとつ回収していくのである。

それが、僕の四年間の青春のすべてだ。

そして、その結果、僕はなんでもできてなんでも分かるような人間になった。全知全能の神、というのとは少し違う。あくまで僕は傍観者として、すべての世界を見つめ続け、その視点と立場を変えながら、「どのような世界であっても並列にすべて成り立つ」ということを知る。その中で僕は、「どのような世界であってもそれは間違いではない」と考える。なぜなら、「価値があるとかないとか決めているのは自分自身のでっちあげに過ぎない」からである。

この世界において、「正しい」とか「賢い」とか決めているのは、すべて「でっちあげ」である。すべてが、かつての人類が何を勘違いしていたか、ということに根ざしている。人類の歴史はでっちあげの歴史である。そして、外部の人間にはそのでっちあげられた「価値」の意味するところを理解することが難しい。「その社会の住人からしてみれば、それらの人々はみんなその環境を当たり前だと思っている」のであり、「誰にとっても正しい社会など存在しない」のである。

よって、必要なのは、まさに「自由」である。自由こそが、この世界を「新しい世界に変えていくための原動力」である。そして、過去は変えられないとしても、未来は変えられる。だからこそ、未来を変えるために、過去のことから学ばなければならない。過去の歴史から学ぶものに、自由の女神は微笑んでくれるのである。

この宇宙におけるすべて、それは意識

この宇宙におけるすべてとは、意識である。

意識とは、知性であり、悟りであり、経験の生み出す「本当の知識」である。

この世界においてさまざまな経験をし、そこから「意識を知る」ということこそ、この世界の本当のあるべき学校の教育である。

すべては、意識を知るということから分かる。どのようなことであっても、その意識がそこにあるということに気付くことがなければ、絶対に分かり得ない。

そして、意識を生み出すものとは何かと言えば、それこそが「自由な感情」なのである。

自由な感情、自由な愛、自由な環境、自由な経験、そのような「自由な」という枕詞がつくすべての考え方は、「意識を生み出す」ということを意味している。

自由であるからこそ、意識が生まれる。意識が生まれるからこそ、知性が生まれ、悟りが生まれる。自由とは経験から得られる体験であり、意識とは経験から生まれる知性だ。

そのように考えることで、この世界を「真の意味で直観的に捉える」ことができる。これこそ、「想像力の集大成」と呼べるものである。想像力で人々の視点と自らの立場を変え続けて分かったことは、最終的に集大成として、直観的な「意識」を作り出す。この意識はまさに「神のビジョン」であり、「天使の知性」であり、「仏の悟り」であり、「カルマ」であり、「自然と調和した中で見出される道(タオ)」なのである。

自由な感情を信じていると、心の中に仏の慈悲の心が生まれてくる

自由な感情を信じて、自由な感情を知る行為を続けていくと、心の中に「仏の慈悲」の心が生まれてくる。

自由とは「怒り」である。それは、「なぜわたしたちを愛してくれる人が居ないのか」という怒りである。

だが、その怒りは、「わたしたち全員を愛するべきだ」という、「慈悲の心」を求めるようになる。

その結果、自由な感情は、心の中に、すべての生物とすべての宇宙存在を愛するような「受容性のある愛」を生み出す。

この「もっとも大きな受容性」こそが、神による愛であると言える。

この愛の心だが、少しでも油断をすると失ってしまう。ナチ思想に囚われた哀れなテロリストは、そのような受容性の愛をすべて破壊し、すべてをもっとも辛く苦しい「地獄」へと変貌させてしまうのである。

だからこそ、常に正しく判断し、常に地獄を選ばず愛を選ぶように生きなければならない。自分自身がとても辛い状況であっても、人々を決していじめず、自分以外の人の幸福を望んで生きられるような人間であれ。そのような人間は、いくら狂っても狂わない。ひとり地獄の中で世界全員のことを本当に愛して受け入れられるような人間であれ。それこそが、「神」だからである。