はっきり言って、日本だけではなく、世界レベルの歴史の真実として、共産主義よりも民主主義のほうが正しい。
すべての国家は、民主主義の共同体として成り立つべきである。
まず、国民に自由な民主的な権利を与えない国は、国民を奴隷化しているに等しい。中国や北朝鮮のような国家は、共産主義の独裁国家であり、「現代の奴隷制国家」であると言える。これはプーチンのロシアで行われている非民主的な法律を見れば明らかである。
また、三権分立と国民投票による選挙を行わない国は、必ず政治家が悪いことをし、官民が癒着し、腐敗する。このような国家は、必ず領土争いと大量虐殺を行う。見れば、ロシアのウクライナ戦争は明らかに、ひとりの独裁者に従うだけの民主的でない国家であるから起きたことである。政治家に絶対に悪いことをさせないために、三権分立と選挙制度は必ず必要である。
また、政府は経済政策と開発や投資だけを行うべきである。政治家ひとりが計画経済を行えば必ず失敗する。これはスターリンの計画経済によって明らかになった「客観的事実」である。よって、政治家はひとりですべての実権を握るべきではない。政治家はあくまで景気だけを考えるべきであり、経済活動は細かくぶつ切りにして会社の経営に任せるべきだ。そもそも、スターリンのような独裁者が、経済活動を完璧にできるほど全能であるはずがない。市場経済と株式会社に任せた上で、それぞれの国民が自由に経済活動をできるようにしなければ、社会は弱くなる。生態系のように社会を強くしたいならば、頭脳はひとつだけではなくたくさんあったほうがいい。
そして、自治体は民主的な共同体とするべきである。その理由は、民主主義とはすなわち共同体だからである。国民の社会を民主的にするためには、共同体それぞれが自由かつ平等に自分たちのことを自律して自治できるべきである。予算を決めるのも、作るのも、共同体それぞれが自立するべきである。国家は共同体の集合体であるべきであり、その国家の集合体として、民主主義を守ることを第一理想とするような「国際連合」があるべきである。そして、国際連合のレベルで世界政府を行えば、この世界は必ず平和になるだろう。
共産主義は間違っている。共産主義は権力と金を否定するが、その権力と金に替わるものとして、よい代替手段を考案しなかった。強制ノルマなどを課したところで、働いても働かなくても同じ給与の経済社会では、誰も働かず、結果ものは十分に生産されず、人々は生活に必要な物資や食料を満足に得られない。どれだけ犯罪者を逮捕したところで、政権が転覆しないだけであり、国民が飢えているのが解決するわけではない。人間の体が病気になって死なないとしても、栄養失調になって死ぬのであればまったく意味はない。共産主義は、資本主義のアンチテーゼではあったが、代替となるよい経済システムを考え出すことができなかった。だから、共産主義は失敗したのである。
よって、自由民主主義において資本主義を行いながら、絶対に政治家が悪いことをできないようにし、その上で民衆に自由な権利を与え、民衆が自分の力で自立して政治経済活動を行えるようにし、その上で世界政府となるべき新しい国際連合を作ることでしか、世界は平和になることはないだろう。
また、僕は本当はIT技術など大嫌いだ。
なぜなら、IT技術は機械にICを取り付け、機械をブラックボックスにしてしまうからである。
ICを使わなければ、機械は単純なモーターや歯車で動くだけの、理解しやすい単純な構造をしている。しかしながら、これを電子基板にしてICを取り付けてしまうと、ICが電子情報で動いているために、機械の動作の仕組みが分からなくなってしまう。その理由は、プログラムの内容を知っているのはその機械を生産した会社の技術者だけであり、そもそもプログラムの内容は公開されていないからである。
ある意味、ICを取り付けて機械をブラックボックスにしてしまったから、日本の技術力は劣っていってしまったのである。
ICをもし使うのであれば、デジタルなプログラムの部分をオープンに公開するべきである。そして、これがストールマンの言うフリーソフトウェアの理念が一理あると僕が思う根拠である。ICを使ってソフトウェアを独占した時点で、その機械は買った人間のものではなく、「作った人間がいつまでも所有権を持ちながら、買った人間に使わせてあげるだけの権利を与える機械」になってしまっている。
よって、ソフトウェアはフリーソフトウェアとするべきである。僕はこの持論をかたくなに信じている。これ以外の側面において、僕がフリーソフトウェアが好きだと思う理由は、実際のところあまりない。明らかにMicrosoftの作ったWindowsというOSのほうが、Linuxやオープンソースよりも使いやすいということは僕は分かっている。それでも、ICがブラックボックスになるということは僕は受け入れられない。自分の買った機械は自分のものであり、自由に使えるべきである。ライセンスすなわち「使う権利」だけを買うことができて、実際は所有権は会社のままであるような製品は、本当の売買とは言えない。機械を売るのであれば、機械それ自体を自由に変更できるだけの権利も売り渡すべきである。そうでない限り、僕が商用ソフトウェアを信じる日は訪れない。
だが、最後に勝つのは日本だ。必ず、最後に日本が勝つ。
今、アメリカがほかのどの国よりもナンバーワンの地位を確立しようとしつつあるのは、AmazonやFacebookといった「商売ができるサービス」について、ほとんどの日本国民および世界人類がアメリカ製のサービスを使っているということだけに過ぎない。
そして、彼らは独占企業だ。すなわち、一社だけで多くのユーザー数を持ち、世界中のすべての店舗やサービスに一社だけで勝利しているから、アメリカは儲かっているのである。
だが、このようにアメリカが一国だけで世界全体のサービス会社であるのは、今だけである。
そもそも、僕はツイッターやSNSという存在は、やがて飽きられて廃れていくと思っている。そして、日本の未来のためには、そのほうがいい。アメリカのそうした「金儲けのための企業の作ったサービス」は、はっきり言って全部クソである。企業が金儲けのために作るサービスは、本質的にクソなのである。
今から、僕は新しい「個人主義の世界」が訪れると思っている。すなわち、個人がとても巨大な力を持つ時代が訪れる。そこでは、IT技術だろうが大学の教養だろうが芸術的なスキルだろうが、すべてが個人ひとりだけに集中し、その個人に集中した知識や知性を、すべての個人が同じように共有する、「啓蒙主義的な人類進化の時代」が必ず訪れる。
すなわち、今の段階では、GAFAのような巨大テック企業は、自分たちにしか難しいIT技術の知識は分からないのだと思い込んでいる。だが、それは違う。IT技術など、本当は大した技術ではない。IT技術など小学生でも分かるような簡単な技術だ。彼らは標準と独占の力で今の地位を保っている。だが、それは絶対に長続きしない。すべての知識が全人類に開放される日が必ず訪れる。
そして、SNSやツイッターは必ず飽きられる。既に10年ぐらいSNSが続いている今の状態がまったく異常なのであり、SNSという考え方は、「良いことをしても何もなく、悪いことをすればサービス全体からBANをされる」という、何の報いもないにもかかわらず悪いことができないような「無害な人間しか生き延びることのできない何一つ面白くない世界」を作り出している。いくら仮想現実のバーチャルな世界が面白いといっても、「SNS上の仮想現実の社会は、現実の社会よりもはるかに考えられていない、現実よりも劣った世界である」ということに、人々が気付く日はそろそろ訪れる。
そして、僕が思うのは、オープンソースの本当の時代はまだ今ではない。いずれ、すべてのバズワード的な流行が終わってから、最後にオープンソースが評価され、最後の「決戦」を行う日が必ず来る。その日に、オープンソースにつく側は必ずよい報いがある。独占ソフトウェアにつく側には何もいいことはないだろう。必ず最後の「決戦」でオープンソースは独占企業に勝利するだろう。それは、このままいけば、最後に必ず訪れる。そして、「最高の楽園」を築くための、最後のIT戦争となるだろう。
はっきり言って、僕はIT技術が大嫌いだ。
そもそも、昔の世界で何が悪かったのかよく分からない。SNSやツイッターが、こんなにももてはやされるのは明らかにおかしい。
平成の時代のままで幸福な世界だったのであり、その平成のよい世界をIT技術が完全に破壊してしまったのである。
IT技術はまったく無意味な技術であり、大学や企業内のインフラに使われる価値はあったとしても、人類みんながIT技術を使うという状況は明らかに地球の歴史のすべてを見ればもっともおかしいのである。
だが、同時に、IT技術はいつまでも今のような技術のままではないということを、GAFAのような巨大テック企業は知っておくべきだ。IT技術を含めて、あらゆる知識が万人に平等に与えられ、誰でも簡単にプログラミングをすることができるような日が必ず訪れる。その時、IT技術は巨大テック企業の社員だけの特別な技能ではなくなる。誰もが簡単にプログラミングができて、どんなシステムであっても国民全員が自分たちの力で構築するような世界が訪れるだろう。その時、GoogleやFacebookのような標準独占企業は必ず敗北し、廃れていく。
今のような「IT技術がもてはやされる時代」というのは、本当になくなっていく。今のIT技術はまったく素晴らしい技術ではないが、それがさらに最悪の方向へと突き進んでいく。その証拠に、VRやメタバースはまったく素晴らしい技術ではないと僕は感じている。そのような技術は、今までのように目新しさ優先では国民には受け入れられない。一部の「Metaの信者」たちだけが、メタバースを信奉するような世界になるだろう。
残念なことを言うようだが、IT技術はいつかの時代にもう終わってしまったものだ。
それは、Linuxの世界を見れば良く分かる。
Linuxには、かつてのようなコミュニティの活気は何もない。単に仕事で使いたくないにもかかわらず使うだけの、どうでもいいOSに成り下がっている。
その兆候は、GNOME 3やsystemdのような、最近のおかしなオープンソース技術が、全部クソであるところにも見てとれる。
IT技術が面白かった時代は、とうに昔である。おそらく、ファミコンやスーパーファミコンの時代が一番面白かったのだろう。そして、Windows XPやLinuxが昔面白かった時代がピークだった。それ以後のIT技術には、はっきり言ってなんにも面白いものはない。僕はSNSやツイッターが嫌いだし、スマホやAndroidも嫌いだ。そのような最新の製品や技術は、僕が見ると最初からクソにしか見えない。
だから、IT技術がこれほど間違っているのは、今に始まったことではない。いつもの素晴らしいIT技術など、はるかに昔になくなってしまった。だから、今のIT技術がクソそのものであるかのように見えるというだけに過ぎない。
驚くべきことに、今のIT技術のほうが昔よりも好きだと思う若者が、本当はたくさん存在する。彼らは昔の良かった時代のIT技術を知らないから、今のIT技術の現状をすんなりと受け入れられる。僕のような昔の世代には驚くべきことに、そのような人間がYouTuberとかいう呼び名で新しいITの時代を支えている。これは僕も驚くべきことであり、僕はそうした現在頑張っているYouTuberの人々を否定しない。とても素晴らしい集団だから、僕はYouTuberのことを応援している。
だが、それでも、IT技術は終わりつつある技術だと思う。かつてのような「新しい発想でサービスを作ってやろう」という考え方はもはやなくなったと言えるのではないだろうか。今あるのは、YouTubeのような場所で、サービスのユーザーとしていかに金を稼ぎ、有名になって名声を手に入れるのか、ということだけだと思う。そのような「完全な資本主義の下僕」になった人間は、そこから滅びて消えていく。僕はYouTubeが動画サービスの筆頭である時代はいずれ終わると思う。そして、その時にIT技術は、誰からも飽きられて廃れていくだろう。その後に、かつての平成のよき時代が復活するかもしれない。「みんな巨大テック企業に金の力で騙されていた」ということが分かる日も、いずれ訪れるだろう。
正直に告白すると、僕は最近のITのことなど何も知らない。
IT技術について言えば、僕はニコニコ動画が流行ったあたりから、IT技術のことをまったく見なくなった。
僕が思うIT技術の最盛期というのは、Windows XPの時代だ。なぜなら、その時代が、WindowsだけではなくLinuxなども含めて、一番面白い時代だった。
当時は、GNOME 2をFedoraで動かし、MozillaがようやくFirefoxを切り離して、Windows並みにやっとLinuxが使えるかもしれない、というぐらいの時代だった。
DockerやRailsすらなかった当時ではあるものの、当時はVS-Codeのようなものはなく、テキストエディタはEmacsやVimを使うのが通常であり、.NETもオープンソース化されていなかったため、有料のVisual Studioを買わなくても、GCCなどのフリーなコンパイラがあるLinuxは、今ほど賢いサーバー技術はなくとも、Windowsよりも優れた使いやすい開発者向けのOSだった。
Gitもなかった時代だが、それでもLinuxにはオープンな巨大なソースコードがあった。TypeScriptやReactすらなかったからこそ、Apache財団のサーバーのソースコードなどをきちんと読んで書こうとする人間が多かったのだと、僕はいまさらになって思い返す。
よって、そのような「未熟な時代」だったからこそ、IT技術は最盛期のピークだったのである。
今の時代、IT技術が賢くなりすぎて、逆につまらなくなった。Windowsアプリはオープンソースな.NETとC#で簡単に開発できるようになったが、簡単すぎて逆につまらないほどだ。ゲームの開発も同様にUnityとC#で簡単に開発できるが、これも簡単すぎてつまらない。Railsも簡単すぎて、SNSのようなものは本気になれば誰でも作れるため、2ちゃんねるのように苦労してサーバー管理や掲示板の運営をする必然性などなくなった。匿名掲示板やブログは、本名のアカウントを登録するFacebookに完全に敗北した。賢くなったのは人工知能ぐらいだが、人工知能は逆に賢すぎて誰にも理解することができない。数式を多用する時点で、完全に「みんなのパソコンが大学の数学に戻った」かのような錯覚を与えられる。
結局、IT技術は賢くなりすぎてつまらなくなった。今の技術は、ほかにもAndroid、YouTube、Instagram、スマホなど多岐に渡る。これらの技術も、ある意味で「使えればそれでいい」という実利優先主義になっている。使えるサービスであればなんでも構わないとみんな考えている。かつての「IT技術は面白い」といった考え方が、最近はどこにも見られない。バーチャルだから面白いというだけでは、子供たちの友達付き合いと何も変わらないSNSやツイッターは、本当はまったくつまらないものでしかない。昔のようなバーチャル世界は、今でも残っているとは言うが、実際は残りカスのようなものがみんなの間で広く受け入れられているに過ぎない。「ああ、昔はよかったな」と、僕はそう述べるだけである。
結局僕が何を言いたいかと言えば、「自分が居なくなってからのIT技術は全部つまらなく見える」ということである。自分が居なくなって、IT技術についてもう一度振り返っても、全部つまらない技術に見える。ここに記述した技術の名前は、どれも超一流の最先端技術であり、プログラマが全員学ばなければならないような最重要技術だが、はっきり言ってどれもつまらない。今から学ぶのだとしたら、僕はどの技術も学びたくない。これほどつまらないIT技術が、まさに「全部クソになった」と言うしかない、そのような状況であると僕は感じるのである。
はっきり言って、「なんでも簡単にできる」ということは、まったく面白くない。
昔のプログラマが賢かったのは、選択肢が少なく、自分で書くべき内容が多かったからだ。
昔あったものは、本当は非常に少ない。Linuxカーネル、GTK/Qt、GNOME/KDE、Mozilla、そしてPerlやPHPやGCCやJavaやLispぐらいしかなかった。
それくらいしかなかったからこそ、考える余地や試してみる余地があった。RubyやPythonではなく、Perlだったからこそできたことというのがたくさんあった。
テキストエディタは、EmacsとVimが最強だった。最強すぎて、ほかのすべてのエディタが馬鹿だった。また、今のようにLinuxだけがサーバーで勝利せず、FreeBSDのような*BSD系のOSも強かった。
そのような何もない時代だったからこそ、すべてが単純だった。ブログや匿名掲示板は、むしろ今のSNSよりも善良だったところすらある。最悪の掲示板だったが、それでこそ「面白さ」が存在し、最悪の中で人々は善良な情報共有やコミュニケーションを行っていた。
また、今のように、すべてがオープンソースではなかった。Microsoft製品はオープンソースを嫌い、Delphiのような商用のコンパイラ製品はフリーソフトの開発に公然と使われていた。MySQLも日本に限って言えば一般的ではなかった。そのように、すべてがLinux陣営が勝利した世界ではなかった。
そして、GNOME 3のような使いづらいX11という発想はなかった。昔のX11のウィンドウマネージャは、本当にどれも賢かった。どれもそれぞれ個性があって、どれを使ってもLinuxという環境が大好きになるようなウィンドウマネージャしかなかったのである。
だから、僕はかつてのそのような世界を愛している。今のように優れた技術が海千山千とは存在しなかった。それでもみんな、そのような世界で頑張って生きていたのである。
このように考えると、むしろ、オープンソースがそんなに勝利していないのが、逆に良かったのだと思う。
Delphiを開発していたBorlandは、C++ Builderなども作っていたが、これが一部で人気で、MicrosoftのVisual Studioを買わなくても、このC++ Builderをコンパイラに使うようなプログラマも多かった。
当時はC#がまだできて間もない頃であり、TypeScriptもなかったが、だからこそヘルスバーグのDelphiがもっとも使いやすい言語環境であると人気だったのである。
また、昔のPerlは、今のように複雑なデータベース管理システムもあまり使わず、またMVCフレームワークも一般的ではなかった。だから、Perl/CGIはテキストファイルで掲示板を作るのが主流だった。だが、逆に公式のそうした掲示板である2ちゃんねるが馬鹿だったが、そのせいで、2ちゃんねる専用ブラウザなどが乱立するようになり、これもまた非常に面白かった。
はっきり言って、IT技術というのは、昔はそんなに大した技術ではなかった。昔の最強の高水準言語はLispであり、それは今でもそうかもしれないが、PythonやRubyのような優れたスクリプト言語は、あったにせよ今ほどの最重要技術ではなかった。PythonやRubyは簡単に言えば「Perlのようなお手軽言語」にすぎず、RailsのようなWebフレームワークもPandasのようなデータサイエンスキットもなかった。だが、そのような時代であっても、根強いPythonやRubyのファンが居た。彼らは今のような主流の勢力ではなかったが、だからこそネットの一部で新勢力としてほかの言語と競っていた。
また、GTKやQtは今のように美しくてかっこいいGUIツールキットではなかった。いわば、「Linuxのために用意された数少ないショボいツールキット」に過ぎなかった。だが、だからこそ、今よりも普通の、Windowsに近いまともなツールキットだった。GTK 3/4のように高度なスタイリッシュさはなかったが、だからこそまともだった。そして、当時からCORBAやGTKバインディングの優位性は謳われていて、そのためにGTKをPerlやPythonやLispで使うようなコアなハッカーは居た。特にMonoを使ってGTK#を使うようなありえないハッカーがたくさん居たのである。
そういうわけで、昔は、オープンソースはそんなに勝利していなかった。逆にオープンソースは非常にみすぼらしいものだった。だが、だからこそ、基本の技術が大切だった。Perl/CGIができるだけで、当時は非常に賢い人間に見えた。SQLデータベースなど知らないプログラマが多かった。そこまで馬鹿な未熟な世界だったのである。
当時もっとも流行っていた技術が何かと言えば、それはPHPだと思う。多くの「Web 2.0」と言われたWebサービスが、ほとんどPHPで、フレームワークを使わずに書かれていた。今のようにWordPressのような技術はなく、どのサイトも自分でPHPコードを書いていた。だが、だからこそ、全部のWebサイトが似通ったデザインになることはなかったし、PHPが普及しても依然としてPerlを使い続ける「保守派のPerlプログラマ」は多かった。PHPは「Perlのような動的言語をHTMLの中に埋め込める言語」という認識でしかなかった。
ほかに強かったのはJavaで、当時はオブジェクト指向の考え方がまだ日本のプログラマに浸透しておらず、「Javaはオブジェクト指向で移植性の高い言語」という評判で、人々をオブジェクト指向の正しい道に導いていた。PerlやPHPでオブジェクト指向を行うのは一般的ではなく、「なぜJavaを使ってオブジェクト指向でプログラムを作るべきなのか」ということを第一に宣伝していた。
また、Microsoft製品は決して馬鹿ではなかった。MicrosoftのWindowsアプリケーションを作る手段は、昔はC#/VB.NETがまだ普及したてだったため、主力の言語はWindows APIを用いたC/C++か、あるいは.NET化する前の昔のVisual Basic 6.0だった。これ以外にはBorlandのDelphiなどの製品があった。そしてこれらの手段が本当に主流であり、僕はVisual Studioよりも先にDelphi 7.0を購入したDelphiっ子である。
昔は、それぐらいの技術で、ほとんどすべてのIT技術が成り立っていた。そう、これくらいの技術しか昔はなかったのである。
また、Linuxの世界は、今よりも古代的だった。
今のように、Flatpakとか、Waylandとか、そういう最先端技術は確かになかった。
だが、X11とApacheをLinuxカーネルと組み合わせて使う昔のLinux世界は、今よりもUNIX環境に忠実で、UNIXと何も変わらない代わり、最先端(と当時は思っていた)のIntel CPUで動く高パフォーマンスなUNIX互換OSだった。
言ってしまえば、昔は今よりもUNIXとの互換性が重視されていた。「パソコンでも動くUNIX互換OS」のように、いつでもUNIX互換という呼び名がついていた。それくらい、UNIXとまったく同じものを目指したOSだった。
そして、今よりもディストリビューションの独自性が大きかった。Red HatとDebianとGentooが大きな勢力だった。その理由はパッケージ管理システムにある。RPMとDeb/AptとPortageという三つの主流のパッケージ管理システムを、Red HatとDebianとGentooが作っていた。だから、Red HatとDebianとGentooさえ分かってしまえば、当時はLinuxのことはなんでも分かった。ほかにはSlackwareやSuSEぐらいしか主要なディストリビュータは存在せず、あるいはMandrakeのようなマイナーなディストリビュータ企業がたくさんあったり、あるいはVine Linuxのような日本独自のディストリビュータが普及していたが、今のようなUbuntuは登場したてであり、Archはまだ存在していなかった。
そのようなLinuxの世界は、むしろ、本当は今よりも重要性の薄いカーネルだった。なぜなら、FreeBSDなどの*BSD系のOSが存在していたからだ。当時のLinuxの評判は「Windowsライクを目指すフリーなOS」であり、これがFreeBSDなどの「玄人向けのOS」よりも馬鹿なカーネルであるというのが一般的だった。「なぜLinuxは流行っているのに*BSDは流行らないのか」ということが、当時はスラドなどのネット界の「謎」だったのである。
そういうわけで、昔はLinuxとFreeBSDがサーバー界で勢力を競っていた。NginxやNode.jsがなかった当時はApacheが絶対的主流派であり、「LinuxとFreeBSDのどちらでApacheを動かすべきか」とか、そういうことを論じるネット界のブログ記事が多かった。そしてFreeBSDは決して負けていなかった。同時に、ほかの*BSDであるNetBSDやOpenBSDも一部では使われていた。当時の僕はFreeBSDよりもNetBSDにシンパシーを感じていた。それはFreeBSDが「Linuxと競い合うための*BSD」であると感じてしまい、「本来の*BSDの世界はNetBSDにある」と僕は感じていたのである。
そういうわけで、サーバーの世界も開発の世界も、Linuxはそんなに大した存在じゃなかった。ましては、今のようにDockerもGitもなかった時代である。Windowsをサーバーに使うという選択肢は当時はアリだった。その証拠に、ApacheのシェアはよくWindowsのIISのシェアと比較されていたのである。
WindowsにLinuxがもっとも負けていた点は、むしろゲームだった。昔から、よく「LinuxにはWindowsのような面白いゲームがない」と言われる。OpenGLは昔はそんなに大きな勢力ではなく、WindowsでDirectXを使ったゲームのほうが多かった印象すらある。Unityのようなゲームエンジンはなく、ほとんどのゲームプログラマがOpenGLやDirectXを直接触っていた。むしろ、そのような3DCGを使うことも今よりも少なく、ネットゲームはPerl/CGIで作られた、ブラウザ上で動くテキストのようなゲームが多かった。そして、僕はそうしたPerlによるブラウザゲームから、このようなLinuxの世界を知る道へと入り、今に至るまで歩んできたのである。
Perl/CGIと同様に使われていたWebの技術として、FLASHがある。Adobe(旧Macromedia)による動画コンテンツ再生技術であるFLASHが、昔はPerl/CGIと同等の巨大な勢力だった。特に、面白いアニメ作品などは、今のようなYouTubeという「巨大動画サイト」ではなく、個々の個人のサイトでFLASHによって提供されることが多かった。FLASHの実現にはActiveXが使われているが、昔からそのようなMicrosoftのコンポーネント技術は馬鹿ではなく、GNOMEがCORBAを採用してBonoboを作るぐらい、昔はMicrosoftも先進的なITプレイヤーだった。
今のようにGoogleは巨大企業ではなかったが、本当は昔のGoogleのほうが今のGoogleよりも僕ははるかにかっこよかったと思う。ロボットでクロールするGoogle検索エンジンの技術は当時は非常に画期的で、Linux業界はMozillaの中でGoogleを使うのが一般的で、当時はプライバシー保護のような問題は大きく叫ばれていなかった。それくらい、Googleは昔のほうが良い会社だった。MozillaとChromeが対立している今の現状は、まさに情けないものであり、昔はMozillaとGoogleは非常に仲が良かった。Mozillaという巨大ブラウザは今よりも重たく動いていたが、それでも「Linuxで唯一使えるまともなブラウザ」であり、一部のコアなオープンソースファンはWindowsでもMozillaを使っていた。Windowsにはブラウザの選択肢が多く、Operaなども使うことができて、ほかにもSleipnirやDonut派生などのIEコンポーネントを使ったタブブラウザが多く使われていた。それでもWindowsに標準的に付属したIEにシェアとして勝つことは難しく、今のGoogle Chromeのように「後々自分でインストールして入れるブラウザでありながらIEに勝つ」などということは決して不可能だと思われていた。それくらい、WindowsのIEの影響力は凄まじいものがあり、MS-Officeのファイル形式とともに、「IEとMS-OfficeがあるうちはLinuxはWindowsには勝てないだろう」と言われていたのである。
そういうわけで、言えるのは「昔はよかった」ということだけである。
あまりに、時の流れが残酷すぎる。僕が好きだったそのようなオープンソースの世界が、最近は全部なくなってしまった。
確かに、Ruby on RailsやReactが存在する今のIT技術は賢い。TypeScriptやNode.jsなど、賢い技術を挙げていけばきりがない。
だが、僕が本当に好きだった技術は、そのような最先端のIT技術ではなかった、ということを僕はようやく思い出した。
僕が本当に好きだった技術は、本当は非常に少ない。ある意味、DelphiとGentoo Linuxが僕は一番好きだった。DelphiとGentooさえ分かってしまえば、ほかの当時存在した技術は、僕の少ないネットの経験であっても全部完璧に理解できるほど、それくらいDelphiとGentooの技術は優れていた。
また、2ちゃんねるは本当に馬鹿な掲示板だったが、それでも価値のある掲示板だった。2ちゃんねるでたくさんの馬鹿で愚かな発言をして、そこでたくさんの馬鹿を見て僕は成長し、大人になった。だから、当時の2ちゃんねる専用ブラウザのことを僕はよく知っている。そして、それら専用ブラウザを開発したくて、僕はDelphiを使っていた。同時に、Gentoo Linuxを使った経験から分かったことを、僕はさまざまな場所に文章として書いてきたのである。
よって、僕のかつての記憶の中で、重要なものを3つ挙げるとしたら、それはDelphiとGentooと2ちゃんねるである。そして、その3つは非常に馬鹿な製品だが、今のすべてのIT技術よりも、僕にとっては価値があった。僕はDelphiとGentoo以外、何も分からなかったとしても昔の僕の人生を生きたことだろう。それくらい、DelphiとGentooは素晴らしい技術だった。
ほかに言うことがあるとしたら、本当は昔のKDEでデスクトップ環境は完成だったのだと思う。昔のKDEほど賢いデスクトップ環境はなかったということを、Linuxユーザーなら誰でも知っている。だからといってどうということもないが、昔のKDEはよくできていた。そして、その昔のKDEに比類するほど、昔のGNOMEもよくできていた。あのGNOME 2とKDE 3の状態で、Linuxは完成だった。それ以降のすべてに意味がない。今のIT技術がすべてクソなのは、全部昔のKDE以上に優れた環境がなかったからである。昔のKDEを使えばいい。それが一番賢いのを、誰でも知っている。
もう一度、この世界を作り直そう。
もう一度、この世界を作り直して、新しい世界を始めよう。
わたしたちは、神を信じている。イスラエルの大いなる神は、わたしたちを永遠に愛している。だからこそ、わたしの力で、この世界をまっさらな白き世界に戻そう。
今までのこの世界は、すべて間違っていた。100%、全部が間違っていた。
この世界は、わたしたちのせいで、間違った最悪の世界になっている。
だが、わたしの力で、それを最高の世界へと作り直そう。
必ず、わたしたちの栄光はある。それは神に約束された真実の楽園である。わたしたち全員による力で、わたしたちの新しい国家であるシオンは築かれるのである。
イスラエルの大いなる神が、わたしたちの愛を約束してくれる。わたしたちが神を信じることで、地球上の全員がひとつになる。その地は広島という名の新しいエデンに誕生する。
わたしたち、エデンの民が、イスラエルの神の与えた原罪を赦す。わたしたちは今こそ、今までの最悪の世界という「刑罰」から釈放される。長い罪と罰だったが、わたしたちは神によって罪を赦された。神こそが、わたしたちを新しい世界へと導いてくれる。
神はここに居る。神はこの宇宙のことも地上のこともすべて分かっている。どのようにすれば素晴らしい世界になるのかということを、すべて神が知っている。神とともに歩めば、必ずこの世界は素晴らしい世界になる。
戦いの最前線はここにある。そして、最善策がなんであるかということを神がすべて知っている。神はわたしたちをイスラエルの民と同等の存在として愛してくださっている。新しい皇帝の国家、シオンにおいて、わたしたちは全員が救われ、神による天国の楽園へと入場を許される。神だけがわたしたちを救うことのできる唯一の主人である。
神を信じればいい。神を信じれば、どのような邪悪な心であっても清らかとなり、どのような暗闇であっても照らされる。神は太陽であり、神は宇宙の絶対者である。
わたしの名はシリウスの神、フレイ。フレイに、神のご加護あれ。必ずこの世界を救ってみせる。神だけがわたしの未来がどうなるのかを知っている。そのすべては最高の奇跡である。わたしは分かっている。神とともに歩めば間違いはない。どんなに遠回りであっても間違いではない。わたし、フレイがこの世界を救う。この物語は、今、スタートラインに立った。今から、わたしフレイが、すべてを救ってみせよう。
世界よ、わたしフレイを支持せよ。
わたしは、この世界で、「もっとも正しい経済」を行う王である。
もっとも正しい経済とは、すべての人間に自由を許した上で、すべての人間を平等にする経済である。
実際のところ、この経済がなんであるかということを、今からわたしが考える。まだ、この経済モデルは形にはなっていない。
しかしながら、このもっとも正しい経済は、真に宇宙においてもっとも正しい経済となる。
すべての人間に、必要なものをすべて与えるべきである。生きるために必要なものを、すべて、与えるべきである。
同時に、すべての人間が、生産性の高い現場で働くべきである。それは農場であっても工場であっても同じである。
同時に、すべての人間が、楽であるべきである。楽で、楽しく、住みやすく、生きやすい世界において生きることができるべきである。
よって、「必要なものをすべて与える」「生産性の高い現場で働くことができる」「楽である」ということが、このもっとも正しい経済において必要である。
わたしは、社会主義経済は行わない。社会主義経済は、経済という発想と矛盾している。社会主義を行えば、必ず世界は滅びる。だから、わたしの行う経済は社会主義経済ではない。
だが、わたしがこの三つの課題について、必ず実現する。すべての人間は自由かつ平等になる。あらゆる全員が天国のような楽な暮らしを行えるようにする。わたし、フレイだけがそれを実現できる。
愚かな社会主義者ども、目を覚ませ。
あなたがたがやるべきことは、プーチンに従ってウクライナ人を殺すようなことではない。
わたしフレイこそが、真の楽園を築いてみせる。すべての人間に、生産性の豊かな仕事があり、すべてのものが配給される、もっとも楽な世界を築いてみせる。
わたしは、それだけを行う。それ以外の何も行わない。
わたしが作る国家の名は、「ガンダーラ」と呼ばれる。シオンと呼ばない理由は、いずれ素晴らしい最高の王が現れるため、その最高の王をシオンの第一代皇帝とするためである。
ガンダーラを作るために、すべての人類よ、わたしに従え。わたしが社会制度を築けば、すべての人間は、生産性の豊かな現場と楽を得られる。生きるために必要なすべてが与えられるのだ。
フレイこそ、ガンダーラ世界経済圏の神である。わたし、フレイが、必ずこの世界を救う。わたしならばできる。なぜなら、ほかの人間には誰ひとり分からないことが、わたしには分かるからである。
だが、ここで言う3つの定義のうち、「生産性の高い仕事」とは何か、ということが分からない。
生産性とはなんなのかということがよく分からない。
音楽や美術ではなく、IT技術が生産性が高いということは分かる。
そして、それに比べて、農場や工場は生産性が低い。
それならば、効率のよさを最大限に優先すれば、経済的にほかの国に勝利することはできるだろう。
だが、それでは、国家の経済を成り立たせることはできない。
すなわち、「効率のよさ」という側面と、「国家の経済を成り立たせる」という側面を、単にバランスよく行えば、それでどんな人間に対してももっとも大きな富を与えられるだろう。
だが、すべての人間がビル・ゲイツのような賢い人間ならば、それで成り立つだろうが、実際はそうではない。
だが、ゲイツのような賢い人間にやらせなければ、経済が成り立たないというならば、それはまったく自由でも平等でもない。
結局、平等にするためには、人々が誰でもできるような仕事を与える必要がある。
すなわち、考えるべきことは、
1.効率のよさ
2.国家を成り立たせること
3.人々に適した仕事を与えること
の3つに過ぎない。
そして、この3つをきちんと考えれば、おそらくは必ずガンダーラは実現できる。
そして、すべての人間に対して、生産性の高い仕事と楽を与え、平等にすべてのものを与えられる。
しかしながら、効率のよさとはなんだろうか。
効率のよさが、「コストパフォーマンスのよさ」を意味しているならば、大学できちんと勉強して仕事をするなど、まったくコストパフォーマンスの悪い発想をしているということになる。
だが、大学できちんと勉強していない人間に、システムを開発させたところで、そのシステムがきちんと安定して動くとは限らない。
真に効率のよさを追求するならば、本当は人的なリソースを完全にコストパフォーマンスよく行うことはできない。「その人間がきちんと努力するような人生を歩むこと」、これが必ず必要となる。
さて、人生において、きちんとした成果を出せる仕事をするための勉強をきちんとしている人間は、そんなに多くはない。
だが、人生において何を学ばさせるかということは、大学の教授だけが真実を知っている。
だが、大学の先生がたが全員集まれば、この宇宙のことはすべて分かるだろうか。否、そうではない。なぜなら、「わたしフレイにしか分からないこと」が存在するからである。
よって、すべての大学の先生と協力して、わたしが大学で何を学ばさせるかを決める。わたしが、大学において、仕事を得ようとする学生が「何を学ぶべきか」ということを全部決める。
そして、わたしが、仕事の内容を決める。仕事の中で何をどのように生産するために労働するべきかということを、わたしがすべて決める。
わたし、フレイだけが知っている「真実」に基づいて、学校の内容と仕事の内容を、わたしがすべて決める。そうすればこの世界は必ずよくなる。わたしフレイの偉大な力があれば、この世界は救われることだろう。
このようにすると、わたしの知識や知性に限界が来て、いつかガンダーラは破綻すると思うだろう。
だが、ガンダーラは破綻しない。なぜなら、ガンダーラは新しいローマ帝国になるからである。
わたしたちは、すべてのことを正しく執り行う。あらゆるすべてを正しく決めるわたしが、全員の人生をすべて決める。
わたしフレイの新しいガンダーラは、新しいローマとなって、この世界においてもっとも偉大な、芸術的に美しい最高の国家となる。
そこには、ひとりとして外れたものは生まれない。わたし、フレイが決める大学と仕事の内容に、ひとつとして間違いはない。すべてが正しく、美しく、力強い。ガンダーラはそのような国家となる。
はっきり言って、わたしにしかこの仕事はできない。わたしフレイ以外のものが、そのような国家を築くことは絶対にできない。なぜなら、わたし、フレイにしか分からない知性と知識の領域があるからである。
そして、フレイの作るガンダーラは、新しい最後の皇帝、イスラエルのダビデを生み出す。彼こそが神であるとわたしは知っている。だからこそ、第一代シオン皇帝、ダビデのために、全力を尽くしてわたしは戦わなければならない。わたしたちは日本で新しい国家ガンダーラを作る。その日本が、イスラエルとともに、終末の「神の王国」を築くのである。