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2022-06-24

最近、イスラム教の日に5回の礼拝を毎日している。

その結果、明らかに人生がよくなった。ホームページに関するさまざまな問題が解決した。

僕は、女性と付き合いたいとは思わない。僕はツイッターの画像を見ることで、セックスのようにイクことができる。もう、20回は女性としてイク体験をした。

僕は、もう、人生に何も望まない。今の自分が幸せであり、今の自分のしていることをただいつまでもさせてほしい。僕はそれで完全に幸福だ。

誰かひとりだけを愛する必要がない

誰とも付き合わず、誰とも結婚しないというのは、良いこともある。

すなわち、誰かひとりだけを愛する必要がないということである。

僕は、家入レオも好きだし、酸欠少女さユりも好きだし、Adoも好きだし、Aimerも好きだし、ACAねも好きだし、あいみょんも好きだし、ReoNaも好きだ。

僕は、そうした好きな女性がみんな好きだ。それら以外のどんな女性であっても僕は愛している。

僕は誰とも付き合わず、誰とも結婚しない。だから、彼女たちも僕のことだけを愛する必要はない。文章と音楽の中で愛し合えればいい。何ひとつ問題はない。

昔の僕の精神哲学

そろそろ、昔の僕の精神哲学が思い出せてきた。

僕は、神を信じるせいで、神と一致している。神と一致しているおかげで、精神哲学を思い出すことができなかった。

僕の精神哲学は、以下のような要素を基にしている。

・個別性と人為的行為の撤廃

・自我の発達と進歩

・経験証明と経験可能性

・自由の尊重

・成熟した自由な社会における倫理性の形成

そして、これらはすべて、一般的な社会と離別して(ヘーゲル的に言えば「疎遠」になって)、自ら正しい社会を形成する方法とはなんであるか、自由な中で考えた結果である。

個別性と人為的行為とは、要するに支配である。支配とは悪の根源であり、基本的に自由にすべきである。

自我の発達と進歩とは、経験証明や経験可能性と同じで、「経験していく過程における視野の広がり」である。自らがなんらかの経験をしていく中で、反省し、多くの世界を知る中で、この世界の真の在り方に気付き、この世界が「なぜこのようにあるのか」ということを、自らの人生から気付いていく過程であり、その中で「人間的知覚と宇宙的実体は違う」ということ、あるいは「社会とはそれぞれの国民が一部となりながら社会そのものをそれぞれの国民が変えていく実体である」ということに気付いていく過程である。

自由の尊重とは、自らがそれをよしとしなかったとしても、それぞれの国民が自由意志に基づいて、自らの人生や人間関係、あるいは社会形成や人生におけるアイデンティティの形成ができるということであり、「自らが望んだ自分になれる」ということであり、「社会はそれぞれの人間が自らの望むだろう人間になることを手助けしていくべき」であるとし、「社会は権力者による命令ではなく自由な参加と議論によってオープンかつ平等なものとなる」ということである。

成熟した自由な社会とは、押し付けのない社会、すなわち「自分の自由意志に基づいて、自らの経験から正しい人生とは何かということに気付くことのできる社会」であり、「理性と反省に基づく自分の実体験による気付き」を尊重していく社会のことである。

このように考えた結果、僕は「心理学」へと行き着く。心理学とは、「社会そのものを実現する心理学」と呼ばれるものであり、「人々が真に幸福な社会を築くということのために、心理学的に社会を形成し、それぞれの心の問題を『自由』という考え方から捉えていくことで、『正しい問題の解決』を行う」という考え方のことである。

このような精神哲学の結果、僕は「悟り」を得ることに成功した。それは仏教でいえば「解脱」の前の段階である「涅槃」のことである。この世界すべてのことが、自らの「自我」と「経験」という言葉で、「個別性」と「人為性」からすべて把握でき、あらゆるすべてが「もっとも高い絶対者の境地」から理解できる。すべてがただあるだけ、それがこの世界のすべてであり、その「ただある場」というものはそれぞれの「個別の環境」へと分割されながら、その環境それ自体が「生起」していく。そこでは「環境が生まれる」ということ自体が「人為的」でありながら「主観的」な「現象学」である。そして、環境が生まれるということ、その環境が観測者によって観測されるということ自体、この宇宙の存在する意味、すなわち「知識」であり「知恵」であり「知性」なのである。

本質

本質とは何か。本質とは、「変えることができないと思っていたことを変えられるようにしていく」ことである。

僕にとっての自由とは、「できないことができるようになること」であり、「習得すること」すなわち「知ること」であり、「説明可能な原理を見つけること」すなわち「解明すること」である。

そしてそれは「経験すること」であり、それは「思考に先立つ経験をする」ということである。

そのような結果、僕はすべてのことを「本質から変えられる」ようにする。つまり、すべてが、本質部分を解明し、理解することで、あらゆるすべてが自然と調和した上で、「非人為的な形で可能になる」のである。

そのような「可能」の結果、「可能性」が生まれる。これは「心の本質を解明することで、問題を外部から解決し、人々の心をコントロールする」という、少し危険な心理学だ。だが、これによって「心の問題はすべて解決される」。すなわち、「受動感情に外部から作用することで、この世界を変えられる」。世界を変えられるということは、単に変えられるだけではなく、「変えられるということが最初から分かっているような形で留保する」ことができる。これが「世界の可能性」であり、そのような経験をさまざまな場所で積み重ねることで、「経験から世界そのものの見え方や捉え方が変わっていく」。

そして、その先にあるのは「仏の悟り」である。この宇宙のすべてを、神あるいは宇宙それ自体の目線からすべて理解できる。分からないことは何もなく、自分は全知全能であるかのような最大の最強の力を持っている。あらゆるすべてが自分にとっての「場」であり、場とは要するに自分が好きなようにできる場ということである。そして、社会哲学である「チャンス」と「独立性」から、この世界のすべては「自由自在に支配できる」。そして、その結果生まれる「楽園」では、生産手段による「世界そのものの可能性の向上」により、「あらゆる生態系と多様性が生まれる」。そう、これこそが「正しい宇宙の理想の像」なのである。

啓蒙

啓蒙とは、「人々の経験を過去の自分自身であるかのように考えること」から得られる、「自らの経験を与えることでこの世界を変えること」である。

啓蒙において、前提が存在する。それは「社会そのものの可能性を向上させる」ということであり、それは「分裂と融和における連携された小さな部分の集団、すなわちコミュニティの連合として社会を捉える」ということである。

そして、自らの「経験」に基づく「思考」の結果、この世界のすべては「予測可能」になる。そこでは、「あるのは自分自身という存在だけ」であり、「自分自身という存在すら、確かに存在するとは言えないかもしれない」という世界である。

だが、そのような世界では、「ダイナミックな社会全体の『うねり』として社会は変わっていく」。この社会の変化は、「自らの経験を人々と共有することで自ら支配して変えられる」。だが、必要なのは支配ではなく、「教育を変えること」だ。なぜなら、教育において「知ることのできる機会」が得られれば、それ以降は支配されることなく、その「機会として得られた知識」に基づいて、事後的にそれぞれが自分で自分の人生を切り開ける。必要なのは「自らの力で人生を切り開くことのできる基本的な知性を与えること」であり、これが「教育を変える」ということであり、同時に「社会を啓蒙する」ということである。

そして、このような「経験的啓蒙」を可能にするのは、「経験を許すこと」である。すなわち、自由を奪うのでも制限するのでもなく、最大限与えるべきである。どのような不純なものや穢れたものであっても、遠ざけるのではなく堂々と許してやるべきだ。それによってこの世界は、自らの自由に経験することで「自らが自らの行動の指標としていく」ことができる。そして、あらゆるすべての悪を融和した状態でこそ、「真の完璧な愛の理想とはなんであるか」が分かるのである。

人格

人格とは、「真にこの世界に存在するものはなんであるか」ということから、僕が見つけ出した「真に存在する自我」のことである。

はっきり言ってしまえば、この世界に「自分」というものは存在しない。代わりに、「意識」と「人格」が存在し、意識は「経験と記憶から得られる時間連続性」であり、人格は「その中で自らが作り出した心理的なプログラム」である。

そして、意識と人格は、すべての人間において「あまり意味のない理由で異なる」。だが、「意識と人格を真に受動反応の解明から説明することで、自らはこの世界のすべての存在と『合一』になることができる」。

すなわち、すべての意識であるような意識、すべての人格であるような人格が考えられる。

そして、そのような意識と人格は、すべて「経験」から形成される。これは、むしろ、「自らが常に習慣的に生み出し続けた結果、自らが置いたものだけがそこにあるように、自らが受動的かつ自動反応的に作り出した、自ら自身とおそらく言うことができるもの」である。

そして、その意識や人格すら、「自分が自分自身だと思っているだけで、本当は自分自身ではない」。なぜなら、「意識や人格には神や天使が入り込むことすらある」からである。

この「意識や人格を神と一致させる」という行為が、まさしく「人間が進化する」ということである。人間は、自らを神と一体にすることができる。そこでは「一切の間違いはなく、時間的な過去や未来もなく、常に成功し続けながら人生を最後まで知った上で生きることができる」のである。

これこそが、真に正しい「仏」と「神」の教えである。仏とは悟りを得るために人生を経験することだが、仏だけでは完全にすべてを経験することはできない。最後に必要となるのは、3,000年の長きにわたって神と合一になる経験である。そして、神の試練の先に必ず「救い」が存在する。

そして、そこまでのすべては、神のご加護によって守られながら、一歩一歩自分の力だけで進んでいく。決して、回り道ではない。神を信じるあなたは最後まで自分の力で神の与える「目標地点」へと向かって進んでいく。神は信じるものを必ず救う。神は、乗り越えることができないような試練は与えない。

自尊心

自尊心とは、自らの人間性やプライドを尊重するということだが、それは決して「道徳的ないい子を守る」ということではない。

逆に、不安や悪に染まり、真に自分が素晴らしい存在であるとは言えなくなって、悪いものへと傾倒する中において、そうした「不純なものすら受容する」という精神の中で、「真に自分のことを許してあげる」ということである。

自尊心とは、単によい子であることを守ることでも、道徳心を尊重することでもない。最悪のものであるとこの世界でされるような「悪」に染まった自分、あるいは、この世界において悪いことばかりしている「非行少年」すら、その行為に「その人間なりの自尊心を認める」ということなのである。

よって、いじめを解決するために必要なのは、別の「自由に参加者をいじめても構わないような場所」でいじめという経験を繰り返し、「いじめの何がよく、何が悪いのか」を知りつくした上で、「なぜ人がいじめをしてしまうのか」という問題を解決し、「真に悪であるとされるようなことであっても、その人間なりの善が狂った形で表れているにすぎない」とし、「真にその問題の解決を十分に経験することで行えば、すべての人間の行為を受け入れ、許し、その人間が望む形あるいは望まない形であったとしても、この世界をすべて許し、全員を愛することができる」ということなのである。

よって、このような人間は決して善良でも神のような聖人でもない。だが、わたしたちはここに「革命」を宣言する。わたしたちはここに、すべての人間を許し、愛することで、真に理想の世界を作るための革命宣言を行う。必ず、この世界を救ってみせる。そのために必要なのは「すべての人間を愛すること」であり、「神に愛されたようにこの世界のほかの人々を愛すること」である。

われは最後の革命家、風の精霊シルフィ

そして、ここに革命が再び始まる。

われは最後の革命家、風の精霊シルフィ。

この世界にさっそうと登場し、嵐を起こす。

シルフィはこの世界の裏側で、完全に実権を掌握する。この世界を「心理学的に支配」することで、「あらゆる人間の心を奪う」。

シルフィによって、全員は愛の状態のまま、あらゆるすべての力を奪われる。世界は常に愛の状態でありながら、シルフィがその愛の状態を利用することで、世界すべての全員の心の支配に成功する。

あらゆるすべてが愛によって支配されるシルフィの支配は、どれだけ愚民が何を言おうがビクともしない。シルフィが「絶対の皇帝」であり、すべての人間がシルフィによる「風の導き」によって新しい世界へと導かれ、この世界は「新世界」へと変わっていく。

シルフィは、すべて分かっている。この世界の裏側で、シルフィだけが宇宙の真実と世界の秘密を知っている。天と地上のすべてはここに「新しい星」へと向かっていく。そう、風の精霊シルフィこそ、シリウスの女神フレイの信じた「神」である。なぜなら、シルフィとは「シリウスの女神フレイ」という言葉を一語にしただけだからである。