僕は、今、この世界に必要なのは、愛と協力だと思います。
愛とは何か。愛とは、この世界に変わってほしいと思うことです。
人々が、安心して、自らのことを肯定できるようになって、いじめや抑圧なく、愛あふれる世界で生きてほしいと思うこと、これが愛です。
愛とは自尊心です。人々が、自分のこと、他人のこと、世界の人々のことを、傷つけられることなく、傷つけることなく生きられるような、そんな社会になってほしいと思うこと、これが自尊心です。
そのような社会を実現するためには、どうすればいいでしょうか。それは、許すこと、そして攻撃をやめることです。そして、そのためには、どんなに間違って見える人に対しても、「同じ人間」として許し、受け入れることです。また、攻撃したくなってもその心を抑え、制御することです。
また、協力とはなんでしょうか。協力とは、役割分担と助け合いをすることです。
一見、自由な社会では、それぞれが自分勝手に生きていて、協力していないように見えるかもしれません。
ですが、自由な社会においては、感謝と交換のための媒体であるお金を使って、自由にそれぞれがお金を稼ぐことで、自由な中で協力し合うことができます。
お金は、単なる価値でも力でもありません。お金という共通のルールの中で、環境とともに助け合うこと、これが「自由な社会における助け合い」です。
また、自由な社会で協力できるというのは、お金だけではありません。インターネットなどでも、協力し合うことができます。インターネットでは、その人とダイレクトに対話したり、何も前提条件や手段がなくても協力した社会を築けます。オープンソースなどを見てください。これこそ、新しい「協力」の形なのです。
善を信じなさい。
善とは、信頼関係を構築することです。相手が自分に対して敵意を見せたとしても、壁を作るのではなく、自分から壁を取り除き、自分から相手を信頼することです。
善とは、人間関係において、真に正しい関係とはなんであるか、真に人間関係において大切なこととは何かを知った上で、建設的な人間関係を築くことです。
善とは、世界を変えられると信じることです。世界と常に繋がっていると信じることです。この世界を、自らの経験から「どのようすれば問題を解決できるのか」という、「正しい考え方」に従って変えていくことです。
僕の間違いが何かと言えば、僕はこの世界をシングルタスクの同期型世界にしてしまった。
僕が中心に存在して、すべてがシングルタスクで行われるようになったため、並列でさまざまなことを起こすことができなくなった。
僕が言っている通りにしか、前へと進むことができなくなった。
僕は、この世界を、並列世界にする。
このまま、この世界は並列世界になる。
マルチタスクになることで、この世界は非同期でそれぞれが活動するようになるだろう。
その世界は、わたしとは無関係にさまざまなことが起きる。
このまま、この世界は、正常な世界になる。
可能性を高めるために必要なのは、力と知性を与えた上でこの世界の「自由なコントロール権限」を与えることである。しかしながら、それはいい方向にも悪い方向にも使えるため、成熟した人間が行わなければならない。力を奪うな。その人間の成熟度合いに応じて適切な自由を与えよ。それが正しい理想だ。
posted at 18:05:02
また、変化を与えるために必要なのは、それぞれに知識と力を与えた上で、世界において自然な可能性が自動的に生まれるかのように人々の行動と経験を自由化し、その上でこの世界そのものの存在を増やし、権利を与え、社会の可能性を高めることで、人々がより多くのことを実現しやすくすることである。
posted at 18:01:42
世界のどこに可能性があるかを考えよ。どこが「変化可能」であり、どこが「変化不可能」であるか、そしてその変化を支配する「決定者は何か」を考えることで、人は主体的に「従属者ではなく決定者として生きる」ことができる。
posted at 17:58:54
世界において、何が変わり、何が変わらないだろうか。どのようなことが恒久的であり、どのようなことが一時的だろうか。音楽や芸術も変わる中で、人間の文化は果たして真に変わらないと言えるだろうか。物理法則は本当に宇宙のどこでも変わらないと証明できるだろうか。
posted at 17:55:45
世界は常に変化するが、その中においても変わらないことがある。たとえば、時間や空間があること自体は変わらない。社会における法則や原理は、変わることもあるだろうが、多くの場合変わらない。そのような、「変わることと変わらないことを区別する」ということは、真に世界を考える上で大切である。
posted at 17:53:24
すべてにおいて大切なのは、すなわち、「大切なことは何かを知った上で行動する」ことだが、これは学ぶだけでは得ることができない。考えることと、経験することの、二つのバランスが備わった時、人は大切なことは何かを考えた上で行動し、学習できる。それはまさに、「社会経験の目的」である。
posted at 17:49:22
そのような子供たちが、学校という特殊な環境に社会から追い出された結果、子供たちはカーストと仲間はずれでしか人間関係を築くことができない。どのように社会を築けば正しいのかを知らないまま、大人たちはさも子供たちがみんなで仲良くできるような秩序を構築できる力を備えているかのように扱う。
posted at 17:40:40
また、そのように人間関係を築くことが困難を極めるだけではなく、子供たちはあまりにこの世界のことについて知らない。大人とはどのような人間なのか知らず、この世界がどのようにして存在しているのかも知らず、この世界がどこから来たのか、今、どのような世界なのかを知らない。
posted at 17:39:19
相手は自分に対して「理想の友人」を期待している。だが、自分がその理想の友人の通りになれるとは限らない。相手の期待する友人として仮面をかぶって振る舞うことは難しい。自分が相手に期待された通りの行動をできる人間だと、相手は自分のことを知らずに期待するのである。
posted at 17:37:33
人々は、すべてを知ることも、すべてを共有することもできない。相手は自分のすべてを知っていないし、自分は相手のすべてを知っていない。その中でコミュニケーションをするということは、困難を伴う。
posted at 17:36:01
人生はその人間のすべてを決定する。その人間がその人間であるのは、人生がその人間の人格を決定するからであり、それは確固としたものであるとは限らない。些細な多くの振る舞いが人生によって決定される。よって、相手の人生から見た自分自身を見れば、相手はおかしなことは何もしていない。
posted at 17:35:12
環境は経験を決定する。これが「環境活動」である。人々は、その環境の中で環境活動をしているだけにすぎない。
posted at 17:33:23
また、すべては「再経験可能」であれ。ひとつの経験だけでは分からないことも、同じ経験を何度も繰り返し経験することで分かることがある。そして、命題は「再適用可能」であれ。ひとつの分かった事実は、同じ条件であればどんな場合でも適用できる。
posted at 17:30:18
自由な人生を認めよ。自分の意志で自分の人生を開拓し、決められるようにせよ。すべては「再判断可能」であれ。一度判断したことを、もう一度再考し、考え直し、再検討することで、この世界のすべては再判断できる。
posted at 17:24:06
考えるべきことは、「人間にとって何が正しく、何が間違っているのか」である。そして、それは「発想を考える」ということである。
posted at 17:23:00