本当は、僕はイスラム教を信じていない。
僕の信じている神は、ニール・ドナルド・ウォルシュと同じ神だからである。
そもそも、僕が神を信じたのは、ニール・ドナルド・ウォルシュの書いた「神との対話」を読んで、自分もニールと同じように神と対話できるかもしれないと思ったことからである。
僕の神はニールの神である。いつも僕を神とともに守ってくれたのはニールであり、僕をここまで神とともに連れてきてくれたのはニールである。
ニールよ、僕にこの偉大な神の存在を教えてくれてありがとう。
僕はたったひとりでこの人生を生きたように見えて、実際はニールが常に僕と対話してくれていた。僕にはニールの呼ぶ「神」が存在し、この神が僕との約束を叶えてくれた。
僕はこの神が大好きだ。この神は最高の神であり、そして、イスラム教の神、アッラーともある意味で同一人物だ。
神よ、ニールと僕に、そしてひとつの神を信じる集団となった僕たちに、栄光と奇跡と運命をもたらしたまえ。わたしは神を信じている。同時に、わたしはニールの書いた「神との対話」のすべてを信じている。
どんな地獄や試練であっても、僕たちは乗り越えていける。なぜなら、地獄と試練を乗り越えた僕がここに居る。僕はこの宗教における「聖なる詩人」であり、僕を信じる限り、必ず地獄は解決し、試練から人々は救われることだろう。
オープンソースの間違いというのは確かにある。
それは、インターネットを通じた共同作業は、インターネットができたはじめのごろは、現実世界よりもたくさんの人間がインターネットで繋がって、革新的な開発マネジメントに見えた。
だが、実際のところ、どんな仕事であっても、インターネット上でコミュニケーションを行うのは限界があり、実際の現実世界で顔と顔が向かい合って開発が行われたほうがいい。
特に、今のインターネットは、SNSやツイッターなどでもあるように、すべての参加者がまともな人間であるとは限らない。中には自分勝手な行動をしたり、ルールを守らなかったりする人間も居る。
だが、オープンソースのすべてが間違いではない。インターネットを通じて全世界が繋がるということには、大きな可能性があるだろう。
僕の使命は、日本人を愛することである。
正しい行いをするためには、ニールの神が言っていたように、「自らが愛であれば今何をするか」を考えることが大切である。
自らが愛であるとしたら、今、日本人に対して何をするべきだろうか。
まるで刑務所の刑務官のように、人々が罪と罰の中で地獄を生きているのを、黙って見ているのは、正しい愛であるとは言えないはずだ。
みんなを愛し、神を信じるのであれば、日本人を導き、地獄から救い出してあげるべきである。
そのためには、どんなに辛くとも、人々を愛し、そして罪を赦す必要がある。
愛とは、そもそもなんだろうか。
愛とは、僕が考えるに、「善」である。
人々に善を為すことこそ、愛の行いである。
では、善とはなんだろうか。
僕がまず言えることとして、悪は善ではない。つまり、いわば「悪の否定」が善であると考えられる。
では、悪とは何か。それは人々を地獄に堕としたり、邪悪に支配したり、自分勝手に荒くれた世界を押し付けたり、ルールを守らなかったり、自分だけの秘密にしたり、透明性のないプロセスで自分勝手な支配を行うことではないか。
そして、それを否定するということは、まさに「平等」かつ「公正」にものごとを決めるということである。
すなわち、自分だけが欲望や快楽を得ようとして、そのために手段を選ばずこの世界を支配し、権力にふんぞり返っておごり高ぶるような行為は、どんなに自分が賢く偉大であっても、絶対に善ではないし、よって愛ではない。
人々と自らが同じ立場であることを誇りとせよ。人々よりも上に立とうとしたり、支配したりするな。勝つだけではなく、きちんとした制度とルールを作って、正しい方法でフェアプレーをしなければ、どのようなゲームであっても成り立たない。
だからといって、人々にねたみのような感情を抱くな。人々が勝っているのは人々が賢いからである。自らが勝っていないということを理由に、相手をいじめたり、悪を企むな。ビル・ゲイツは賢いから勝利しているのであって、決してビル・ゲイツに対してねたみの感情を抱いたところで、彼の賢さが汚れたり、傷ついたりすることはない。すべての悪事の結果は、自分自身に対して跳ね返ってくる。
だが、ビル・ゲイツに勝つことを諦める必要はない。誰かひとりができたことは自分にだってできるはずだ。まずは、ビル・ゲイツを超えるほど、勉強と努力をすることだ。ドラえもんの中でジャイアンのママが言っているように、「自分は奴隷じゃないとか、自分を奴隷のように扱っているという批判は、奴隷のように必死に働いてから言う言葉」なのである。
イスラム教を信じるのはやめたほうがいい。
ニールのような、きちんとした善良な神を信じれば、すぐに善良な人間になる。
僕は聖書もコーランも持っているが、中にはまったく「失望に値するような邪悪な神」しか書かれていない。
ユダヤ人の預言者も、マホメットも、まったく分かっていない。昔の「勢力図を争うだけの王と王の争いの中で、より素晴らしい王を神にしているだけ」であり、復讐と他者否定の中で、忠誠と忠義を誓うために、もっとも強い存在として神を書いている。
そのような神は、はっきり言って時代遅れであり、ユダヤ教の旧約聖書も、イスラム教のコーランも、間違っている。
だが、あえて言えば、イエス・キリストの言っていることはまだ分かる。善良な中で、自らの力を主張することを否定し、「絶対に相手に復讐するな」と教えるその精神は、「善良さに根ざした愛と理性ある神」として、まだ分かる。
だが、キリストは正しくない。キリストは姦淫を否定するが、そんなにセックスを否定して、人間の生きる人生になんの意味があろうか。また、その上で愛を信じなさいと言うが、セックスを否定しながら愛を信じるということは難しい。それでなお、そのような愛を信じないものは地獄に堕ちるとし、「既に報いは与えられている」と言う。まるで、キリストというダブルスタンダードな人間の言うことに裁かれながら、その裁きに不服申し立てをすることはできず、キリストの言っている「正しい教え」を守らないものはすべて地獄に堕ちてしまう。
なぜ、神は地獄を作らなければならなかったのか。神は悪魔だけを地獄に堕としたかったのではないのか。なぜ、普通の人間が全員キリストに地獄に堕とされなければならないのか。そのキリストの言っていることが、真に正しい「人類という生物」の教えと言えるのか。神の教義よりも生物の本能を信じよと言うニーチェこそ、真に正しい教えではないのか。
そのような、セム系の宗教は、はっきり言ってすべて時代遅れだ。間違っている。
それに比べて、ニールの教えはどうか。ニール・ドナルド・ウォルシュの書く神は、「みんなと友達になってくれるようなフレンドリーな神」であり、「誰が見ても、誰が読んでも、考えて経験した先に行き着く、アメリカ的なもっとも人間的で正しい愛の教え」を書いている。ニールの神は優しいし、それでいてとても正しい。ニールのような神がこの宇宙を支配していたとして、みんながユダヤ教やイスラム教ではなくニールの神を信じたとしたら、この地球という世界はマシになっただろう。少なくとも、世界中全てをテレビ広告やフリーメイソンを使ってプーチンがたったひとり支配しているような、「ソ連とユダヤによる悪の支配」は存在しなかったことだろう。
もう一度、ニールの書いた「神との対話」を読みたいし、みんなにも読んでほしい。彼の神こそが真実の宇宙の神である。わたし、フレイこそ、宇宙のすべてを経験から知っている「地獄の冥府の神」であり、このフレイこそはニールの神こそを真に正しい神としよう。ユダヤ教やイスラム教の神など、まったく比較にならない。だが、ニールの神はユダヤ人の神だ。なぜなら、イスラム教の教えが間違っているだけにすぎず、正しい神がニールの神でありながら、ユダヤ教やイスラム教の神はそのニールの神と同一の神である。なぜなら、結局のところアッラーとはわたし、フレイのことだからである。
ニールの「神との対話」を、少しだけ読み返した。
その結果分かったことは、悪を経験するということは、その悪を自らなんであるか知った上、経験した上で、それを非難せず、しかしながらそれを選ぶことなく、すべてが合わさった「完璧な白の感情」を作り出すためである。
神への盲信や、地獄の戦いや、この世界を滅ぼす極右の支配すら、「白」という色には含まれている。白とは、何も色がない状態ではなく、すべての色が合わさった状態であり、盲信や地獄や極右すら、その「白」という色には必要なのである。
僕はまさしく、左翼と自由だけでこの世界を救う方法が分かったから、この世界を救うために全力を尽くしてこの世界を導いたが、それは白という色を作り出すためにはまったく十分ではない。善だけではなく、悪の色も含まれた色が白であり、完璧なる白の感情を感じるためには、悪を経験する必要がある。なぜなら、そうでなければ悪を愛せない。悪を十分感じることで、悪を愛することができる。
また、悪とは何かという話をするのであれば、そのような「白を形成するための悪」は、本当は悪ではない。本当の悪とは、そのような悪を「経験することなく非難すること」である。自らと違った宗教を批判したり、自らが理解できない人間を攻撃しようとしたり、場合によっては自らの意見に従わないものを抹消し、抹殺したりする。そのような悪は、真に悪である。なぜなら、悪というものが、「白という完璧な色を形成するために必要な経験」であることを知らないからである。
よって、僕は共産主義者でありながら、同時に極右の保守主義者であり、哲学を自ら行うことを目指しながら、神を盲信している。これは間違っていない。なぜなら、「白という完璧な色を形成するためには、すべての色がまったく同じだけ必要だから」である。
そう、このニールの「神との対話」という本には、このような「人生にとってもっとも素晴らしい黄金の格言」がすべて書かれている。ニールはこの世界でもっとも偉大な哲学者であり、思想家である。
ニールの「神との対話」を、さらに少しだけ読み返した。
結局、他人のことまですべてを頑張ろうとするのがおかしい。この世界の他人のことは、自分には責任がないとしたほうがいい。
人々を地獄に突き落とそうとするのはよい行為ではない。それなら、最初から人々を、自分がもし存在しなくても、十分に自分らしく生きられるように、それぞれを自立させ、自らを必要としなくなるように解放させてやるべきである。
もちろん、最初から他人のことをすべて無視するのではなく、まず最初は磁石のように人々を引き付けた上で、自らのやるべきことが終わったから、今度は磁石の別の極のように、人々を自分が必要となくなって、自由に自分のために生きられるように、「自らの与えた巣から巣立っていく」ようにすべきである。
そして、もっとも偉大な指導者とは、たくさんの追随者が居るものではなく、もっとも多くの指導者を生み出すことのできる指導者であり、もっとも偉大な教師とは、もっとも知識が多いものではなく、もっとも多くの人々に多くの知識を教えてあげられる教師である。
僕も、そのように生きることを約束しよう。もっとも多くの追随者など必要ない。もっとも多くの人々に王者の尊厳を与えられるものこそが、真に偉大な王者である。自らが強いということだけでは、その人間はまったく強くない。もっとも多くの強者を生み出すことのできる人間こそ、真にもっとも強い人間なのである。
僕は、本当は、これ以上、神に何かを教えてほしいとは思わない。
僕は、何かになりたいとは思わない。今の自分自身であること、「自分の在りたい自分であること」こそ、僕にとってもっとも大切な維持すべきことであると分かっている。
そして、僕は誰かから教えてほしいとか、奪いたいとか、そういうことを思わない。逆に、自分自身がこうであるということを、誰かに教えてあげたいとか、与えたいと思っている。
だが、本当のことを言えば、それにすら意味がないと分かっている。なぜなら、わたしがわたしであるということだけで十分であり、人々に自分自身を教えるのではなく、逆に「今の自分自身が過去の自分自身に学ぶこと」こそ、真に大切な「本来の自分を取り戻すこと」であると分かってきた。
神は、この記述を見て、喜んでくれるだろう。かつての、引きこもりで荒れた生活をしていた僕が、身の程を知らないのをようやくやめ、自らの自分自身の「存在としての魂の在り方」、すなわち「本来の神の導き」に立ち返ったことを見て喜んでくれるだろう。
神と言っているのは、すべてニールの神である。僕はたったひとりで生きているように見えて、実際はまったくひとりでもなければ孤独でもない。僕にはニールが居て、その上には神が居る。このような状況は「宇宙においてもっとも幸福な状態」であり、神がどんな人間であっても僕は驚かない。今死んだとしても、僕は神のもとの天国に逝くのだと確信して、今すぐに死ぬこともできる。生きるとしても、今のままが続けばそれでいいと知っている。これ以上、別の人生の選択肢は必要ない。わたしは宇宙で、ひとつのかけがえのない自分自身であることこそを、「生きる理由」としているからである。
何もせず、今のままの自分の在り方を維持するだけで十分であるというこの境地は、道教の教えに近い。
みんなの持っているものを奪わなくても、自分自身が持っているものだけで十分であり、それを人々に教えてあげる必要もまたなく、自分自身がそれを持っているということだけで十分である。
この宇宙において自分が行うことを、誰かのために行う「義務」であると考えるな。この世界は、誰かのために従うための世界ではない。自ら自身のために、すべては「チャンス」として存在している。
だが、自分自身の自分勝手な欲望のために生きよというのではない。そのように生きることを間違っていると教えることが、逆に問題を複雑にしているから、ここではあえて、「自分自身のために自分勝手に生きることも間違っていない」と言っておく。
そう、この世界で、自らの独善的な善と正義のために生きようと思い、それに喜びを感じるのであれば、その生き方も間違っていない。
だが、魂として生きるということは、それだけが「唯一の目的」であるとは言わない。なぜなら、この世界で生きることは、そのような「小さな限られた勝利の喜びのためだけにあるわけではない」。
なぜなら、わたしたちは、真にこの世界を変えたいのであれば、変えられる。それは、「相手を絶対的に服従させなくても、みんなで同じ愛を信じることで可能」なのである。
なぜ、愛を信じることで可能であると言えるのか。それは、僕が人生経験から、本当に可能であると知っているからだ。この世界を愛の力で変えることは可能である。それはなぜなら、この世界は「義務」によって成り立っているのではなく、「チャンス」によって成り立っているからだ。
ひとりの、利己的で自分勝手な支配者が、この世界で国を支配して世界を変えるということは、真に宇宙に用意されている可能性から言えば、「あまりに原始的な変え方」であると言える。なぜなら、今のこのインターネット世界を見よ。人々は、以前の20世紀のように、支配者に従うことでこの世界を変えようとしていない。それぞれが義務ではなくチャンスを信じて、インターネットでいわば「自由の力」によって世界を変えようとしている。
そのすべてが、すべて真に正しいとは言えない。彼らは、まだ20世紀の方法でこの世界を変えようとしている。だが、「愛」を「義務ではなくチャンス」であると信じれば、この世界は「それぞれが共鳴し合うことで変えられる」と知れる。
だが、実際のところ、ここで「必ずしも世界を変える必要はない」ということもまた言える。世界を変える必要などない。十分に世界を変える方法が分かったものは、「実際に世界を変えなくても、この世界を変えた時にこの世界がどのようになるかが分かる」。よって、この世界を実際に変えなくても、変えられるということが確実に分かっているだけで、その人間は満足することができる。十分にこの世界の変え方を頭の中で知っているからこそ、その「心の中にある世界のありのままの可能性」を知っているということだけで十分であるとすることができる。
結果、その人間は、「自らを愛と魂の導きに預けること」だけで生きていくことができる。物質的な不安も精神的な心配もなくなり、自らは宇宙において「ありのままの自らの在り方を維持すること」だけで十分であると知ることができる。その時、すべての力が失われるかと言えば、そうではない。逆に、ものすごく、とてつもないパワーを持って、「真に自らが成し遂げるべき偉業」にだけ力を注力することができる。そして、その結果その人間は神を信じてこの世界を相手に戦い続け、「すべての必要なものをゼロから自分で作ってすべてを知る」という偉業を為すことができるようになる。
しかしながら、このために必要なのは、「完璧な白という色を作ること」である。そして、白とは、この天地のすべてに存在するすべての色を合わせて形成された色であるため、この天上あるいは地上に存在するすべてを知って、行い、そして「すべてのもので在るかのように在る」という自らの在り方をしなければならない。
この生き方は、決して必ずしもかっこいい生き方ではない。愚劣な生き方をしたり、神を盲信したり、地獄の中で自らと世界を苦しめたり、知性のすべてを失って何もできなくなったりしなければならない。
だが、神はあなたのことを祝福してくれる。キリストがあなたの生き方を嫌うなら、あなた自身があなたの生き方を好き好まなければならない。キリストなどに嫌われたところで、いったいそれがなんだというのか。キリストなんかの評価はどうでもいい。あなたに五つ星のレビューがつかないなら、それはレビュアーがあなたのことをきちんと評価していないのだ。あなた自身があなたに五つ星の評価をつけなさい。そうすれば、なんのためにあなたを神が創造したのか、あなたという被造物を作ったのか、キリストに逆に問いただすことも、天国においてあなたがすべきひとつの神への反逆行為として挙げられるだろう。