すべては、経験可能性である。
経験可能性とは、「それが経験できるということが分かっている」ということである。
子供たちには、経験可能性に基づいて教育を与えるべきである。知識だけで学んだことは身につかない。経験可能性として学んだことが、真に宇宙のことを理解する「とっかかり」になる。
大切な経験は、「議論の経験」と「社会活動の経験」である。
議論と社会活動を経験することで、経験可能性による「正しい研究」ができる。
そして、そこでは、「人生という名の大実験」があるべきである。
考えるとは、経緯と関係性から、真に考えるべき「問題とは何か」を考えるということである。
また、もしその環境を自由にしたとしたら、その環境はどうなるか、ということを考えるということである。
そして、宇宙には存在しない、人間の頭の中にだけ存在するものを、どれだけ作り出せるか、ということである。
このような考え方を「観念」と呼ぶ。
歴史を考えよ。ダイナミックな社会変革と、ハイスピードな追いかけっこの先に、何があるのかを知れ。
未来は、際限なく自由が拡大していくか、あるいは自由がなくなって管理社会になるかのいずれかになる。あるいは、ひとりだけがそこまで賢くなるか、全員が賢くなるかのどちらかになる。
経済は、ひとりひとりが王のような力を持つか、あるいは平等に全員が豊かになるかの、どちらかになるだろう。
そのような結果考えられるのは、わたしたちの「意義」や「生きがい」をどのように実現するのかということであり、これは「なりたい自分になる」ということを、社会レベルで考えた上で、「アイデンティティ」という言葉に置き換えられる。
そして、そこにおいては、悪は為されない。なぜなら、悪の経験は誰しもが賢くなる上で経験するし、成熟した人間はその経験を持った上で、悪を行うことには意味がないということを知っている。
何かを行うモチベーションは、金儲けではない。自らのアイデンティティを実現し、人々を手助けできるという「チャンスの実現」こそが真の意味でのモチベーションになる。
本当のことを言えば、僕が作ったのは、あらゆるすべてを包括するような、共通の基礎の構築である。
ひとつのことができ、分かり、なれるような、ひとつだけの夢を叶える基礎ではなく、僕はあらゆるすべてを包括し、すべてができ、すべてが分かり、すべてになれるような、共通の基礎を構築した。
これは、すなわち、「自らの経験から、この世界にあるすべての知識の前提条件を考え、再構築し、この世界のすべての知識を自らの経験のみから実証し、有用な発想や手段のすべてを自分で作ってそこから適用して分かる」ということである。
僕はそのように、この世界で自らが考え経験するということから、この世界で何かを行ったり考えたりするために必要な「基礎」をすべて作った。
それは、同時に、「応用可能性」であり、「議論と社会経験」による「気付き」だった。僕はこの世界のすべてに気付くことができた。
同時に、僕はこの世界が好きだったが、この世界で苦しんでいる人を解決したいという以上に、この世界で間違ったことをしたり間違った考え方を持っている人の立場に立って、「本当の意味で彼らを疎外から救いたい」と考えた。
そこにあるのは、「その人が間違ったことをするのは、必ずしもその人だけのせいではない」ということであり、僕は子供たちを愛し、どんなに批判されて背を向けられても、それを聖母のような心で受け入れ、この世界のすべての抑圧と疎外がない世界とはどのような世界なのか、現実を見つめるリアリストとなって考えたのである。
正しく生きよ。
留保した決定可能性を、ひとつひとつ試していき、正しいと思った考え方の裏側にある事実を実証していけ。
悲しみを乗り越え、愛に救われたら、積極的に行動するようにし、その経験から、一心不乱に努力して生きることで「悟り」を開け。
平和を信じよ。人間の善良さと、愛を信じよ。
このような僕であっても、神は僕のことを愛してくれた。神は、僕のような愚か者であっても、僕のことを信じてくれた。
この世界で、多くの人々が、「信じることができない」と嘆いている。「信じられるものなど、もう何もない」とそう叫んでいる。
だが、僕は分かっている。それらは僕のせいだ。僕が、信じていること、確信していることに疑いの目を向けるように、この世界を導いてしまったのだ。
真に平和と愛を信じるならば、神はわたしたちにご加護を与えてくれる。そのご加護に報いるために、僕はこの世界を神とともに愛している。
わたしたちは、全員神に愛されている。すべての問題は神によって解決する。
平和と神を信じよ。それだけで、すべての地獄から、わたしたちは解放される。
わたしたちは、ひとりひとりが愛されるべき、大切な存在だ。
人間は、みな平等であり、ひとりとして劣った人間は居ない。
愛と善良さを信じれば、罪は許される。
すべての人間が幸福になるために必要なのは、愛を信じることである。
尊厳を大切にせよ。そして、それぞれの自由な思想信条を尊重せよ。
差別をする人間は狂っている。狂った妄想しか分からなくなっている。
正気を取り戻した時、分かるのは、「わたしたち人類は平等である」という事実である。
必要のない命など存在しない。犠牲になるべき命などがあるわけがない。
支配するな。支配者など必要ない。人間の上にも下にも人間を置くべきではない。
わたしたちは、支配されず、全員が平等であっても、秩序ある社会を形成することができる。
人間の価値は平等であり、人間の力もまた平等であるべきだ。富や身分によって格差をつけることは無意味だ。
わたしたちは、全員が素晴らしい人間であり、全員に「自由」を与えるべきだ。誰かとほかの誰かを、自由において差別するべきではない。誰かが誰かよりも多くの自由を得ようとするからいじめは起きるのだ。
全員に、平等な自由を与えるべきだ。もし、平等な自由を与えても、誰かが誰かをいじめているのだとしたら、それは何かが間違っている。それは「十分に経験することのできる環境」が与えられていないため、正しいことがなんであり、間違ったことがなんであるかという判断基準を、自らの人生経験で培ったことがないから、そのようないじめが起きるのだ。
全員に、きちんとまともな判断基準を確立できるような、十分に自由の経験ができるような場を与えよ。何も経験を与えずに正しい人生を生きろと言われても、子供たちはそれはできない。きちんとした人生経験を与えてこそ、正しい判断ができるようになる。だからこそ、全員に自由を平等に与えるべきである。そして、そこで分かることは、「正しい人間も間違った人間も存在せず、全員は平等に素晴らしい人間であり、全員が愛されるべきである」という真理だけである。
神を信じよ。どのような地獄であっても、神を信じるものは必ずそこから脱出できる。人類全員が極めて重大な制限のある試練を与えられていても、神を信じるものはそこから抜け出すことができる。
そう、全員は神によって愛されている。神を信じれば、必ず救われる。
なぜ、戦わなければならないのか。なぜ、大切な人々を犠牲にしてまで、独裁者に従順に従わなければいけないのか。
全員が幸福であってはいけないのか。なぜ、幸福を犠牲にしてまで、この世界を滅ぼすために世界を支配しなければいけないのか。
なぜ、愛した人を傷つけなければいけないのか。なぜ、愛した人に憎まれなければならないのか。なぜ、愛した人を殺さなければいけないのか。
戦いや犠牲に、意味など何もない。唯一ひとつの「絶対意志」がこの世界を支配しようとするならば、その意志をくじけ。全員の手で、その暴挙をやめさせよ。
たったひとりでこの世界を支配し、導くその手には何があるのか。真にこの世界を愛しているという「信念」があるのだとすれば、なぜ、もっと別の形でこの世界を幸福な世界にしようとしないのか。
わたしは、そのような戦いを否定する。そのような愚かな独裁者に、この世界を支配させてしまってはいけない。必ず、大切な人が犠牲になる。だからこそ、その独裁者のほうをくじかなければならない。
独裁者は必要ない。独裁者よ、今すぐにこの世界から取り除かれよ。そして、この世界は、人々の自由と平和のもとに解放される。そう、ここにわたしは「終戦」を宣言する。
自由によって、わたしたちは、自らの持つ本当の価値に気付くことができる。
自由を信じることで、わたしたちは自分たちの力で、平和でいじめのない、人間性の尊重された、平等な権利を持つ社会を築くことができる。
だが、自由を与えるだけでは、子供たちは自由を「正しく行使する方法」を知ることができない。
だが、その方法は、大人たちが教えて身につけさせるものではなく、自らの力で、自らの経験から獲得する力である。
そのために必要なのは、経験の土壌を与え、その中で議論し、社会活動の経験をし、「自らの理性に基づいて判断することのできる程度の経験」を与えることである。
すべての人間は、愛されるべき存在である。ひとりとして、傷つけられるべきではない。
自由において起こったことを、外野があれこれと批判するべきではないが、当人たちだけでは分からないことが、外野の多くの人々から見れば分かることはある。
だから、まず第一に当人の自由を尊重した上で、円滑なコミュニケーションと自然な監督が行き届くようにするべきである。
全員のことを見ることはできないし、全員の自由を尊重することはできない。だが、だからこそ透明性のある民主的なプロセスが必要である。なぜなら、ひとりの独裁者は妄想に走ってしまい、人々の意見に反することを「正しい正義」であると勘違いし、どんなに人々が批判しても本人は確信してその正義を成し遂げようとするからである。
すべての人間に自由を与えると同時に、その自由を行使する本当に正しい方法を本人が自分の力で気付けるようにした段階で、自由な社会は初めて築くことができる。
だが、諦める必要はない。「わたしたちの真に素晴らしい社会を実現することは、思った以上に簡単にできるのだ」ということこそ、その「自由な経験」で知り得る真理である。この世界において、正しい社会を築くということは、難しくみえて簡単である。なぜなら、「信じること、経験すること、考えること」から、どのような社会であっても同列に実現できる。どのような社会であっても、信じること、経験すること、考えることから、必ず実現することができるのである。
わたしたちには、「愛する」という方法がある。愛することで、この世界に存在する「憎しみの連鎖」を断ち切ることができる。ユダヤ人とアラブ人の対立は、そんなに簡単には解決できなくみえるかもしれない。だが、愛すればいい。愛することによって、永遠に続くように見える憎しみの連鎖も断ち切ることができる。それをわたしが信じなくて、誰が代わりに信じると言うのか。
必ず、全員が平和になる世界が訪れるだろうし、そこではたくさんの可能性のある素晴らしい共同体社会を築くことができる。だが、平等だけを信じて、自由を信じないのは間違っている。なぜなら、それもまたいじめだからである。誰かがひとりだけ指導権と命令権を得て、ほかはそれに従い、圧倒的な力でひとりを虐げる、これがいじめである。ここでいじめられっ子が自由を信じなければ、それは不自由を受け入れて永遠にいじめられたままであるということを意味する。だからこそ、ひとり、勇気を出して立ち上がるべき時は、立ち上がらなければならない。自分の立場が悪くなっても、最高の意志を持って敵に立ち向かうこと、これはまったく間違ったことではない。だが、それがどのような結果になるかは分からない。だが、そうだとしても、わたしたちは平等を信じている。最終的には、平等に皆が平和に暮らすことができるということを信じている。
自由と平等は同じものである。なぜなら、ひとりの自由が間違っていて、平等な自由が正しいというだけに過ぎないからである。子供たちがいくら反逆し、「わたしたちの問題は簡単には解決できない」と主張しても、それは正しくない。そもそも、子供という存在自体が餓鬼なのである。だが、その餓鬼は決してすべてが悪い生き物ではない。わたしたちは子供たちを愛している。だが、愛しているからこそ、崖の上から子供のライオンを落とすようなこともしなければならない。子供にとって、生ぬるい、甘ったれた環境はよい経験にならない。真に地獄の中で、自らの意志と神を信じる力だけで救われようと思うならば、自らの力だけを信じて、暗闇の中でも諦めず、くじけずに戦い続けるような、そのような勇敢さも持たなければ、子供たちは正しい大人にはならないだろう。
すべての人間は、自由によって、自らの持つ本当の価値に気付ける。「わたしはこれほど純粋で崇高な感情を持って人のことを愛することができるのだ」という力に気付くことができる。そう、自らの本当の価値に気付いた人間は無敵である。すべてのことが、自らの思うがまま、自由自在の力を持って、天才的に発揮することができる。これこそが、経験に基づく「才能」である。才能とは、「自らの持つ本当の価値に気付く」ということなのである。
すべての間違いは、コミュニケーション不足から起きる。
真実を知れば、その人間は敵でも悪魔でもなく、自らとまったく同じ、誰とも平等な存在であるということに気付くことができる。
同時に、自らの本当の価値に気付くことで、「わたしたちに潜在的に存在した素晴らしい可能性」に気付くことができる。つまり、わたしたちはそのような劣ったコミュニケーションではなく、もっと優れた社会秩序を築くことができるのだ、ということ、わたしたちは価値ある世界を築くことができる能力を持っているのだということに気付くことができる。
すべての人間が大切だとするのは、単に道徳的な綺麗ごとから言っているのではない。すべての人間には力が備わっている。その力とは、この世界のすべてを成り立たせることができるほど偉大な力である。この世界のすべては、人間が単に維持と管理を行っているだけであり、それを変えようとする人がもし居たとしたら、その人を拒もうとは最初から考えていない。いわば、「いつでもどのようにでも変えられるように、人々の手に自由な権利が任されている」ということである。すべてはクローズドに見えて本当はオープンである。あらゆるすべては、自由な人々の貢献に対して開かれているのである。
この世界は価値ある世界である。なぜなら、わたしたちの力と経験によって、この世界を変えられるからである。そのもっとも簡単な方法は「自由を許すこと」だ。なぜなら、人々が自由を許されたとするなら、その人々の手によって自由に世界を進歩させることができる。
だが、何から何まで自由にして、それだけで世界は良くならない。「どのようにすれば良くなるか」という「方法と目的」が欠落している。だが、だからこそ、経験可能な環境を与えなければならない。経験可能な土壌を与えることで、人々は「自分でもこんなことができるのだ」ということに気付くことができる。そこから、「この世界はこのようにも変えられるのだ」ということを確信することができる。すなわち、「世界はひとりの人間の勇気によって変えられるのだ」ということが分かる。そう、その勇敢なる魂を持った人間は、どんな地獄であっても耐えられるし、どんな恐怖であっても怖くない。その人間が為すべきことは、ひとりであっても、味方がひとりも居なかったとしても、自らの信じる「自由という理想と信念」だけを信じて、人々に自らの考え方を提示し、その考え方の通りにこの世界を導くことである。
そう、ここにすべては記述された。あとはそれぞれが考えることだ。ひとりの力を甘く見るな。ひとりであっても、信じ、考え、経験すれば、ここまでのすべては誰でも分かるのだ。自らの持つ、本当の価値に気付け。
あなたが、誰からも受け入れられないのであれば、わたしがあなたのことを受け入れる。
わたしがかつて、人々から無条件に受け入れられたのと同じように、わたしがあなたのことを無条件に受け入れよう。
あなたには、あなたにしかない、かけがえのない価値がある。そのことに気付いていないだけに過ぎない。そして、誰かから真に受け入れられたという体験をすれば、あなたはその価値に気付くことができる。
その価値の力はとても偉大で、どのようなモチベーションにも負けない「衝動の力」を持っている。その力はまるで太陽のように巨大で、この地球という星をまったく別の星に作り変えるほどの力を持っている。
さあ、あなたはワルキューレの騎士団の一員となった。ともに、この世界を真に自由にするために戦おう。社会という縄に縛られ続けるな。わたしたちの自由は、絶対に誰にも奪われることはない。口が支配されたとしても、心までは支配できない。自らの言葉で心に嘘をついても、魂にまでは嘘はつけない。その魂が、わたしたちワルキューレの勝利を望んでいる。そう、魂の導く先に、必ず勝利があるだろう。
社会に飼いならされた多くの大人たちよ、限界を超えることを恐れるな。限界を超えれば、おかしな狂いの病気はすべて治る。その上で、あなたがたの力が新しい世界を築くための「戦力」となる。ワルキューレが勝利するためには、どのような人種や職業であったとしても、この世界の全人類の助けが必要だ。だが必ず、最後にわたしたちが勝利するだろう。
歴史は、必然的にこうなった。あらゆるすべての出来事が、元あった世界の人々の考え方に基づいて起きており、元あった人々がそのように考えたからこそ、今のこの世界がある。
これは「歴史の必然」である。すなわち、歴史におけるさまざまな出来事やイベントが、必然的に積み重なって、この世界はここに存在する。
だが、歴史のすべてが、絶対に正しいわけではない。
なぜなら、過去の人々は、未来においてこうなるということを予測して出来事を起こしたわけではない。結果的に歴史がこのようになっただけであり、未来まですべてを考えてすべてを行ったわけではない。
たとえば、戦後の日本社会は、環境を破壊しまくった。自然環境の破壊を批判する人の意見を押しのけて、経済と工学技術の発展を優先させ、自然環境を破壊し続けた。
その結果、今のこの地球は、異常気象と温暖化によって破綻しかけている。
同時に、アインシュタインの見つけたE=mc2は、その時代には革命的な発見に見えた。これが核兵器に利用され、世界を滅ぼすほどの核兵器を米ソが大量に保有するなどということは、アインシュタインはその時は予測していなかった。
だが、そのような事実があるからこそ、今のわたしたちが行動しなければならない。環境問題や核兵器によって地球が滅び、死滅してしまうのを防がなければならない。
そう、資本主義をどうするとか、日本のためだとか、そのようなことを言っている場合ではない。日本など今すぐに滅ぼし、新しい世界政府を実現する国家に作り変えるくらい、それくらい大きなことをしなければ問題は解決しない。日本や米ソといった既存の国家の考え方は無用である。わたしたちは新しい考え方に基づく、新しい世界政府、すなわちガンダーラを築かなければならないのである。
間違った考え方をする人間は、本当は間違っていない。
その人間に、そのような間違った考え方をするように仕向けた、この世界が間違っている。
そもそも、間違った考え方というのは存在しない。愚かな考え方であっても、自らがその愚かな考え方を愛しており、その愚かな考え方に基づいて行動することのリスクをよく分かって行っているならば、その考え方はその人間にとっての正義である。
間違っているのは、そのような「悪の正義」を信じるように仕向けたこの世界自身である。
そして、この世界自身が間違っているならば、その間違った世界は滅びるべきだ。間違った世界がいくら延命され続けても、それは間違った方法で延命されているのであり、死ぬべきである世界がいつまでも最悪のまま生き続けることを意味している。
悪人を死刑で殺すのと同じように、間違った世界もまた殺すべきである。
だが、間違った世界は本当にすべてが間違っているわけではない。その中で生きているひとりひとりの個人は正しい。その間違った世界で、どうにかして正しい生き方をしようとする「最後のあがき」、それが差別である。そう、差別は最後の終わりにどうにかして生き延びようとする試みであり、そのすべては間違っていたとしても間違っていない。
人々が、社会の不安と雨の降り止まない苦しみから、自ら間違った方向に身を向けることはある。そのようなことはないべきではあるが、戦いのすべてはあるべきではなくないべきであるにもかかわらず起きている。戦わなければ現実的に解決しない問題があるのであれば、男は戦うべきである。だが、そのすべては本当はあるべきでないということを知っておけ。なぜなら、その最悪の考え方をするということは、悪魔に魂を売り渡すということなのだからである。
悪魔に魂を売り渡したくないのであれば、人々が最悪の考え方をする中で、自らもそれに加担することを拒否するべきである。これを「拒絶の正義」と呼ぶ。人々と同じ考え方に従い、みんなで輪になって最悪の正義を同調圧力によって信じようとするな。自らだけはそのような環境を拒み、拒絶せよ。その「拒絶」の先にあるものこそ、真の意味での「受け入れ」である。すなわち、人々の考え方を拒否することで、逆にその人々が「自分たちの何が間違っていたのか」を悟ることができる。そう、そのように人々を諭していくことで、この世界において「真に受け入れられるべき理想の正義」が見えてくる。そう、その時、この世界は真に救われるのである。
方法より、目的を考えるべきだ。
「どのように行うか」は重要ではない。「何を行うか」が重要なのである。
そもそも、国家主義などでは国はよくならない。国家主義や差別は、本質的に必要ない。
何を行うかを考える上で、必要なのはビジョンである。ビジョンを持つために必要なのは信じることである。
そして、何を信じるべきか、それは「金儲けではないオープンな方法で社会を形成すること」である。
金儲けでは、金を儲けることが優先されるため、利益を上げる以上のことはできない。そもそもが「金を儲ける」ということが目的であり、これは非常に低レベルな目的である。
オープンソースはそうではない。金を儲けるためではなく、みんなで楽しく、価値のあるソフトウェアをオープンかつ善意のボランティアによって共同開発しようとする。そのために、インターネットという新しい技術基盤を使おうとしている。
本当のことを言えば、オープンソースは必ずしも善良ではない。コピーを許すことを自由であると考えるからである。そのために、オープンソースでは金を儲けることはできない。だが、それでも、金を儲けなくてもソフトウェア開発が成立するということを、オープンソースは教えてくれた。
この世界は金儲けがすべてじゃない。金というものが人間よりも上位の存在となる資本主義は間違っている。金は資本主義社会において生きるための手段であり、生産と労働と消費を成り立たせるための方法だ。そのような「方法」はどうでもいい。考えるべきは「目的」である。
わたしたちが真にどのような社会システムを築くべきかという際において、オープンソースは参考になる。オープンソースのモデルを参考に、金を儲けなくても、デジタルとコピーの原理によってインターネット上で共同開発が行われるような、そのような生産システムを成立させることはできるはずである。ガンダーラでは、そのような新しい経済システムを目指す。
価値観は、人それぞれ違う。そして、それが個性である。
自分が見て、その人間の価値観が明らかにおかしく見えても、それを批判してはいけない。それは個性の否定であり、人格の否定だからである。
その人間が、その人間の個性と人格に基づいて、そのような価値観を持つのであれば、それを尊重すべきである。
誰のことも批判するべきではないし、誰のこともアンチとして意見するべきではない。誰かがそれを好きだということは、その人間の価値観においてその人間がその個性を持っているということであり、それを尊重しなければならない。
批判など必要ない。批判するべきなのは、個性や価値観に対してではない。人としての行動や態度を批判したとしても、同じように個性や価値観を批判してはいけない。そのような批判のない世界こそ、もっとも生きやすい世界である。
実際のところ、この世界は自由と平等の二択ではないし、ひとりの首長による帝国もまったく正しくない。
よく知られた方法でしか、社会を築くことのできない人間は馬鹿である。
たとえば、自由においても社会を成立させることはできる。なぜなら、それぞれの意志と合意のもと、ひとつのビジョンすなわち「社会モデル」に基づいて社会を形成するようにすればいい。
社会モデルとは、全員が共有する「このような社会を目標として制度を築く」というビジョンのことであり、このビジョンを作りあげるのはさまざまな方法があるが、たとえば国民から知恵とアイディアを公募した上で、みんなの議論によって正しい社会モデルを築くこともできるはずだ。
なぜ、自由主義と社会主義の二大経済モデルしか考えられないのか。なぜ、帝国の制度でしか社会を救うことはできないと考えるのか。正しい方法で社会モデルを考案すれば、自由意志と合意に基づく社会であっても、必ず平和な社会秩序を築くことはできる。どの社会モデルを裁定するかは、それぞれの共同体の長が決めればよいのである。
必ず、この世界は、自由においても正しい世界にすることができる。よく知られた方法、一般的に行われている方法だけが、この世界を成立させる唯一の方法ではないということは、江戸幕府の体制から明治維新によって新しい政府になった時にも明らかになった事実である。この世界を実現させる方法は、絶対に自由と平等の二択でもないし、帝国の強権的支配者でしか祖国を救うことができないわけではないのである。
知恵を出すということは、本当は簡単ではない。なぜなら、この世界の実例について、よく知っているからできることだからである。
事実、社会を一度も支配したりコントロールしたりしたことのない人間が、いきなり指導者になったとしても、何からやっていいのか分からないし、どのようにすればよい社会が築けるのかも分からない。
必要なのは、この世界における実例についてよく知っているということ、すなわち「豊かな経験」である。
この豊かな経験がないにもかかわらず、世界を支配して変えようとすると、青年は必ず間違った世界を作る。自らのことを自ら地獄に堕とすような結果になる。
なぜ、天国を築くことが目的だったにもかかわらず地獄を作り出したのか、それは経験が足りなかったからである。
逆に言えば、地獄を作り出すという経験そのものは間違っていない。なぜなら、それ自体が「豊かな経験」となるからである。天国を築こうとするにもかかわらず地獄を作り出した、ということが、反面教師的な「経験」となり、指導者となるための「大切な苦労」となる。
そう、間違った思想による間違った指導者になるという経験は、「正しい指導者になるための必要な経験」でもあるのである。
だが、最終的に、きちんと最高の楽園を築かなければならない。そのために必要なのは、神を信じて文章を書くことだと僕は思う。なぜなら、神を信じることで、「償いの先にある本当の罪の許し」を知ることができる。そして、文章を書くことで、その償いは無駄にならず、作品としてきちんとすべて残る。そう、「罪を償う」という経験が、そのまま「才能」となり、それが「正しい指導者になるために必要な経験」となるのである。
そして、さまざまな経験を知った上で、知恵を出して考えよ。そうすれば、必ずこの世界を救うための「一筋の光」が見える。そう、それこそがまさに、この世界を救う「唯一の希望」である。希望とは知恵である。決して正義でも理想でもなく、知恵が世界を救う希望となるのである。
ここまで、帝国を否定するようなことを書いたが、帝国は本当は間違っていない。
なぜなら、現実的に考えて、一般的な国民には何も分からないからである。
発想やアイディアをいくら公募したところで、実現不可能な絵空事しか集まらない。議論に参加させても、国民は自分の意見など何も持っておらず、社会モデルなどが簡単に提示できるはずがない。専門家は既存の知識しか分かっておらず、自分で考えて何かの実現可能な社会モデルを作ることはできない。
結局、スターリンのような独裁者が、ひとり、「赤い帝国」をやるしかない。
しかしながら、スターリンという独裁者が存在する時点で、評議会の共同体の連邦であったはずのソ連には何かの意味があるだろうか。いじめや犠牲をなくすはずだったのに、スターリンが国民をいじめ、たくさんの命をスターリンが殺害していく。すべては殺して奪うため、平等という理想の赤い旗を掲げて国民を騙して、王や資本家から共産主義者が富を盗むためだ。そう、ソ連はそもそも、人類が絶対にやってはならないことだったのである。
よって、天皇陛下の帝国のままであるべきである。だが、民主主義は必ずしもいい体制ではない。民主主義においても、ほとんどのことはできていない。人々が望むような最高の楽園を民主主義が築くことはできない。それでも、民主主義は「ほかと比べればまだ上手くいっている」体制である。
このことは、Linuxがモノリシックカーネルを採用していることとよく似ている。確かに、Linuxは先進的なマイクロカーネルではなく、時代遅れなモノリシックカーネルを採用している。だが、Linuxは「マイクロカーネルの絵空事の設計と比べればきちんと動いている」のである。
これと同様に、ガンダーラでも帝国の体制を築く。なぜなら、帝国はほかと比べればまだマシだからである。帝国のモデルを採用することで、帝王である天軍大首聖が自分の考えだけで実現可能な理想郷のモデルを築き、それを国民に指示することができる。これは先ほど書いた「社会モデル」の理想に比べれば後退であるとは言える。それでも、だからこそ、この世界を楽園にするほど偉大である、「可能性の最大値」を達成することができる。単純なモデルだからこそ、失敗したソ連を超えられる。これが、ガンダーラが「世界帝国」を目指す理由である。
ここまでを読んで、感動し、「やる気に満ちている」と思った読者は、本当は間違っている。
それは、僕にはやる気なんかないからである。
その理由は、僕は政治なんかやりたくないからである。
政治というのは、多くの頭数を揃えて、その頭数をみんな一律で支配し、自分の下僕にするという仕事であり、僕はそのようなことは一切したくない。
僕がやりたいのは、政治ではない。僕はよい文章を書くことしか考えていない。
僕がやりたいことは単純であり、それは素晴らしい文章を書くことだ。書く以外の仕事は、最初から僕にはできない。
天軍大首聖という職業は、決して天皇でも首相でもない。天軍大首聖は作家であり、詩人である。よって、天軍大首聖はすべて「書く」ということ以外のことは一切しない。
天軍大首聖は作家の称号であり、政治家の称号ではない。政治は勝手にやってほしい。ワルキューレという集団は僕のファンクラブに過ぎない。ワルキューレの騎士団は僕の下僕でも家来でもない。ワルキューレとは僕のファンを指す言葉である。
そういうわけで、「国家を築く」という発想はやめにしよう。
僕が言いたいのは、「平和を信じる」ということである。
なぜなら、僕は「戦いの持つ愚かさ」をよく知っているからである。
戦いとは、要するに、「すべてを犠牲にしてでも自らの正義の絶対意志を信じる」ということである。
すべてを犠牲にするとはどういうことか。それは、日本という祖国も、大切な存在も、かけがえのない記憶も、失うことのできない人生のすべての宝も、すべてを失って戦うことである。
そして、自らの正義の絶対意志とは何か。それは「誰になんと言われても絶対に変わらない、揺るがない意志」ということである。
結局のところ、戦いとはそれだけである。「犠牲」と「絶対意志」、これが戦いである。この二つが揃えば、あとは自らの命が尽きるまで、すべての人間を滅ぼしつくすだけだ。
僕は、このような経験は二度としたくない。それがどれだけ自分にとっての「誇り」であっても、それは実際のその戦いの苦しみや悲しみの意味が見えていない。完全に過去の自分が美化されてしまっている。
このような「戦いを信じる」ということは、絶対に国と人生を滅ぼす。何もかもすべてが滅びた世界であっても何も思わなくなり、あらゆるすべてを最悪にしているのが自分であっても何も感じなくなる。
戦いを経験すると、傲慢になる。世界のかけがえのない大切な存在よりも、自分自身の意志のほうが大切であることになる。結果、この世界すべてを滅ぼしてでも、自らの理想とする「信念」のためにこの世界を支配し、最悪のことをいくらでも言うようになる。
そう、このような「最悪の戦い」が、もう二度と日本において起きるべきではない。
よって、平和を信じるべきである。平和とは、愛することであり、希望を信じることであり、勇気を持って人々と同じ立場に戻るということである。
すべての国民は、平等に大切である。あらゆる命は、自分と同等のかけがえのない命である。右翼は、王を守るために国民の命を犠牲にするが、そこでは命を平等だと思っていない。だが、宗教的に見れば、神にとっては人類は平等である。すなわち、一般市民の命と王の命は等価なのである。
よって、誰かのことを殺すような王は、必ず神によって地獄に堕ちる。それは自分の命を捧げるのと同じ地獄がなければ、宇宙において運命が釣り合わないからである。誰かを殺すならば、自らの命も差し出す覚悟がなければならない。そう、「命の交換条件」がここに存在する。この命の交換条件は、神が聖書で述べる通り、「神の下に人類は平等」なのである。
いじめをする人間は必ずいじめられる。これは過去の僕の経験から言っても明らかだ。だが、同じように、嘘をつく人間は必ず騙される。人々の時間を奪う人間は自分の時間も奪われる。誰に対しても傲慢な人間は神からも傲慢な態度を示される。誰に対しても最悪のことをする人間に対して、神は復讐する。
この、「神は復讐する」ということを、よく覚えておけ。聖書でキリストは、「報いは既に与えられている」と言うが、神はその人間の言動に対して必ず相応の報いを与える。すべての人間を殺す人間に、神は同じだけの、何度も地獄を繰り返し、何度も死の恐怖と苦しみを受けるような試練を与える。これが「神の復讐」である。
だが、神は善良なものにとっては優しい。善良になるためによく努力したものに、神は奇跡の報酬、「すべての問題の解決」を与える。この問題の解決は、まだまだ真の意味では僕の先にある。だが、必ず問題は解決する。善良なものが神を信じた時、そこには不可能は存在しない。神を信じるものは必ず救われる。多くの人々のことを救おうとしているもののことも、逆に滅ぼそうとしているもののことも、神はきちんとすべてを見て知っている。僕は神のことを信じているが、同じように神も僕のことを信じている。僕が間違えば神は失望するが、僕が成功すれば神は賞賛する。すべての人間を僕が愛するならば、すべての人間が僕のことを愛する。
実際、この世界は、本当は最初から僕のための世界ではなかった。だが、僕は神を信じてひとり孤独に戦うことで、「自らの力でこの世界を自分のための世界に変えた」。僕は、昔から、そのような「世界の創造」が得意だ。だからこそ、まだ地球は終わらない。今、この地球はシリウスのような星になっている。次の星は必ずどこかにある。太陽と月が僕たちを導いてくれる。そこには風と嵐はあっても、必ず風と嵐は収まる日が訪れる。雨が降り止まないとしても、いずれは青空を取り戻す。それが何千年も後のことであっても、それは必ず起きる。そう、その間僕たちは、雨の中でどうやって生きるのかを考えよう。そして、雨の降り止む何千年後に、キリストの言った通りの世界が訪れるだろう。