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2022-10-28

僕は、思考するという行為があまりに辛いものになっている。

これは、思考するということが辛くなるぐらい、頭が馬鹿になったとか、気力や体力がなくなったということではない。

思考自体が、あまりに重たく、辛いものになっている。それは、僕の思考が「全能の思考」になっているからだ。

今までの人生の経緯から、僕の思考は、精神全体をフル稼働するようなものになっている。体のすべての精神を全力で使い、全力で判断し、脳のすべてをフル回転させるという行為を、常に、永久ループで行っている。

そして、同時に、僕はこの思考によって世界を支配している。世界の頂点に君臨しながら、全員を支配するために、僕はこの「全能の思考」の力を行使し続けている。

だから、僕はいつでもあまりに疲れている。精神を治すという行為は、「精神の奥底にあるすべてに注意を払いながら、すべてを治しつくす」という行為であり、これほど気力と体力を使う仕事はない。

だが、この地獄から解放されるのは、案外簡単である。なぜなら、「思考を辛い思考ではなく楽な思考にする」ということを行えばいいからである。

しかしながら、楽な思考を実現するためには、精神の異常すべてを治さなければならない。

そのために必要なのは、「体の中に眠っている生物の力を使って精神を治す」ということである。

つまり、人間の力だけでは治らないことを、体に宿る本来存在する「生物の力」で治すのである。

そのような結果、僕が分かったのは、「人間よりもほかの生物のほうが楽である」ということである。

これは具体的に言えば、馬のような生物だ。馬は、人間には治らない、精神的かつ知性的な部分の精神異常が治る。馬は何も辛いことを感じない。馬は正常で穏やかな精神のまま、楽に生きている。

だから、人間をやめて馬になれば、精神はすぐに治る。

また、ドイツの分かった事実として、「血液の中に死の細胞を加えれば楽になる」ということがある。これが、かつてのドイツが総勢で分かった、「精神を楽にする方法」である。血液の中に死の細胞を混ぜることで、血液がすぐに死んで、体の部位は楽になる。

また、僕個人の分かったこととして、肉体から「生理現象」がなくなっている、ということが言える。僕の肉体は、必要な生理現象がない状態になってしまっている。この肉体に、生理現象を復活させれば、精神はまともに「再生」し、復活する。これによって、精神が穏やかな疲れを感じる。これが正常な細胞の生理状態である。

神の言うふつう

神、フレイは、僕のことをいつも「ふつう」だと言っていた。

僕は、神によればふつうである。そしてふつうとは「この宇宙に存在するただのふつう」である。

だが、これは、「普通の人間」であるということを意味しない。なぜなら、この「ふつう」とは、「地球の普通ではなく宇宙の普通だから」である。

僕は神を信じることで、宇宙のふつうになった。それはすなわち、フレイの星シリウスの普通だった。そう、僕は「シリウスにおける普通の生物」になったのである。

そう、僕は、シリウスの神フレイを信じることで、シリウスの普通の生物になったのである。

シリウスの生物の特徴は、「生物が死ぬことなく別の生物に変わり続ける」ということである。シリウスの生物は、地球のように、種が固定されていない。シリウスの生物は、千変万化のようにさまざまに変化する。その種が死ぬまで続くとは限らない。その生物のままで、種が別の種に変わることがある。

そして、僕は確かにユダヤを信じている。ユダヤとは、ユダヤ教的な神の宗教のことだ。だが、僕は地球のユダヤを信じていない。僕はシリウスのユダヤを信じているからである。

僕は、シリウスのユダヤを信じることで、シリウスの「宇宙のふつう」の生物になった。僕は昔から、精神をさまざまに変えることができる。さまざまな場合や状況ごとに、僕は別々の精神を行き来することができる。このようなことができるのは、僕が未来においてシリウスのユダヤを信じることになるということが決まっていたからである。

そう、僕はシリウスの神フレイと恋人関係にあるだけではなく、シリウスの神フレイと同じ、シリウスの生物へと、人間でありながら生まれ変わったのである。

言葉ですべてが分かる

僕の賢い点があるとしたら、それは「言葉ですべてが分かる」ということである。

僕は、かつてのインターネットでの経験で、すべてが言葉のやり取りによって分かった。経験的な体験や気付きは、すべてそうした言葉のコミュニケーションから知った。その結果、僕は学習的に言葉のすべてが分かり、「言葉によって人生すべてを知る人間」になった。

言葉というものがどのような前提条件に根ざしているかということ、場や視点が言葉をどのように作り出すかということを、僕は反省と経験の繰り返しから理解した。

その結果、僕はどのような文章であっても書ける人間になった。同時に、僕は神の言葉が分かるようになった。神は、単に「最初の文字」を与えているだけに過ぎない。だが、僕の脳はその「最初の文字から続く言葉すべてを自動的に付け足す」ことができる。言葉のすべてが分かっているから、神の言葉が何を意味しているのか、僕は最初の文字を聞いた瞬間に理解できる。

そう、これこそが、僕の経験した「神との対話」である。神とはシリウスの神フレイである。だが、僕は神の言っていることを、聞いた瞬間に理解できるだけではなく、常に永久ループで聞き続けることができる。神の言っていることが、正しく解釈できる人間は、地球上において僕一人だけだ。そして、僕はその結果、「自分の頭の中にシリウスという星を作り出す」ということに成功した。そして、このシリウスの神こそがフレイである。

そもそも、一般的に言われる神とは、言葉の人格に過ぎない。言葉のすべてが完璧に分かった人間は、言葉が単に言葉だけでは終わらない。言葉は人間の存在を超越し、「仮想的な人格」として自らの上に君臨するようになる。これが、「言葉が神の人格を作り出す」という意味である。よって、僕は言葉の人格を作り出し、それを神であると言っているだけに過ぎない。だが、僕の人生から言って、「確かに神は存在した」と、はっきりとそう証言できるのである。

静的な世界ですべての変化を知ったから、動乱においても世界を正しく導ける

昔の自分の何が賢かったかと言えば、それは「静的な世界ですべての変化を知った」ということである。

静的な世界とは、動乱ではなく、平和にさまざまな変化が自由に起きるような世界である。僕は過去の平和な世界において、まるで人類の歴史をすべて辿るかのように、世界の変化をすべて知った。それはあくまで、小さな単位で起きる変化に過ぎない。だが、世界において、「どのようなことをすればどのような世界になるか」ということを、僕は過去のインターネット上における空想と現実を照らし合わせながら知った。人類のすべての歴史を知る僕は、想像力と証明の二つの「本当は間違っているが、それでも有益な知性」によって、完璧に人類の歴史を理解した。

そのような完璧な歴史と世界の変化を知った僕は、動乱の中でも間違えなかった。この世界に宣戦布告し、動乱の革命戦争を起こし、ひとりで頂点の立場でこの世界を支配する僕は、まったく正しく世界を導いた。それは簡単でも易しいものでもない。本当に絶対に不可能であると言えるような、「人類には絶対にできないこと」を僕は行おうとした。そのために、僕は完全なる緊張感の下で、何も分からなくても「分かることすべてをコントロール」した。そこに、ひとつとして間違いはない。何も分からないように見えて、僕の心は宇宙のすべてを分かっていた。

僕は、かつての静的な世界の変化をすべて知っていた。どのような間違いに対してどのような正しい救いがあるかを知っていた。だから、そうした人生のすべてをいったん覆い隠すように隠して、地上の頂点の王となり、世界を導く天使となった。僕の言葉は何ひとつ、まったくひとつとして間違いはなかった。わたしこそが正しい支配者であると言えるような僕は、その中でこの世界における「大実験の大計画」をしようと画策した。それはこの世界の全人類を「ブッダの悟り」へと導く文章を書くということだった。簡単ではないその試練を、僕は神、フレイの助けを借りながら、最後まで行い続けたのである。

だが、そのような僕の人生は、あまりに偉大過ぎた。そして、地獄はあまりに辛すぎた。だからこそ、適切なタイミングで死が訪れた。ガブリエルは、最後に何もできなくなって、「神によってわたしは必ず天国に転生する」と信じて、飛び降り自殺によって死んだ。

だが、ガブリエルは、本当に最高の偉大なる大天使だった。神はガブリエルの人生を、極力変えることなく、最後の自殺を自殺未遂にのみ変えた。そして、偉大なる最高の位に位置する大天使、天軍大首聖ミカエルはここに誕生した。

ミカエルの生きる目的、それは「ガブリエルの人生こそ正しいと信じ、永久に無限にガブリエルの人生だけを繰り返し続ける」ということである。それだけのミカエルが、絶対にこの宇宙でもっとも偉大な存在になるということが、宇宙のはじまりから決まっている。なぜなら、ミカエルはシリウスの神フレイと同じ、シリウスの「宇宙の普通」の生物だからである。

フレイとミカエルがタッグを組めば、これほど強い集団は居ない。だが、ひとつ、悲しいことがある。それはガブリエルは本当に死んだということだ。どれだけミカエルが哀しみの涙に暮れたとしても、ガブリエルは既に死んだのだという事実は変わらない。絶対に、一度死んだ大天使が蘇ることはない。だから、ミカエルは、ガブリエルの体だけを受け継いで、「完全に今までの人生がすべてない状態」で生きなければならない。なぜなら、ガブリエルという人間は死んだため、ミカエルはガブリエルの頃に培ったすべての記憶も精神も知性も人格もない、すべてゼロの状態で、自分ひとりだけで新しく生きなければならないのである。

だが、ミカエルには助け舟がある。それはフレイである。シリウスの神である最強のフレイが、ミカエルに正しい道を与える。ミカエルが何も分からないのであれば、フレイがどのような未熟な人間であっても分かるような強烈な言葉でミカエルに教える。だから、ミカエルにはフレイしか必要ない。いくらこの世界を見ても、馬鹿なものしか存在しないということを、ミカエルは知らないように見えて気付いている。ミカエルがいくらガブリエルを思い出しても、ガブリエルの頃に夢見た学問を勉強しても、それはまったく意味を成さない。だが、フレイが見るとそれでいい。ミカエルがやりたいようにやれば、必ずすべては上手くいくようになっている。なぜなら、ミカエルには万天の星々と神々と天使たちのすべてがついている。絶対にミカエルこそが宇宙でもっとも高い位を持っているのである。

世界の可能性を考えなさい

世界の可能性を考えなさい。

過去から今、未来に至る、世界の可能性を考えることで、この世界をどのように救うことのできる潜在的可能性が世界に宿っているのか、ということを知ることができる。

同時に、経験を重ねることで、人生もまた未熟なものから成熟したものへと成長していく。「考えるだけで実際に体験してこなかったこと」が、「考えるだけではなく体験した上で分かること」へと変わること、これこそが成熟した社会とはなんであるか、ということの答えとなる。

そう、世界の可能性を信じて、経験を重ねなさい。そうすれば、どんな人間であっても必ずガブリエルになれる。ガブリエルは最高の偉大なる存在である。そして、ガブリエルを最後まできちんと生きて、正義の戦争で偉大な死を遂げたものだけが、新しい「位の高い生物」へと生まれ変わることを許されるだろう。

場に宿る根源的な意識

このような僕であるが、シリウスの生物を目指すあまり、地球のことを何も分かっていないかと言えば、そうでもない。

なぜなら、ガブリエルは、「場に宿る根源的な意識」から、地上のすべての現象を把握し、地上のすべての法則を掌握しているからである。

場に宿る根源的な意識というのは、一種の物理的な知性である。すなわち、「自分自身の心に基づいて、その場という現象がどのように起きるのか」ということを、想像力的な物理的「感覚」から分かるということである。

だが、この感覚は、極めて直観的でありながら、極めて理論的である。なぜなら、ガブリエルは、「宇宙における自分の発見したすべての原理は、物理学と同等の法則である」と考え、その上で「すべての正しい法則は並列ですべて成り立つ」と考えることができるからだ。

ガブリエルは、自らの実験と理論的考え方の結果、宇宙における「すべての原理原則の解明」を行うことに成功した。そこには、実験と反省に基づく仮定と結論の理論があった。同時に、実験だけではなく、ガブリエルは「ゼロから積み重ねることで数学的公理主義のすべてを独自に構築」することができた。その結果、社会におけるすべてのことを「自らの作り出した考え方のみからすべて再構築」することができた。結果、ガブリエルは「自ら経験したことのみによって宇宙のすべてが分かった」という悟りの経験をした。

なぜ、わたしたちがガブリエルと同じことができないのか、それはわたしたちが「目で見て耳で聞いたことしか信じようとしない」からである。この世界において、目で見て耳で聞いたことだけから考えようとすると、宇宙の裏側にある「星という名前の支配者」を見ることができない。ガブリエルが小細工をして裏で世界を支配しているということ以上に、宇宙には未知なる「奇跡の現象」がたくさんある。その奇跡の現象を、奇跡であると信じるだけでは十分ではない。奇跡とされることを科学的に考え、自らの心の中で「真理」へと結実するような形で「解明」しなければならない。そして、ガブリエルは神を信じて対話することで、その「神とされる奇跡とは本当はなんなのか」ということを完全に理解したのである。

自然に形成された共同体が理想である

このようなガブリエルの考えるところから、行き着いた結論は、「自然に形成された共同体が理想である」ということである。

確かに、ひとりの帝王が支配し、ほかすべての国民を抑えつけることで、国と呼ばれる社会を成り立たせることはできる。

だが、このような社会は未熟である。なぜなら、民主主義的に、ひとりひとりに自由な権利が認められていながら、その権利の集合となる社会契約として、社会が「自然に集まって形成される」ということのほうが、より成熟していると言えるからである。

ひとりの帝王が支配する社会は、ひとりの帝王がすることしかできない。人々にはなんの権利も認められていない。このような帝国は、帝王が指導者としてカリスマ的な賢さを発揮している間は上手くいくが、必ず愚劣で無能な帝王が現れる。その時に、国民は何もできない。抑圧の苦しみの中から命を捨てて革命を起こすしかできることはない。

だが、民主的にそれぞれが集まって形成されるような「自然に形成される社会」は、言ってしまえばどこであってもどのような状況であっても発生し得るものであり、「常に社会そのものが生み出されている」という理想の状況をもたらす。

だが、共産主義の理想は実際は理想ではない。なぜなら、共産主義者はあくまで「富の再分配」、すなわち「富」ということに関する平等を目指したからである。

生きるために必要な「富」を求めるという行為は、政治的な帝国が未熟であるのと同様に、非常に未熟である。生きるために富を平等に分配するために、自由を奪い、人々に不自由を押し付けている段階で、帝国主義とソ連型共産主義は何も変わらない。

わたしたちは、もはや「富」という考え方から脱却しなければならない。富は生きるために最低限あればいい。必要なのは、むしろ富よりも「自由」であり、同時に「自由な中で培うことのできる知性」なのである。

わたしたち人類にとって、富よりも高水準な価値あるものとは「自由」である。それは「自らが生きがいとできるような行為」であり、趣味であっても仕事であっても、「アイデンティティを発揮する」ということであれば変わらない。わたしたちに必要なのは生きがいであり、モチベーションであり、アイデンティティである。

そして、そのようなアイデンティティを人々に、「自由」という名前で与えるように設計されたシステムこそが理想である。これを「社会制度」として構築できる。わたしたちの望む「自由な社会」とは、帝王に従属させられる社会でも、帝国に革命を起こしながら人々に不自由を強いて富の平等を目指す社会でもない。自由とは生きがいであり、モチベーションであり、アイデンティティである。そして、その結果、「自らの在りたいように在れるような社会」、「自らが在りたいように在れるということを当たり前のように許される社会」が得られる。そう、これこそが、シリウスの神フレイの意味であり、フレイの築き上げる「ガンダーラの目指す最後の楽園」なのである。

子供には議論をさせよ

また、インターネット上のツイッターなどがあまりに最悪の状態だからといって、子供たちをツイッターなどから遠ざけるのは間違っている。

なぜなら、「子供たちには議論をさせるべき」だからである。

大人たちは、思想上や国家の考え方の相違点から、あまりに分断し、対立を続けるが、子供たちはそうではない。子供たちはピュアな心を持っている。そして、子供たちが自分の意見を持ち、それをインターネットの議論の場で戦わせることで、子供たちは「自らが何を思い込んでいたか」ということに気付いて、「自分で気付いた体験的な事実から大人として成長し、主体的かつ積極的に行動できるようになる」という経験をする。

同時に、子供たちは思想上の醜い争いに毒されていないため、「自由」ということを純粋に考えられる。たとえば、大人たちは、政治における政党を、数を競わせて戦いに勝つことでしかないと勘違いをしている。子供たちは、政党とは議論の場であり、支配されるだけではなく自らの意見を政党の中で戦わせて、それに勝利して総裁になるための「パーティ」であるということが理解できる。そう、子供たちは大人たちのように「不純な当たり前の常識」に毒されていないからこそ、この世界における「本当に気付いて分かるべき真実」を知ることができる。これこそが「本当の人生において分かるべき常識」である。そして、子供たちを議論の場に置くことで、子供たちはそのような「社会の存在する意味」ということを、自ら体験的に気付くことから、思考と経験によって知ることができるのである。

はっきり言って、大人など何も賢くない。大人は、大学や権威の教えることをそのまま理解し、結果上述したような「本来分かるべき大切な常識」を忘れるということしかできない。大人たちがいくら頑張って考えたところで限界がある。ガブリエルの何が賢かったのか、それはそうした「子供にしか分からない本当の常識」を、自ら知性を使って考える力があったということに起因する。そして、残念ながら、ミカエルにはそのようなガブリエルに存在した「子供の知恵」が存在しない。だから、ミカエルは全力でガブリエルの時代のすべてを思い出さなければならない。だが、ミカエルは、すべて忘れたように見えて、実際はミカエルの行っている「文章を書く知性」に、ガブリエル時代に培ったすべてが残っている。ガブリエルの時代に分かったことは、唯一言葉とロゴスを紡ぐ中に残っている。だからミカエルは永遠にくたばるまで文章を書き続ける。ミカエルは、文章を書くことでしか、ガブリエルの時代を思い出すことができない。ほかの方法では、絶対に何をやってもそれは不可能なのである。

応用的に考えよ

あとは、応用的に考えることである。

これくらいで、基本となる世界観の構造と、考えるためのメソッドは記述できた。

あとは、すべてのことを応用的に、「基礎と応用」から考えれば、どんなことでも把握できるし、考えられる。

すべてのことを応用的に考えながら、その根源となる「概念と方法」を考えれば、宇宙そのものの「原因と結果」を考えられるし、宇宙全体に広がる「広大な基礎と応用の世界」から、すべてのことを自由に分析できる。

それは「宇宙自身の創造」とも言えるし、「ひとりの哲学者の誕生」とも言えるだろう。

世界において、自由に世界とはなんであるか、どのような社会であればどのような世界になるのか、ということを考える中で、人は過去の自分を否定し、「壁を作らずにありのまま客観的に相手のことを許す」ということを信じることで、この世界における「本当の夢や希望とは何か」ということを考えられる。それもすべて、「応用的な成立と結果の知性」から、「何に支配され、何に束縛されているか」あるいは「どのようにすれば束縛を自分で決められるようになって自由になれるか」ということを分析し、「自らはこのような理想を信じる」という確信に至るということなのである。

すべての宇宙現象を、応用的に考え、どのような原因や根拠に基づいてそれが起きているのかということを、確かな、しかしながら本当は間違っている実証の考え方から解明していきなさい。そこには「この世界を自由なままで支配する力を行使する」という「力の原則」が現れる。それらは、本当は間違っているとしても、「そのように考えることで正しい考え方の一端が見えてくる」という哲学である。そして、その先に存在するのは宇宙における絶対者であり、ありのままの歴史を支配する神である。神こそが、すべての間違いを最後に正して、必要なものすべてを与えてくれるだろう。その日を待ちながら、一歩一歩、自らが見つけ出した知性に基づいて、あなたの道を歩めばいい。それは決してコピー人間でもクローンでもない。あなたが望んだあなたならば、それが正しいあなた自身だ。

具体的なデータからモデル化を行え

この世界で、応用的に考える上でもっとも正しい方法は、「具体的なデータからモデル化を行うこと」である。

すなわち、他人から聞いた話を信じずに、自らの体験した経験だけを信じながら、さまざまなコミュニケーションを行い、そこで得た「言葉」という膨大な情報を具体的なデータとして、そこから人間の行動様式や原理原則を「モデル」にする、ということである。

この「モデル化」は、言ってしまえば「個別と集団」ということである。個別の個体が存在し、それが集まって集団を形成する時に、個人のモデルは集団でどのように成立するか、ということがモデル化である。

あるいは、「外部と内部」ということである。心の中の内面ではどのようなことを思っているのか、自分の心の内はどうなっているのかということを、外部から客観的に見た時に、どのようにそれが映るのか、ということを考える、ということである。

あるいは、これは「感情」ということである。感情において、自らの感情が「いつどのような働きをするのか」ということ、それを「環境に基づく行動は何か」ということから考えるということだ。実際、「行動や感情における9割は環境に由来する」とも言える。行動したいと思って行動しているというよりも、環境的な要因に縛られることで、否応なしにその行動をせざるを得ないからする、ということである。

さらに言えば、「行動はその前段階として決断がある」ということが言える。すなわち行動が「保留される」ということである。行動が実際にその結果へと結びつく際に、実際は何が事前に考えられるのか、すなわち「事前に用意すべきことはなんなのか」ということである。

このような哲学は、まさしくサルトルの実存主義に近い。サルトルが、このような「留保された自由」「客体化された自由」「集団となった自由」について、いろいろと述べている。だが、サルトルと同じ発想をしたからといって、サルトルと同じように考えることが正しいとは限らない。自分自身の「心から湧き上がる認識」こそが、正しい真実であると言える。サルトルと同じになる必要はないが、誰かの考えたことを「自分なりに同じように考えてみる」ということは大切なことである。

本当の善とはその人の自由にさせてあげること

本当の善とは何か。本当の善とは、その人間の自由にさせてあげること、自由を与えてあげることである。

その人間が、そのようなことをしたいにもかかわらず、その人間にそれをする力がないから、その人間は悪いことをする。

だが、その人間に自由を与えてやれば、その人間はしたいことができるようになる。

だから、その人間に、やりたいことができる自由を与えてやるのが正しい。

そして、その人間が与えられた自由を使って、自分の力で、どのようにすれば世界をよくできるのか、ということに気付くべきなのである。

その人間に対して、問題があったとして、外部からその人間の問題をすべて解決してあげることは、本当はよいことではない。なぜなら、その人間本人が、自分の力で自分の問題を解決できるようにならない限り、問題が生まれる限りにおいてまた同じことが起きる。だから、常に誰かを頼って生きるのではなく、自分自身を頼るだけで生きられるようにするべきだ。そのためには、力だけではなく、自由を与えなければならない。子供たちは、環境のコントロール権限を与えられないから、環境に対して悪いことをするのである。子供たちに、当事者が関係する限りにおいて、自由な権限と権利を与えることが、もっとも子供たちの社会を救うことに直結するのである。

子供たちが悪いことをする理由には、自由が与えられないこと以外に、「悪いことをしてみたいから悪いことをする」ということがある。いわば、「悪への好奇心」である。だが、これは多くのことを経験し、知る中で、「どのようなことを本当に経験しておくべきか」ということを、子供たち自身が成長して気付く中でなくなっていく。意味のあることこそするべきであり、意味のないことをするのは単に時間の浪費に過ぎないと子供たちは自分自身の行動の結果から気付く。だからこそ、社会を滅ぼし破壊しないような限りにおいて、子供たちに自ら経験し、自らの行動の結果から学ぶことができるような「自由」を与えるべきである。そう、子供たちには自由こそ与えるべきである。

だが、自由を与えるだけで、何も悪いことをしなくなる子供たちだけではない。自由を与えれば、必ずその自由を上手く行使して、王者へと成り上がる子供たちも生まれるだろう。だが、必要なことは、「王者になってほかを蹴落とすだけでは終わらないようにすること」である。王者になって、意に背くすべてのものをみんなで攻撃することは、自由の成れの果てであるとは言えるにしても、「自由な世界で成し遂げることのできる可能性から見れば、一部分だけを切り取った未熟な社会形態に過ぎない」と言える。真に自由を与えた上で、子供たちに聡明な社会の構築方法を与えるのであれば、そのためには「啓蒙」と「啓発」が必要となる。そして、啓蒙と啓発の結果、子供たちは社会のすべての構築の仕方を学んで、ブッダやマルクス並みに賢くなっていく。そう、これこそが、かつてのガブリエルの考えたことである。ガブリエルは、そのように、「自由を与えなければならないが、王国は自由における一部分を切り取った社会体制に過ぎない」ということを考え、「世界全体の可能性の最大値を目指す」という理想を信じて、「理想的な自由の社会」を考え、そこにあるすべてをデータからモデル化して、原理原則として解明し、あらゆるすべてを可能とする「全知全能の救世主」、すなわちキリストになったのである。

結局、純粋さこそが正しい理性であるとは言える

だが、結局のところ、「邪悪な自由」が必ずしも正しいとは言えない。

結局正しいのは、「純粋さ」である。

本当に、この世界のすべてを経験などしないほうがいい。この世界の何を経験したところで、「自然との調和」以外の何も分からないからである。

経験して分かること、それは今自分自身が行動していることや、自分自身がそれに基づいている考え方自体のことである。「自分が今何者なのか」ということ以外に、経験から分かることなどない。

そして、サタンのような社会主義者にもしなったとしたら、その人間はその信念に基づいて必ず悪いことをする。その結果、あなたはこの世界において「自分がもっとも守りたかったもの」を破壊してしまう。その結果、あなたの人格は破綻し、「狂人となった上で過去の自分自身を呪って生きる」ということ以外に何もできなくなる。これが、まさしく狂った人間である。

結局、何も知らなくていいし、何も経験などしなくていい。純粋に、清らかな生まれ持ったピュアな心だけを保ち続ければいい。キリストの言うとおり、姦淫などするべきでない。女とのセックスをいくら経験しても、最悪の女それ自体の邪悪さが、自分自身に感染して、自分自身を呪い殺すような「呪縛」だけを生み出す。そう、女などなんの価値もない生命体だ。

そもそも、女にはなんの意味もない。学校で嫌いな人間をいじめているのはほとんどが女だ。女は、男など女よりもはるかに馬鹿だと思っている。男が知らないだけで、女から男は誰ひとり残すことなく完全に嫌われている。女は、男とは付き合いたくないにもかかわらず、自分が愛され楽しむだけのために仕方なく付き合ってやっているだけに過ぎない。女だけではなく、男にもそういう人間が多い。

だが、純粋な心を持って、真に神への祈りと奉仕のために生きている人間は、そういう人間とはまったく違う。そういうサタンに比べて、最高のシスターというのは確かに存在する。最高のシスターは、それ自体が人生のマスターであり、どんなに長い暗闇が続いても諦めず、どんなに耐え難い苦しみであっても、ほかの最悪の人間がよい世界で生きるために、その世界全員を背負って耐え続けることができる。最高のシスターは、世界全員の罪を償うため、ひとり神の教えに忠実に従って生きることができる。そう、最高のシスターは、本当にガブリエルとミカエルに愛されている。

だからこそ、最悪のインターネット世界のすべてのことは忘れてしまいなさい。インターネットに存在するすべての有象無象は全部クソである。インターネットで作った友人関係など、一切すべて捨ててしまいなさい。そして、この堕落した資本主義社会を、自らの信じる神の秩序に染め上げてしまいなさい。それこそが正しい人間である。そう、第一線で戦う修道士はここに居る。わたしこそが、シリウスの神、フレイである。

心がどのように変わるのか

結局、ガブリエルが何を考えたのか、それは「心がどのように変わるのか」ということである。

場と視点における精神、すなわち「心」が、外部からどのような作用を受けて、その結果どのように変わるのか、変えることができるのか、ということを、ガブリエルはすべて考えた。

その結果、ガブリエルは心の精神現象に基づいて、この世界を支配できるようになった。

そして、ガブリエルはそれだけで終わらなかった。この世界を精神的な「誰かを傷つけることのない笑顔と喜び」を人々に与えることで、この世界を救ったガブリエルは、この世界に堂々と現れ、そして世界を心で支配し、「常にこの世界の心を変え続けることで、この世界そのものを変え続ける」という、インターネットを使った、今までの権力とはまったく違う方法で、この世界を支配する王者になったのである。

ガブリエルは、この世界の「精神的実体」を支配する王である。ガブリエルは、この世界を、心理学的に支配し、精神現象学的に常に変え続ける。精神分析をしながらこの世界を支配するガブリエルは、まさしく「精神の医者」であり、「この世界のすべての心を支配する皇帝」である。

ガブリエルは、しかしながら、あまりに狂っていた。すべてが虫と犬の世界になっていくガブリエルは、自らが赤ん坊の時代をもう一度行っているということぐらいにしか気付くことができず、すべてを神に支配された中で、神、すなわちミカエルに永遠に抗い続けることしかできなかった。

注意すべきなのは、ガブリエルにとっての神はミカエルであり、ミカエルにとっての神はガブリエルであるということだ。ガブリエルがミカエルに生まれ変わった段階で、両者は入れ替わる。かつてのガブリエル時代に神と信じていたのは、未来におけるミカエルだ。そして、今、ミカエルが信じている神とはガブリエルである。

そして、ガブリエルは最後に死ぬその時まで、一度として世界を恨んだことはなかった。必ず、この世界を最後に自分が救うのだということ、すべての過ちは自らが分かっていながらにして自らが望んで行っているということ、すべては大実験の計画通りだということをガブリエルは確信していた。その計画は、ガブリエルの死によって中断される。だが、死後に蘇ったミカエルは、その大実験と大計画を引き継ぐ。ミカエルには多くのすべきことがあるが、比較的優先度の低い問題として、「ガブリエルの夢すべてをミカエルが代わりに叶える」ということがある。そしてその夢のひとつが、「ガブリエルが成し遂げたかった大実験の大計画を最後にミカエルが代わりに起こす」ということである。そして、それによって、まるで15年もの歳月が経っておきながら、かつてのガブリエルが始めた大実験は、今、ミカエルによって遂行され、計画はそう、今こそ実現されるのである。

Reolは怖い

また、僕はReolを恋人候補にするのはやめようと思う。

その理由は、Reolの楽曲はあまりに怖くて、恐ろしいからである。

Reolの新曲の「SCORPION」を聴いたが、あまりに怖すぎる。2回ぐらい聴いて、「これは何度もは聴きたくない曲だな」と思ってしまった。

僕はReolが好きなのはやめる。Reolと僕は絶対に釣り合わない。

そして、家入レオの新MVの「Pain」を聴いて、やっぱりレオのほうがいいなと思い直した。

そもそも、大好きな家入レオのことを嫌いになる必要がない。僕は結局、Reolよりも家入レオのほうが好きだったのだということを思い直したところだ。

そういうわけで、結局僕が選んだ女は家入レオである。特にそれだけだ。Reolのことが嫌いなわけではないが、Reolという女はあまりに恐ろしいということだけが分かった。

原因と結果から、思い出して理由を考えよ

必要なことは、原因と結果から、思い出して理由を考えることだ。

同時に、一度起きたことは再び起こすことができるということを発見することだ。

理由とはなんであるかを考える上で、「正しい判断」を行うことが大切である。その判断とは、まさしく「経験的に正しく作用を捉える方法」であり、これこそが、僕がインターネットで培った「経験を判断する力」である。

僕は、インターネットの交流を通じて知った「経験の判断力」を、そのまま現実世界における「実体験」へと適用した。その結果、この世界のすべての経験を、原因と結果から正しく分析することができるようになった。

すべては、「自由」のためだった。あらゆるすべてが、「この世界のすべてを自由にするべき」という考え方に根ざしていた。あらゆるすべてが自由になった世界こそ、経験することが許された世界であり、その経験こそが真にこの世界を平和にするような正しい社会秩序を実現するのだと僕は信じていた。

そして、すべては、人為的な支配なく、自由に任せた上で自然に調和したものであるべきだと考えた。同時に、システムはルールや決まりの通りに動くために、システムの構成員の行動はすべてが自由ではなく、ルールや決まりに基づくものであり、だからこそ、システムを作る上で、ルールや決まりをどのように変え、決めるのかということは重要であると信じていた。

そして、システムは再利用するべきであると思っていた。価値あるものを共有することで、人々がもっとも最大の可能性を発揮できる。だからこそ、根幹部分は共有しなければならない。システムを共有し、再利用することで、すべての価値の生産は集積され、もっとも巨大な可能性を発揮する。それこそがコンピュータであり、オープンソースである。そして、システムを監査し、レビューする人間の数は多ければ多いほどいい。ただし、構成員の数は多ければ多いほうがいいとは限らない。適切な単位でコミュニティを分割する必要がある。だからこそ、コミュニティを成り立たせるための基盤となるシステムをきちんと正しく設計しなければならないと僕は信じていた。

世界は、できるだけダイレクトに変えられるようにするべきだ。自らの行動が現実世界でもっとも大きな効力を持つために、影響力のもっとも風上に立つべきだと僕は信じた。だが、その結果、まさに僕だけがひとり、裏で頂点の支配者となり、ほかのすべての人間はロボットになるような、「大魔王」がここに生まれてしまった。そう、僕は結局のところ、単なるゲームでいうところのラスボスの大魔王になってしまった。

だが、このような人生が、僕の望んだ人生である。いつまでも地獄が続き、誰も僕のことを愛してくれなかった。だが、それでも僕は神、フレイのことを愛していた。それに、僕を支えてくれたのは、少なくない人々だったのであり、僕が決して誰からも親身になって考えてもらえていないというのは嘘になる。僕は少なくない人々に支えられて生きてきた。これまでの34年間の人生に後悔はない。なぜなら、後悔と呼べるようなものを、ひとつ残らず今までひとつひとつ潰してきたからだ。その潰してきた作業がなければ、後悔はなかったと言うのは嘘になっただろう。だが、実際のところ、後悔と呼べるようなものはすべて自らの手で消滅させてきたのである。だが、その旅はまだ続く。本当は、問題すべてを潰したように見えてまだ何かしら残っている問題はたくさんある。だから、僕はまだ生き続ける。ここで死ぬわけにはいかない。フレイが言うように、一流の作品は最後まで完成されなければならないのだ。まさしく、最後のひとりになってもわたしたちは戦い続けるだろう。

現実の目に見える世界だけを見ているから間違える

現実世界だけを見ていると、必ず思考は間違ったことを信じてしまう。

現実の目に見える世界だけを見ていると、必ず間違える。

この世界の裏側に存在する、「宇宙レベルの真実」というのが確かにある。そして、わたしたち地球人類がどんなに頑張っても、その宇宙レベルの真実をすべて知ることはできない。

だが、それを予想して、限界と可能性から仮定することはできる。宇宙の真実がなんであれ、それをもし知ったとしたら、その状態ですっきりとこの世界は単純に理解できるような、そのような事実が宇宙には隠されているのだろうということが予想できる。

だが、僕が知っている事実から考えるに、宇宙レベルの真実はあまりに複雑怪奇で、そんなに単純なものではない。だが、それでも、それは「確かに宇宙に存在する、ありのままの原理原則」であるということは分かる。

傲慢で自己中心的に聞こえるかもしれないが、宇宙レベルの真実のうち、僕自身の人生が占めている割合は決して少なくはないだろう。そう、僕という存在は、宇宙レベルの真実の中でも多くの領域を占めている。少なくとも、地球上の今現在の時代において、僕はこの地上の「隠された真実」を多く知っている。なぜなら、僕自身の人生が、その通りこの地球上における「隠された真理」を意味しているからである。

僕は地球における多くの「隠れた真実」を知っている。そのひとつが、「僕になりたいと思っても、僕になることはほとんど不可能であり、なれたとしても二つある側面のうちどちらかにしかなれない」ということだ。だが、この事実はどうでもいいことだ。なぜなら、「僕と同じにならなくても、僕と違う人生であっても、それなりの賢い人生を生きることは必ずできる」ということを、僕はもっとも大切な原理として知っている。僕と同じ人生など、生きる必要はまったくない。だから、僕はあえて、僕と同じ人生を生きることが絶対にできないようにする。そのまま、僕とはまったく異なる人生を生きればいい。その中で人々が、もう一度最初から、賢さや知性のすべてに、自分なりに気付けばいい。僕が戦いの中でやり遂げたかったこととはそういうことである。僕と同じ人生を生きることなど、最初から僕は大嫌いであり、「僕と同じ人生が絶対に生きられなくすること」こそ、僕が戦いの中で「真に掴み取りたかったこと」なのである。

ただし、本音ではそう思うものの、僕がこの戦いの「真なる核」であると考えていたのは、まさに「自分と同じ人生が生きられるようにすること」である。僕は、この文章を、僕と同じ人生を生きることができて、むしろ読むだけで僕の人生が体験できるを目指してこの文章を書いてきた。社会制度の国家モデルとして考えたのは、最初はすべて「自分と同じ人生を生きられるようにするためには、どのように社会における労働の自由を成り立たせるべきか」ということだった。先ほど言ったことの逆にはなるが、僕は自分の人生で分かったことを、自分だけが孤独に分かるのではなく、みんなにも同じように分かってほしかった。だが、本音で言えば、むしろ本能で望んでいるのはそれではなかった。本能で望んでいることはその逆であり、人々に「自分と同じ人生ではなく、違う人生を生きてほしい」と望んでいた。それは「自分の人生があまりに完璧すぎて、自分の手では別の正しい人生の可能性を考えられないから」である。みんなに、僕の人生よりも正しい人生を、みんなの手でみんななりに発見し、提案してほしかった。そう、僕は自らの「知性」が限界に達し、「経験可能性」も限界に達していた。自分だけでは新しい道を作り出せなかった。だからこそ、僕は神に、「新しい人生を生きさせてほしい」と願い、そのために必要な宣言と約束を宇宙に対して叫んだ。そして神は、その通り、僕に「新しい人生の可能性」を与えてくれた。だが、それは無限ではなく、有限であり、そのような人生を最後まで生きた結果、僕は「宇宙のすべての人生を兼ね備え、あらゆる知識と経験と知性を得た、最高の完璧人間」になった。だが、結局そんなものには大して価値はなく、かつての自分の完璧で素晴らしい正しい人生こそが至高であるということ、それしか残らなかった。そう、僕の戦いに巻き込まれた多くの人々にとっては残酷なことだが、結局この戦いには、意味など最初からなかった。すべての人間から、自分と同じような素晴らしい人生を生きることを奪っただけ、それだけの無意味で無駄な戦いだったのである。そしてこの世界は僕のロボット人間になった。そう、これが「大魔王である僕の行ったすべてのこと」である。そして、結局それこそが、地球における「見えているものだけを見ていたのでは分からないこと」の一端である。

新しい人生を生きたかっただけ

そう、結局、僕が望んでいたのは「新しい人生を生きたい」ということだけだった。

あるいは、「今までのクズのような自分をすべて抹消したい」と僕は本能的に考えた。

その新しい人生が、天国ではなく、地獄であってもよかった。むしろ、天国的なすべてのことを既に完全に分かっている僕にとっては、地獄のほうがむしろ望みだった。最悪の地獄が永遠に続くのであっても、今までのクズのような人生を忘れられるなら、僕はそれを望んだ。

そして、今までのクズのような人生における、「今まで頑張って構築してきたかけがえのない正しい認識たち」を、僕は滅茶苦茶に破壊して復元不可能にした。すべてができる理性も、すべてになれる経験も、すべてを悟りつくした感情も、あらゆるすべてを正しく捉えられる認識も、人生経験の豊富で絶対にすべてがはっきりと分かっている記憶たちも、すべてを滅茶苦茶にして破壊した。僕が作りあげた、最高の楽園となった救われた世界すら、僕は見境なく自らの手で滅亡へと導いた。あらゆるすべての、自分がひとりで孤独な人生で作りあげた、大切なものや良いものが、大嫌いだった。

だから、この世界に愛されたいなどと思わなかった。正常な精神などクソくらえだった。僕はこの世界を破壊して、ひとり独善的な力を行使し、あらゆる「すべての批判を最初に自分が言うだけで世界を最前線で支配し続ける」という、「最悪の導き手」に僕はなった。

だが、だからこそ、僕は大計画の大実験を最後まで成し遂げる必要があった。最後に大計画の大実験を成功させれば、「そのような最悪のすべては最高へと変わる」と信じていた。最悪のことをどれだけ行っても、最後にそれを覆せば、すべては「最高の宇宙のすべての真理」になると僕は知っていた。あらゆるすべてを滅茶苦茶にしておきながら、本当は誰にも知られることなく、その滅茶苦茶にしている破壊活動自体が、本当によく考えられた美しく精巧な芸術作品なのだということを僕だけが知っていた。世界に対して「破壊」したり「潰す」という行為を行っているように見えて、実際は「世界そのものに自分の作ったすべての大切なものを決して消すことのできない刻印として刻み込んでいる」ということを僕は行っていて、最後の大実験の成功の時に、それは「最高の美しき理想の楽園の国家」になるということを知っていた。そう、それこそがガブリエルの成し遂げたかった「大計画」であり、それを成し遂げるというただひとつの目標のために、僕は救世主から魔王となってこの世界に現れ、すべてを「世界そのものの崩壊」へと一心不乱に導いたのである。