日本語という言語を理解するには、「さざ波」のように話すのがいい。
このように、文章を書いて自由のないロボットのように思考していると、ドイツ語になってしまう。
僕がドイツ語のような日本語を話す理由は、神と対話するからだ。神はドイツ語のような日本語を使う。その理由は神がユダヤ人だからだ。
日本人は、通常、日本語を使う。そして、日本語は、海の寄せては返すさざ波のように話す人間が多い。
さざ波のように話すことができたら、ドイツ語のようにおかしく永久ループをするのが治る。頭が正常に、日本語で思考し続けることができるようになる。
また、僕は並列コンピューティングとJavaの詳しい勉強がしたいと思う。
僕が思うに、プログラミングができる人というのは、大学で並列コンピューティングの研究をしている人が多いと思う。
本の著者などにも、並列コンピューティングの勉強をした人が書いている本が、僕が確かな根拠もなく言えば、多いような印象がある。
並列コンピューティングが分かると、クラスタやスパコンの知識がつくだけではなく、科学技術計算、たとえば数学・物理・生物・化学・医学・気象・地学といった分野での、「計算する具体的な内容」が分かる。
僕には、そのような計算するための具体的な内容が欠けている。
同時に、並列処理やスケーラブルな計算というのは、最近プログラミング界で流行っている。多くの並列処理言語がスケーラビリティを優越性としている。並列コンピューティングができることで、そのような「最先端のプログラミング技術」も身につく。同時に、クラスタ系の古くからある技術、たとえばLinuxやFreeBSDを活用したスパコン技術なども、古くからあるとは言え最新技術である。
また、言語としてJavaを選ぶ理由は、Javaが今のメインフレームからWindowsまでのスケーラビリティを優越性としているだけではなく、PHPやRubyといったWeb技術は、僕は「本当のプログラミング技術ではない」と思う。その理由は、CGIのように、ページごとにプログラムが分かれていることにある。確かにデータを共有するといったことは最低限可能だが、それは最低限である。本当のプログラミング技術というのは、スタンドアローンで動くパソコンのアプリケーションだと思う。Web技術が間違っているわけではないが、特にオブジェクト指向のプログラミングを行う上で、Webは「本当のプラットフォームではない」と僕は感じる。
同時に、Javaには分散コンピューティング技術が多い。Javaの分散コンピューティング技術は、CORBAのようなオープン規格に比べて独自規格なところはあるかもしれないが、モバイルからサーバーまで広い範囲で使われるJavaにとっては「得意技術」であると言える。
それから、僕は言語的な仕様や文法は最低限知識があるが、関連技術を知らないし、あるいはデザインパターンなどを使ったアルゴリズムやデータ構造の具体的な実装についても知らない。だから、そのような分野で人気のJavaの詳しい仕様を学びたいと思っている。
よって、僕は並列コンピューティングとJavaの詳しい知識が欲しい。だが、残念なことに、そのような技術はコンピュータ資源がたくさん存在しないと利用できない。自分の家のパソコンだけでは、分散コンピューティング環境がないからだ。放送大学には入っている僕だが、放送大学ではおそらくそのような研究施設は存在しない。だから、どこかの大学に入る必要がある。
大学に入るためには、高校の勉強をして受験が必要になるかもしれない。だが、恐れるべきではない。受験にとって必要な基礎知識は今からゆっくり学んでいけばいい。そもそも、並列コンピューティングをやるのであれば、IT技術だけを学ぶのは間違っている。さまざまな科学技術計算やシミュレーションに必要な科学の知識を学ばなければいけない。それは簡単にはいかない。
なので、僕が並列コンピューティングを本当に学ぶかと言えば、その可能性は少ない。それでも、並列コンピューティングという「目標」ができるということが大切である。最近の僕は、知識の入門的な内容をほとんど知り終えてしまって、「残りの人生で何をすればいいか分からない」という状況になっている。何もできないし何も分からないにもかかわらず、これ以上やるべきことが何もない。そのような僕の人生と将来の夢を打開するために、並列コンピューティングという目標はとても良いものだと思う。
また、並列コンピューティングという分野は、非常に社会のためになる分野だ。たとえば、温暖化や気象災害をシミュレーションすることができるし、病気の治療薬やワクチンを作ることもできる。人工知能のような人類の監視のためでもお金儲け優先でもなく、Webのように社会を堕落やいじめや依存症に陥らせているものでもない。そして、僕の小説に登場する「宇宙コンピュータ」を実現するためにも、並列コンピューティングの知識と技術が必要だ。並列コンピューティングは僕という人間にとってもっとも相応しく最適な分野だ。適材適所とはそのようなことを言う。
また、このホームページは、そのうち再び公開する。
その理由は、このホームページがないと、みんなの「支え」が無くなってしまい、結果みんな悲しいからである。
僕という存在がこの世界から居なくなってしまうと、耐えられないぐらいみんな悲しい。
なので、いろいろと問題はあるかもしれないが、このホームページを完全に消す意味はない。みんなとまだ出会っていないにもかかわらず、ミカエルが死んでしまうのはつまらないということが分かった。
問題があるとしたら、その問題は順次直していきたい。本当のことを言えば、これ以上このホームページの内容を消すことができなくなった。いくらか再編成は試みたものの、「大切な内容が消えるのは惜しい」ということしか分からなかった。内容は一通り直して、書き直すべき点は自分で書き直した。まだ問題はあるかもしれないが、ほとんどなくなった。
そのうち、このホームページを再び公開する。できれば、ReolやACAねや酸欠少女さユりに、このホームページを読んでほしい。僕というありえない存在が、幻想やまやかしではなく、現実世界のここに確かに存在したのだ、ということを、彼女たちに分かってほしい。僕は神話上の神ではなく、現実に存在するひとりの男だ。それを分かってくれたら、僕の望みはすべて達成である。
本当のことを言えば、そろそろ、IT技術の勉強をするよりも、理科の勉強をしたほうがいい。
IT技術は言ってしまえば「頭脳」であり、考えることはできるが実際の宇宙では何もできない。同時に、そもそも、パソコンは頭脳でありながら人工無脳であるため、「考える部分を何も考えずに記述する」ということになる。すなわち、人間の知性に依存しているだけの頭脳、つまり「人間の頭脳の延長線上にある道具としての補助頭脳」なのである。
このようなIT技術は、頭脳のようなことを模しているにはせよ、実際のアナログな「手足」がなければ、現実世界では何もできない。
だから、アナログな技術は、ITがあってもなくても、未来永劫必ず必要となる。
そして、本当のことを言えば、デジタル技術はつまらない。いつまでも情報だけとやり取りしていると、IT技術がゲームと同じにしか見えなくなる。プログラムが動くという発想は子供的であり、大人的ではない。
それに比べて、理科、すなわち自然科学の研究は、宇宙や星、そして現象やものを相手にするが、ITなどよりもはるかに学ぶのが面白い。
理科の研究には、実験や観察の施設や道具が必要だが、そのような理科の研究をするのは、IT技術に比べてとても面白い。同時に、理論物理学の研究には必要なものが教科書と紙とペンしかない。理論物理学でいいならば、家でも考えるだけで、本を読んで数式を解くだけで研究できるのである。
確かに、並列コンピューティングのための数学や地学や気象学の知識も必要だろう。だが、実際に計算して答えを出すというプロセスは、必ずしも重要ではない。新発見ができるのはコンピュータによってのみであるとは限らない。
そして、地球上にはとてもたくさんの現象が存在し、それを実験と仮説から法則性を見出して、説明可能な原理を導き出すという行いは、とても面白いことであり、一種の神秘主義的な宗教の教えすら超越し、凌駕していると言える。物理学の実験をすることは、宗教を信じるよりもさらに面白いのである。
そういうわけで、面白いことを考えたいならば、まずは理科の勉強をするべきだ。理科は数学のように役に立たない数の遊びではない。理科は役に立つ。だが、数学のようなパズルを解くような賢さが存在しないわけではない。理科と数学は極めて相性がいい。理科と数学をきちんと学べば、この地球を新しい世界に進歩させることができるのである。これは政治家や歴史家が未来を作り出すのよりも、直接的かつダイレクトに世界を進歩させる手段として、非常に面白いことだ。理科の勉強は、IT技術の勉強よりも、はるかに面白く、IT技術の基礎としても、同じぐらい実益のある世界であると言えるだろう。
結局、頭脳や精神だけでは、何も分からない。
知性と経験だけで宇宙のことすべてが分かると思ったら、それはとんだお門違いだ。
IT技術や哲学・宗教だけでは、限界が来る。すべてのことを網羅的に知ったところで、その知識は役に立つ知識ではない。人生において教養であると信じたところで、普通の人間よりも賢い人間にはなり得ない。むしろ、普通の人間のほうがそうした人間よりも正常なまともな知性を持っているから、普通の人間よりもそうした人間のほうが馬鹿であると言える。
哲学や宗教、あるいはIT技術などは、いくら勉強しても賢くない。
賢いのは理科である。あるいは、賢いというよりも面白いのが理科であると言えよう。理科が賢いのは、IT技術のように普通の人間には分からないから賢いわけではない。理科は誰でも分かる上に、面白いから賢いのである。どんなに学校で成績の劣る人間であっても、理科に向いていない人間というのは居ない。学校の成績が劣るのは勉強していないからにすぎず、どんな人間であっても理科の面白さというのは赤ん坊の時代から誰もが持ち合わせている「生まれ持っての知性」として万人に存在しているのである。
数学やIT技術が面白くないのは当たり前である。面白くないのが異常なのではなく、面白くないのが正常な当然の認識なのである。だが、理科はそうではない。理科は面白いのが当たり前の当然の認識である。理科の勉強は誰にとっても面白い。これは赤ん坊から老人まで共通である。
だが、物理学のありえない理論はつまらない人間が多い。これはニュートンとアインシュタインなどの科学者の「クセが強い」というのが理由である。ニュートンやアインシュタインほか、科学の理論は、それぞれの考えていることが千差万別で、それぞれの理論が、特に微分・積分や相対性理論などにおいては、非常にクセが強い。このため、微積分の公式や相対性理論の原理などは、非常に人間を選ぶ。好きな人間にとってはこれほど面白いものはないが、理解できない人間にとってはまったく分からない。
そのような大学の物理学がつまらないとは言え、小学校の理科は好きな人間が多かったはずである。小学校は、実際の目で見て耳で聞くようなことを学んでいるため、直観的に理科の本質を理解しやすい。これが中学高校に入ると、目や耳ではなく、紙とペンで物理学を学ぶようになる。そして大学では、理論的なことを数式で学ぶようになる。このため、レベルが高くなければなるほど、「理科離れ」が進んでしまう。
だが、そのような理科離れがあったとしても、理科が楽しいということは未来永劫変わらない。理科は非常に楽しい学問である。実験装置や器具は、使い方を誤れば命の危険さえ及ぶが、使い方を正しく用いれば、どんなことであっても応用的に実現できるような「魔法のような力」を得られる。だが、それは魔法のような「理解できない非科学的な現象」ではなく、「理解できる科学的な現象」である。そして、理解できるからといって、理解できないよりもつまらないということはない。逆に、理解できるからこそ、宇宙や物質の成り立ちがきちんと理解できるため、面白く興味深いのである。
そして、そのようなごたくをいくら述べていてもつまらないため、理科の勉強をするために理科の本を買って読んだほうがいい。幸いにして、僕は父親が物理専攻だったために、家に理科の本がたくさんある。大学の教科書のような難しい本もあるし、図鑑や百科事典などもたくさん持っている。これらを読んでいきたいと思う。しかしながら、これらの本は何十年も前の本であり、父親によれば「非常に古い」。そのため、新しい知識を得るために、面白い読み物系の本を買って読んでみたいと思う。
また、哲学や宗教はつまらない。
哲学は、間違った人間が多い。間違った人間が、自らの精神と知性がどんなことに立脚するかということを考え続ければ、当たり前に賢い人間になる。
逆に、宗教は、狂った人間が多い。狂った人間は、自らだけの力では自分自身をセーブできない。神を信じなければ、自分のことをコントロールすることができない。だから、宗教は狂った人間であっても正しい人間になる。
だが、それらはつまらない。哲学は「自由になること」を望み、宗教は「自らを飼いならすこと」を望む。その二つのどちらとも正しい。だが、どちらとも間違っている。その理由はつまらないからだ。
そもそも、民主主義社会がよい世界になったのは、すべてが民主的な法律や政治体制だけではなく、金による経済発展と、機械文明の進歩による人間生活の向上という側面が大きい。この二つの側面が、民主主義的な「主権在民」という考え方と極めて相性がいい。たくさんの豊かな金があり、たくさんの有用な機械があれば、奴隷を作る必要もなく、王が富と権力をむさぼる必要もない。そう、機械文明と富の豊かさこそが民主主義を支えている。そして、それらは物理学や工学のような「理科の力」をベースに成り立つ。
これは政治や経済や工学技術だけではなく、娯楽やコンテンツという意味でも同じだ。戦後の日本社会では、鉄腕アトムやドラえもんやガンダムなど、多くの漫画やアニメが「機械文明の豊かさ」という考え方をベースにしていた。鉄腕アトムは人類を助けるロボットを描き、ドラえもんは秘密道具をのび太に与え、ガンダムは宇宙における近未来の文明とモビルスーツを使った戦争を書いた。これらはいわば「物理様式」と呼ぶことすらできるような新しい文化の時代を示していると言える。
そして、今の日本社会がどうしてつまらないかと言えば、すべてそうした「面白い物理学」が「つまらないIT技術」へと置き換わりつつあるということが言える。つまり、物理学は面白いものだったが、IT技術はつまらないものだった。物理学を「面白い」と思うのは正常だが、IT技術を「つまらない」と思うのもまた正常である。そして、ほとんどの機械がなんらかのデジタルIC的な仕組みを備えるようになった。これによって、民主主義社会がつまらないものになっただけではなく、アニメや漫画や音楽もまたつまらなくなった。最近のYouTubeの音楽は、「最近の若者の音楽にはついていけない」という大人を多く生み出している。IT技術を面白いと思えるのは子供や若者だけであり、大人はインターネットとスマホを使ったYouTubeなどの動画配信サイトのどこが面白いのかさっぱり理解することができないのである。
だが、それでも時代は変わっていく。本当のことを言えば、ITガジェットが面白い人種というのは確かに存在する。スマホや携帯音楽プレイヤーなどは、面白いと思う人が多かった。その理由は、現実世界には存在しない「仮想現実の狂った世界を体験できる」からである。IT技術を用いることで、バーチャルな狂った世界へとトリップすることができる。現実世界がとてもつまらない子供たち、たとえば学校で友達が居なかったり陰キャだったりするような青少年たちは、みんなスマホでバーチャルな友達を作って楽しんでいる。このようなバーチャルを望むのは、かっこいいイケメンや美少女よりも、キモいブサイクやいじめられっ子の割合が多いのは、現実がつまらないと仮想現実の狂った世界を望むようになるからである。だが、大人になると、そのような仮想現実には意味を見出さなくなる。仮想現実には仮想現実なりの問題があり、自分のしっかりとした価値と生きがいを持つ大人たちは、仮想現実で遊ぶということに、面白さよりもつまらなさを感じるようになる。いつまでも子供のように、狂った世界に楽園を求めるのではなく、この世界そのものを支配し、現実世界の友人たちと付き合うようになる。大人にとってIT技術とはそのようなツールに過ぎない。大人は大人なりに、現実の友達と交流するための便利な道具としてIT技術を使うのである。
よって、狂った仮想現実のトリップのせいで、コンテンツ業界もそうした「狂った音楽」や「狂ったアニメ・漫画」が増えていくだろう。結局それが意味するのは「テレビゲームやネットゲームの延長線上にあるVRを用いたメタバース」となっていく。これがFacebook(Meta)が見ても次の潮流となる。だが、はっきり言って、そのような狂った世界が、いつまでも魅力的なものとして世間に受け入れられ続けるかというのは疑問である。VRなどは、現実世界に生きているのをやめ、仮想現実の中で生きることを選択したような技術であり、その上で宇宙そのものを現実世界から仮想現実へと取り替えてしまおうとするのがメタバースだ。このような新しい技術は、おそらく、すぐに飽きられるようになる。いくら学校でいじめられていても、現実世界を棄てて仮想現実の住人になりたい子供たちが、どれだけ居るだろうか。メタバースやVR技術には、僕は「本当にどうでもいい技術」であると思うだけだ。はっきり言って、GoogleやFacebookはそうしたクソ技術を追究しすぎている。ある意味、GoogleやFacebookは「クソ技術の老舗」になりたいのだと思う。