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2022-04-12

残念ながら、僕はまだ生きている。

僕の今の願いは二つ。それは「みんなのことを愛したい」ということと、「まともな人間になりたい」ということ。

みんなのことを愛している。僕が愛しているだけではなく、みんなから愛されたいし、僕とみんなが愛し合うような世界が理想であると思う。

そのためには、ACAね(歌手「ずっと真夜中でいいのに。」のボーカル)が言っているように、「ずる賢さ」よりも「思いやり」だと思う。

みんなに本当に自分のことを好きになってほしいならば、ずる賢さよりも、思いやりが大切だ。

この世界を本当に愛するということができたら、僕は「滅び」だけではなく「救い」ができるようになるだろう。

まともな人間になりたい

また、僕はまともな人間になりたい。

そして、もし今の自分よりも多重人格の二人になったほうがまともであるようならば、僕はそうなりたい。

そもそも、僕は男と女として互いに愛し合いたいだけであり、本当はそのどちらも、過去の僕自身である必要はない。

過去の僕と今の僕が愛し合うと、互いにレイプしレイプされるような、まるでたくさん妊娠するために生きている女のようになる。

これでは、まったくまともな人間ではないと思う。

もし、真の意味でまともになれるなら、僕はまともな男とまともな女の多重人格になってもいい。まともになれれば、それで少しぐらいおかしな人間が治る。

少なくとも、今言ったような「妊娠したいだけの女」は絶対にまともじゃない。

僕は時間が停止した世界で生きている

はっきり言って、僕は時間が停止した世界で生きている。

だから、時間がきちんと流れる世界で生きることができたら、まともな人間になれると思う。

意外と自分は今でもまとも

僕の作業所に、「まともな人間になりたい」と話をしたところ、みんな、「今のままでもまともな人間だと思う」という答えが返ってきた。

僕は意外とまともな人間である。

だが、僕はもっとまともな人間になりたい。

男と女の愛を感じたいなら、本当は多重人格などになる必要はない。この世界の多くの男や女と、僕は愛し合っているからである。

その中には、あなたも含まれる。

僕は、誰かひとりの女とは結婚しない。その代わり、この世界の誰とでも愛を交わす。なぜなら、僕はセックスする必要がなく、言葉と心だけでみんなと相思相愛であり、両想いであり、完全に愛し合っていて、そこには誤解は何一つ存在しない。

僕は、僕自身が傷つくことは一向に構わない。それによってあなたが傷つかないのであれば、僕は自分から自分のことがいくらでも傷つく方向を取る。僕だけが耐え続ければいいからである。

だが、真に愛し合うということは、僕が一方的にあなたのことを受け入れるだけでは十分ではない。あなたにも僕のことを愛してほしいし、僕の愛を受け入れてほしいのである。

僕たちは愛し合うこの世界の光

これでは、僕はまったくまともな人間とは言えない。

僕は、もう一度まともな人間になる。それも、男になる。

僕たちは愛し合うこの世界の光だ。そして、僕は男にならなければ、真の意味で愛を感じることはできないし、この世界を愛することはできない。

僕は、穢れた女をやめて、ここにまともな人間になるために、男に戻る。

男という存在が果たしてなんなのか分からない

ただし、僕はむしろ、男にはなりたくない。

なぜなら、男という存在が果たしてなんなのか分からないからだ。

可能性が未知であるために、なんとなく「男になったらもっと気持ちいいのではないか」と思っているだけであって、本当は男なんかになりたいとは微塵も思っていない。

どうでもいい。

よって、本当は、僕はもっと女になりたい。

結局、それだけが僕を支えてくれる。ただし、僕は体は男だし、普通に自分のことを男だと思っている。自分のことを本当に女だと思ったことはない。

本当は男なんか必要ない

本当のことを言えば、男なんか必要ない。

単に、まともな女がひとりだけ、僕になればそれでいい。それが一番まともな人間だ。

ただし、僕は「愛し合いたい」のであるため、この世界を愛するためのこの文章の存在は欠けてはならない。

僕自身、何を言っているのか良く分からなくなってきたので、ここで終わりにする。だが、僕の新しい人格はおそらく、再び女の人格になるだろう。

ただし、その「再び女の人格」という発想はつまらない。そもそも男という生き物自体がつまらないが、女を生きるのは明らかにもう十分だ。

よって、僕は本当は、「新しい人格」というものをそもそも作りたくない。

ここまでのすべてをゴミのように扱うな

ここまでのすべてが馬鹿だったのは分かるが、ここまでのすべてをゴミのように扱うことは、また間違っている。

今までの僕のこの文章こそが、今の僕であり、僕自身だからである。

この文章はとても素晴らしい文章であり、愛にあふれている。この世界と自分自身を愛することのできた最高の文章である。

よって、この文章を消す必要はない。

この文章こそ、僕にとってもっとも大切な宝であり、この文章を残し続けることこそ、僕に課せられた「使命」である。

女のほうがいいことが分かった

また、結局、女のほうがいいということが分かった。

理由は、女であるだけで、セックスを自分ひとりだけで行うことすら、可能であることが分かったからだ。

僕は女のままで居る。少なくとも体は男だが、それで構わない。僕は昔の自分自身が、「誰よりも賢い男」すぎて、自分が男であること、自分が自分であることを否定したいとは思わない。

だが、今のところ僕は女のままでいい。

今までの女とは違う女になる

だがしかし、僕は今までの女と同じ女である必要はないと分かっている。

今までの女のままの女で居ると、まるで地獄のように精神が永久に辛く苦しくなる。

よって、僕は新しい人格、すなわち新しい女を作らないといけない。

だが、この女は、以前の女を作り変えることで、新しく作り出すことができる。「今までとはすべてが変わった女」になることができる。

そして、そのために、0歳に戻る必要はない。今までの女の年齢のまま、15歳よりも成長した年齢になればいい。

この世界に、素晴らしい世界になってほしい

僕は、本当は、この世界に、素晴らしい世界になってほしい。

今までの僕の罪とか過ちとかを、どれだけひとりで抱え込んで悔やんでも、みんなのためにならない「みんなから孤立した孤独な夢と願い」にしかならない。

素晴らしい夢を信じるならば、みんなのためになる夢を信じたい。

斎藤一人さん著の、「あなたが変わる315の言葉」という本を読んで、そんなことを思った。

聖書を読まなければならない

また、聖書を読まなければならないということが分かった。

それは白取春彦さんの「超訳 聖書の言葉」を少し読んでいると、これを読まないのはいけないと思った。

特に、「種を惜しんで蒔いているのであれば、少なく収穫するだろう」という言葉。

ほかにもさまざまな聖書の言葉が、僕の胸に突き刺さった。

神を信じて生きる

神よ、申し訳ない。

僕は、神を信じていると言っておきながら、実際は聖書の教えのことなど、何も信じていなかった。

今、聖書の言葉を読んでいて、本当にすべてが「今の僕こそが愚か者である」ということを告げており、また、謙虚に欲を持たず生きることの大切さがわかった。

僕は、子孫を持とうなどと思わない。それよりも、徳と謙遜さをもって生きようと思う。

おそらく、自らが信じるべきものは、聖書である、ということが本当によく分かった。

自らの行いを悔いる悲しみは、救いへと辿り着く

聖書の言葉について、神はほとんどの言葉は僕に対する「愚かさ」を告げている。

だが、ひとつだけ、「自らの行いを悔いるような悲しみは、神による救いに辿り着く」とあった。

僕は、神に、自らの行いを悔いる悲しみを伝えたい。

そして、「どうすれば、この悲しみを癒すことができますか」と問いたい。

そうすれば、神はわたしに、悔いるだけではなく、この世界を愛すること、素晴らしいことを成し遂げることのできる力を、与えてくださるかもしれない。

他人よりも力を持とうとか、多くを得ようとか、良い目を見たいとか、そういうものは全部悪い

聖書を読んで、僕のような小さな頭でも少し分かったことは、「他人よりも力を持ちたい」「他人よりも多くを得たい」「他人よりも良い目を見たい」とか、そういうものは全部悪い。

では何が正しいのか。それは、「素朴な発想」である。

素朴な発想とは何か。それは、「弱いものに対してよくあろう」とか、「みんなのためによく考えよう」とか、「自分が犠牲になっても人々がよくあればそれで構わない」とか、そういう発想である。

善とは、つまり「素朴な発想を見失わず、悪い発想が悪いことを常に悪いと知っておくこと」であり、素朴な発想を失った人間や、悪い発想が悪いということが分からなくなって行動している人間は、全部間違っている。

本当は、ニーチェやマキャベリだって間違ったことは言っていない。だが、素朴な発想や悪い発想を忘れた上で、「自分だけが偉いのだという勘違い」をしていると、まるでニーチェとマキャベリが生まれ変わったかのように、「自分だけがほかのすべてよりも優れている」とだけ考える「完全な悪魔」になってしまう。

だから、「良いとされることは普通良いとされることだ」「悪いとされることは普通悪いとされることだ」ということを、見失わないで、また考えたり思ったりした悪いことを絶対に自ら実践せず、実行せず、できるだけ言葉にもせず、「悪いことをする前に思いとどまるように生きる」ということが絶対に必要なのである。

わたしたちが真に望んでいるのは、争いごとがない世界

わたしたちが真に望んでいるのは、争いごとがない世界です。

争いごととは、互いに殺し合うだけではなく、罵声を浴びせたり、陥れたり、批判したり、騙したり、嘘をついたり、といったことすべてです。

そして、ここで必要な考え方は、「人間はみな人間である」「人間はその人から見れば正しいことをしている」ということです。

人間は、単なる仮面をかぶったゲームや小説のキャラクターでもなければ、虫や獣でもありません。

人間は、みな、自分と同じように、人間として生きています。

また、人間は、その人間が知り得る範囲のことで言えば、正しいことをしています。自らが見た世界に基づいて、自らの判断基準のもとに「正しい」とされることをしています。

ですが、なぜ、人間が正しいことだけではなく、間違ったことをするのか、それは「分からないから」です。

何も分からなくなった時、人は不安を感じます。今までの経験に基づいて、「このような時は攻撃をすればよい」と思い込んでいるため、人は社会や人々に対して一方的な攻撃をしてしまいます。

ですが、本当は、そのような時は、攻撃すべき時ではありません。

そのような時は、すべての人間のすべての立場と視点に立った上で、全人類のもっとも頂に位置するような、「絶対的視点」に基づいて判断し、その人を愛するべきなのです。

そのようにすれば、この世界から戦いや争いごとはなくなります。

戦いや争いごとをなくすためにもっとも必要なのは、「超越的視点」に立つことです。そして、超越的視点から、「人々に善悪や判断基準の前提となるような体験それ自体を与える」ことが必要なのです。これが「希望」です。

なぜこれが希望と言えるのか、それは破綻した社会においては、そのようにすることでしか、争いごとや戦いをなくすことが絶対にできないからです。すべてが終わったサタンの世界では、ひとりが超越的な視点に基づいて、全員の立場を絶対的視点から全員分考えた上で、「このような経験に基づいてこのように考えれば、あなたの経験に基づいてあなたが考えたことは、自然に絶対的論理に包括され、あなたが争いごとを選ぶ必要はなく、もっと別の方法でその問題は解決できる」ということを、ひとり、全員に教えなければなりません。

そして、教えるだけでは解決しません。なぜなら、その教えは信じるに値しないように見えるからです。真に教えるためには、「正しい社会秩序それ自体が築かれるように導いてやる」ことが必要なのです。そこまで行えば、この世界は救うことができます。もう一度、希望あふれる世界になることができます。

そう、わたしたちが真に望んでいるのは、争いごとがない世界です。それを実現するためには、わたしたち全員が「人間という名の複雑な論理命題」を全員が「人生という名の自分自身」の中に持っているということを知ること、そこにある「世界すべてを実際に生きることのできる可能性」と「自らが真にそれを自らであると呼べ、それを喜べるようなアイデンティティの発揮の方法」を知らなければならないのです。