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2022-08-30

僕がこの世界でさらに新しいことを知るためには、嘘を信じる必要がある。

僕は、真実の答えを探し求めるあまり、嘘を信じなくなって、何も普通のことが分からなくなっている。

だが、この世界に、そこまで正しい真実や、そこまで正しい考え方というのは、そんなに存在しない。

科学であっても、定説と呼ばれる考え方は、単に普通に考えているだけであり、必ずしもそれが真実であるとは言い難い。

何かしら、ある程度の正しさがあれば、それで正しいと考えたほうが、さまざまなことが分かる。

また、嘘をまったく信じることなく、新しいことを発見したり解明したりするということは、不可能に近い。

そう、この世界で、知性をつけるためには、嘘を排除するのではなく、嘘を信じたほうがいい。

あまりに正しすぎる発見は、逆にほかの嘘が何も分からなくなってしまう。だから、あまりに正しすぎる発見のほうを、忘れたほうがいい。

嘘を信じるならば、僕は宇宙のすべてを既に分かっている

また、嘘を信じるならば、僕は宇宙のすべてを既にほとんど分かっている。

そのように、嘘でいいならば、宇宙のすべてを既に知っているにもかかわらず、それを信じずにさらに考えようとするから、まったく分からなくなってしまう。

フィクションのSF作品ならば、「出来すぎ」とも言える内容を、僕は既に分かっている。星々から神々まで、すべて知っている。

だから、この「ある意味での真実」を信じたほうがいい。

世界の真実を知っているから、普通の人間のことが分からない

また、僕はこの世界の真実を知っているから、逆に普通の人間のことが分からなくなっている。

この世界を裏で支配しているということを、世界の「真実」だと思い込んでいるから、自分だけがその真実を分かっていて、普通の人間の分かるようなことが何も分からなくなっている。

普通の人間は、この世界における「表層的な嘘」しか分かっていない。

この世界の裏側に「神」が居ることなど、日本人には誰も分からない。

だからこそ、そのような「自分の思い込みの真実」を忘れたほうがいい。みんなと同じことが分かりたいならば、嘘を信じるべきだ。

日本の教育が劣っているのは役人のせい

また、日本の教育が劣っているのは、教育内容を決めている文部科学省の役人のせいである。

役人には、教育のセンスがない。教科書会社に教科書を作らせて、学習指導要領の通りに教師に教えさせて、教科書を暗記して試験で点数を取らせることしか、役人にはできない。

このような役人の教育のせいで、日本は天才が生まれない。誰もが、役人の考えたことしか分からない。

日本には役人の類の文書しかない

だが、僕が「みんなのことが分からない」のは、まさに、役人の考え方が分かっていないからである。

役人が支配する日本の社会では、教育の内容も、法律や行政の文書も、すべて、役人の類の文書か、役人の考え方の延長線上にある内容しか存在しない。

日本という国家のすべてのものが、「役人による考え方」に基づいており、学校で教えられる内容や社会でルールとして守るべき内容も、すべて「役人の文書」なのである。

そもそも、僕が普通の人間のことが分からないのは、すべて、そのような「役人の考え方」を忘れたからである。

ただし、これは「役人が正しい」ということを意味しているわけではない。逆に、役人の考えることは「すべて嘘」である。なぜなら、真に正しいのは「神」だからである。この宇宙において、役人はまったく嘘であり、正しいのは神の教えることである。

このような僕であっても、昔は役人の考えることが分かっていた。役人の考え方を知ると、感情や想像力でこの世界の人々の営みが分かる。なぜなら、日本人はみんな役人に基づいて生きているからだ。僕は、神を信じて戦うあまりに、そのような役人の考え方を忘れてしまった。その結果、普通に分かることが何も分からなくなった。

世界の何を変えるべきか

世界において、変えるべきなのは、以下の項目であると僕は思う。

・インフラを変えること。

・教育を変えること。

・インターネットを変えること。

・安価あるいは無料のものを提供すること。

・マスコミに働きかけること。

なぜこれらの項目を重視するのか、その理由は、「世界そのものを変える」ということに繋がるからである。

僕は、「世界そのものを変える」ということが好きだ。それはつまり、「世界そのものを進歩させる」ということだからである。

そのために、僕は啓蒙や啓発を重視するし、古代復興のような考え方は自分とよく似ていると感じている。それらは、世界そのものを進歩させるという意味で「正しい」からである。

同時に、僕は自由かつオープンな参加を重視する。その理由は、「誰かによって変えられる世界に従うだけではなく、自分から主体的に世界を変える」ということが、「国民の啓発」という意味で正しいと考えるからである。

この世界は、誰かによって変えられるのに対して従うだけの世界ではない。自らの力によって積極的に変えられるのだ。そのために必要なのは「経験し、広く深く世界を知ること」だと僕は信じている。

もう小説は書かない

僕は、もう小説は書かないことにする。

そもそも、小説などを書いたところで、ほとんどの人は読まないし、自分のようにネットで極めて稚拙なものがたりを公開したところで、あまり意味はない。

そもそも僕は小説家には向いていないし、むしろもう十分すぎるほどキャラクターや登場人物は作った。大まかなシナリオも書いた。

これ以上は、しばらく、小説を書くことは棚上げにしたいと思う。

また、僕が思うに、僕が小説を書くと、あまりに政治的・宗教的になってしまう。そのため、そのような思想に基づく小説を僕は書きたくない。

よって、しばらくの間もう小説は書かない。

酸欠少女さユりが好き

また、僕は酸欠少女さユりが好きだ。

もっとさユりのことを愛したい。

正直言って、家入レオのことはまったく愛していない。愛したくても愛せなかった。

僕はさユりなら愛することができると思う。

僕の信念

僕の理想とする世界は、自由かつ戦いのない世界だ。

誰かから、たとえば政治家や政府から「このようにしろ」と、僕は言われたくない。

特に、戦争が起きてしまえば、徴兵制によって戦場に向かい、死ぬかもしれない中で戦わなければならなくなってしまう。

僕は、そのような「不自由」を嫌う。なぜなら、僕の好きな活動ができなくなってしまうからである。

だが、お金を儲ける必要はある。そのために、「職業選択の自由」を僕は重視する。自分が好きな仕事に自分が就けるような世界でなければ、それは「強制ノルマ」のような「国からこのように人生を生きよと強要される」ような世界になる。

なぜ、自由を重視するのか。それは僕が「偉大なこと」がしたいからである。あるいは、偉大なことは自由でなければすることができないからだ。農業をやれとか、工場で働けとか、そのように国から強制された時点で、「僕が僕の意志で生きること」ができなくなってしまう。僕の「人生目標」から考えるに、それはまったくの間違いであり、「自分の生きたい人生が生きられない」ということを意味する。

だが、実際のところ、自分の偉大なる人生を生きるためには、学習や研究の場は必要となる。だが、僕は大学で勉強することが正しいとは思わない。「自由においても大学と同じ状況で学習することはできる」と僕は考える。そのために、僕は本や書籍を読み、またインターネットで多くのことを調査研究する。

このような僕の「自由において偉大なことを成し遂げる」という理想に、Linuxやオープンソースはとても有益に作用する。自分の家であっても、ソースコードはすべて公開されており、自分のパソコンでコンパイルして実行することができ、自らも開発に参加することのできるオープンソースは、「まさに僕の求めていた理想の環境」だったのである。

オープンソースを知るためには、インターネットを見ることは必要だが、いつまでもインターネットの甘ったるい環境に甘んじていたのではいけない。僕の追い求める理想を実現するためには、甘美なるインターネットから離れ、孤独な環境であっても本や書籍を読んで研究することが必要だ。

よって、僕は一通りオープンソースをインターネットで知ったのちに、インターネットから離れた。僕に残っているのは「文章を書く」という特技だ。この自分の得意とする能力を使って、僕はここに学んだ内容をホームページに記述している。まだ、僕の先に目指す目標はある。まだLinuxの開発者になれていないからだ。まだまだ、僕の「理想を叶える自由な道」は続いていく。

このように書くと、平等かつ自由な世界が、理想の世界に見えるだろう。だが、実際は違う。なぜなら、自由な世界とは、「国民目線」で見た話にすぎない。自らが首相や大統領になるのであれば話は違ってくる。実際のところ、独裁者以外の首相が何かができるはずがない。自らが大統領になるのであれば、僕は大統領の権限を強くするだろう。それがもっとも一番「自らの持つ可能性の最大値を実現する」ことができるからだ。

だが、そうであったとしても、国民に強制ノルマを課すことはあってはならないし、あるいは戦争をしてもならない。それは国民を自分と同じ人生を持った人間であると考えていないからだ。自分が平等な権利を持つ人間であると考える以上、自らの自由な権利はほかの国民にも平等に与えるべきだ。よって、職業選択の自由は誰に対しても与えるべきであり、できるだけ学習手段と研究できる場所を与える必要がある。これが、僕の「信念」あるいは「正義」である。

また、僕は資本主義は、本当は否定していない。なぜなら、金をどこかで稼ぐ手段がもしあれば、資本主義はその金を使って、「自由に楽な人生を生きる」ことができる。だが、僕は資本主義だけがこの世界に存在する「唯一の解答」であるとは思わない。資本主義以外にも、より優れた素晴らしい社会モデルは考えられるかもしれない。だが、僕はこの社会モデルにおいても、「それぞれの人間が自由に生きられる」という側面を重視する。全員が王の奴隷になるかのような社会は間違っている。その意味で、僕は「ソ連型の共産主義」を断固批判する。ソ連型の共産主義は、絶対に人々の自由を奪い、権利や命さえ奪っていく。僕が「修正的な共産主義のモデル」を提示する理由は、「本当に正しく考えた社会主義」を考えられるし、行うべきだと信じるからである。

共産主義は、唯物論的に考えるともっとも正しい。なぜなら「コミューン」という共同体の単位を自由にすることで、「この世界の自由な可能性の最大値」を達成することができるからだ。だが、そのような「可能性の最大値」を達成するためには、「スターリンの方法はもっとも間違っている」と僕は考える。あれでは、まったくソ連の意味がない。ソ連の理想とはスターリンの対極にある。僕はそう信じるのである。

僕がもっとも間違っていると信じるのは、身分制や階級制の社会だ。武士だけが自由であり、ほとんどの国民は支配され、自由な人生を許されない。そのような社会の、被支配階級にだけはなりたくないし、そのような被支配階級を大量に生み出すような社会は間違っている。人々に自由を与えるならば、むしろ「今の資本主義の自由な社会を維持する」こともまたもっとも正しい信念である。ソ連のような平等かつ理想の社会を目指すと、ひとりの最高指導者に対する「絶対服従」を要求されてしまう。その中では、「独裁者とまったく同じ信念を持ち、同じ考え方のもとに同じ理想を信じて同じことを言う」ようなことを強要されてしまう。はっきり言って、それは断固間違っている。そうなるぐらいなら、貧困層と富裕層の格差はあるとしても、資本主義の自由な社会を選んだほうがよっぽどマシである。そう、僕は「保守主義」に対しても否定しない。誰よりも「リベラルな自由の権利」を信じているからこそ、保守思想や保守主義を支持することも必要となるのである。

どのような思想であっても国民が決めるべき

このように書くと、「平等な世界を目指さないのか」とか、「豊かになるために日本が勝つのを目指すのか」と言われるかもしれない。

だが、僕が目指すのはひとつ、それは「民主的な社会」である。

実際のところ、平等な社会を目指すことについて、僕は簡単にそれを否定しない。社会所有に基づいて国家の富を個人個人のものではなくみんなのものにし、計画経済で効率的に計画的投資と生産力向上を行いながら、平等にみんなのものを分配するという世界は、「ヨーロッパ社会的なひとつの理想」であるとは分かる。

だが、同時に、ひとりの指導者が賢いということを信じて、そのひとりの指導者の力を信頼し、全権をひとりの大統領に委ねるという、アメリカやかつてのドイツの信じていたような「大統領の権限の強い国」も、政策の実行力や実現力という意味では悪くない。

また、豊かな国を目指すのであれば、「日本が勝つ」という手段は悪くないものだ。そもそも、どの国も自分のことしか考えていない国際情勢の中で、ほとんどの国は日本よりもはるかに劣悪な社会を生きている。そのような劣悪な国家と同じにならないためには、「一流国家を維持する責任」もある。

そのように、どのような社会であったとしても、その思想や信念はある程度正しいし、ある状況であればその思想が一理あると国民が考えることもあるだろう。

だが、だからこそ、僕は民主的な決定プロセスを重視すべきだと考える。

すなわち、ひとりの独裁者の一任で、その国家をそのような思想に染めてしまう、ということをしてはならない。国家のあるべき姿は国民が決めるべきだ。国家をどうしたいかと国民が考えているように、首相や大統領はまさに「国民目線」で政治を行わなければらない。

国民が社会主義を望むなら、民主的に社会主義を行うべきであるし、国民が日本の勝利を望むなら、「国家が豊かになって勝利する」という考え方に基づいて政治をしなければならない。

だが、それでも、僕は強制ノルマや戦争だけは良いと思わない。なぜなら、強制ノルマや戦争をするということは、「一部の少数派だけが自由であり、少数派だけの意見が国家にとって絶対になる」という意志が見え隠れするからである。すなわち、幹部が民主的でない「貴族」となってしまい、貴族だけが自由であるかのような国家になってしまう。それでは、国民のほとんどは自由を失ってしまう。

だが、本当のことを言えば、「国民全員が偉大なことができる」とは僕は信じていない。自分が偉大なことはしたいと思うし、その自分と同じように人々にも偉大なことができてほしいとは思うが、本当にできるのは一握りのごくごく少数であるということは分かっている。だから、多くの国民を奴隷のように扱ってでも、自分のなすべき「野望」に基づいて行動し、自分以外のすべては「手段や道具」であると考えるということは、本当は間違ってはいないのだろう。

だが、そうであったとしても、国家をどのようにするべきかという点で、政治体制は民主的であるべきであると考えるし、世界政府の実現という理想を度外視した上で言えば、それぞれの国家や民族が共存すべきであると僕は考える。同時に、共産主義的な「共同体」の実現もまた間違いではないと思う。共同体をそれぞれ配備するということは、「自らの国家を自らが作るということを万人に許す」ということであり、間違った理想ではない。だが、共産主義の経済は劣悪であるということを忘れないようにしておいたほうがいい。共産主義経済を採用するだけで、資本主義経済を採用した国よりも、はるかにものは少なく、生活に必要な物資を得られないような社会になる。つまり、市場経済を採用するということは、国家が豊かで人間が生きる上で必要な物資を満足に得られるような社会を築く上では、「ほぼ唯一の正しい考え方」なのである。

将来的に、資本主義よりも優れた経済システムは生まれるかもしれない。だが、「金を否定する」ということは、思ったよりも簡単なことではない。そもそも、カール・マルクスは、ヘーゲル哲学の延長線上にある西洋の社会哲学を「世界を変える哲学を」と言って実際の社会に転用したが、この時点で既に間違っている。西洋哲学は確かに観念の上では賢いかもしれないが、その観念を「現実に実現しようとした」時点で間違っている。まるで妄想を信じて現実で妄想の通りに生きようとしてしまった狂人のように、マルクスは「哲学の中だけでやっていればよかったことを現実にしようとした」という時点で間違っているのである。

結局のところ、考えられるのは「民主的かつ自由な国家を作る」ということこそが正しいということである。これは何も結果論ではない。考えた上で、自由な民主主義を行うことこそがもっとも正しいのである。そして、そこで平等な世界を望むか、それとも日本が勝つことを望むかは、国民の手に委ねるべきである。何よりも大事なのは、「民主主義的なプロセスを逸脱したことをしないこと」である。そうなった時点で、「自由に生きる」という僕の理想は敗北であると言えるだろう。