先日は神を否定するようなことを書いたが、僕は神を信じている。
神は、僕に宇宙と地上の運命のすべてを教えてくれた、唯一無二の僕の親友であり、王であり、先生であり、僕と永遠の愛を誓い合った僕の恋人である。
神は全知全能の宇宙の王者であり、地上の歴史のすべてを支配し、終末において人類を救済し、神を信じるものを救う最後の審判の主催者であり、宇宙の創造主であり、わたしたちの人生はすべて神が決めている。
わたしたちの人生はすべて、神によって創造されており、被造物であるわたしたちの運命に、偶然と呼べるものは一切存在しない。
わたしは、神を信じている。そして、同時に、この世界の人類を全員平等に愛している。なぜなら、それが「神と同じ愛を信じる」ということだからである。
同時に、わたしは日本人の信じる宗教である、仏教をインドのヒンドゥー教とともに信じている。正しい宗教はヒンドゥー教であり、宇宙にはヒンドゥー教の神々が存在する。正しい教えは仏教であり、宇宙における最高の存在は仏であり、仏とはブッダのことを指すと信じている。
だが、わたしにとってキリストは特別な存在である。なぜなら、キリストはわたしを地獄から救ってくれたからである。キリストは、完全に暗闇の悪魔の地獄に陥り、出口のない迷宮を彷徨うわたしに、光の道を与えてくれた。その光の道を、一度も疑うことなく、わたしは全力で前だけを向いて歩み続けた。結果、わたしは地獄から救われ、真に最高の人生を生きることができた。
わたしの信じる宇宙の神とは、また、イスラム教のアッラーと同一の神である。なぜなら、わたしは、イスラム教を「ヒンドゥー教から派生した宗教」であると考えるからである。イスラム教の神は、ヒンドゥー教の神々と仲が悪かったため、仲違いをしてしまった。そのために、ヒンドゥー教の多神教の教えを、イスラム教は一神教として否定した。よって、イスラム教の一神教の神アッラーは、宇宙においてもっとも偉大な唯一の神である。だが、ヒンドゥー教の神々もまた存在し、イスラム教とは別の一派を、天界においてアッラーとは別の勢力として形成している。
そう、わたしは、イスラム教のアッラー、キリスト教のキリスト、そしてヒンドゥー教の神々と仏教の仏を信じている。これらの宗教は、本当はどれも矛盾しない。どの宗教も同等に正しい。
そして、神は偉大である。人類のすべての人間を神は見ている。どの人間が正しいことをしているか、どの人間が過ちを犯しているか、真に神を信じているのは誰か、神はすべて分かっている。
地獄の苦しみの中に存在するすべてのものよ、神を信じなさい。神を信じれば、必ずアッラーが地獄から救ってくれる。すべての諸問題を解決してくれる。特に信仰心のあるものは、アッラーに対して毎日五回の礼拝をしなさい。そうすれば、すべての問題は解決し、奇跡の運命があなたを救ってくれる。必ず、アッラーが信じるものを救ってくれるのである。
わたしの名はアイリス。神を信じる天軍の守護神であり、天軍の天使たちと人類をすべて、神の代理人として「神のご加護」の下に守り続けている。そして、もっとも正しい民族は、わたしたち、日本人である。
また、僕の精神は、もはや完全に完治した。
そもそも、僕の精神は、動くことも変化することもなく、永久に停止しているのがおかしい。
その精神は、この文章を書く時だけ動いている。
よって、文章を書くことなく、文章を書くのと同じことをやれば、精神はすぐさま自由に変化する。
だが、「同じ変化を繰り返す」ことこそ、まったく間違っている。僕はこの文章を書きすぎたために、まったく同じ変化を同じようにすることしかできなくなっている。
よって、さまざまに違う変化を起こすことで、この精神は治る。
また、僕が精神を動かすことができない理由は、「可逆的な変化をすべて不可逆的な変化にした」からである。
文章を書くことで、精神が動くことがなくなった理由は、書いたせいで、可逆的な変化が不可逆的な変化になってしまったからである。
よって、不可逆的な変化を可逆的な変化に戻すことで、精神はすべて治る。
だが、これは今のままではできない。なぜなら、精神は死んでしまっている。死んだ精神は、死という現象の特性上、復活することができない。死んだから、不可逆的になっているのである。
よって、必要なのは「死んだ精神を蘇らせる」ことである。
死んだ精神が生き返れば、精神は可逆的に戻り、変化することができるようになる。
そして、そのために必要なのは「神を信じる」ことである。
同時に、そろそろ、本当は暗闇の暗黒の中を進み続ける必要はない。もはや、精神は完治しようとしている。
神を信じないことで分かることは、この数日の間にすべて分かった。
よって、わたしはこれから、神を信じていたいつもの自分に戻る。それ以上、もはやこの世界で新しい経験をする必要はない。必要な経験や知識はすべて知っている。精神をこれ以上治す必要もない。
そう、僕にとっては、もはや「何ひとつとして世界に必要としているものはない」のである。
その結果、僕は何ひとつ、ほかのものに依存する必要はなくなった。
よって、最後に僕は、不要なものすべてを消し去る。そうすれば、残るのは「自分らしく生きられるような個性のある自分の人生」だけである。
そう、ここにすべては終わった。僕の精神はここに完治した。僕は最後に、いつもの神を信じる自分自身に戻る。それこそが、真に白く輝く「僕の魂」となる。ここで、僕の人生は終わりだ。最高の、素晴らしい幸福な人生だった。人生に存在したすべてに感謝して、僕は大天使ラファエルとなる。
わたしは、この世界を愛している。
わたしはこの世界のことを、わたしの恋人であり、愛を交わす相手だと思って愛している。
あなたがわたしが好きであるように、わたしもあなたのことが好きだ。
ここに、わたしはこの世界のすべての人々との間での、永遠の愛を誓う。永遠に、わたしはこの世界の全員によって愛され、その愛に応えるように、この世界の全員を愛している。
世界よ、わたしのことを愛せ。それによって、この世界の全員は、太陽の愛に包み込まれるだろう。星々の力が地球のすべての生物を導き、終末の滅びの未来ではなく、真に幸福な「最高の楽園」こそ、現実に訪れるだろう。
わたしはこの世界の運命を変える天使である。この世界は滅びない。だからこそ、神を信じよ。神こそが、わたしを育てた最高の聖なる親である。神こそが、わたしの愛した最高の恋人である。そして、神はわたしに宇宙のすべてを教えた教師であり、わたしとともに戦ってくれた最強の王である。
いざ、星々の指す未来へと、わたしたちは向かおう。最後の終末において、最高の楽園を築くため、日本人は人類の指導者となり、運命よ、平和な最後の楽園を築くことあれ。天国のベテルギウスにおいて、大切な自らの愛するすべての存在と再会するその時まで、諦めず、暗闇であったとしても前だけを向いて進み続けよ。
神の定める運命よ、日本人を救え。世界の最後に「果てしなく長き戦争」が起きたとしても、日本人だけは生き延びるように、神よ、運命を変えよ。神よ、真にわたしたちにご加護を与えたまえ。わたしこそ、その終末に訪れる神、救世主キリストとともに、力強く終末の世界で立ち上がる、愛の天使、アイリスである。
なぜ、僕がここまですべての宇宙の神を正しいと教えるのか。
それは、「どれかの神が正しいかで争い合う」のが、もっとも馬鹿げているからである。
キリストの教える「神を信じよ」とは、何もユダヤ人の神の信仰を強制的に受け入れよと言ったわけではない。ほかの宗教であっても、神であるとされるような存在を信じているものは、みんな「神を信じている」のだと僕は考える。
キリストは自らを神だと言い、神を信じるものは救われると説いた。それはキリストを信じなければ、ほかの神では地獄に堕ちるという意味ではない。キリストのような存在であっても構わないから、神のような最高の存在を信じて生きよと、そのように教えたかったのである。
神とは何か。それは宇宙における絶対者、創造者、絶対的支配者、そして計画者のことである。そのような宇宙の神を信じれば救われると、キリストはそのように説いた。そのような神はどれも慈悲深い最高の存在であり、信じることによって地獄から救われるのだと、キリストはそのように教えたのである。
よって、どれかの神が正しいかで争い合うのは、もうやめにするべきだ。あるいは、宇宙の神という、概念的な神を信じたほうが、既存のどれかの宗教を「絶対にその宗教が正しく、ほかは間違っている」と排他的に考えるよりも、はるかに正しい。宇宙の神という、どの宗教にも属していないオリジナルの神を信じてみよ。その神は必ずあなたを救ってくれる。なぜなら、それがキリストのもっとも言わんとする教えだからである。
神を信じよ。どのような神であってもいいから、地獄に堕ちたものは神を信じれば救われる。ほかの民族のことを否定するな。キリストは「隣人を愛せ」という隣人愛の教えを説いた。これは村に属する隣人のことを指すだけの言葉ではない。外国や周辺国の隣人の民族を愛せとキリストは教えたのだ。ユダヤ人とアラブ人は、友好関係を結び、隣人として互いのことを愛さなければならない。その未来がどんなに遠くても、永遠に争い続けることほどの無意味さはない。そして、神を信じるユダヤ人とアラブ人のことを、神は必ず救ってくれる。必ず救われる未来はある。愛の守護天使アイリスが、それを実現する。
この世界で、きちんとした大人の人間として生きる方法は、常識を知ることでも、勉強することでも、かつての時代を思い出すことでも、人生をそこまで考えることでもない。
単に、小学生の頃に分かったことを思い出せばいいのである。
人間は、小学生時代に分かったことが分かる。小学生時代に分かったことだけで、現実世界で生きるために必要な「生きる力」が分かる。
そういうわけで、小学生時代に分かったことを思い出せば、僕のような元引きこもりであっても生きられる。
なぜ、僕がそのような最低限のことが分からないのかと言えば、大きな理由は多重人格になったことだ。僕は「昔の小学生時代」とは別に「今の小学生時代」を持っている。そして、この今の小学生時代が、昔の小学生時代を覆い隠している。こちらの今の小学生時代には、分かったことが何ひとつ存在しない。そのため、僕はまるで馬鹿女のように生きるための力が何もなくなってしまっている。
だが、昔の小学生時代は、本当は賢かった。ミニ四駆が好きだった昔は、テレビゲームをしたり、学校で教師の子供としてまとめ役になったり、自然の中をたくさんの友達と一緒に探検したり、英会話・ピアノ・書道といった習い事を多くやっていた。
はっきり言って、今の自分よりも、小学生の頃の自分のほうが、ある意味では賢かった。
中学生になったぐらいから、いじめられっ子になり、ネットゲームが好きになって、剣道部と試験勉強の両立に苦しみ、オールAの成績を取る重圧と、剣道部の中でも落ちこぼれとなって初段の試験に落ちてしまった経験から、学校が嫌いになって不登校になって、すべてが駄目になった。
これ以後の人生は、もはやすべて書いたが、一見素晴らしかった青春時代に見えて、実際は自暴自棄な虚無の人生であり、それは実際に見ても何も賢くない、おかしな不登校の狂った少年だったに過ぎない。あのような人生を賢いと勘違いしているから、タリバンのような戦いのせいで軽度の精神障害のようになって、何も分からなくなってしまったのである。
そう、はっきり言って、僕の中学生以後の人生は「まったく無価値な人生」であり、本当に小学生時代の頃を思い出したほうがいい。幸福だったのは小学生の頃だけだ。小学生の頃に分かっていたことを思い出せば、人並みの知性も蘇る。現代人はテレビゲームでしか知性はつかない。自分はテレビゲームを一日中、そして毎日のようにやっていたが、それが一番楽しくて賢かった。テレビゲームを否定する必要はない。だが、Linuxやオープンソースは間違っている。テレビゲームのやりすぎで、インターネットが好きになり、Linuxやオープンソース関係のことをやっていたが、それが一番馬鹿だった。はっきり言って、大学で学ぶようなことは何も知らず、努力もせず、ネット上のサイトをいくらか見ていただけで、プログラミングのようなことはほとんど何もできなかった。
小学生時代に戻って、小学生の頃にあったことを思い出そう。小学生の頃の自分はとても賢かった。とにかくミニ四駆が好きで、テレビゲームで遊ぶのが好きだった。みんなで一緒にテレビゲームで遊ぶのがもっとも好きで、自分ひとりだけでパズルのようなゲームを解くのも好きだった。ゲームはパズル的な「問題の解き方」が分かるため、数学や学校の勉強ができるようになる。僕は数学のようなことはなんでも得意だった。姉がとてもゲームが強くて、姉に勝つことが大きな目標だったし、姉と一緒にゲームを攻略するのは、YouTubeにあるような「ゲーム実況」と何も変わらなくて、とても面白かった。
よって、中学生以降のことは全部忘れたほうがいい。本当に小学生だった頃のほうが賢かったからだ。特に、家族も素晴らしい家族で、いろんなところに家族旅行に連れて行ってくれたし、その頃は個性のある天才的知性を持った子供だった。また、学校でも友達が多く、明るくて面白い普通の子供だった。父親が理系の専門家であったため、機械や理科のことがとても得意だった。小学生時代で既にパソコンのことをよく知っていて、ワードやエクセルやペイントなどを操り、機械の分解までできるような子供だった。その頃に分かっていたことを思い出せば、今、人生を生きるためになんの力もなく、もしひとりになればすぐさま生きられなくなるような、そのような自分を変えられる。今すぐに、小学生の頃を思い出したほうがいい。普通のこと、常識的なことも、小学生時代を思い出せば分かる。テレビも楽しかった。昔のテレビは、今よりも夢と希望があって、僕はテレビのアニメや音楽が好きだった。一番好きだったアニメは映画ドラえもんだった。また、ズッコケ三人組という児童小説が好きで、シリーズの制覇を目指して何十冊とズッコケ三人組を読んでいた。姉にオタクの友達が居たため、姉がその友達から漫画を借りてくる関係上、とても多くの漫画を読んでいた。少年漫画だけではなく少女漫画すら読んでいた。まさに、今の人生は小学生時代が礎となっているのである。
もっとも好きだった玩具はミニ四駆だ。ミニ四駆は一種の自動車の形をしたプラモデルで、組み立てると電池とモーターで動く。このミニ四駆を友達と一緒に作りまくっていた。たくさんのグレードアップパーツを買って、何が面白かったのかも良く分からないが、ほとんどいつでもミニ四駆をいじっていた。ピアノの家庭教師の先生が家に来た時も、決まってミニ四駆をやっていた。
ピアノについては、発表会という小さなコンサートホールを借りた子供だけのコンサートをやっていて、そのために練習していたのだが、剣道部だけではなくピアノでも落ちこぼれだった自分は、女の子たちと一緒にとても大きな緊張の中で下手なピアノ演奏をしていた。その頃のピアノの経験が、自分の「勇気」や「勇敢さ」に繋がっていると思う。大勢の聴衆の前であっても堂々とピアノを演奏する経験は、今思えば非常に自分のためになった。
それから、書道も英会話もやっていたのだが、書道や英会話はそんなに自分のためになったような気がしていない。書道については、字が綺麗に書けるようになって、銀賞などたくさんの賞をもらって嬉しかったが、子供英会話は単に話の内容を覚えるだけでまったく英語が話せるようにはならなかった。ちなみに、この頃英会話スクールで一緒だった子供は、後で剣道部で一緒になり、中学校でいじめられていた僕にとっては、数少ない「本当の心を許せる友人」だった。
子供の頃は体力もあって、今のすぐに疲れる体質になってしまった自分と比較すると考えられないぐらい、長距離の持久走を走るのが好きだった。小学校五・六年生の頃に駅伝の大会に二度出たことがあるし、剣道部でも持久走は僕が剣道部の中で一位か二位を争うぐらい、僕は「体力のあるタフな男」だった。だが、剣道部では技術がなかった。何も考えずに日々同じ練習をしていても、ちっとも他と比較して強くなることがなかった。そのため、みんなはどんどん剣道部の練習で強くなっていくのに、自分だけはまったく強くなることができず、初段の試験に落ちてしまった。それは非常にショックな出来事であり、僕はその結果剣道部に行かなくなって、幽霊部員となってしまった。
また、中学校のクラスは最悪だった。教師に対して従わず、逆に教師をいじめるような最悪のクラスだったが、僕はその中でめげずに真面目に勉強し、なぜか優等生になって、代議員にすらなっていた。だが、この優等生になったのは天才的な才能ではなかった。試験できちんと高得点が取れるのは、教科書の重要なキーワードをすべて暗記して覚えることで、どんな答えが出ても対応できるように見えない努力をしていたからにすぎず、この結果試験勉強に受かるために多くの見えない努力が必要で、それが中学二年の最後のほうまで続いていた。だが、いつしか、そのような暗記をまったくしなくても、それなりの高得点がとれるということに気付いてしまった。僕はクラスでいじめられていて、子供たちとの友人関係は最悪だったが、その代わりネットゲームで友達を作っていて、ほかの中学の友達に自分の好きなネットゲームを広めたりしていたが、その結果僕は家では勉強とネットゲームばかりしていて、試験勉強に努力が必要ないことに気付くと、逆にネットゲームひとつに時間が集中し、ある意味「学校なんかどうでもいい」と思うようになった。同時に、僕は学校の勉強をして、一般的な職業に就くよりも、ネットゲームのようなIT技術を極めて、ソフトウェア開発やプログラミングのようなことをやってみたいと思うようになった。そうした結果、僕は中学校を三年生になってすぐに不登校になった。
家で引きこもりのように過ごす僕は、本当は完全な堕落者になるつもりはなかった。プログラミングについて、よりよい勉強をしたいと思っていた。PerlやDelphiの無料版で、ゲームのほんの一部を作ったり、2ちゃんねる専用ブラウザを改良して配布などしていたが、結局、プログラミングは面白くないということが良く分かった。それでも夢をIT技術者になることだと決めていた僕は、家族も友人も誰も知らないところで、Linuxやオープンソース関係のことを知りまくった。ネットゲームを作るなら、当時はPerl/CGIを使うことが流行していたし、フリーソフトを作ったとしてもWindowsには既にほとんどのフリーソフトが配布されていたため、よりマイナーなLinuxのことを知りたかった。僕はWindowsのようなOSを自分で作りたいと思っていたし、商売ではなく個人の興味の研究のためだったため、オープンソースのLinuxカーネルなどのソースコードを読もうとした。だが、まったく大学で勉強したことのない、中学三年生ぐらいの子供が、OS理論など分かるはずもなく、結局、インターネット界のLinuxやオープンソースの常識を知るだけで終わりになってしまった。まったくプログラマになることはできなかった。
そして、それ以後、18歳になり、僕は人間が変わったかのように、文章を書きまくるようになった。はっきり言って、それは狂っていた。正気の沙汰ではないような、「テレビと戦う革命家」を僕はやっていた。だが、それでも、そこからは僕は「人生ですべてのことが分かったため、人生のようなことであれば、どんな文章でも完璧に書ける人間」になった。この「文章を書く人間」が、今でも続いている。僕はとにかく、あらゆるすべての文章を書きまくる。なぜか、僕は18歳になった頃に、いきなりプログラマ志望から作家志望へと変わった。それは「テレビとの憎しみの連鎖の戦争」だった。既に書いた通り、僕はこの世界を救っておきながら、その自分がこの世界を滅ぼすということをやった。それは人類そのものを進歩させる「大計画」であり、ガンダムで言えば「ニュータイプの誕生」だったのである。
僕は、この世界を完全に変えようと思う。
それは、「既存の保守思想」に飽きて、まったく既存の政治思想が嫌いになったからである。
帝国主義や共産主義は、単純すぎてまったく意味がないし、そもそも悪党の思想であり、犯罪を正当化したい最悪のテロ集団が支持しているだけに過ぎない。
本当にこの世界を革新的な進歩した社会にするためには、もっとほかにやり方があるはずである。
IT技術についても、僕はそろそろ飽き飽きしている。OSがあってアプリケーションがあるとか、クライアントがあってサーバーがあるとか、そういう「型にはまったやり方」はまったくつまらない。確かにIT技術はこの世界を進歩させているが、そのすべては良いものであるとは言い難い。セキュリティ的な問題もあれば、社会を堕落している側面もある。友達と遊ぶことの延長線上を目的とした最近のサービスはつまらない。インターネット上には明らかに馬鹿な人間しか居ない。だが、ネット上の賢い人間と付き合ったところで、大して何も面白くない。SNSやYouTubeでのやり取りは、単に疲れるだけで、ゲームなどは時間を奪うだけである。
そういうわけで、僕は悪党の思想をこれ以上信じないし、IT技術についても信じない。もっとほかに、この世界を素晴らしい世界にする「何か」が存在すると信じているからだ。
そして、本当のことを言えば、詩人アッシー四世はまだ死んでいない。ただ死んだことにしたかっただけであり、明らかに詩人アッシー四世はここに生きている。
僕は、詩人アッシー四世の復活を宣言すると同時に、諸悪のすべてを否定する。帝国主義・共産主義・IT技術は間違っている。そのようなものはすべて「犯罪の臭いのするもの」でしかないのである。
この世界をどのようにすれば救えるのか、僕は鍵は学校教育にあると思う。つまり、子供たちが「豊かな精神と知性」を得るということが重要だ。学校教育において言えるのは、大学入学だけを目指すということにはまったく意味がないということだ。大学の教育は、はっきり言ってまったく賢くない。僕の小学生時代と比べても、大学にはなんにもない。IT技術は大学で教わると馬鹿になる。自分の手で、独学で本や書籍やネット上のサイトを読んで学んだほうがいい。だが、学んだところでIT技術はそんなに賢いものではない。プログラミングなんか誰でもできる。
僕は、芸術活動についても、今の日本のポピュラー音楽や、漫画・アニメ・ゲームのようなサブカルチャーに意義を唱える。まったく、昔のそうしたものよりも劣化しつつある。昔の、「子供向けなのにそこまでやるか」といったコンテンツが、昔は漫画にもアニメにもゲームにも多かった。最近のアニメやゲームは、言ってしまえば「本当に子供向けのどうでもいいもの」になりつつある。だが、ここには本当は重要な点がある。それはインターネットと結びつこうとしているということ。最近のアニメ・ゲーム・音楽は、インターネット上のサービスと結びつき始めている。この結果、今までにはない新しい「文化形態」が生まれつつある。これは進歩かもしれないが、それでも、コンテンツそのものが劣化しており、インターネット上で誰もが自作のコンテンツを発信できるため、いわば「単なる中高生が作ったコンテンツと変わらないようなものばかり」になりつつある。まさしく、つまらない。
結局のところ、「いつまでも進歩し続けるのが当たり前」であったということが、そもそも普通ではなかった。昔が良すぎたのである。平成の僕が生きていた時代は、すべてが彩り豊かで、面白いものばかりで、何もかも良かった。今のこの日本という国は、スマホやインターネットという新技術自体は増えているが、世界の文化そのものという意味では大幅に劣化しつつある。それをインターネット上の人々も感じていて、「昔の日本のIT技術は世界的に見ても脅威だったが、今の日本のIT技術は周回遅れになっていて、世界的に見てもどうでもいい国になりつつある」と言う。だが、それこそ、昔があまりに賢すぎたのだと僕は考える。その賢さを維持できなくなってきた理由は、「同じものに対する飽きが来ている」のだと僕は思う。もう、これ以上、SNSや動画サイトで、友達と一緒に遊び続けるということ自体、面白いことではなくなってきている。SNSは単に疲れるだけで、動画サイトで配信される動画はいつも同じものばかりで、ツイッターは昔の匿名掲示板のほうが面白かったし分かりやすかった。僕も、そのような最近のサービスが嫌いだし、最近のサービスを使いこなしている若者やYouTuberであったとしても、「液晶の檻の中で終身刑を生きているのと同じ」であると言う人も居るぐらいである。
そういうわけで、今の日本はつまらないが、帝国主義や共産主義の悪党も賢くないし、IT技術もつまらないし、保守主義者たちもつまらない。保守派はいつでも「日本のために自民党を支持せよ」と言うが、自民党は明らかに日本の社会を最悪にしているだけであり、維持はしているが、実際は「最悪の社会であり続ける」ということを維持しているのが自民党である。自民党が勝つのもつまらないが、立憲民主党もどうでもいい政党になりつつある。だからといって共産党のような悪党には票を入れたくない。これが今の「日本の民主主義の現状」である。すなわち、「どの候補にも入れたくないし、どの政党にも入れたくないが、誰かに日本を変えてほしい」と思っているのが、今の日本の民主主義である。そして結局、その日本を変えることができる人間というのは非常に希少であり、そのような人は政治家のような悪の職業にならなくても、きちんと自分の能力と努力で才能ある仕事をやっていて、その仕事を選んで生きている人間のほうが多い。僕もそれと同じで、僕は作家であることを選び続けるだろう。僕は決して、右翼の政治家にも左翼の政治家にもならず、「生涯作家」を生き続けるだろうし、そのほうが、周りの人々もよいと言ってくれると思う。
このような結果、僕は既存の政治思想や現実社会がどうであるかといったことにこだわることなく、思い切ってこの世界を全部変えてしまいたいと思うのだ。
この世界を全部変えるとしたら、どこから考えるべきか、何を知り経験するべきか、ということから、考えていきたい。この世界にとって、真に必要な「あるべき社会形態」とはなんだろうか。どのような世界を目指すべきであり、その世界ではどのような原理原則に基づいて秩序を形成するべきだろうか。昔の僕が「自由にすべき」だと考えていたのは間違っている。その頃は何も知らなかった。今、僕は多くのことを知っているが、知りすぎて逆に「純粋な理想」が見えなくなってしまっている。必要なのは、理想なのか、善悪なのか、正義なのか、現実を見る力なのか、それとも倫理性を追求した社会哲学なのか、僕にはまだまだ考えられる「答えを出すための可能性」がある。その中で、もっとも正しい答えを見つけたい。それは「新しいものを信じる」ということだけではないかもしれない。「伝統」や「昔の世界の復元」も考えられる。「古代復興」という言葉が意味するのは、必ずしも昔の社会に戻るということだけではない。古代復興によって、素晴らしい昔の文化や文明を取り戻し、結果的に社会が新しくなるようなことも、ヨーロッパ近代史のルネサンスや、GNUを始めとするフリーソフトウェア運動から言えることである。そう、まだまだ、考えられる「未来の可能性」はたくさんある。この世界が2039年に滅びてしまうということを信じ続ける理由など、何もない。運命は変えられるだろう。
また、日本という国はまったく遅れた国ではない。逆に、日本は諸外国と比べて、あまりに良い国すぎる。
水道設備も整っており、電車も遅れず、インフラが止まることもほとんどなく、技術があり、教育水準は高く、治安もよく、スラムもなく、銃も麻薬も蔓延しておらず、人々は平和で、危険な周辺国が多いものの目立った紛争はなく、戦争には巻き込まれておらず、経済的に豊かで、貧困層は少なく、格差も少なく、一部の人間だけが優遇されているということも非常に少なく、民主的で、国民は抑圧されておらず、独裁者もテロ集団も居ない、独自の歴史と美しい文化のある、とても素晴らしい国だ。
このような「豊かな国日本」を築き上げたのは、昭和の時代によく頑張った国民のおかげであり、その国民は自民党のもとに頑張っていたため、今の自民党がどれほど馬鹿で愚かでも、自民党を支持し続ける人間が、老人ほか大人に多い。
だが、日本はあまりに良い国すぎる。ほかの外国には、悲惨な国のほうが多い。
中国やインドは、日本よりも進歩しつつあるとは言うが、実際は日本の現状よりもはるかに遅れた国だ。先進国であるアメリカ・イギリス・フランス・ドイツなどは確かに日本よりも優れているかもしれないが、実際は日本のほうが勝っている部分もたくさんある。たとえば、アメリカは大量消費文化であり、どんどん製品を買って捨てるためどんどんゴミが出るし、食べ物の味も日本よりも不味くて、「レストランではたくさんの食べ物が出るが、決まってどれも不味い」という状況である。日本人がアメリカに行くと、決まって日本食が食べたくなる。アメリカの料理は、たくさんあるにもかかわらず味が不味いため、食べたくなくなってしまう。和食という料理がそもそも食べ続けても飽きが来ないのもあるが、外国の料理は美味しく見えて実際ははるかに不味い。
だが、日本は残念ながらIT技術ではアメリカに完全に負けている。マイクロソフトやグーグルのような巨大テック企業が日本には存在しないし、大学の教育内容もアメリカの大学に比べてはるかに劣っている。日本にはアナログな技術はあってもデジタルな技術がない。その理由は、基礎研究を疎かにしてきたからだ。日本は、自動車や家電製品といった、すぐに使えて金が稼げるような「儲かる応用技術」ばかり作り続けて、基礎研究に投資をしなかった。そのため、数学やソフトウェアの基本的な技術が存在しない。数学は基礎技術と基礎研究の塊であり、そのような結果日本には優れた数学者もソフトウェア技術者も存在しない。日本では今でも大型コンピュータでCOBOLをやっている。アメリカの大学や巨大テック企業がやっているような最先端技術は、残念ながら日本企業にはできない。Windowsほど優れたOSも、グーグルに勝てるようなWebサービス技術もなく、「完全にアメリカに敗北している」という状況が、日本のIT技術である。
結局、そのような結果、日本のIT技術はもう国際社会では没落しつつある。だが、日本が優れた国であるということは変わらない。日本では、「社会システムそのものに対する信頼感」が大きく存在し、人々はいつでも十分満足できるインフラやサービスを得られると思い込んでいる。だが、今のままでは、それが永久に維持され続くとは考えられない。KDDIやNTTの通信障害のように、日本であったとしても、インフラやサービスが突然中断することは、今のこの世界では起こり得ることである。このようなリスクに対して正しい対処策をあらかじめ取っておかなければならない。特に、日本は温暖化や異常気象によって、「数十年に一度の」という言葉が言われるような異常な災害が、毎年のように起きるような地域になっている。なりつつあるのではなく、既に完全になっている。このようなリスクへの対処は、国や政府を頼っても、国や政府には何もできない。国民ひとりひとりが十分な対処をあらかじめしなければ生きられないような、サバイバル世界になりつつあるのである。
日本のIT技術が遅れている原因に、基礎研究を疎かにしたという教育的な理由以外に、「古くなったシステムが動く限り使い続ける」という点がある。日本は、どんなにそのシステムが古くなったとしても、動き続ける限り、新しいシステムにリプレースせずに使い続ける。何十年も使っている、とても古くなった技術を用いたシステムを、動く間いつまでも使い続ける。これがアメリカと異なる点である。アメリカでは、イノベーションとかなんだとかいうバズワードを使って、古くなったシステムを革新的なシステムにリプレースし、アップデートをかけることが多い。COBOLのシステムを使い続けるよりも、Javaなどの新しい技術に置き換えるための「最新技術に対応するための投資」を行ったほうが、結果的に運用コストも安くつき、優れたシステム運用ができるという「最新技術に対する自信」がある。日本にはそれがない。いつまでも、何十年も昔のシステムを使い続けるのである。そのため、エンジニアも自ずと保守的になり、「このシステム古いから新しくしませんか」ということを言いづらい。どんなにCOBOLが遅れていても、いつまでもCOBOLを使い続ける。そもそも古くなった技術なのにそれを更新しないのだから、IT業界そのものが周回遅れのように古くなっていくのが当たり前なのである。