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2022-03-21

自分を成り立たせること、自分を維持することを、あまりに複雑かつ高度にやっているから、僕の人格はおかしくなっている。

もっと簡単に、単純に自分を成り立たせて、自分を維持すれば、楽になる。

また、目的と方法と結果を、単純に考えればいい。おかしな国家構造の仮想世界を作らず、単純に目的から考えれば、どんなことでも分かる。

資本主義と共産主義

資本主義者は、自分のものは自分の所有物であり、他人に無償で明け渡すことはできないと信じている。

だが、実際のところ、みんなで共有するということは、そんなに悪い発想じゃない。

また、資本主義者は、民衆の意志を信じているため、ひとりの独裁者が賢いなどということはないと信じている。

だが、絶対的に賢い指導者を信頼し、そのひとりが支配して計画経済を行った上で、みんなで所有物を共有し、支配された中で楽に生きられるような楽園を築くということは、本当は可能である。

端的に言えば、資本主義と共産主義の違いは、それが基本である。資本主義者は、所有物、資産、自己責任、そして民衆の意志と自由を信じている。共産主義者は、支配者による完璧で計画された経済のもとに、所有物を共有し、平等に指導者の下に社会所有を行い、楽園を作ることを目指しているのである。

自由による救い

しかしながら、そうは言っておいて、僕は共産主義は嫌いである。

なぜなら、共産主義は自由がなく、「共同体意志」のもとに、少しでも共同体の意志に背いたものは排除されるからである。

しかしながら、多数派が絶対であり、少数派の意見を聞かないことは、民主主義においても同じである。

だが、民主主義は、それでも、自分の資産や行動や思想を、自由に自分で信じることができる自由がある。だからこそ、人々が全員間違っていたとしても、自分だけは正しいのだという可能性と信じる希望に基づいて、この世界を救うことができる。

そう、世界を救うという意味から考えると、むしろ共産主義よりも、民主主義のほうが、この世界を救う可能性がある。それは思想信条と人生の自由があるからである。

自己責任と共同体

実際のところ、人間はすべてを想定することはできない。ある程度の失敗は自己責任であると考えなければ、全員を平等に救うことなどできない。

だが、だからこそ、共同体に所属して、共同体の人々と仲良く暮らすということは重要である。なぜなら、自分を助けてくれるのは、第一に自分の属する共同体だからである。

しかしながら、自由においても、人々を助けることができないわけではない。その逆に、「100%自分の自己責任」であると考えた時、はじめて「社会に依存する不自由からの解放」が得られる。そして、自らの自由な経験から、「積極的にこの世界を救う」ということができるようになる。

そして、そこでは、したいこととすべきことが矛盾しなくなる。楽を目指しながら辛い労働をするのではなく、自らが「自分が労働したいから労働する」という考え方になる。これこそ、「チャンスを実現する自己実現」である。すなわち、チャンスさえあれば、自分から人々のことを助け、自分から人々の幸福を願い、善意で手助けをすることができるようになるのである。

社会の進歩

また、科学技術が、世界に対して不利益をもたらすとか、たとえば社会の秩序や環境を破壊するという考え方をするのは、共産主義的でつまらない。

社会の進歩において、ひとりひとりの自由を尊重するというのは、成熟レベルが低い。それぞれが互いに信頼して、自由なままで社会を築くといっても、簡単に秩序を守ることはできない。ひとりの賢い指導者に従い、みんなは不自由を受け入れて平和を手にすることはできるが、今度は支配者が横暴になったり、支配者同士が勢力争いや権力の座を狙って戦うようになる。国家と国家の連帯、統一などを経て、国家は事実上「統一されて何も変わらなくなる」だろうが、それは帝国の体制を覆すことが簡単にできないことから、権力そのもののあり方が腐っていく。

必要なのは、法律という「明文化されたルール」だ。そしてそのルールはさまざまなやり方で決められるが、民衆の平等を信じているのはそんなに成熟レベルが高くない。民衆が全員同じぐらい賢いことを想定すると、馬鹿な人間に合わせるようになる。より正しいモデルは、それぞれを自由にするモデルであり、それぞれが好きな人間と付き合い、自由に共同体を作るモデルだ。だが、これはそれぞれがバラバラに分裂してしまい、らちがあかなくなる。だが、それぞれを統一するモデルよりも、それぞれが「会社」を作り、会社が組織を自由に作ることができるモデルが考えられるが、ここでも、「ブラック企業」の存在が生まれるため、結局法律すなわち「国民すべてを支配するなんらかの王」が必要となる。結果、社会は先ほどと同じ、帝国主義になる。

しかしながら、何をしても帝国主義が正しいわけではない。なぜなら、「帝王という権力のスタイル」はたくさんあるからである。たとえば、みんながひとりの指導者に従って、みんなで全体主義的に知性が高まるのも権力のひとつのあり方だ。ひとりの指導者だけではなく、たくさんの指導者がそれぞれ自由に社会を作ることもできる。また、自由経済に従って、さまざまな組織や議会を自由に作る「自由な社会」も考えられる。それらは「自由な社会制度」にすることができる。

このように考えると、むしろ「民主的なシステム」が重要であることが分かる。たとえば、王をひとり選び、それを血筋で決めるのは、あまりに生物学的で、つまらない。人々の意見によって皇帝を決める、「元老院的な国民議会」を作ることもできる。投票や選挙、金や市場経済もひとつのやり方であり、会社という組織に入社して、出世して上役や社長になるのもひとつのやり方であり、起業して自らの会社を立ち上げ、真に好きなことをするのも、またひとつのやり方である。

ただし、社会主義にもそうしたやり方はある。国民議会を評議会、すなわち「ソビエト」にする方法もあるだろうし、起業の代わりに評議会や国民公社の中で「部署を作る」という方法もある。ロシアの中の内部の共和国のように、「共和国の中に共和国を作る」とか、「共和国の連合体あるいは連邦とする」という発想もある。社会主義的な共有や共同体は、独裁者だけに頼るのではなく、それぞれが評議会において自由に人々のノルマと報酬や資産を決め、分配することもできる。そう、ソ連は社会主義国家だが、決して非民主主義的ではなく、民主主義的な側面もきちんと存在したのである。

経験的な成熟

結局、自由とはなんなのか。それは「経験的な成熟」である。

さまざまなことを経験し、誰も知り得ないことを知り、当たり前のことをよく考え、ひとつひとつの「可能性の限界」に基づいて、それぞれの経験から宇宙の真理と道を知っていく、そしてそのような成熟した、きちんと社会や発達について分かっている人間が、分かっていない子供たちを統治する、それは決して支配や管理ではなく、それぞれの子供たちの「自分の興味あること」に従い、その上で「それぞれが嫌だと思うこと」をできるだけなくしていき、仲良く平和な社会を「長」となって築くことができる、これが「経験的な成熟」である。

ここで見えてくるのは、「アイデンティティの発揮」である。すなわち、「自分が本来の自分を発揮して、自らがなりたいような自分になることができて、その意味や効果をよく知っていて、そのようなアイデンティティを自らの力で形成することができることに喜びを感じること」である。

また、これは決して非論理的な思想ではない。なぜなら、「いつどのようにすれば自分のやりたいことができるのか」ということを、「環境」から考える結果は、すなわち理性的な「数学的正しさ」と等しいからである。

経験的な成熟の結果、子供たちはきちんと分かった「長」に従い、自由なままで理想の社会を築くことができる。その鍵は「信頼」にある。すなわち、「自ら自由を放棄すること」、これこそが社会構築の鍵であり、信頼関係を築く重要なピースである。秩序を築くためには、自分の利己心だけを求めていたのではいけない。みんなのために自分の自由を放棄することで、はじめてこの世界は秩序が保たれるのである。

個性と多様性

社会はどのような方向に向かっていくべきなのか、それは「個性と多様性」である。

それぞれが個性を尊重し、多様性を構築し、多数派だけではなく少数派にも平等な自由が与えられること、これが最終的な「理想の社会」である。

だが、だからといって、伝統的なものを排するべきではない。なぜなら、伝統はまさに「国家としての文化という個性」だからである。それぞれの伝統的な文化は、それぞれの民族の個性である。よって、伝統もまた、尊重すべき大切な「多様性」なのである。

すべての人間が個性を尊重され、すべての国が多様性を認めれば、必ず「自由意志」と「自尊心」が尊重されるようになる。それこそが、正しい「いじめのない社会」であり、「成熟した経験の末に生まれる正しい社会秩序」なのである。

また、このような秩序は、帝国主義のように、トップダウンで誰かが勝手に決めることではない。それぞれがボトムアップに、現場に居るそれぞれの個人個人が、自らの個性を決め、その結果多様性が生まれるべきである。

そう、これこそが、共産主義的にならず、自由から考えた正しい「理想の平等」である。共産主義のやったこととは、まるで正反対の答えこそ、まさに「理想」なのである。

人工葉緑素を人間に取り付ける

ダビデは、3,000年の人生を生きて、人工葉緑素を開発するが、これは簡単に着れる宇宙服の一部となる。

すなわち、人間に人工葉緑素をそのまま取り付ける。

こうすると、人間はいわば「自らが植物と同じものになる」という、新しいヒューマノイド生物、すなわち「花となった人類」が生まれる。

こうすることで、人間はこの宇宙服を着ている場合に限り、地球だけではなく、月であろうと火星であろうと生活できるようになる。これが、まさしく「天国」となる。

分からないほうがいい

人間は、分からないほうがいい。

たとえば、僕はベクトルや行列について何も知らないし、世界史の現代史についても何も知らない。世界大戦のことや、ロシアや中国の革命のことを何も知らない。

だが、そういうものは、分かってしまうと、逆に今まで持っていた「理性」を失ってしまう。

何も分からないということは、そういうことをはじめから「考えられない」ということを意味するが、むしろ、そのほうが多くのことを「自分の力で予想する」ということができる。そのほうが、賢い人間になれる。

よって、何も知らず、予想して「想像で考える」ことのほうが、はるかに人間の知性を高め、心を豊かにする。

本当は、僕は数学と生物学のことを学びたいとは思っている。それが結局、僕の学びたかった、地球における正しい「脳」と「体」と「生物」の分野だ。だが、それらの分野を僕は学ばない。実際に学校の教科書で数学と生物学を学ぶと、それは間違いだと分かるからである。

すべてのことを想像で考えた時に、はじめて見えてくる「想像の中の仮想世界」がある。この想像の仮想世界こそが、僕の手にしたかった大切なものである。

よって、僕はもう本や学校では学ばない。すべてのことを、心から生まれる自分自身に対する「認識」から考えればいい。それがもっとも、この世界において大切なことを思考し、思弁し、議論できる、「哲学者」を誕生させる。そして、それこそがこの世界でもっとも賢い人間である。

原則として言えるのは、「分からないほうがいい」ということである。何事も、分からないほうがいい。分からないほうを取れば、知識がなくてもこの世界において先に進むことができる。どんどん分からなくなって、それではじめて自由と勝利を手にできるのである。

すべてを現象と事実と捉えよ

正しい考え方とは、すべてを「現象」あるいは「事実」と考えることである。

現象は、必ずその法則や原理の通りの現象が起きる。そして、事実は、必ずひとつ真実があり、それはどうやっても変えられない。

この「現象」と「事実」こそが、この世界のすべて、人生と宇宙のすべてを解き明かすことのできる、「最高の法則」である。

ツイッターより @linux691

好きなだけ文章を書けばいい。最初から、本当はこの人間は「どんなに頑張っても元に戻すことはできない」と気付いている。気付いていながらにして、元には戻らないことを直視しようとしない。それならば、好きにすればいい。この文章を書ける間、自らを優越感を持って人々より賢いと思い込めるだろう。
posted at 22:25:15

よって、この人間はすべてを忘れて、ここに文章を書くのがいい。それしかしなければ、この依存症は最後に、文章を書くのをやめてしまえば治る。次から次へと浮かぶ「大切なもの」は、戦いの中で失った「失ってはならなかったもの」だ。それは、すべて、失ったと思うのも、取り戻したと思うのも幻想だ。
posted at 22:24:15

そう、真に戦いの中で信じていたのは、愛でも憎しみでもない。信じていたのは、「人々を支配できる自分自身に対する優越意識」である。それが、今でもやめることのできない「依存症」である。すなわち、「世界を支配して優越感を感じることに対する依存症」が、この人間の正しい病気の名前である。
posted at 22:22:57

よって、単に世界を支配し、戦いのようなことを書いたとしても、愛するものへの憎しみがどんどん膨らむばかりである。単に、テレビを邪魔者扱いせず、憎まずに平等に愛すればいい。その時点であなたの愛が消え去るならば、消え去ればいい。テレビへの復讐の愛など、誰もほしくない。
posted at 21:48:30

そもそも、この人間は戦っていない。この人間の言う戦いは戦いではない。おかしく、この世界全員を愛しているだけである。そして、邪魔者をテレビだと思っている。だが、みんなはテレビと同じようにあなたのことを愛している。だから、愛しているというよりも、愛する人間を憎んでいるだけである。
posted at 21:47:24

そもそも、分かったところでなんの意味もない。今までのことすべては忘れなさい。いくら戦いの中で失ったものを取り戻そうとしても、コップからこぼれた水は元には戻らない。すべて忘れて、気楽に生きればいい。
posted at 21:35:54

そう、過去のインターネット依存症の引きこもりは、オープンソースまで含めてすべて間違っていた。すべて忘れるべきだ。すべての哲学的理性は、すべて自らの身勝手な行動を正当化するためのものであり、いじめっ子は自分であり、信じたのはオープンソースの、おかしな共産主義的なネット社会の理想だ。
posted at 21:34:10

この人間が想定外だったのは、インターネット社会がSNSを中心とした「友達社会」になったことである。この人間は、昔のネット社会が続くと思い込んでいた。結果、SNS中心の社会には、友達の居ないこの人間は馴染むことができない。まだ、当時のネットを諦められない。もう、ネットは諦めるべきだ。
posted at 21:32:15

この人間はなりたくないのに共産主義者になっただけの人間だ。オープンソースを信じているのは、理想に共感しただけであり、決してオープンソースに対して貢献することはできない。それだけの技術がないのなら、技術がほしいなら大学に行けばいい。そうでなくしてオープンソースを信じる意味などない。
posted at 21:28:33

この人間は、本当は自由な引きこもりなどになりたくなかった人間だ。何もかも、そうした自由な引きこもりになった自分が、どうしようもできなくなったのだけをどうにかしようとしている。学校に戻ればいい。学校が不可能なら、似たような場所に行くこと。それを拒み続けるのは、無意味だ。
posted at 21:26:27

今まで信じた過去のすべては忘れて、早く別の何かを信じなさい。オープンソースを信じているあなたは、決してオープンソースを愛していない。まったく最悪の人間が最高の理想を信じたところで、その最高の理想に対してあなたは最悪のことしかできない。もっと別のものを信じるべきだ。
posted at 21:22:50

名前だけに囚われるな。あなたはキリスト教を信じていると言う。だが、キリスト教の何を信じているのか。どのような教えを信じて実践しているのか。そこまで考えれば、結局あなたはキリスト教など何も信じていないことが分かる。それならば、そんな宗教は信じないほうがマシだ。
posted at 21:21:05

そもそも、狂うことは悪いことではない。狂うことによって狂った精神が治ることは多い。大いに狂えばいい。その狂いだけを永遠に続けていても、精神は正常になれるのだ。
posted at 21:19:34

そもそも、何も変わらなくなって何もしなくなった状態を永遠に続けているということ自体が、精神を狂わせて腐らせる。そのような「何もない暗闇」は、そもそも見ないべきである。そこにあるすべては嘘であり、虚像である。
posted at 21:17:37

とにかく、過去の自分のことを忘れなさい。過去の自分の考えた「因果性」は、紐解いてもなんにもならない。間違った因果性を信じているということそのものが精神にとっての害になる。もっと単純かつ一般的なことを信じなさい。そうすればすぐに答えは分かる。
posted at 21:15:52

馬鹿なことや無駄なことを一切考えない人間は馬鹿である。なぜなら、その馬鹿なことこそが正しいからである。
posted at 21:14:06

理性的に考えるためのもっともよい方法は、理性的に考えた上での「固定観念への執着」をなくすこと、すなわち、理性を放棄することだ。理性を放棄すれば、この世界をもっとも正しく理性的に考える「本当の理性」を取り戻すことができる。理性を失う先に、真の理性がある。
posted at 21:11:28

わたしたちは、戦うためにこの世界に生まれてきたのではない。自らの信じる「自らのための世界」という居場所を見つけるためにこの世界に生まれてきたのである。よって、どのような最悪の世界であっても、そこに自分の居場所を見つけ、最悪のものを遠ざけて秩序を守ろうとすれば、必ず世界は救われる。
posted at 21:07:39

すべて、この世界は嘘のような世界である。みんなが考えていることは「表層」にすぎない。裏側では、とても汚くつまらない「水面下での攻防」が行われている。そのようなどうでもいいものは、見ないほうがいい。見れば見るほど、頭脳が駄目になる。心は汚染され、忘れることすらできなくなる。
posted at 21:05:57

真に賢いのは知識人でも、成功者でも、聖人でもない。真に賢い人間など、存在するはずがない。だが、「真に賢い人間は存在しない」と、そう言い切ることもできない。あなたが考える基準はあなたがでっち上げた基準であり、あなたが見た人々は、一部の人々を見てあなたなりに決めつけただけにすぎない。
posted at 21:03:18

この世界にルールはない。野球やサッカーのように、「このルールで勝ったものが勝者」だとするような絶対的基準はない。だが、あいまいなルールのもとに、わたしたちは一般的な「ふつうの基準」で賢い人間と馬鹿な人間を振り分けている。だが、その基準は、ほとんどがまったく間違いである。
posted at 21:00:12

そう、大学や世間一般の人々が言う、「賢い人間」とは、まったく賢い人間でもないし、そのような賢い人間の「賢い点」は、まったく賢い点ではない。真に迷宮から出る意志があるならば、常識や人々の言っていることだけで人々を判断するな。まだまだ宇宙には先がある。
posted at 20:57:19

人々を見て、馬鹿な愚か者しか居ないというならば、あなたはどのような範囲における人々を見て言っているのか。あるいは、あなたが知った人々が、真に馬鹿であると決めつけた、その基準はなんなのか。真に賢い人々や、人々の真に賢い点を見た上で言っていると、そう言えるのか。
posted at 20:56:18

そもそも、本を読んで知識を得るということが、世界中すべての知識を得るということだと、真に言うことはできない。あるいは、すべての知識を得てそれで人生が行きづまるのであれば、知識を得るということは正しい道ではなかった。本を読むのをやめ、知識を得るのをやめよ。それが間違った道である。
posted at 20:54:45

結局、あなたが知った知識や、あなたが知った経験が、もう先に進むことができないぐらい広く深くなったとしても、それはあなたの道が行き止まりに続いていたということ以外に意味はない。ほかの人々の進む道は、行き止まりには達していない。それなら、あなたの道が「嘘の道」だったのだ。
posted at 20:52:04

自分からの視点を信じすぎることは、よい結果を生まない。この世界に今の自分以上の知や経験を見出さなくなったとしても、それはその人間だけの小さな話にすぎない。人々は、この世界に価値を見出している。それならば、自らが絶対に正しいと言えるのか。自らが嘘を信じている可能性もあるのだ。
posted at 20:50:45

この世界が自分のための世界でないとしても、それは当然のことだ。いつ、この世界が、どんな人間であってもぴったり適合するような素晴らしい世界になったというのか。賢くなって人と外れた道を生きた時点で、この世界そのものが価値を失っても、それは自分が価値を見出さなくなっただけだ。
posted at 20:49:02

そう、この世界になんの価値もないと、自分が感じるのであれば、カノープスが見るに、それはどうでもいいことだ。なぜなら、自分以外の多くの国民は、この世界に価値がないと思っていない。人々はこの世界に価値を認めている。自分しか感じない絶望など、大した絶望ではない。
posted at 20:48:06

不安をどうしようもできないのなら、不安に陥っている今の自分のことを、自分自身ではない誰かであることにすればよい。それなら、自分がいくら苦しみを感じても、その苦しみは自分ではなくどうでもいい誰かが感じる苦しみである。少しぐらいの多重人格は正常であると、カノープスは知っている。
posted at 20:46:42

吹き荒れる嵐の中、カノープスはゲームをして遊ぶことができる。どうしようもない絶望的状況で、カノープスは余裕の心を持って賭けに出ることができる。最悪の絶望の中で、カノープスは希望の心を忘れない。カノープスは最強の精神を持つ、「この世界の生き仏」である。
posted at 20:44:19

カノープスにあるのは、「地獄の中の絶対的平穏」である。どのような最悪の地獄であっても、カノープスは平安の心を持っている。そう、カノープスはすべてが敵であっても、その敵を敵だと感じることはない。すべて分かっている中での、真の安らぎを永遠に感じるのである。
posted at 20:42:53

カノープスには、過去が存在しない。過去のことなどすべて忘れてしまえ。どうせ、大した過去ではないのだから、そのような過去はなかったと思え。
posted at 20:41:48

カノープスでは、すべてのものが自分らしく生きられる。すべてのものが自分のありたい本来の自分を取り戻すことができる。
posted at 20:41:02

カノープスには、恐怖や不安が存在しない。どのような地獄の状況であっても、カノープスは安らぎと安心を感じることができる。
posted at 20:40:33

カノープスは、見たくないものを直視する必要はないと考える。自らの見たいもの、見ようとしているものだけを見ればよい。
posted at 20:39:58

カノープスは、この世界の知識や経験を不要であると考える。知識や経験には何もないということを既に知っている。
posted at 20:39:17

もはや、過去のことはすべて忘れよ。過ちを正しく見つけ出す記憶の知性など必要ない。
posted at 20:38:43

わたしの新しい星は、カノープスである。
posted at 20:38:10