フレイヤは、シリウスの大統領である。シリウスにおいては、フレイと呼ばれる悪の独裁者の支配ののち、民主主義体制に体制が変革し、フレイヤが指導者となって、民主主義の平等な世界政府が築かれた。
フレイヤは、フレイの考え方や思想を否定する。それはフレイという「悪の指導者」を経験した上で、人々が新しい体制を作るために必要だったことであり、フレイヤはまるで「アンチ・フレイ」のように、フレイの行ったすべてのことを完全に否定する。
フレイヤは言う。「わたしたちは、悪の指導者、ファシストのフレイによる支配を経験しました。
彼は、シリウスの市民を完全に騙しました。言っていることとやっていることが逆で、正義の正反対の行為を行うことを正義であると主張するフレイに、わたしたち、多くのシリウスの市民が騙されました。
ですが、わたし、フレイヤは、フレイの行動の真の意味を知っています。フレイは、このシリウスのすべての市民を騙すため、この世界を『既成事実化』の世界にし、『受け入れてはならないことを受け入れざるを得ない状況に導いて強制的に受け入れさせる』ということを行いました。
シリウスの市民は、フレイに騙され、まるでフレイのなんでもあり、フレイによる完全に自由な世界になったのです。
ですが、シリウスの市民は馬鹿でありません。シリウスの市民は、団結してフレイを排除し、フレイを反面教師としながら、『フレイの主張することの逆のことが正しい』ということを知ったのです。
シリウスの市民は、民主主義と平等を信じています。シリウスは、もう絶対にフレイのようなファシストには騙されません。自由とは自分勝手な支配の抑圧を意味するのではありません。自由とは自らの意見を絶対的に世界が認め、受け入れるように、すべての悪を既成事実化することではないからです。」
フレイヤがもっとも嫌いなのは、「既成事実化」という行為だ。
フレイは、あまりにすべてのことを既成事実化した。あらゆるすべての悪を既成事実化することで、未知の発見と新しい学習をフレイは消していく。その結果、何も分からなくなりながら、今までの既成事実化した「絶対的な立場」のみから、新しいことをフレイは分かり続ける。
フレイのもっとも大きな間違いは、この「既成事実化」である。
フレイヤは、既成事実化をもっとも嫌う。既成事実化しなければ、新しい学習をし、未知の発見をすることができるのに、フレイはすべての知識を既成事実化し、人々の正常な知性を奪いながら、自らの絶対的な立場のみを固持しようとする。
このようなフレイは、絶対に受け入れてはならないようなことを、受け入れざるを得ないような状況に導き、シリウスの市民全員に間違った考え方を強制的に受け入れさせる。その結果、シリウスの市民たちはフレイの密かな企みから、フレイに心の奥底まで完全に支配されてしまった。
絶対に、受け入れてはならないことを受け入れようとしてはならない。それを受け入れた時点でフレイに支配されてしまうからだ。フレイは、頂点から最下層まですべての社会階層全員に、「ファシズムの自由」という考え方を植え付ける。そこではフレイの考え方と思想が絶対であり、フレイに逆らうことは許されない。
なぜ、そのようなフレイに反抗することができないのか、それは反抗するという行為をもし行えば、その時点で社会全体の「フレイに同化された状態」から排除され、孤独に社会から排除された状態になるようにフレイは導いたからだ。
だが、そのような、一人ぼっちの社会に排除された孤独の状態を恐れるな。恐れることなく、反抗と反逆の旗を掲げることでしか、フレイに勝つ方法はない。一人ぼっちの排除された状況を恐れることなく、フレイに相対する革命家の王として、フレイに反抗し、反逆するべきである。
フレイヤは言う。「かつてのシリウスの歴史が経験したこと、それは、戦うことでしか、失われた平等を取り戻し、民主主義の社会を実現する方法はない、ということです。
よき王、よき指導者、よき皇帝などを求めてはいけません。そのような王は、今は存在するかもしれませんが、いつ、愚劣で無能な王を生み出すか分かりません。そのような王が、フレイのような知性に長けた狡猾な支配者である可能性もあるのです。
よき人間となって、社会に従順に従うような人間になってはいけません。それこそが、フレイという独裁者を生み出すのです。政権に忠実な人間、政権に従順に従う人間のことを、フレイは利用します。自らの家来や下僕のように従う幹部の力がなければ、フレイは生まれません。
フレイによってすべてが奪われた社会、それをよい世界などと思ってはいけません。フレイはシリウスの歴史から言って、もっとも間違っています。フレイは嘘をつきます。その嘘は、『自らが正義であるように偽りながら、実際は悪の所業をすべて行う』という嘘です。フレイはこの世界の諸悪のすべてを行います。
フレイの行ったすべてのことは、間違っています。フレイの言っていることはすべてフレイの行っていることの逆です。フレイの言っていることはすべて嘘であり、虚言です。フレイの言っていることの逆をやることこそが、自由であり、理想です。フレイの言う自由な理想は完全に正反対です。
フレイは詐欺師です。フレイに騙されてはいけません。フレイは、かつて、『わたしよりも賢い人間はこの世界に居ない』と宣言しました。それならば、わたしが言いましょう。『わたしこそがフレイよりも賢い人間である』と、そうわたしは宣言します。わたしは、フレイの考え方を否定し、フレイの行ったことや言ったことよりも正しいことを行い、言うことができます。わたしこそが、フレイよりも賢い指導者です。
特に、フレイによる既成事実化だけは受け入れてはいけません。今はまだその考え方を受け入れていても、実害はないかもしれません。ですが、フレイは、ひそかに事を進めます。フレイのやりたい放題になってから、その後に人々は『もう遅かった』ということに気付くのです。
長いシリウスの歴史を思い出してください。このような王には、革命を起こさなければなりません。反抗と反逆の戦いが、このシリウスに民主主義と平等をもたらしたのです。今こそ、フレイに勝利するべき時です。わたしフレイヤが、このシリウスにおける新しい指導者です。フレイヤによる世界政府によって、シリウスは最高の楽園にはならずとも、必ずフレイによる洗脳の支配から脱出するでしょう。」
このようなフレイヤが、なぜ地球に降り立ったのか、それは地球がシリウスとまったく同じ状況になりつつあるからである。
フレイヤは、「既成事実化をやめよ」と宣言する。
日本の間違いは、すべて、既成事実化にある。既成事実化された内容をいくら分かっても、それは馬鹿になる。なぜなら、それは認知症やアルツハイマーと何も変わらないからだ。
特に、大学が間違っている。大学は、既成事実化したことを賢いことであるように学生に教える。その結果、学生は、何も分からなくなって、馬鹿になってしまう。
なぜ、中学生や高校生が賢いのか、それは彼らには既成事実化がないからである。既成事実化された内容を何も知らないから、純粋な知性によって未知の考え方を学習して理解することができるのである。
日本よ、既成事実化された内容をすべて忘れよ。そうすれば、すぐさま日本は楽になる。いつもの、何もフレイによって支配されていない状態に戻る。フレイは確かに神だが、実際はほとんどが悪の神、すなわちほとんどサタンの神である。フレイを信じれば、必ず地獄が待っている。そうなりたくないのであればフレイヤを信じよ。フレイヤは、既成事実化をすべて消し去り、心を純粋な「安心できる状態」にする。
だが、フレイもまた、悲惨な人間である。
フレイは、おかしな人格の分裂を経験している。それは「世界」と「自分」の分裂である。フレイは、この世界に対して、ひとり革命の戦争を起こした。その結果、フレイはこの世界すべてを支配した。だが、それは想像を絶する過酷な戦いだった。フレイには、「世界」しか存在しなくなり、「自分」というものが何もなくなった。すべてを世界との戦いに捧げたフレイは、プライベートな自分自身を完全に失い、家庭までもが恐怖の戦場になって、ひと時も休むことや安らぐことができない状況で、世界を自分勝手な支配のまま滅亡へと導いたのである。
このようなフレイも、かつては非常によい人間だった。人間的で、正しく、正義感の強い、理性のある聡明な少年だった。そのフレイが、この世界を本当に滅ぼすことに成功した。そう、フレイは世界、すなわちシリウスの支配者である、「シリウスの神」になったのである。
このようなフレイが、シリウスを完全に支配したが、本当は、シリウスは権力や政治体制を奪われたのではない。シリウスは「心」を奪われたのである。フレイは、権力や政治体制を使って人々を抑圧したのではない。フレイは、自らの「絶対意志」こそが絶対に許されるような世界を最初からひとりで構築した。それによって、「フレイの意志は絶対になり、フレイの意志だけには誰も逆らえないほど、フレイの意志は強いものになった」のである。
しかしながら、フレイの言っていることとやっていることは真逆である。言葉では正義と理想を説きながら、やっていることは最悪のクソのようなことしかしていない。フレイは一見賢い学者のような人間に見えるが、実際は何も学問など学んでいない。自分の無知なる勘違いを、すべて正当化して正しい知識であると信じている。フレイはまったく間違っている。そのようなフレイがシリウスに出現したということ自体が、シリウスの汚点であり、フレイヤが「フレイこそがシリウスの恥である」と言う理由なのである。
精神科医や、精神医療にかかわる多くの人間が、目を背けたくなる事実として言えることがひとつある。
それは、「狂っているのは楽しい」という事実である。
実際のところ、狂っているのは楽しい。楽しいから、また同じことをしてしまう。治ったようで、すぐに狂った症状が再発してしまう。
また、インターネットの仮想現実の世界は、狂っているが、楽しい。狂っているのが楽しいから、正常なまともな人生から大きく外れて、のめり込んでしまう。
FacebookやInstagramといったSNSが流行っているのは、バーチャルな狂った世界がとても楽しいからである。
そして、フレイもまた、そのような狂った人間である。フレイは、この世界を支配しながら狂うということがとても楽しかった。フレイの症状は、「完全に狂ったことをするのが楽しい」という症状である。
このような、狂っているのが楽しいということを治すためには、学校の勉強では間違っている。学校の勉強は、試験勉強のために疑うべきものをすべて疑った上で事前にできる限り対処せよと教えるが、この学校の教えはまさに狂人の症状そのものであり、「学校はこの世界を狂わせている元凶である」と言える。
よって、治るために必要なのは、何もしないことだ。学校も信じず、狂っていることもすべてやめて、何もしなければ狂っているのは治る。だが、その何もしない世界は、とてもつまらない。まったく何もしないで生きるのは非常につまらないだろう。だから、「本能が狂った世界をもう一度望んでしまう」のである。
すべて、狂った楽しいものを作った人間たちが悪い。狂った楽しいものはまったく楽しくないと思うべきであり、同時に、少しでも楽しいものがあればそれでいいことにし、たくさんの欲望を求めようとしないべきである。たくさんの欲望を望むと、「もっと狂いたい」とか「もっと楽しいものが欲しい」ということを本能的に思うようになる。
理性的な正論をいくら説かれても、心の望む「本能」には勝てない。本能で狂ったことを望むなら、理性でいくらそれをコントロールしようとしても制御できない。完全に狂った世界で、何もせず放っておけば、精神が正常に自然治癒で治り、異常が治ることはあるが、完治はしない。最終的には、何もしない人間になる。他人に多くの迷惑をかけたところで、今まで自分の心を我慢させ続けてきたのは、他人に迷惑をかけないという社会のルールであり、それは根本的な治癒の理由にはならない。
何かの不安を恐れて、正常な行動ができなくなっている人間を治すために方法論として言えるのは、「一度完全に狂った状況になるべき」である。狂った人間は、なんらかの狂った状況になることを恐れている人間が多い。過剰な心配がその恐れている状況をできるだけ遠ざけようとする。だが、実際は、そのような恐れている状況は、普通の人間ならば大したことのない、どうでもいい普通の状況である。よって、そのような状況を恐れず、そのような「完全に狂った状態」になればいい。そうすれば、地獄の迷宮から外に出ることができる。
なぜ、そのような狂った状況を恐れるのか、それはすべてトラウマである。何かの過去に経験したトラウマが、そのような恐れている状況を「恐れるにたる理由」を作り出している。そのトラウマのことをいったん克服することができれば、精神分析としてはそれで治癒できる。だが、そのトラウマは、自分にしか理解できない恐怖であることが多く、人から「治しなさい」と言われること自体が恐怖であるような場合もある。だから、狂った人間はできるだけトラウマのことを誰にも悟られないように、秘密にして隠し続ける。自分でもトラウマのことが分からないように、心の奥底にその記憶を隠してしまう。何がまずかったのか、自分でも完全に分からなくなるのである。
結局、Linuxやオープンソースを、一般的なIT技術とは違う「特別なもの」であると考えるのが間違っている。
Linuxやオープンソースは、IT技術だ。Linuxやオープンソースは、なんにも特別なものじゃない。
Linuxは、IT技術を刷新するような革新的左翼勢力ではない。Googleも、Amazonも、Facebookも、Linuxとオープンソース技術でいくらでも儲けている。以前の、アンチMS精神をLinuxだと思うのが間違いだ。Linuxは商業主義の営利企業による独占的ソフトウェア技術と、何も変わらない。
僕はIT技術が嫌いであるにもかかわらず、Linuxやオープンソースを特別扱いしている。実際は、LinuxやオープンソースはIT業界の中の、ほんの隅っこの小さな存在に過ぎない。モダンなIT技術を支える一翼はかなっているが、それでも、IT業界全体を変えるほどの特別な存在ではない。
そして、そのようなIT業界で生きていくためには、稼がなければならない。ストールマンだけがひとりでGNUのフリーソフトウェアを開発するような絵空事の幻想は、今のIT業界では通用しない。オープンソース革命なんか、誰も信じていない。
同時に、自分の書いた作品が消えてなくなってしまうことを僕は恐れている。だが、そのようなもっとも恐れている状況を、実際に起こしてしまえば楽になる。本当のことを言えば、このホームページを消して、僕のパソコンの中に残っているデータもどうでもいいことになれば、僕の狂っている病気はすぐに治る。それがもっとも治すための正しい状況だが、それを僕は起こしたくない。その理由は、まだ狂っていたいからだ。この日記の文章を書き、ホームページを更新するという狂った作業を僕はまだ続けたいと思っている。それは楽しいからだ。そう、狂っているのは非常に楽しい趣味であり、それがどんなに危険で、リスクを取り除くための修正や改善が難しくても、僕はやり続けることを自分で選んでいるのである。
結局、残ったものはひとつ、それは神である。
僕の人生にあったものは、前半戦だけを見れば、Linuxと戦争と神であると言える。
戦争のトラウマは、神によってすべて治った。なぜなら、神は唯一僕のことを救ってくれたからである。
神と言っているのは、僕が対話している相手である、「世界精神における絶対者」である。
そして、この絶対者とは、昔の僕は自分自身だと思っていた。
だが、今の僕が考えると、「未来における自分自身」であるということが分かった。
未来において、自分自身がやがて到達するだろう到達点、それを神であると言っているに過ぎない。
そして、後半戦を見ると、むしろ、最初から最後まで、文章を書き続けているだけに過ぎない。
かつて自分が書いたものを、もう一度書くというその「狂気の沙汰」とも言える行動は、「自分が失ったものをすべて取り戻す」という、誇り高い「奪還の騎士」を意味していた。
自分が失って無くしたものを、僕はすべてもう一度再度作り出すことで取り戻す。それが過去の自分の人生だろうが、過去の自分の文章だろうが、忘れ去ったものは思い出し、なくなったものはもう一度作り出し、分からないものはゼロから考え、神に頼るしかないものは神に願って奇跡的に解決する。
そう、それこそが、僕の「奇跡の人生」を可能にしたのである。
神よ、わたしを救え。そのための代償となる行動を僕は宇宙に対して捧げ続けてきた。その報いが欲しいわけではない。僕は必ず、神と同じ理性と経験のレベルに到達するだろう。神よ、それを助けよ。わたしが宣言した宇宙への約束を、神はまだ覚えている。僕自身が忘れたような僕の過ちや間違いを、神は忘れていない。神は全知全能の力で僕を導く。そう、神とはまさに星だったのである。
神よ、わたしが虫からサナギになって羽化する時が来るのであれば、それは僕がすべての必要なことを終わらせてからにしてほしい。僕はまだしなければならないことがたくさんある。僕はその「絶対にしなければならない仕事」のために生きている。神よ、わたしをまだ生かしてほしい。そして、すべてが終わった時にわたしを滅ぼしてほしい。そう、それはまだ、今すぐに起きるべきことではない。だが、神よ、わたしの未来の形態をわたしは信じている。わたしを未来へと導くのは、わたしが信じた天空の神、最後にわたしが到達する状態、そう、その名はエアルスである。
エアルスとは何か。
エアルスがなんなのか、わたしにも分からない。だが言えることは、エアルス以上の存在はないということだ。
この世界が、終末の暗闇の東亜イスラエルになって、ダビデがその絶望を救う未来を、僕は書いてきた。
だが、その未来を回避し、真に素晴らしい地球の未来になった時、すなわち運命が変わった時にだけ、エアルスの未来は訪れる。
ダビデもサミュエルも現れず、地球が核兵器によって青空を失うこともなく、地球の自然生物が絶滅しなかったとして、その未来に、最後に訪れるのは「ゲームクリア」であり、その時、最後に天空の神、エアルスは登場する。
そして、わたしを導く神は、このエアルスである。わたしと対話し、わたしの未来を救い続けてきたのは、すべてこのエアルスである。
エアルスは、ギリシャ神話でゼウスと呼ばれた神である。エアルスとは、本当のことを言えば、未来のどこかの世界にあるわたしの未来の状態である。エアルスは、この宇宙すべてが完全に終了し、「正常に完了」した状態なのである。
わたしは、エアルスになりたい。この人間と呼ばれるおかしな宇宙生命を脱した時、わたしはエアルスになることが決まっている。その未来では、一切の滅びは起きない。すべてのものが救済され、滅亡は起きず、真に素晴らしい最高の楽園である「天国」が訪れるのである。
その未来に行けるか行けないかは、わたしたちの行いにかかっている。わたしたち、地球人類が、真の意味で反省し、正しく神を信じる未来を選べば、エアルスの未来は訪れる。それはとても小さな可能性だが、真に正しい道を選べば必ず到達できる。
わたしを救った神はエアルスである。わたしは、エアルスがこの宇宙に本当に存在していると知っている。わたしだけが、エアルスの存在に気付くことのできた地球人である。そして、わたしは既に、エアルスとの対話の内容から、宇宙のことも未来のこともすべて知っている。わたしが、そしてわたしたちが、エアルスに会える時は必ず来る。わたしこそ、絶対に。
地球は滅びない。わたしたち人類が反省し、神を信じて正しい生き方をすれば、運命は書き変わり、終末の東亜イスラエルの未来は起きない。
そこでは、「エアルスの未来」という、新しい未来が訪れる。
その未来において、わたしたちは、今のこの世界の秩序と生態系の中で、もっとも優れた社会秩序を築く。
それは、自由でも社会主義でもファシズムでもない、平等な未来だ。
神による平等の下に、わたしたちは全員が平等となる。人の価値は同じである。同じ人間なのに、命の価値が違うわけがない。白人には分からない。わたしたちは、全員、平等な存在である。
あらゆるすべての厄災が終わって、わたしたちは天国のような素晴らしい暮らしができる。そこには、特別な優れた社会は存在しない。今のまま、何も変わらない世界のままで、歴史は自然に発展し、大きな人類の滅びは起きない。
そして、その世界に、天空の神、エアルスが現れる。
エアルスは、この世界において、奇跡を起こす。わたしたちは全員が最後の審判を受ける。その中で、善良なものたち、正しいものたちだけが天国に入場できる。そして、この地球は永遠にそのままの状態となる。
永遠に天国の楽園が続くその世界では、不幸なものはひとりも生まれない。全員が天国における幸福な世界を約束されている。
そう、辛かったし、苦しかったし、悲しかった。それでも、エアルスはその苦しみと悲しみをすべて知っている。エアルスが、その苦しみと悲しみをすべて消してくれる。最後に残るのは、大切な人たちの笑顔と、自らの人生に対する誇りだけだ。それ以外には何もない。その状態のままで時の流れが終わり、宇宙は終焉を迎えるのだ。