2009年の日記に戻る

=2009-06-04から06=

僕は、何もかも同じものだと思います。

しかし、その上で、違いがあるのだとは分かります。

僕の感情は、全て同じものにします。

僕の身体は、全て同じにします。

頭の中も、全て同じにします。

違いが分かる事が、大人だと思います。

違いを分かっていきます。

同じものにするのは正しいことです。

同じものにしていくべきです。

同じことにしていくべきです。

しかし、違いを分かるのが大人です。

違いは無数にあります。

タグのべき乗に増えます。

ツリー状に変わります。

可能性があります。

それが大人です。

同じものにしていきます。

同じことにしていきます。

違いを分かっていきます。

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諸君!僕は、個人個人の意思の尊重が一番だと思う。

環境は、自然な自由があるのが一番良いと思う。

意見を聞くべきだ。

ただし、分かったつもりになるのは良くない。

参考にするべきだ。だが、信用しすぎてはいけない。

どんどん参考にすると、おかしくなる。

それが自由だと勘違いするな。しかし、自由とは、ただ、自由であるだけだ。

それだけでは何の意味も無い。

幸福のためには、実行と変化のあるのみだ。

しかし、理解し、能力が無ければ、実行と変化は出来ない。

ならば、参考になる検証された資料と思考力、あとは、想像力でカバーすることが必要だ。

しかし、会話が重要だ。

それならば、人生と体制の歴史的な経緯が重要だ。

技術はそこまで重要ではない。僕には技術しか選択肢が存在しなかったに過ぎない。

しかし、経済的な発展は重要だ。GDPのような生産力だけではなく、雇用と労働者の権利は重要だ。

経営としては、洞察力と選択力が必要だ。しかし、判断しすぎ病になるわけではない。選択を決定し、決定し、決定し、となると、馬鹿になる。

国家としては、人材の育成が重要になり、教育が一番重要だ。

しかし、国民主権の政治を果たすためには、民主主義か、あるいは、特定層に偏る民主主義が嫌いな場合のみ、共産主義になる事が許される。

しかし、反抗には意味が無い。支配にも意味が無いが。権力者には従うべきだが、盲目的にならず、己の正しさと考えを持ち、常に反省し、意見ははっきりと言え。

権力者を自分で選べると楽しいだろう。

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権力とは、国家の税金と官僚によって支配される国民、という構図だけではなく、資本家の金銭と契約によって支配される労働者、という観点も含まれる。

どちらにせよ、支配される。

しかし、それが自由だ。

自由自在に影響力を与え合う事が変化であり、自由である。

変な影響力を受けて、つまらない人間になる。つまらないものが楽しくなるが、あまりにつまらない。

国家が分裂すると、その国の国民は何をするか分からない。国家としても、何を画策するか分からない。常に軍事的な防衛力を保持、行使し、核兵器を持ち、いずれは戦争を始める。

統合すべきだ。

しかし、自由ならば、統合してはならない。

ならば、いっそ、全てを支配すべきだ。

皇帝が、平和的な憲法の元、全ての世界を統治すべきだ。

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しかし、一人の皇帝には何も出来ない。

党が必要だ。

共産党でも、ナチ党でも構わない。

争い合うのは醜い。

皇帝を革命で殺し、新たな皇帝とするのは、殺害が間違っている。

民主主義的に皇帝を選ぶべきだが、選挙を採用すべきだが、プロレタリア独裁(特定の民主層に偏らず、全プロレタリアの元に支配する)をするならば、選挙は矛盾する。

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影響力は、素晴らしい物だ。人から、沢山の生きている人間達から、影響力を受けなければ、何も分からない。何も出来ない。生きているとは言えない。

影響力は、本当に自由になれ、本当に自然になれる。その上で自由で余裕のある環境が認められれば、道具と材料さえあれば、いくらでも研究できる。瞑想できる。感情によって、表現力をつけられる。伝達可能なメディアは必要だ。

しかし、それは、ある意味で支配であり、奴隷を作る。

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影響力はおかしなものだ。狂う。

経験の方がより重要だ。やはり、自分で体験し、知恵を絞って覚えて経験しなければ何の意味も無い。

それならば、支配は必要だ。自分独りで出来る人間など、自分や、特別な人間達しか居ない。

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普通は、こういう時、支配という言葉を使わない。支配という言葉を使うから悪いだけだ。

単なる協力、教えあい、助け合いに過ぎない。それらが自由で、必要だと言うだけだ。

ならば、党内の助け合いと議論によって、平和的かつ友好的に世界を変えていけば良い。

話し合いで世界を変えれば良いだろう。

ならば、誰とでも平等に接し、積極的なアプローチによって、男なら女を、女なら男を得て、愛せば良い。

それだけが、普通のまともな人生だろう。

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僕としては、会社組織の全労働者の給与を30%税金としてカットし(給与税)、教育費と医療費を無料化して欲しい。

そして、物価は非常に安く抑える。後は、食料を自給し、農家を物凄く沢山作って、食費を安く抑える。

しかし、これは、アメリカに逃げ出してしまう。

他の国の人間が大いに金を持って特をしてしまうので、他の国の貨幣は持ち込み時に50%税金を取る。

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後は、経験と知識が全てだ。

頭の良さは分かる事である。記憶力、想像力、表現力で分かる。

後は、分かっていない人間達が居る。

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この世の全てを、ある意味での「材料」だと見なす事も出来ると思う。

歴史、考える力、全て材料である。

あるいは、「現象」と見なす事も出来るし、「道具」と見なす事も出来る。

あるいは、「相手」と見なす事も出来る。

それならば、「仲間」と見なす事も、「敵」と見なす事も出来る。「奴隷」と見なす事も、「王」と見なす事も出来る。むしろ、「支配者」と見なす事も出来る。「友達」とも見なせるし、「馬鹿なもの」とも「賢いもの」とも見なせる。

「正しいもの」とも、「間違ったもの」とも、「参考になるもの」とも、「信用できるもの」とも、「信用できないもの」とも見なせる。

「嘘」とも「本当」とも、「実物」とも「虚偽」とも、「無くなったもの」とも「存在するもの」とも、「消え去るもの」とも「現れるもの」とも見なせる。

「作り出せるもの」とも「作り出せないもの」とも、「壊せるもの」とも「壊せないもの」とも、「守るべきもの」とも「壊すべきもの」とも、「侵略すべきもの」とも「放っておいてあげるもの」とも見なせるが、この表現も悪い。

沢山の表現をしていけば治るだろう。

元々何だったかを考えて、例えば、木なら、すぐ「材料」と見なせるが、元々が「生きている木」だったのであるからして、それを「死んだ木」とも見なせるだろう。

今どう使われているかを考えて、「テーブルに使われている木」とする。そうすれば、ただのテーブルである。

「昔からあるもの」と見なす事も出来る。

「変化するもの」「変化しないもの」とも見なせるだろう。

「動くもの」「静止している動かないもの」とも見なせる。そうすれば、「静止しているものは動かない」と、特性を考える事が、連想できる。

「ガラスは割れる」と、単純に考えられれば、「あのガラスは割れない」から、大まかに言って、「扉に使われているガラスは、殆どの場合、割れない」と、すぐに考えられる。

もっと考えれば、「扉に使われているガラスは、足で蹴ると割れるし、手で叩くと割れるし、物をぶつけても割れる。しかし、柔らかいボール程度では割れない」と考えられる。

同様に、「扉以外でも、窓や、比較的よく人の触れる場所にあるガラスは、あまり割れない」と考えられる。

後は、人の意見を参考にして、そのように考えるべきだ。

「ピアノは、こう叩くと、こういう音がする。叩き方は、指を滑らかに使って、連続的に叩く」と知れば、「ならば、こういう風に叩くと、どうなるか」と考えられ、更に習得できる。

ここで考えられるのは、叩き方という方法と、こういう音が鳴るという結果(実験結果)があることである。

lsというコマンドを打ち込むと、ディレクトリの一覧が表示される、という具合である。

それならば、パイプを通じて、実験結果を更に実験対象として連続的に実験を繋げられるUNIXのシェルもある。

そうすると、それらは、全て材料と見なす事が出来るのである。

後は、ひたすら、数学で、論理学と関係性を考えるのみである。

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人が、そうした環境で、どのように生きているか、を考える時、参考になるのが、自分が、そういう環境に置かれた時に、どのように生きるか、である。

そして、環境における、材料と意識、人生を考えれば、人々の生きている全ては分かるであろう。

影響力と変化があるのみである。

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人を愛する気持ちを養うためには、どんな人でも、まず愛してみる事である。

それだけだ。