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=2009-04-24=

2009.04.24

人々がまだ分かっていない事がある。

僕がまだ分かっていない事がある。

僕がまだ分からない事がある。

人々がまだ分からない事がある。

絶対に分からない事がある。

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自然にある物の名前は人間が付けた物であり、例えば「木」という名前も人間が付けた物であり、物それそのものは名前無しにそこに存在しているのである。

その見た目さえも、光が人間の目に入って人間が知覚しているに過ぎず、本当は量子の集まり、光や電磁波の無数の反射と波動に過ぎないのである。

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ではどこから物は生まれたのであろうか。どのように物は出来ているのであろうか。宇宙のビックバンと歴史からであるとするのが科学的である。

何らかの言葉からであるとするのがユダヤ的である。

概念からであるとするのがヘーゲル的概念論に近い。

宇宙的な数学からであるとするのが真実に近いと考えれば、それはまさしくビックバン論的である。

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歴史上(どんな大きな歴史でも、どんな些細な小さな歴史においても)に出来た物は、人々が作った物である。そうするのが唯物論的である。

神が創った物であるとするのは、おかしく感じる。

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では全ては何故存在しているのであろうか。人間は何故存在しているのであろうか。

目的は無いのかもしれない。

存在価値があるのだろうか。無いかもしれない。

目的と存在価値があるとすれば、何だろうか。

楽しみや苦しみを体験するためでは無いかと思える。

では何故か。

そうした目的や存在価値があるから増えるのではないかと思えるが。

人生に価値があるからだと思える。

しかしながら、人は無くなる物だとするのがある。

国家や社会が残る、家族や血筋が残る、という物である。

しかしながら、それは民族や子孫が残るからである。

そのようなマクロ的な話は、まだ良い。

人生に価値があるとすれば、それは人生の全体に価値があるからだろう。そして、人生の1瞬1瞬に価値があるからだろう。

何の価値があるのか。

増えれば増えるほど、人に体験出来ない人生を体験できる可能性が高まる。

その人間が、偉大な人生がおくれれば、その人間にとって価値がある。

そうでない人間は、子を増やせば、いずれはおくれるだろう。

しかし、全員がおくれるのも素晴らしい。

だから、時代という物があるのだろう。

偉大な人生をおくった人間が、自分は偉大な人間だと感じられれば、その人間は満足でき、満足して死ねる。

それなら、何の不備も無い。

そういう生命体が人間だとすれば、ただの生命体である。

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しかしながら、これは私の論に過ぎない。

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私は人間が好きだ。

人間は、道具を使い、表現力があり、伝達力があり、思考力があり、

経済を繁栄させ(農業から金銭による物質の流通)

そして、長く続く戦争と領土争いの歴史を送り、

未だに、解決出来ない問題を、そもそもどういう問題だったのか分からなくなってさえも、少しずつ、知恵と科学の力で解決してきている。

それでも、問題は増えていく。

最近はインターネットが流行っているが、この歴史も、そしてその前身とも言えるコンピュータの歴史も、そして、その中でのポピュラー・カルチャーの歴史も沢山あった。

私は家族が好きだが、その上で、素晴らしい人間といくらかめぐり合えたが、さらにその上で、このインターネットで、沢山のものを目にしてきた。

素晴らしい物が沢山あった。

今見れば醜いものかもしれない。その時の私にとって、インターネットは大いなる宝だった。

まぁ、そう言ってしまえば本当は悪いものだらけだが、

しかし、人間は、それぞれが美しいものである。

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何が美しいか。

互いの事をよく分かっている場での、気遣いと、支えあいである。

そして、私は子供時代が好きだ。(自分のである)

何が好きか。

互いに分かり合い、互いに助け合い、互いに発見しあう、そうした気質である。

人は、2人以上集まって、互いに行動し始めた時、「場」を見つける。

そして、自分なりの「哲学」を持って生きる。

ならば、個々にどんな場があるのか。それを知りたくなる。

そして、それは、論を待たず、無数にあるのである。

そうした場が私は好きだ。

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生命はアメーバのようなものから、植物、動物、そして進化論で人間になったとされているが、

どうしてこのような3つの、あるいは2つの分裂になったのであろうか?

物質的には、これらは離れている。

皆違う物だとされ、種が生まれ、次の同じ種の違う物が生まれ、それが種を持つ。

しかし、男女の違いがあり、種を持ち、種を作り、というところは共通している。

細胞という物も共通している。互いに食べ、食べられるという点も共通している。

それらは相互作用して、一つの生態系を構築している。動物だけでは生きられない。それぞれがそれぞれにとって欠かせない物だ。

やはり地球は生命であり、星は生命である。

ならば宇宙も生命だろう。

ならば、宇宙の物理法則は、全て生命活動かもしれない。

私たちが呼吸しているように、宇宙は万有引力を活性化しているかもしれないのだ。

宇宙に死はあるのだろうか。それとも、私たちの死は私たちが考えているような死でないのだろうか。

不思議だ。

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僕は普通が好きだった。

能力をつけて、努力すれば自由が得られて、報酬も平等に入るのが好きだ。

自分も普通で、社会も普通ならそうなる。

だから自分が普通じゃないのが嫌だ。

だから社会が普通じゃないのが嫌だ。

右翼は、普通じゃない。

戦争は、殺し合いになる。殺されるのは嫌だ。

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僕は普通になった。

社会も普通になって欲しい。

たぶん普通だ。

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そうすると、僕は人より賢くなりたい。

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面白いものが好きだ。

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タグとディレクトリの違いは面白い。

タグの方が賢い。

だからタグは、好きだった。

でも、ディレクトリの方が普通。

なら、ディレクトリの方が好きだ。

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僕は、賢くなく見えるものを馬鹿にしていた。

だから、左翼は敬遠していた。

本当は結構好きだ。

左翼は、馬鹿にされていた。

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でも、最近共産党も賢い。

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まぁ、それは良いけど、

馬鹿にするのは反省すべきだ。

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もう今は、社会がどうでも良い。

社会という物は無かった。

企業が適当に沢山あるだけだ。

それぞれ全く違う。

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そうなると、何もかもつまらない。

係わり合いが面白いんだと思う。

それぞれの係わり合い方が面白いと思う。

馬鹿にする側と、まぁ、馬鹿にされる側が居る。

そのように、

攻撃される側と、攻撃する側が居る。

悪い人間と、良い人間が居る。

賢い人間と、賢くない人間が居る。

可哀相な人間と、嫌な人間が居る。

人間関係は面白いと思う。

やっぱり、抑圧される側と、抑圧する側が居るんだろう。

開放すると、共産主義だが、

放置すると、自由主義だ。

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僕は開放したかった。

赤い。

でも、今は放置を選んでいる。

青い。

皆、青い。

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一度抑圧する側になった者は、放置を選ぶのか。

選ぶ。

僕は選ぶべきではなかった。

僕は、抑圧する側になったけど、開放する側になる。

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ソ連はダメだ。

抑圧している。

赤もダメだ。

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じゃあ自由主義が良いのか。

自由と抑圧からの開放は同じだと思っていた。

自由を与えれば良いと思っていた。

それは保守的で、沢山の物があり、通信手段があり、要は、コンピュータとインターネットがあれば良いと思っていた。

それで良いのか。

抑圧されているだけだ。

抑圧からの開放は、どこで起きるのか。

インターネットなどで起きていても意味がない。

実際の生活で抑圧されている。

どうすれば良い。

「革命」

違う。そんなものはダメなんだ。

「戦争」

違う。そんなものはダメなんだ。

僕は、支配者になって抑圧を解放すべきだと思える。

普通だからだ。

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しかしながら、僕には到底無理だ。

僕は自由が分かっているに過ぎない。

開放は分からない。

それは右翼だ。

右翼も普通だった。

ならば、右翼に任せておけば良い。

戦争したいなら、すれば良い。

むしろ、私が正しく無さ過ぎる。

私に言う資格は無い。

私は今のところダメだ。

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分かっていない抑圧している人間に対しては、

厳しく罰するという方法がある。

教えるという方法がある。

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他は後で考えるとして

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教えるという方法は良いだろうが、

厳しく罰するという方法の方が良いだろう。

普通に、その方が簡単だ。

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殺すのは悪いと考える。

逮捕するのは悪いと考える。

そういうわけで革命は悪い。戦争も悪い。

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厳しく罰すれば良いと考える。

警察官をつけて、抑圧を

そうじゃなかった。それなら、

ただ法律で禁止すれば良い。

どうするか。

抑圧する側と抑圧される側が居るなら、

しかしながら平等は失敗した。

抑圧しないように免許でも受けさせて、

教員資格のような物を作ればよい。

そういう考え方があるなら

少しずつ社会は改善されていくだろう。

私は安心できる。

私は満足した。