日記に戻る | 2016年4月の日記に戻る

=2016-04-18=

老廃物と毒素を消すと、楽になる。

ただ、老廃物を出すのが一番辛い。強制的に治すと楽になる。

ゼロから社会のことを考えていた。生産条件や自然状態を、可能性として考えていた。

社会の理屈や構造を作って、現実と照らし合わせて、社会モデルで考えていた。

神は、悪い。神を信じると、ここまで意味が無くなって、馬鹿な人間になる。

神なんか、信じない方が良い。神は、悪いと思って、反抗した方が良い。

神は、こういう、悲惨な人間に憑りついて、皆を悲惨にする。

神は、犯罪みたいなことしかしない。神はイスラム教徒だ。

神とは言うが、神は自分だ。神はこういう風になる。

神は、社会不適合者のニートだ。

神は、当たり前のことを信じ込ませながら、巧みに嘘を混ぜて、逆のことばかり言う。

神は、自分を殺して、社会を滅ぼしている。

ただ、神は悪いことばかりでは無い。神を信じると、ここまで分かる。

神を信じると、まともな賢い人間になる。

神は、悪いことだけではなく、良いことも起こしている。

そういうわけで、ユダヤ人は一番悪く見えて、一番偉大だ。

何故か、ユダヤ人が一番怖い。見ていると、どんどんユダヤの支配圏を広げている。

ユダヤ人は、一番悪い。

ただ、聖書の教えには、良い教えが多い。

聖書は、信じるものしか救わないが、愚か者が救われる。

聖書の教えを信じた方が良い。

人を殺してはならない。

社会を滅ぼしてはならない。

人をいじめてはならない。

セックスなんか、しない方が良いし、女をそういう風に見るのは悪い。

自分は、それくらいが悪いのがいつも分かっていない。

あとは、数学的方法や関係から、知性と考え方を書いていた。

何でも説明し、推論し、実験していた。

具体的に、何を説明していたのか覚えていないが、可能性の発揮とか、人生の経緯を自由にするとか、自然に作り出されるとか、存在の在り方を知るとか、そういう、経験論や実存主義のようなことを言っていたと思う。

ニーチェの言葉を少し拾い読みしたが、愛とは、自分の思い通りに人をコントロールすることや、自分を愛し、自分に似たものをかぎ分けることでは無く、そのままに、相手を尊重し、自分とは違う相手のことを「喜ぶ」ことなのだ。

ニーチェは馬鹿では無い。ニーチェも、そういう賢いことをきちんと言っている。

もっと、この世界にある、自分とは違うもののことを、喜ぶこと。それが愛なのである。

ニーチェは、優れたものを手に入れるのではなく、正反対に生きているものを、その状態のままで喜ぶ、と言っている。この、「その状態のままで喜ぶ」と言う発想が賢い。

あとは、むしろ、神は悪いが、神が見てもこれくらいで自分は終わりだ。神は、望みを叶えただけだ。作家になりたいように見えるから、作家にしてくれただけだ。

神があまりに悪いせいで、旧約聖書が悪くなった。神はこういう人間に見える。

不思議と、神は良い人間に見える。聖書が悪いだけで、本当の神は良い人間だ。

それこそ、自分のような賢い神を、神だと思う人間が多い。信じていないようで、そういう人間は善人だ。おかしな神経症の神を信じた方が悪人だ。神は悪人は嫌いだ。

自分は分かっていない。自分は、あまりに悪人すぎてキモイからこうなる。

引き篭もりを止めて、まっとうに生きた方が良い。作家とは言うが、成功するわけがないのが分かっていない。皆は悪くない。自分は、テレビをタリバンのように滅ぼしたりしている。あまりに悪いから、運命がこうなる。悪い人間は、運命的に地獄になる。そうなるのがおかしいだろう。自分が、ただ悪いだけだ。

神が見ると、最近はあまり悪くないように見える。むしろ、作家をきちんと頑張っているから、最近は賢くなっている。哲学や歴史の勉強も、一応はしているようだ。きちんと放送大学を卒業して、社会人になった方が良いが、日本語が分からないほど馬鹿なのが悲惨だ。神が見ると、まだこのままで良い。何も賢くない人間は、神が支配して賢くする。

何をどうすれば良いか、のような、「対処策」や「必要条件」を考えていた。

ニーチェの言う、「喜ぶ」と言う発想は、昔多かった。「驚く」と言う発想も多かった。

あとは、もっと現実を見れば良い。現実を見ると良く分かる。

昔は、現実の社会を良く見て、当たり前のことを考えていただけだ。現実の世界に、何かすれば良い。普通はそれを考える。現実での行動を、現実を観察しながら考えれば良い。

あとは、放送大学をやるより、ヘーゲルのことをした方が良い。他のことは、一切しなくて良い。ヘーゲルだけをそこまですれば良い。それなら出来るのが自分だ。

放送大学が出来なくて、テレビやネットや本屋が怖いのは、それらは要らないからだ。ピアノや英会話教室すら要らない。家族の話も要らない。

ただ、この文章が書きたいのは、この文章は必要だし、神も必要だからこうなる。

そのままで、きちんとヘーゲルが出来る。哲学をやりたいのは、やるべきだからだ。

むしろ、カントのように理性的に考えれば良い。それが出来ないと意味が無い。

本当に、ニーチェの方が賢いが、ニーチェなんかただの昔の自分だ。昔の自分が、一番ニーチェに見える。デカルト、ニーチェ、スターリンを神と言っていたのは、自分を見て、ニーチェとスターリンとデカルトに見えるからだ。僕はニーチェは嫌いではない。いつも嫌いだったが、今ニーチェの本を見ていると、悪くないことを言っている。昔の自分と良く似ているから、昔の自分は、ニーチェを見ていると良く分かる。

ニーチェは、精神の自由を掴むためには、感情をコントロールする必要があると言っている。ニーチェは、そういう、「実践的心理学」のような哲学を言う。見ていると、ニーチェもきちんと哲学者だ。きちんと賢いことを言っているのが良く分かる。

見ていると、ニーチェは本当に良い。ニーチェで哲学が出来る理由が良く分かる。ただ、昔の自分が出来るだけだ。あまり考えていない。最初から知性を否定しているだけだ。

これでは経済学者に見えるが、本当は賢い心理学者だったのが自分だ。

フロイトより、心理学のことが分かっている。そういうニーチェだった。

そろそろ、飽くなき精神探究が終わった。神が居なくなる。もう終わったはずだ。

ニーチェは、自分のその時その時の情や心の動きに振り回されるべきでないと言っている。それは、その通りだ。その時その時の自分の思いつきや情動に振り回されるべきでない。

昔は、ネットで人生経験をして、人間のことや関係のことを考えて、ニーチェのように人生論を分かっていた。それも悪くは無いが、馬鹿な中卒のクズだった。

ニーチェは、見ていると、本当に良い哲学者だ。

昔は、パソコンから、心理学、社会学、数学を作っただけの人間だった。

ニーチェを見ていると、哲学は止めた方が良い。昔の自分なんか、「喜ぶ」と思えば分かる。その通り分かっているのは良いが、ロボットのようなおかしな人間だった。

哲学なんか、普通、デカルト、カント、ヘーゲル、ニーチェだ。

そんな昔の自分は、もう分からなくて良い。

物理学をやりたいとは言うが、もう出来ない。昔出来ていることにすれば良い。

そういうわけで、不思議と、キリスト教と文学が良い。そういう、普通のものが賢い。

僕は、キリスト教をやる。仏教のことも同時にやりたい。それが一番良いと思う。

哲学は止めた方が良い。昔の2ちゃんねるが哲学だ。「喜ぶ」とか、「直観」とか、そういうものを分かっていた。ニーチェは、さらに「本能」などと言う。一番悪い。

昔の自分は、ニーチェと同じだ。そういうものを書いていただけだ。

心理的に社会を作るとか、EUにロシアを入れるとか、どうでも良い発想を書いていた。

哲学はもう良い。もう、昔の自分は分かった。これ以上、昔の自分は書かない方が良い。

仏教とキリスト教のどちらにするかを迷っている。ただ、キリスト教は、教会に行かないと出来ないだろう。仏教にした方が良い。宗教だから、同じだ。信じて分かるだけだ。

仏教も馬鹿では無い。日本には、仏教が好きな人間が多い。仏教だけで誰でも分かる。

キリスト教が賢くて、分かる、良い人間になるとは言うが、ドイツには馬鹿が多い。

一人、いつも馬鹿になって分かっている。むしろ、神はこういう風に悪い。神は悪すぎる。仏の方が良い。ブッダは本当に賢い人間だ。

ブッダの言う、「正しいものの見方」とか、そういうものを分かると賢い。キリスト教なんか、弱者と世界の終わりを信仰しているだけだ。

昔は、言葉を作るとか、対話するとか、支配して自分の一部にするとか、そういう、「考え方のパターン」のようなことを言っていた。平等な一体と自由な独立とか、そういうことをいつも言っていた。社会のことを多面的に考え方から分かっていた。

仏典が賢いのは分かるが、キリスト教も悪くない。いつもの、信じていた自分の神の方が良く見える。それに、仏教は神を信じていないし、経典の内容が難しい。キリスト教の聖書の方が、簡単だ。ただ、聖書も聖書で分量が多い。仏典なら分かる人間が多い。仏教をやっていると、物理学が出来る。考え方が良く似ている。物理の父親が仏教に詳しい。

昔は、マスターのように心理学が分かっていた。人生経験が分かっていた。

自分は、心理学をやるのが良いかもしれない。

何故か、あまり本を読みたくなくなった。もう、これ以上何も読みたくない。

自分は、皆のことを見た方が良い。何故か、皆の方が賢い。自分のように、色んな本を読んだりしないし、考えたりもしないが、皆の方が色んなことが良く分かっている。

それから、学校に行った方が良いとは言うが、学校は行かなくて良い。

何も分からなくて良い。皆も分かっていない。皆、自分のしていることしか分からない。

子供なんか、最初から分かる子供しか居ない。賢い子供より、馬鹿な子供の方が多い。

ニーチェは本当に昔の自分に多かったが、自分なんか、ただのダメ人間だ。

自分は、知性のようなことを良く考えれば分かる。

例えば、3+3は6だ。それは、普通、子供は6つの数字を数えて分かるが、大人は誰でも、覚えて分かる。昔の自分は、それと全く同じことをしている。認識を作って、仮想世界を作って、自分の数学を作っていた。覚えるだけではなく、逆に、分解したりして、経験から、思考と理性のことを考えて分かっていた。

昔の自分がしていることなんか、それだけだ。それで、知性が無くなったアホな人間が昔の自分だ。最近は、逆に、数学が全く出来なくなった。数学なんか、出来ない方が良い。出来れば出来るほど、一時的に賢くなって、すぐに馬鹿になる。それが数学の知性だ。

ただ、数学の知性も悪くは無い。哲学は、数学的、実験的、推論的に分かると良く分かる。人間のことが構造的に分かる人間が多い。ただ、所詮はただの方法論だ。賢くない。

昔は、環境を変える知性で分かっていた。何でも、あらゆることを、環境と作用にして分かる。そこから自然を分かる。モデルとは言うが、環境しかモデルにしていない。

それだけで、人格から社会まで、メタ的に全部分かった。あらゆるパターンを包括する、共通のプログラムや法則のようなものを考えていた。

昔なんか、それだけだ。自然から、場の法則のようなものを考えていた。

そして、心理学的な社会把握のようなものが多かった。

そういう、女みたいな心理学者だった。

そして、世界の具体例を全部知っていた。方法は、共通性と差異から分かっていた。

あらゆることを、方法と歴史だと思って、経験を記憶や現象学で考えていた。

皆との絆から、全ての宇宙の真実の体験をしていた。

ネットで社会実践のような行動をすることで、自然科学や会社経営の研究が分かっていた。

あとは、ニーチェを読んでいると、哲学がすぐに出来るし、昔の自分が分かる。

いつも、こんなものしか書いていない。これで、ヘーゲルのようなことが分かっていた。

数学みたいなものを書いている文章が多かった。

宇宙にある全てのものに、物理法則は働く。だが、夢の世界のような、宇宙以外の空間にあるものには、働かないかもしれない。それを小説などに出来る。

人間は、数学でしか分からない。数学のような考え方を思い出した方が良い。

あとは、適当に経験すれば分かる。哲学者には、そういう人間が多い。

経験とは言うが、社会なんか知っても何も分からない。真理は、自分の心の中から生まれてくる。ソクラテスが似たようなことを言っているが、ある意味当たり前だ。この世界には、何も無い。全ては心の中から生まれてくる。そうすると、他人のことも良く分かる。

ニーチェのような考え方を、モデルと経験から良く分かっていた。

そろそろ終わった。哲学なんか、普通、それくらいの馬鹿だ。

哲学はもう終わったように見える。次は、何になるか分からない。

いつも、数学的真理や方法のような文章を作っていたが、数学が良いかもしれない。

ただ、数学は、ノルマのようにこなしても意味が無い。ゆっくりと長い時間をかけて、数学的なことを色々と分かるのが良い。そういうわけで、問題なんか解かなくて良い。

あとは、関係や現実世界での人間の活動、社会活動から、方法がいかにして、何を意図して生まれているのか、などを考えると分かる。方法が何を意図して生まれているか。そこから、どんな風にこの社会を実現出来るか、そのための方法としての社会構造は何か、を考える。方法や意図とは、そういうことを言っていた。認識の方法などは、そこから、分析的な理性の生成のようなことを考えていた。

良く分からない。もっと、この世界の現実を、「相を分割する」のように考えれば良い。洞察して、分析して、想定して、この世界のあらゆることを、方法的、経験的に分析する。

あまり意味が無いが、誰でも数学と物理と仏教で分かるから、それをした方が良い。

昔なんか、仏教のように執着心を無くしながら、数学的な知性を作って、精神分析と経験で色んなことを分かっていただけだ。本当に、経験論のように分かっていた。

それこそ、数学は、普通、変数に色んなものが入ったり、証明を手順から実現したり、問題を解くために順序立てて考えたりする。関係のようなものを想定して、「ある意味で正しいことが、別の意味で間違っているとしたら、それは何を意味しているか」のように、論理的な問題解決と新発見を考える。誰でもそういう風に分かるせいで、皆の方が賢い。

自分はありえない。分からないのに、昔の自分で分かっている。こんな人間は居ない。

昔の自分には論理的な思考方法があったが、もう分かったせいで分からなくなった。良く分からないが、大人はこういう風になる。数学的知性なんか、忘れる人間が多い。

そのことが、別のことから見て、何を意味しているか、どう正しくて、どう間違っているか、他との関係から、さらに何が言えるか、そこでは、前と後でどういう風に意味が違うか、のように考える。そこから、共通性を見出したり、実験したり、定理と証明を作ったり、新しいものや独自なものを実現したり出来る。そして、体得のように出来るし、システムを構築したり、生物を細胞分裂の構造体であるとか、色んな様相を考えたりすることが出来るし、可能性から変えられる、と言うことが分かる。

あとは、それくらいで知性と考え方の問題は終わりだ。あとは、普通に考えれば良い。

何が正しいのか、推論的方法、などは、ネットの経験をしていると、自然に分かる人間が多い。自分の感じていることや思っていることは、別の人間の言っていることから考えると、本当の真実の世界では何を意味していて、自分は本当は何を考えていたのか、何が間違っていたのか、本当は何が正しかったのか、それは何を意味しているのか、などを考えれば良い。昔は、そういう風に、経験から場と論理の数学が分かっていた。

昔はそれくらいの人間だった。哲学者は、誰もがそういう経験をして分かるのだろう。

もっと経験を考えれば良い。思い出して、真理へと近づく発想をするためには、何をどう考えるべきなのかを考える。昔は、そういう風に、サルトルのように人間を考えていた。

そういうわけで、サルトルの言っていることが一番自分に近い。あるものやないものがどこにあるのか、などは、自分が一番良く分かっている。

あとは、経験から、自然な場の形成、可能性、意識、コミュニティなどを分かっていた。自然状態や、コミュニティの自由な形成などを自然に経験から分かっていた。社会知識と融和して、全てのこの世界の道理を経験から分かっていた。人間のことも、創造的な体験をしながら、価値観とアイデンティティを分かっていた。

いつも、そういう文章を書いていた。本当に、それくらいしか書いていない。

もっと数学的なことを考えると良く分かる。パソコンでは分からないから、パソコンは忘れた方が良い。計算と言うよりは、思想的、概念的な部分を分かると良い。

証明をすることから、発明のための原理が生まれるが、そのためには、学習、手段、組織、経験、方法、知識、自由が必要だ。そういう、「手段的な前提」をいつも書いていた。

そろそろ終わりだ。いつも書いていた文章は、そういう文章だった。

自然な意識と多様性から、独立した共同体が生まれる。そこでは、助け合い、教え合い、許し合うべきだ。そういうことを言っていた。

それから、想像力があった。ものは工夫と実験で生まれるとか、自然法則はパターンから意味を見出すことであるとか、段階的、階層的な想像力のようなことを言う。

あとは、人生経験を全部言っていた。自我と成長は、真実としての感情と経験から生まれると言う。そういうことをいつも言っていた。

あとは、工場から共同体まで、また、民主主義から共産主義まで、この世界の共生社会のようなものを全部創造した。社会システムを作る、と言っていた。

そういうものを、全部自由だと言う。ある意味、マルクスの資本論のような文章だった。

あとは、心理学的に社会のことを分かる。共同体は意識から生まれ、社会は心理学的な感情の結合と関与から生まれる。数学は、人間が作ったものであり、物理的な手段を持たない部分では、純粋に人間の理性的であるが、主観と言うよりは客観的手法である。

そういう、心理学的に社会のことや数学のことを分かる。そういう文章だった。

あとは、考え方のパターンのようなことを言う。社会とは、手段、価値観、経験、分析の、手法的、経験的、あるいは、理性的、実践的な考え方である。考え方の実現である。

社会の活動から、あらゆる考え方は生まれる。そこでは、関係性と現実を見る視点が重要である。そういう、おかしなモデルと分析のような社会論をいつも書いていた。

そろそろ、いつもの文章も最後まで全部分かった。そういうわけで、哲学はもう良い。

あとは、世界の構造を作るとか、全ての仮定と結論を作るとか、そういう発想が多かった。

もう分からないと思う。そろそろ、もう充分分かったはずだ。

理性的な、「人間像のような考え方」をいつも書いていた。経緯から環境まで、色んなことを自由に考えていた。モデルから意図を考えていた。それを意図だと言っていた。

あとは、感情の法則や、深層心理のようなことを言う。

何でも法則にして、心の中に作って分かる。そういう、心の現象学だった。

精神分析をして、普通の心理学を作っていた。

抽象的な構造を作って、帰納的な考え方を作って、それをパターン化していた。

そして、全員の人格と、全ての環境を書いていた。

良く分からない。何かが馬鹿なのに賢い。放送大学の数学科目に見える。

あとは、社会の仮想モデルのようなものを作っている。本当に、それくらいの馬鹿だった。

それから、因果性や法則性を、どんな事例から見出すか、のようなことを言っていた。

そして、相対的なプラットフォームを作って、作用や反応を考えていた。

習慣から、教育のようなものの在り方を考える。そして、「どのようにすれば人間が可能性を発揮出来るか」などを考えていた。あまり賢くは無かった。

ニーチェのような哲学的なことを、いつも言っていた。

オープンソースのようなことを言っていた。システムは公開するべきだと言う。

不思議と、本当にそれくらいしか書いていない。そろそろ終わりだ。

あとは、現実離れした発想が多かった。全てのソフトウェア資産は、共有すべきだと言う。メインフレームからケータイまで、全て共有すれば、ソフトウェア資産が爆発的に発展する。そういう風に、皆を騙していた。

あとは、考え方から全員の人格と信念が分かる、のような、「あらゆる知恵の包括的理解」のようなことを言う。そこから、理解や発想のような言葉を作っていた。

そういうわけで、オープンソースのような、現実離れした社会理論を作っていた。国会のようなものを作ったり、いじめや核兵器を無くすための発想をしたりする。

そして、全員の発想を包括した発想のようなことを言う。

それから、歴史のようなことを言っていた。日本とドイツとか、ソ連がロシアになったとか、そういうことを言う。ファシズムの後は経済成長するとか、ロシアは右翼になってナショナリズムに陥るとか、アメリカはソ連と言う敵が無くなって馬鹿になるとか、真理のような法則を適当に言っていた。あとは、世界の全ての国の歴史や文化を書いていた。

そして、自分の人生を全部書く。

信念から社会のことを作っていた。綺麗事のような内容に、酔っぱらっていた。

人間の組織のことを合理的に考えた。

人生論のような、「どうすれば自由に生きられるか」のようなことを、真理のように書いていた。「人間が環境の中でいかに生きているか」のようなことから、真理を書いていた。

成長を全部書いていた。成長を書いていたせいで、キモイ文章を書いていた。

成長は、いかに認識し、認めて行くか、自我がどのように発達していくか、社会性にどのように自覚して行くか、のような、ヘーゲルのようなことをいつも書いていた。

あとは、根源的、仮想的に、言語、社会、経済、理性、もの、数学、科学のような発想を考える。言語を作るとか、教育を変えるとか、そういうことを言っていた。

主に、そういうものを言っていた。それで終わりだ。

あとは、仮想的な原因のようなことをプラットフォームにして考えていた。

ヘーゲルが、事そのもので言っているような、本質や概念のようなことを考えていた。

もう、何も残っていない。今日は、もう分かった日だ。ニーチェの日に見える。

あとは、場の共有から創造性が生まれると言う。

昔は、そういう風に、細部まで言葉で考える。そこがキモく見える。

もう何も無い。もう、そろそろ分かった。これ以上は、昔の自分も、哲学も要らない。

そういうわけで、原因と結果でも考えれば良い。誰でも、因果性を考えれば分かる。

仏教のことを知りたい。仏教は本当に一番良い。

理論的な説明や推論から、社会や人生の知恵を書いていた。自然法則を成り立たせた。

仏教のことを知りたいなら、家に本がいくらかある。

仏典のことば、と言う、途中まで読んでいた本があるし、サルトルの本と一緒に買った釈迦の本がある。それらを読めば良い。

むしろ、もうこれ以上、読まなくて良い。あとは、好きなことをして、楽しめば良い。

もう、大学生が終わった。このまま大人になる。

他より遅かったように見えるが、自分も普通の人間だ。昔は早かったように見える。

いつも、オープンソースのようなモデルを作って、社会や人生のことを考えていた。

異様な意識の経験を書いていた。

意識や観念のような構造を作る。

そして、組織論から、社会主義の国家のようなものを作っていた。

それくらいの馬鹿だった。もう、終わりだ。

自分は、まだ何も終わっていない。普通にニーチェでも読めば良い。

あとは、世界観と推論のような内容が多かった。

この世界と人生のことが全部分かっていた。

関係と構造から、言葉と考え方で、この世界の多面的な「相」のようなものを書く。

それこそ、社会と同じものを作って、人生のようなものを段階的に推論していた。

もう分からない。もう、哲学なんかしない方が良い。

本はもう読みたくない。ただ、勉強はしたい。そういうわけで、何か覚えれば良い。

社会科はつまらない。誰もがつまらないのが社会科だ。理科の方が面白い。

昔は、専門を横断して分かっていた。科学的方法で、あらゆる科学を作っていた。

それは、あまり賢くない。普通、カントをやるとそうなる。それこそ、大学の一般教養やリベラルアーツは、どこの大学でも多い。そういうわけで、あまりおかしくは無い。

自分は、カント、ヘーゲル、ニーチェをやれば良い。それは、きちんと分かる。

ただ、そんなに昔を分かっても意味が無い。昔なんか、どうでも良い。

社会科はもう終わったように見える。数学・物理も、昔、普通に出来ている。

昔は、数学的なものも良く分かっていた。パソコンが分かるだけでは無く、デカルトのように、数学的な考え方と知性が良く分かっていた。ヒュームのような人間だった。

自分は、もっと予測すれば良いのが分かっていない。昔なんか、ただ予測しているだけだ。自然な考え方から、予測して分かっていた。技術を知り尽くしていた。

そういうわけで、適当に予測していると、環境や心のことが分かる。そういう人間が多い。

あとは、論理学のようなことを考えると良いかもしれない。「かもしれない」から未知のことが分かる。自分は、そういう、子供でも分かることが分かっていない。そのせいで、子供の人格になっている。こういう分からない人間が、一番どこにも多いようで、居ない。

あらゆることを事前に予測していると、本当に分かる人間が多い。

あとは、2ちゃんねるが多かった。システムと基盤の参加のようなことを分かっていた。

ネットで色んな社会を知ることで、人生的な発見と自然な世界観の広がりが分かっていた。

良く思い出すと、世界の構造と、推論のようなことしか書いていない。

想像力や宇宙のシステムを書いていたとは言うが、良く覚えていない。

推論をいくらでも、全部書いている馬鹿が多かった。

もう何も無い。むしろ、勉強もしたくない。終わったから、何もしなくて良い。

勉強したいとは言うが、しても意味が無いのが分かっていない。中学数学に意味が無いと思うなら、止めた方が良い。地理も歴史も意味が無い。地理は覚えるわけがない。

大学で、1つの専門だけをすれば分かるのは当たり前だから、学校なんか無視して、自分のやりたいことを1つやれば良い。オープンソースだと思えば良い。

昔は、体験から社会科が分かっていた。哲学だけではなく、政治経済や宗教のようなことも、体験から分かっていた。理系のことは、同じことを発想して分かっていた。

普通に、この世界の「道理」のようなことを考えれば良い。自分はそれが分かっていない。

何もしないのがおかしい。世界の広がる体験は、二度は出来ない。

あまり意味が無いが、高校の勉強は止めた方が良い。覚えるだけと言うが、誰もが、内容が大量に多すぎて、1ページも覚えられない。受験で覚えるのは良いが、試験が終わるとさっぱり忘れてしまう。誰も覚えていない。高校は止めた方が良い。

最初から専門をした方が良い。馬鹿に見えて、最初から専門は賢い人間になる。生物学、心理学、経済学などをしたいのは良いが、全部は出来ない。パソコンと同じように、マイナーな分野の方が賢い分野は多い。マイナーな分野には、色んな専門的な知識がある。一般的な分野には、基礎的なものしかない。マイナーな方が応用的で、総合的だ。

現象を相対的な関係だと思って、社会のことを経験だと思えば分かる。それは、UNIX的なところがある。そういうわけで、哲学はUNIXをすると出来る。

あとは、勉強はしたいが、本は読みたくない。本を読むだけの勉強はつまらない。

あとは、信じるような内容や、心構えのような内容を書いていた。

自由とは権利であるとか、希望であるとか、期待であるとか、そういうことを言う。

何も賢くなかった。あまり意味が無い、書き直すだけのキモイ文章だった。

もう、文章のことも忘れて良い。あとは、抽象化や階層化のようなことを言う。

そろそろ終わりだ。もう何も無い。あとは、哲学をやれば良いようで、哲学はもう良い。

場、環境、経験、記憶、意識、人格のようなことを全部言う。

相対的なものの様相や、実験的な手法を含めた経緯のようなことを言う。

色んなプロセスと手法のようなことを全部言っていた。

自分は、生きられるだけで良い。本はもう色々と読んで、満足した。楽しみなんか、何も要らない。仕事も出来ないから、何もしないだけだ。

むしろ、パソコンは悪くない。パソコンは、色々と、賢い点が多い。

それから、理性的な行動と捉え方の現象学のようなことを言う。

あとは、知り尽くす経験の段階のようなことを言っていた。

あとは、ネットでいかにして分かったのか、意識の変転のようなことを言っていた。

2ちゃんねるのような文章が本当に多かった。

そして、人生のようなことを、いつも書いていた。全て分かった、マスターだった。

宗教から科学まで、全部きちんと分かっていた。真理のような文章を書いていた。

パソコンのシステム、文化的な価値観と世界観、抽象的な認識と方法、人生の変転のようなものを書いている。この世界が構造的に、UNIXのように把握出来ていた。

もう終わりだ。あとは、哲学はもうしたくない。経済学が良いと思う。むしろ、フランス史やイギリス史が良いかもしれないが、フランスやイギリスは、本当につまらない。

イギリス史の本を読むと、ありえないほどつまらない。読めるわけがない。

そういうわけで、経済学や心理学が良いと思うが、それは、ただ目移りしているだけだ。

あとは、経験と可能性から、自由な世界の構造を作る。「この世界の普遍的な真実の構造」みたいなものを作っていた。あらゆる世界を包括した、1つの普遍的な構造を作った。

あとは、心理学と経済学は、している人間が多い。普通、心理学と哲学の方か、経済学と歴史の方に分かれる。文系はそういう人間が多い。心理学は、皆きちんとやっている。

心理学をやる人間は、教育学もやる人間が多い。歴史は、普通、文学もやる。法律や宗教も、やっている人間が多い。そういうわけで、理性的な方か、社会的な方を選べば良い。

むしろ、理性的な方が良いだろう。社会的な方は、もう充分だ。

いつもの文章は、どんどん未知の部分を作って、馬鹿になる文章だった。

そういう、馬鹿になる「作った世界」を消すと賢くなる。そんな世界を作る人間が居ない。

それから、社会科をした方が良い。哲学は、ダメ人間の世界だ。心理学なんか、狂うだけだ。行動心理学と臨床心理学はしたかったが、昔と今で、もう完全に出来ている。

そういうわけで、フランス史や日本史などの、歴史と経済をした方が良い。市場経済と、日本の歩んだ文明の歴史が分かる。それは悪くない。自分は社会科がしたかっただけだ。

心がいつどうなるか考えて、「どうなるからどうなる」のを良く分かっていた。

ネットで、人々が何をするかを見て、「自然に社会を形成する」とか、「相手を許す」とか、そういうことを分かっていた。そういう、賢い心理学者だった。

昔は、数学のことも良く分かっていた。説明、証明、条件、仮定、積み重ねの知性があった。そういう、数学的な考え方は、数学なんかしない方が分かる。

そういうわけで、哲学はもう終わった。歴史と経済学をしたいなら、文学や心理学もすれば良い。それは、不思議と、それくらいなら出来る人間が多い。本を読めば良い。

数学は、説明していると分かる。「何が正しいのか」を考えて、「何が言えるのか」を考える。そういうわけで、本当に、馬鹿の方が分かるのが数学だ。

ただ、数学ぐらい分かった方が良い。そういうわけで、高校生のように、数学もきちんとやった方が良い。数学、歴史、経済学、心理学をやれば良い。それくらいは頑張れば良い。

心が自分で無くなっているのが悪い。自分に語りかけるようになっている。

学校や会社などで、相手と敵対したり、いじめたりするのは良いが、相手も自分と同じなのだ、と思って接するべきだ。それこそ、いじめられた相手に対して、恨みや憎しみを持つよりも、「相手も、自分と同じように、悲惨なのだ」と思って接すると、むしろ、親友になれる可能性がある。昔は、そういう、「親友になれる可能性」を経験から分かっていた。むしろ、考えるだけでは無く、色んなところで色んな人間と経験するべきだ。誰もが、その人なりの世界の中で、その人なりに正しく生きている。2ちゃんねるのような場で経験することで、「全員を理解する」ことが出来る。それも、「段階的に社会経験をする」と言う風に、「経験から全員のやっていることの意味を知る」と言う発想になる。

そういう風に、ネットで経験して、マスターのように分かっていたのが、昔の自分だ。

色んな人間を知って行くことで、きちんと全員のことが理解出来る。昔はそういう、自由に経験して分かった人間だった。そういうわけで、きちんと分かる人間が高校に多い。

そういうところから、チャンス、個人の自由、社会形成、共同体の創造を分かっていた。

そして、理想の社会のようなものを分かっていた。

そろそろ、プレアデス星人も終わりだ。もっと高い宇宙人になる。不思議と、仏になる。

言語、コミュニケーション、影響力、パソコン、実存主義的な理性、などから、思弁哲学のような哲学者になった。弁証法から経験的知性まで、理性的なことが分かっていた。

「経験に由来する」ことや、「経験を可能にする」ことから、カントのように分かった。

良く分からないが、そろそろ終わりだ。プレアデス星人よりも、一段階高い宇宙人になる。オリオン星人だと思えば良い。そうすると、知性と意識のレベルが高まって、この宇宙全体を支配出来るようになる。ただ、悪いことは出来ない。自分の分かったことを教えて、自分の実現したいことが実現出来る。そういう教師のような良いことは出来る。

自分は、まだ何も終わっていないのが分かっていない。そんなに色んな学問はしなくて良い。きちんと哲学だけを詳しくやれば良い。哲学なんか、まだやり始めたばかりだ。それに、歴史や経済学で、何か分かるように見えない。社会の常識なんか、テレビで分かる。

昔は、色んな発想が全部あった。パソコンのせいで発想法豊かになった。

ユーザーインターフェースは、コマンドラインとGUIを融和したような、革新的なものが考えられるかもしれない。もちろん、カーネルはLinuxを使う。

XMLとGUIを上手く組み合わせて、スクリプトのパズルのようなGUIを考えられる。

最近は、馬鹿な発想がさらにある。神と対話したり、世界を支配したりする。

そういうわけで、そんなに発想があるのがおかしいのが自分だ。

昔は、国の持てる可能性のようなものを良く考えていた。

ニーチェが言うように、賢い人間は、自分の弱さや欠点を良く知っている。

自分は、良く分かっていない。今が一番良いのは良いが、昔はどれもまともな楽な人間だ。

良く分からない。それこそ、昔はまともだったのが、最近分かっていない。

昔は、可能性を考えながら議論することで、この世界の全ての可能性が分かった人間だ。

そういうところがおかしい。昔を辛かったと思うせいで、分からなくなっている。

辛いのは、今だ。そういうわけで、昔は楽だっただけだ。神ぐらいから辛くなった。

創造性を信じていた。

自分は、皆に自分を分からせたり、出来るようにしたりする意味が無い。

自由を拡大していた。世界をどんどん多様にしていた。それも悪い。

自分は、何も考えずに書くのがおかしい。もっと考えて書けば良い。

成長の段階、のようなものを考えていた。

また、1つ分からなくなったが、それは悪くない。いつも、1つ分からなくなると、そのすぐ後に、一番良い文章が書ける。そういうわけで、分からない方が分かる。

昔の方が楽だったのを、何か言いたかったのかもしれない。ただ、違うと思う。

人生的な真発見や、人間の知り得ること、意識していること、経験、などを考えていた。