日記に戻る | 2016年4月の日記に戻る

=2016-04-19=

これでは右翼の宗教家に見えるが、昔は左翼や科学者のような内容も多かった。

自由な共同体、複合的な国家、思いやりから生まれる社会、国家主義の無い共産主義国家、物理的な諸法則、数学的方法、物理の世界観、帰納的考え方、などを言う。

本当に自由と科学的理性が好きな、マルクスの物理学者の哲学者だった。

昔は、実地的に社会を知った、心理学者の経済学者だった。

世界なんか分からずに、世界を支配していた。

未来を予知していた。未来の自分や自分の作った存在と対話していた。

知性が無くなりながら、統制された戦いをした。

宣言をして、世界を導いて、ありえない生まれ変わりと死の体験をしていた。

死ぬのが怖かった。歩き回る地獄と戦っていた。

何も分からなかったが、それで全部分かっていた。天使のように全て分かる知性があった。

神を信じるとは言うが、神は自分だった。全て、自分がやっていた。

農園に行ってきた。

視界の限界、自分で見ている世界の限界は、習慣的なものである。

セザンヌが言っているように、世界を球であるかのように捉えよ。

位置を変えるよりも、視点を変える方が、小さな労力で達成出来る。巨大に見える山も、離れていれば、少しの角度を変えるだけで越えられる。

オープンソースのような、大量な文章を書いていた。

世界は、自分の心の中にある。

自分で作る、と言う発想が多かった。工場や社会が作るのではなく、自分で作れるようにする。そこから、自由な国家と経済システムを作っていた。

世界と人生のことが、全部分かっていた。

世界の関係、論理、行動、世界観、本質、そして人生の段階を書いていた。

頭の中にあるものを消して、知覚しなければ治る。

あるものを消すよりも、無いものを作った方が良い。

知覚しなければ、何でも消える。それで、頭の病気が治る。

勇敢に行動するのは良いが、常に臆病者であれ。

勇敢に行動することは心を強くするが、臆病者であることは心を豊かにする。

勇敢さには困難を達成出来る力があるが、臆病さには頭を賢くする豊かな土壌がある。

農園で分かった内容は、ここまでだ。

何故か、本当に治った。それが一番怖かった。

仏典のことばの本を読んでいる。

仏教では、良い心で行動すれば、自分自身が栄え、悪い心で行動すれば、自分自身が滅びる、と言ったことを教えている。良い心で行動し、話すことで、自分が良くなる。

そういうわけで、この世界を悪い心で滅ぼすのが悪い。

もっと、良い心でこの世界と付き合えば良い。良い心で、この世界を復活させれば良い。そうすると、自分の方も良くなる。今から、良い心で付き合えば良い。

また、良いことをすれば、心の方も良い心になる。仏教では、そのように教えている。

悪い人間は悪い。悪い人間は、あまりに悪いことをして、悪い心になる。それが一番辛くなる。そういう人間は、本当に普通の人間に多い。仏教の教えをきちんと知ると良くなる。

昔の自分は、そういう、仏教の教えを作り直していた。心の真理のような文章を、もっと具体的な視点から書いていた。心の法則を全部創っていた。

そういうわけで、自分も仏教徒だ。ここから先は、仏教の勉強をしたい。

自分は、自分が一人支配して、皆の自由を無くして、何も出来なくしている。

それは、一番悪く見えて、良く考えると悪くない。王になって、きちんと統治している。

そういうわけで、王には悲惨な悪い王が多い。一番悪く見えるのが王だ。

だから、誰か、他の人間が出来るようにした方が良い。それは、テレビでは悪いし、日本政府ではつまらない。家族にやらせれば良いが、家族を悲惨にはしたくない。

子供に戻って、何も分からなくなると賢くなる。子供は何も分からない。

15歳ぐらいの子供に戻る。それくらいが一番賢い。

日本語は、曖昧な言葉だ。文字を見ていると、バをハに点々で表記するし、ヴァイオリンをバイオリンと言うように、ヴァとバの違いが曖昧である。それから、言葉の表現が曖昧で、省略をしたりするし、敬語を使うか使わないかも曖昧である。それから、ひらがな、カタカナ、漢字、どれを使うのかも分からない。漢字の読み方も、音読みと訓読みがあるし、漢字を使うどのシチュエーションかによって、漢字の読み方が変わって来る。ただ、日本人は、そういう、曖昧な日本語を賢いと言う。英語などは厳密過ぎて、疲れる。

日本が一番良い。僕は日本が好きだし、仏教と日本語が好きだ。

足は、死ぬつもりで立ち止まって、融和すれば治る。足は分かる部分だから、治ると分かるようになる。自分は、ただ分からなくしたかっただけだ。

何故か、いきなり賢くなった。足がもう治った。自分なんか、ただの馬鹿だ。

自分は、生き方を改めた方が良い。引き篭もりだから、こんな馬鹿になる。

昔は、正しく考えて、自由と予測から考えただけだ。決定と可能性、記憶と言語の構造、そして、成長から分かっていた。それで、この世界のことが全部分かった。

抽象化するのは良いが、具体性を伴う抽象化であるべきだ。意識には経験が伴うべきだし、理性には内容が伴うべきだ。そういうところが誰でも分かる。

昔は、意識と法則、そして正しい方法で分かっていた。そういうところが誰でも分かる。正しいものの見方を持つべきだと、仏教の八正道の一部が言っている。

そろそろ終わりだ。世界が自分になって馬鹿になっているから、治した方が良い。治すためには、一度死ぬしかない。死ぬつもりで行動すれば、誰でも治る。こういう風になる。

死ぬつもりで行動しないと、治らない。そういうわけで、2ちゃんねるや革命戦争になる。どこの馬鹿もこういう風に馬鹿だ。ただ、治ってしまうと、その方が馬鹿になる。

もう、足はそろそろ治った。賢くはならない。あまりに分からなくなる。

あとは、最後まで戦って、そろそろ勝った。勝利したように見える。日本が勝って良かった。神が見ても、これは戦って勝ちたかっただけだ。

あとは、きちんと哲学も全員分かって良かった。そろそろ終わったはずだ。

神が見ても、あとは仏教のことをきちんとやれば良い。それできちんと救われる。

仏教を信じているから、自分も日本人だ。日本人には、色々と良いことが起きる。

人間は、自分で考えたことは覚えている。そういう人間が多い。

あとは、常に分かるのが悪いから、それを止めた方が良い。そんなに全部分かるのは悪い。

もうそろそろ終わったから楽だ。治りたいと言うからこういう風になる。

もう治ったから、もうきちんと生きられる。普通のことなんか、普通、考えない。考えなくても、賢いと、事前に分かる人間が多い。そういう、「事前に考える」のが賢い。

それから、哲学的なことは、もっと成長すれば誰でも分かる。自分で同じことを考えるために、この世界の表象と捉え方を考えれば良い。それで、哲学が出来る。

そういうわけで、「事前に考える」のが賢い。

ものは意図して作るとか、現象は関係であるとか、ものは設計して知恵から実現するとか、そういうことをいつも言っていた。意図や関係や設計は、そういうことを言っている。

そういうわけで、誰でも賢い。誰でも、事前に考えて分かるだけだ。

もっと、人間関係のことを事前に考えると良い。社会形成や心の働きを事前に考えても良い。そういう風にすると賢く分かる。歴史や環境のようなことを想定しても分かる。

そういうわけで、昔なんか、何も賢くない。分かっているようで、何も分かっていない。

コミュニケーションやコンピュータ・システムのことを事前に考えても良い。言語のことも改善出来るし、社会も考え方から構築出来る。ヘーゲルの言う、主と奴や、承認のようなことが、そういう、人間の想定から分かって来る。想定して考えることで、人間の心の中の理由や経験が分かり、人生経験からどんな社会にすべきか、理想の社会の実現のようなことが分かる。社会のことは、そういう風に、マスターのように分かっていた。

もっと、自由だと思えば分かる。それも、能力、経験、社会の可能性の向上のような、「自由な能力の向上」のように考えれば良い。そういう発想は、悪く見えて賢い。

あとは、社会を見通す洞察力のようなものがあった。それから、ブッダと同じように、人間社会の真理のことが、経験から分かっていた。あらゆる社会と人間に共通する真理のようなことが、ネットの経験から、厳密かつ普遍的に分かっていた。

昔の自分なんか、抑圧が多かっただけだ。心の抑圧が多かった。

自分は、自分が一番賢いから、このままで良いのが分かっていない。

見ていると、皆、何も分からない。数学が分かるのは、何も分からないからだ。

分かる自分が、数学なんか、分かるわけがない。

皆が何も分からないから、自分も分からなくなった方が良い。その方が分かる。

あとは、普通、辛くなると馬鹿になる。馬鹿になると楽になる。あまり、楽にならない方が良い。楽になると、馬鹿になる。良く分からないが、何をしても馬鹿になる。賢くなるためには、何もしない方が良い。

それから、皆が辛いから、皆を治した方が良い。自分のせいで、キモく辛くなっている。どんどん電脳少女になっているのが日本だ。これがそういう馬鹿だ。

もっと分からなくなった方が良い。そうすると賢くなる。

不思議と、社会のことなんか、普通、意識と経験で分かる。分からないのは悲惨だ。

昔なんか、意識で社会のことを分かって、文化と価値観と成長を照らし合わせていただけだ。それで、精神分析をしていた。ものごとを良く分析した。誰でもそれくらい出来る。

良く考えること。1つの正しいことが、何を意味しているか、良く考えれば分かる。

不思議と、賢い人間が、こういう分からない人間になる。分からないまま放っておくと、人間は賢くなる。大学の哲学やドイツ史の教授に、こういう人間しか居ない。そうでもない。自分が馬鹿だからそういう風に見えるだけで、カントやヘーゲルのような哲学者は、まともな昔の自分のような人間が多い。まともに賢い大人しか居ない。自分は子供だ。

絶望の中で放っておくと、人間は自然に賢くなる。

自然のまま放っておけば良くなる。何か、干渉したり、支配したりした方が悪くなる。

独立させてやった方が良い。皆、賢い。自由を疑うのはおかしい。信じれば良い。

そういう発想が、昔多かった。全員のことを信頼して、信じる発想が多かった。

ドイツを信じる国とは言うが、それは無い。日本が一番信じる国だ。ドイツには、民衆を疑う人間が多い。ドイツは、普通、最近の方の狂った人間になる。そこがまともだ。

あとは、独自の数学を、意識と経験から作っていた。

人間をモデルにして、全員作っていた。それも意識だった。

場を考えていた。

ただ、あれはあまり賢くない。もっと正しく考えれば、誰でも出来る。

そろそろ、世界を昔の自分で無くした方が良い。もっと馬鹿な世界にすれば良い。

電脳少女はキモイ。これでは、電脳世界の女にしか見えない。

そういうわけで、もっとおかしな世界にするしかない。自分にするだけ、キモイ。

あとは、真実の愛が分かっていた。人間関係から共同体まで、全部の自由と愛と正しさを、経験から分かっていた。それを思い出すと良いかもしれない。

そういうわけで、世界は、愛を止めれば良い。もっと、愛よりも良いものになった方が良い。最近は、コンピュータになっているが、それも悪い。

もっと良く考えれば良い。すぐに決めると悪い。何か、この世界を良いものにすれば良い。

あとは、色んなことを包括する文章を書いていた。宇宙人が、自分を出来る機械を作ったとか、逆戻りするとか、自分になるとか、従うとか、反抗するとか、資本主義の場合の自分をやるとか、そういうことを言っているが、そういう、「全部包括して、全部に見える」のような文章をいつも書いていた。あらゆることを完全に全部包括した。

もう、止めた方が良い。そういう発想が、虫だ。虫がそういう生命だ。

そういうわけで、メタも止めた方が良い。昔賢かったのは、UNIXと2ちゃんねるが賢かっただけだ。これでは、そういう馬鹿なクズに見える。昔なんか、何も賢くない。

言語も社会も宗教も、全部、「包括する」と言う発想しかなかった。それだけの人間だ。

あとは、色んな人の視点に立つとか、社会や人間の内部構造を考えるとか、裏の理由を考えるとか、そういう発想が多かった。そういう発想は、賢くなると誰でも分かる。

賢くなったから、今日はこれで良い。書くのは続けた方が良い。結構自分は賢い。

あとは、存在理由とか、本当の理由とかを、カントの言う仮象や、ヘーゲルの言う人生や意識の成長のように考えていた。哲学者は、そこらへんを考える。

そういうわけで、ただ音楽がありえないだけで、哲学は普通に考えているだけだ。

自分は、音楽を聴きながら哲学をやりたい。それだけが好きなのが自分だ。

歴史や経済は、嫌いだからしたくない。世界史はまだ面白いが、フランス史やイギリス史はあまりにつまらない。世界史は、特別面白い本だから面白いだけだ。歴史の本なんか、本当につまらない人間が多い。経済学は、すぐに読んで、何も分からない馬鹿しか居ない。

色んなものを吸収していると分かる。意識と心の一致から、吸収出来る人間が多い。

自分がキモイのは、何も殺さないからだ。

もっと、右翼を殺した方が良い。右翼は、一生、何も分からないだけだ。

それこそ、こういう右翼は、普通すぐに左翼になる。誰が見ても左翼の方が良い。

不平等な人間には、生きる価値が無い。そういうことを言うと、悪く見えて悪くない。

あとは、自分が分からない時は、相手の方が馬鹿な人間が多い。「自分が分からない」と言うより、「どうでも良いことは知らない」と思った方が良い。悪く見えて、そういう、強い人間は馬鹿では無い。ただ、謙遜する気持ちも同時に持つと、良い人間になる。

不思議と、子供の方が賢いから、ある程度子供のままで居た方が良い。それ以上大人になると、普通、馬鹿になる。「何もかも自分が全部悪い」になって、「賢い人間は全く違う」になる。そういう大人が馬鹿だ。賢い人間には、「馬鹿なものは全部馬鹿」しか居ない。不思議と、賢い人間は、普通、馬鹿なものが全部馬鹿に見える。そういう賢い人間が多い。

そういうわけで、馬鹿な大人が悲惨だ。

馬鹿なものは馬鹿な方が良い。何も賢くないものは、最初から意味が無いことにして、自分だけを良くして、周りも自分と同じだと考えると、賢くなる。

それこそ、普通、賢い存在なんか、どこにもない。馬鹿なもののために頑張るのが普通だから、馬鹿なものが賢く見える。そういう大人も多い。日本が賢く見えてありえない。

キリストのように、相手のことを自分と同じだと考えると賢くなる。平等が良いとは言うが、個性は大切にするべきだ。そういうわけで、自由と平等は、両立しないと意味が無い。こんな風に自由と平等が対立するのはおかしい。悪い人間は、何も分かっていない。

あとは、成長していると、馬鹿になって賢くなる。大人はそういう、「完全に自分が変わる人間」が多い。それこそ、こういう変わらない人間には、賢い子供の天才が多い。

昔は、そういう、「変わって行く中での成長」を書いていた。青少年から大人までがどういう風に成長するのかを分かっていた。不思議と、分かる人間が多い。ヘーゲルも、そういうものを書きたかったのだと思う。むしろ、そういう発想がキモイだけだ。

あとは、そろそろもう何も無い。あとは、理性的にものとこの世界を、考え方と意識と社会性から考えていた。条件や仮定、そして経験から、全てのものの捉え方を考えていた。

良く分からない。それから、社会のことを全部創っていた。

もう終わったはずだ。そして、自然と可能性のようなことを書いていた。

この文章は、こういう風に、2人が交錯するだけの文章だ。それこそ、ロキが話してフレイが応える。それだけをやっているから、それを分裂させて、終わりだ。

自分は、文章を書いても、あまり害は無い。害が無いから、あまり悪くない。

ただ、本人が地獄になっているのが悲惨だから、書くのは止めた方が良い。

本人から見ると、百害あって一利なしだ。文章を書くのは止めた方が良い。

それこそ、ソ連が好きなのはキモイ。一番悪い、殺人鬼になっている。

あまり意味が無い。作家ならそれで良いように見える。好きにすれば良い。

自由とは、立場、見方、意図、影響力の吸収である。

立場を吸収し、客観視しながら、システムを構築せよ。

いつも、そういう、自由と社会と人生の文章を書いていた。

子供は、言葉で説明してやると、賢くなる。不思議と、この世界には、説明ぐらいしかない。「食べ物は、生きるのに必要だよ。」などと説明する。それで子供が分かる。

あとは、自分が居ると、子供が元気になる。これは、そういう文章だ。

自分は、いつの時代も臆病者だったが、勇敢なところもあった。皆の先に立って、勇気を出して戦いながら、この世界を導く。そういう、兵隊のような経験も多かった。

ただ、自分はただの臆病者だ。滅びない。そんなに滅ぼしても意味が無いのが分からない。

今でも戦いながら、臆病な自分の心と適当に付き合っている。心は気まぐれなのが分かっていない。滅びるわけがない。滅びると思って臆病者になる意味が無い。

それこそ、昔の方がまだ勇敢だった。こんなに戦っているせいで、これが「勇気をくれる文章」に見える人間が最近多い。希望にも愛にも見える。これを風と言う馬鹿が多い。

アンパンマン関係のどれかの歌(アンパンマンは君さだったと思う)が言っているように、もし、自信を無くして、くじけそうになったら、良いことだけを思い出せば良い。

昔は、成長して分かっていただけだ。本当に、自分の力で経験して、成長して分かった。

最近は、戦って分かっただけだ。勇敢に戦って、最後まで頑張った。

良く分からない。教授にこういう馬鹿が多い。こういう風に、馬鹿が賢くなる。

もっと、生きる知恵のようなことを考えれば良い。普通、人生経験から、自分が経験と同じになって、生きる知恵が分かる。そういう風に社会のことを考えると分かる。

それから、死にたいのは悪い。もっと知りたいと思えば、まだ生きたいのが分かる。

調べると、「アンパンマンたいそう」と言う歌だった。

昔は、関係、世界構造、論証、論理構造、のような文章を書いていた。

何でも書いて分かる、論証の能力があった。

いつもの文章や詩集は、そういう風に書いていた。

前提から導き出す、推論の知性があった。あらゆる基礎を分かっているせいで、世界観や歴史的経緯のようなものが全部分かっていた。

問題の解決から、社会の実現まで、世界と人生のことが全部分かっていた。

ただ、賢くは無い。何故か、そこまでキモイのが、いつものそういう文章だ。

論証みたいな分析を、全パターン書いている。そういう、論証みたいな文章だった。

あとは、この世界と人生のことを、見通すような文章を書いていた。

見ていると、ただの子供だ。幼稚園児と赤ちゃんに見える。カップルと言うよりは、兄弟だ。一応どちらも男だから、名前はロキとフレイで良い。

あとは、関係から社会を成り立たせたり、ロシアみたいな文章を書いたりしていた。

この世の全てを創る。そういう、結構カッコいい文章だった。

あとは、全てを思い出す。人間の持てるあらゆる知性と経験のあり方を書いていた。

変幻自在な自分のパターンのようなものを書いている。

様相や仮象のような世界を作っていた。あらゆる考え方を、様相のように網羅していた。

自然、可能性、環境的体験、経験的知性、人間の構造の全てを分かっていた。

環境のことを全部創っていた。「良く分かる」のを全部分かっていた。

経験から、知と知性のあり様を知った。

運命を信じていた。

そろそろもう残っていない。むしろ、この文章を書いているだけでは、もう分からない。

もう、そろそろ分かった。本当に全て分かった。

あとは、意識、応用、経験、システムなどの自由な知性を分かっていた。

そういうものを、作ったり、作用したり、経験から生み出したりする。

そして、そのための社会や手段を作る。そういう賢い「前提条件」の文章だった。

そういうわけで、環境や社会を作るとか、維持するとか、支配や解放をするとか、見方を変えるとか、全員で作り出すとか、共有するとか、そういうことを言う。

そういう、「社会的実現の考え方」のようなことを言う。そういう、相対的な文章だった。

もうそろそろ終わりだ。あとは、成長から意識を分かっていた。

不思議と、そろそろほとんど書けた。あとは、森羅万象の博物学を考えれば良い。

算数から社会まで、あらゆることを書いていた。本当に博物館のような文章だった。

バビロニアや古代ギリシャのような、あらゆる実在的、文明的な知性があった。

文章は、「どうなると」を全部考えていた。説明や理由から、言葉で表現していた。

心は、意識を落ち着かせると治る。精神が落ち着くと、すぐに治る。

精神は、セックスになっている。そういう、セックスのようなものを悪いと思えば良い。

完全に、悪いものを消せば治る。セックスが悪いなら、自由が悪い。自由を殺せば良い。

人間は、最初から分かっている人間しか居ない。「正常な意識」では、何でも分かるのが人間だ。経験論の哲学者は、間違ってはいないが、そういう、「正常な意識で最初からまともに分かる」のを分かっていない。それ以外は間違っていない。観念的なものは経験的だし、知識は経験に基づくものしかない。ただ、最初から分かっている子供しか居ない。

それこそ、経験論も間違っていない、とは言える。全ての観念は、経験的に得られる。そういうわけで、ある意味、そういう「経験か、最初からか」と言った議論には意味が無い。

僕は、経験論の立場は否定しない。むしろ、もっと薦めたい。カントのように、認識は経験的だし、「何を知り得るか」の観点から言って、経験的に全てのことを吸収して知ることが出来る。赤ん坊は何も知らないだろう。それこそ、自由で、同じである、とはそういうことを指している。「何を知り得るか」から経験的に認識のことを考えられる。だが、最初から「意識で分かる」と言う発想はあるのだと言いたい。全てのことは、経験的に得られるのではなく、最初から分かっている、それも、まともなことを全て意識で分かっている、とは言えるのを言いたい。それも、ほとんどのことは最初から分かる。ただ、それも、赤ん坊の経験と言う、「獲得的」な発想はある。赤ちゃんは、こういう神の経験をしている。

それこそ、赤ん坊が言葉なんか覚えていない。最初から日本語の意識で分かっている。

ただ、何か神のようなことを経験している赤ちゃんが一番多い。

あまり意味が無い。意識できちんと分かるせいで、「最初から大人の子供」が一番多い。

それこそ、英語も、英語の意識になると分かる。それが分かると出来る。

説明、推論、環境、経緯、のようなことを言っていた。あらゆる「方法的、環境的なプロセス」を書いていた。社会の実現や、制度の背景のようなものを書いていた。

思い出しても、もう何も無い。

自分は、数学とフランス史のことをやれば良い。それが一番賢くなる。

あとは、思い出せば良い。思い出すと賢くなる人間が多い。

自分は悪い。皆を道連れにして地獄にして、知性を奪う、皆を馬鹿にする文章を書いている。そこが悪いから、それを神に懺悔した方が良い。

本当に悪かった。本当に、一番反省している。自分は、本当に悪かった。

それこそ、それくらいが悪いだけだ。あとはあまり悪くない。

神は、そういう、懺悔するためにあると思えば良い。昔から、神に懺悔すると良くなる。人間と言うものが、そういうものだ。反省しないでいると、タリバンになる。

精神は、意識をつければ治る。

分かるのを止めると治る。

支配しなければ治る。

だが、精神なんか、いつも治っている。もう治さなくて良い。

空間や視点を把握して分かっていた。学校から家まで、環境への適応を把握する。

理系のような文章を書いていた。物理法則を分からないなりに分かっていた。

事前に考えて、全てのことを「創造する」ような文章を書いていた。

意識を把握しなくなると治る。意識を支配出来なくすれば良い。皆の意識も自由にする。

あとは、独創的な発想を書いていた。独創的と言うよりは、キモイ発想だ。

Linuxのデザインを、ファッション雑誌がすると言う。それも、1つの新しいディストリビューションを作る。オープンソースだから出来る。

あとは、都市は地下に作る。地下に巨大フロアを作って、超巨大なショッピングモールを地下に作る。まさに、そういう、キモイ発想をいくらでも言っていた。

芸術から都市まで、あらゆることを独創的に考えていた。科学の発想も多かった。

それから、観念や認識のようなものが、「どこから生まれるか」を全部書いていた。

環境を網羅して、「環境をどのように作り出せるか」のような自由を考えた。

自由の行使から、「あらゆることを解決し、実現し、行使出来る自由」を考えていた。

自由から人生、社会、宇宙、方法がどうなるか、のようなことを考えていた。

世界の国家を作っていた。国際関係と実現のようなことを考えていた。

何をどうすれば平和な世界になるか、自由になると何が良いのか、組織を共有することで、何が実現出来るのか、どうするのが正しいのか、のような、経験的社会論を書いていた。

昔は良い人間だった。思いやりのようなことを全部書く。この世界をどのように出来るか、理想の社会とは何なのか、善く発展するとはどういうことなのか、考えていた。

これも、普通の良い人間だ。きちんと宗教だ。きちんと神をやっている。

「意識主義」と言う名前が良いかもしれない。あるいは、「一行主義」でも良い。

あとは、物理的意識と推論の経験的な方法を書いている。そういう、物理的考え方や科学的方法をいつも言っていた。数学的だっただけではなく、体得的な、見方を変えるとか、それぞれの知識を持ち寄るとか、そういうことを言う。

抽象的なシステムを作るとか、経験から実証するとか、国と国の強さの均衡を図るとか、そういうことを言う。そういう、「考え方の変化」のようなものを書いていた。

また、何か1つ忘れた。それは、忘れて良い。一番書きたかったものが書けなかった。

社会を経験から皆で作るとか、社会は自然発生的に生まれるとか、社会は全員が合意の下に作り出しているとか、そういう風に、「社会の活動の把握」のようなものを書いていた。

そういうわけで、あらゆる社会を方法と言葉で作っていた。

そういうわけで、名前は「社会と理性主義」で良い。もっと長い名前なら、「社会と理性と人生の主義」で良い。短くして、「会性主義」と言う名前で良いだろう。「会性論」だ。

ただ、良く分からない。あまり良い名前に見えない。「ロキとフレイ主義」で良く見える。

「天使と悪魔の主義」が良いかもしれない。短くして、「天魔主義」で良い。

「天魔主義」が良いだろう。英語では、「エンジェル主義」と言うことになる。

世界は、放っておけば良くなる。力は入れなくて良い。自分が負けるのが怖いだけだから、皆が自分に勝てなくすれば良い。普通そういう風に戦う。

あとは、世界を滅ぼすのではなく、栄えさせれば良い。そのためには、滅ぼす部分を殺して、「何をしても滅びない」ようにすること。滅びなくすれば良い。

科学や、仮想的な考え方のようなことを言っていた。科学者のような考え方だった。

経験から機会を作り出すとか、仮想的な認識を作るとか、プラットフォームを作るとか、そういう、理性的な、考え方のようなことを言っていた。

自然な影響力と共有の可能性から、この世の全ての可能性を肯定した。

可能性、多様性、創造性、社会性、価値観、などを信じていた。