日記に戻る | 2016年4月の日記に戻る

=2016-04-26=

今を考えれば分かる。

自分は、馬鹿なことしか分からなくなっている。賢いことを分かれば良い。

もっと賢いことを分かるように頑張れば、知性がつく。

英語は、そういう風に、知性をつければ出来る。

ただ、英語は、こういう風に、馬鹿で分かりながら、分かった後で知性をつければ分かる。

裏で全て分かっているのが悪い。

内部の知性は、「分からないフリ」をしている。それで、世界を滅ぼしている。

あとは、ネットを見ながら、コミュニケーションの経験で分かった。

勝ち負けは、愛へと変わった。

自由は、倫理性へと変わった。

人々が自由に生きているのを見て、どう生きるべきなのかが分かった。

社会を知って、正しい理想の社会を作るためにはどうするべきなのか知った。

スラムから王になって、この世界を正せるような人間になった。

英語は、分かってしまえば分かるのが普通だから、分かれば良い。

分かるのと分からないののバランスを取れば分かる。

知性を高めるのは、悪くない。そこから、人生の経験が出来る。

分からなくなる時に分かる人間が多い。

知性を高め続けていると、本当に、この世界の正しいことが全部分かる。

そういう人間が子供に多い。大人は、知性を高めないから、馬鹿になる。

自分は、知性が無いのに分かるのが悲惨なだけだ。

イラストは、全体の構造を作って、線を描く、と言う。そういうことを言っていた。

行動には、結果から学ぶ力と、結果を作り出す分析の力と、判断力が伴うべきだ。

実現には、想像力と独自の豊かな発想があるべきだ。

情報共有によって、人々は世界を変えることが出来る。

何かをするためには、事前に良く考えて、失敗をしないように努めるべきだ。

いつも、そういうことを言っていた。そういう、心構えの行動論や人生論が多かった。

あとは、組織から社会や国のようなものを作っていた。そういう推論の文章だった。

今、ラジオで英語を聴いている。知性がつくと、そろそろ楽しい人生になる。

あとは、哲学者全員なんか、誰もしない。するわけがない。世界史全部も同じだ。そんな馬鹿をする人間は居ない。哲学と世界史は、1つに絞って勉強する人間が多い。

社会は、それぞれが実現し、価値観を共有する中で、自然、前提条件、構成員、幸福、自由、などを実現するものであるべきだ。

そういう風に、自由から行動や社会のことを作る。いつも、そういう文章を書いていた。

ソクラテスが(良く覚えていないから、他の哲学者だったかもしれない)、もしその人が正しい行動が何かを知っていたら、その人は正しい行動をする、と言うが、僕は、それは正しいことが出来る場合に限られる、と思う。出来ない状況では、誰も正しいことをしない。学校で悪いことばかりしているのは、正しい行動が分かっていても、それが出来ない、やりたくない、明らかにしない方が良い、などの理由があるからだ。同じ条件と環境を与えれば、誰でも同じように行動するだろう。学校、と言う環境的な要因に問題の所在がある。そういうわけで、僕と同じように、誰でも一度引き篭もりを経験すると、賢くて良い人間になる。全ては環境的要因だと、昔の僕は考えていた。

そろそろ知性がついた。何故か、哲学者全部なんか、出来た。出来たのがありえない。世界史、と言うよりは、文化人類学のようなことが出来た。世界全員分かった。

そういうわけで、環境から自由になって、色んな環境に適応して分かっていた。

また、学校の外部の環境にも問題はある。学校では無く、家庭でどんな生活をしているか、テレビなどを見て、この世界をどんな世界だと思っているか、などにも原因はある。それから、単純に子供が経験不足で、未熟なのも問題だ。子供は、何を頑張るべきで、何をすれば正しいのか、全く分かっていない。世界を知って、世界全体の中で自分のやるべきことを何であるか判断する能力が無い。そういうわけで、子供には、社会経験をさせて、そこから大学などの学問をさせるべきだと、昔は考えていた。ただ、ネットは悪い。もっと、大人たちと関わる経験をさせた方が良い。子供には、何も分からない。自分の立ち位置と、置かれている状況を、大人の世界を教えながら、分からせるべきだと考えていた。

良く考えると、自分の家庭の環境が良すぎるだけだ。

あとは、相手を自分と同じだと思うこと。自分が相手のことを怖いように、相手も自分のことが怖い。そこを良く考えて、「敵対」から「信頼」へと関係を変えていけば良い。自分が相手のことに背を向けたら、相手も同じように、自分のことに背を向ける。それこそ、自分が相手をどんな人間なのか分からないように、相手も自分をどんな人間なのか分からない。ここでも、鍵を握るのは環境だ。相手の中では、自分も世界の一部であり、色んなことを考えて人生を生きる中で、「自分と言う存在が、相手の環境の変化の中で、どう見えるか、相手の視界にどう映るか」などを考えられる。環境から、相手の人生としての因果性を考えられる。そこでは、自分の言動が、あまりに特異なものに映ってしまう。

あとは、心理学的に考えられる。アドラーが参考になるだろう。人間は、一番不安に思っていることから逃げ出す代り、二番目以下の不安とはきちんと戦って、頑張るものだ。その、不安と不安が矛盾した時に、人は思っても見ない行動をする。そういうわけで、優等生が、勉強に失敗して、突如引き篭もりになったりする。失敗よりも怖い、もっと大きな失敗が起きると、人間は小さな失敗を取って、簡単に学校を辞めてしまうのである。

あとは、思考で考えていた。思考を辿って考えていた。それも、環境的に考えていた。環境において、人が何を思考するか、何を行動するか、のようなことを考えていた。環境的要因のように考えた。あとは、まるで哲学者のように人間のことを考えていた。

そういうわけで、理性はあったが、全て経験的、環境的、分析的な理性だった。

環境から、行動や経験のことを考えていた。経験から行動がどう反映されるか、のようなことを、ネットで分かっていた。その環境で、その行動がどうなるか、などを考えた。それは、学校とネットを想定していた。

自分は、これで良かった。むしろ、ネットで色んなことを経験して、社会を知って、賢くなった。学校は、勉強に行き詰ったわけではない。ただ、意味が無く思えた。学校の勉強や部活動などでの努力が、あまりに辛かったし、自分の周りの人間も皆辛かった。悪い人間とは言うが、悪い人間も、自分と同じ境遇に置かれているだけの、良い人間だ。そういう、中学校と言う場所が嫌いだった。もっと自由なことをしたかった。それこそ、中学校に行くせいで、UNIXやPerlの勉強がしたくても出来なかった。そういうわけで、僕は引き篭もりになってUNIXやPerlの勉強をした。だが、何も作れなかった。普通、工業大学の学生が作れる。姉のような人間にしか出来ない。自分には何も出来なかったが、それでも、色んな思考をして、経験して、哲学者やマスターのように分かった良い人生だった。

最近、賢い。最近、作家になった。ただ、それもそれで、つまらない。ただ、悪かっただけだ。皆の環境を完全に滅ぼして、皆の頭を馬鹿にするのはおかしい。一番悪かった。

自分は、この世界で何かをすれば良いのが分かっていない。昔Perlのゲームを作りたかったように、何か1つのことをすれば良い。

終わっている作家や哲学者はもう良い。もっと、カッコいいことをすれば良い。

あとは、昔なんか、何もしていない。ネットで遊びながらフリーソフトをインストールして、LinuxのWikiを勝手に書き換えていただけだ。何も賢くない。Linuxの調査研究と言うが、何も出来ていない。昔なんか、キモイだけだ。

もっと、自分が憧れるような、カッコいいことをすれば良い。そういうことが普通したい。

農園に行ってきた。

最近は、毎日文章を書いているだけだ。もう、10年近く、いつも書いている。それだけの人間だ。そういうわけで、書くのを止めたい、とは言うが、止めなくて良い。

昔は、引き篭もりの経験で分かっていた。

意識と実感から、引き篭もりの経験で人生と場を分かっていた。

ヘーゲルの言う、喪失から分かっていた。色々と、ヘーゲルのように、Wikiを破壊したりしながら、それでも良心に目覚めて、精神が成長して分かっていた。

最近は、戦いの経験から分かっている。

バラバラにならず、協力するべきだ。ただ、自由は悪くない。自由な中で影響力を行使しながら協力することも出来る。ただ、それでは上手く行かないものだ。

転がすのが悪い。頭は、転がしているだけだ。

経済の分配などをモデルにしていた。昔は、社会的な自由のモデルで分かっていた。

宇宙や仏に生かされている、と思った方が良い。自分は生かされているのだ。

全ては自分のためになる。

全ては、自然発生や成長と、遺伝子などの個体の特性の関係だ。

先天的なものと、後天的なものは、複雑に遺伝子と成長の関係のように関係している。

これでは、最初からUNIXが好きだったように見えるが、そうではない。昔は、タブブラウザなどのWindowsのフリーソフトを作りたかった。そういうものが、既にたくさんあるから、Linuxと言う奇抜なプラットフォームを選んだ。何か自分でも協力出来ると思って、Wikiを書いていた。システムの構成を分かるために、Gentoo LinuxやLFSをインストールして設定していたが、それでGentoo Linuxが好きになった。

必要なところだけを変える、と言う発想が多かった。自由な中で、影響力の高みに立つ。社会を最低限の手段で変える。出来るだけ自由にしたままで、最低限の行為で解決する。だが、デカルトも言っているように、それは間違っている。一人の偉大な人間が全部をやった方が、美しいものが出来る。最近のこの文章は、そういう文章にしか見えない。

今やっていることを考えれば治る。全て、今している何かが悪い。

書くのを制限したいのが悪い。そのせいで、いつまでも続いてしまう。

セックスは、ただ気持ち良いだけの行為ではない。愛の行為である。それは分かっていなければならない。セックスは、二人の愛が融和して、新しい生命を生み出す。

悲惨になると賢くなる。逆に、悲惨にならないと、人は賢くならない。一度悲惨にならなければ、何も考えない。賢い人間は、悲惨な人間が多い。キルケゴールと同じだ。

澄香と太一の2人を作ったが、もう2人ほど女と男が居たように見える。名前を付けた。聡美(さとみ)と康平(こうへい)と言う名前にする。澄香、太一、聡美、康平の4人の兄弟・姉妹だ。そういうわけで、自分の子供と言うことにする。それが対話の4人だ。

農園に行って分かった内容は、ここまでだ。

昔は、創造性を信じながら、成長して分かっていた。創造的な体験と経験をしていた。ネットのことは、体験から分かっていた。ブログのトラックバックを見ることで、あらゆる意見を知った。掲示板のログも読んだ。そういう、「意見を知る」と言う発想が多かった。

あとは、自由の全て、可能性の全て、人生の知恵の全て、科学の全て、などを書いていた。そういう、「可能性からあらゆるものを包括して、網羅して、構造化する」と言う発想があった。それくらいの、自由な文章だった。本当に、完全に自由を考えていた。

むしろ、自由は悪い。左翼も右翼も悪いが、自由はキモイ。意味の無い発想をしているのが自由だ。もっと、法治国家のきちんとした民主主義の思想と経済を信じた方が良い。

あとは、昔の3人にも名前を付けた方が良い。これはどれも男だ。達也(たつや)、哲也(てつや)、賢治(けんじ)と言う名前にする。そういうわけで、昔は、達也、哲也、賢治で、最近は澄香、太一、聡美、康平だ。それらが自分の全員だ。

それで、昔をアルミヤ国、今をシルミヤ国とする。昔がフランスで、今がドイツだ。

そういうわけで、昔が「在る」方で、今が「知る」方だ。

昔は、存在を考えていたから、それで良い。今は、色んなことを知っているから、賢い。

あとは、国が勝手に決めて与えるより、自由にした方が良い。国が配給して、パンや米などを与えると、ジャムの種類が限られたり、ストーブやトイレットペーパーなどが不足したりする。国民が勝手にジャムを作れるようにして、買えるようにした方が、自由度が高い。昔は、そういう、「自由度」を信じていた。

それこそ、昔のたこ足配線のようなものより、今のコンセントを使って、自由に電器製品をいくらでも使えた方が、明らかに優れている。(たこ足配線とは、僕も良く知らないが、昔の、電気量では無く、電灯1つに対して料金を決めたために、電灯を沢山のたこの足のように増やすと言う技術である。賢くない、セコイ技術だ。父親に教えてもらった。)そういうわけで、技術的に見ても、自由の方が優れている。

明らかに自由の方が良いし、選択肢も多い方が良い。選択肢は、それぞれが作れるようにして、市場を開放すると、爆発的に増加する。そういうものが、最近のインターネットだ。グーグルは、そういう風に考えているのだと思う。そういう発想がグーグルに多い。そういうわけで、グーグルが音楽ストリーミングに参入している。これも僕は良く知らないが、以前英会話教室の講師に教えてもらった。いくらか料金を払えば、音楽を大量に聴ける。グーグル以外にも、Netflixなどの企業がアメリカにあると言うことだ。

あとは、自由と言うと、普通頑張ったものに給与を自由に与えるようにするように見えるが、それは悪い。アルバイトばかり増えて、正社員になれなくなる。給与を自由にする、別の表現で言うと給与に格差をもたせると、格差ばかり増えて、報われる世界では無く、全く報われない世界になる。いじめに見える。ただ、社会主義では意味が無い。最近は、同一の労働に対して同一の賃金を払う、と言う同一労働同一賃金の制度が見直されている。社会主義とは言うが、たまにそういう風に社会主義の発想を取り入れると、賢いのだ。

見ていると、自由も平等もどちらも馬鹿だ。競争も独裁も馬鹿に見える。

コンビニも、電器製品の店も、競争ばかりして、どんどん安くなっている代り、どんどんそのためにおかしな世界になっている。本当に競争の方が悪い。

ただ、明らかに自由な方が良い。北朝鮮の人民は飢えている。北朝鮮よりはマシだ。

パソコンのような、「何にでも応用出来る」と言う発想は、賢い。応用出来るものが広まると、それぞれが知恵を競いながら、ありえないほど発展する。そういうわけで、インターネットやWindowsがここまで広まったのは、応用出来る、と言う可能性があったからだ。そういう考え方をした方が良い。それも、マイクロソフトだけが出来るなら、ここまでは広まらない。それぞれが参加して、それぞれが作って、それぞれが決められる。そういう発想があるからこそ、ここまで爆発的に発展した。そういう思想が自由だ。そういうわけで、無法地帯のタリバンが自由に見えて、自由は賢い思想だ。自由が嫌いなのはおかしい。

あとは、大事なことは、1人で決めるよりも、皆で決めるべきだし、種々雑多なことは、それぞれが決めた方が、誰か賢い人間がやるようになる。

ただ、自由は明らかに悪い。トランプのような極右が復活しているのは仕方ない。自由が馬鹿だっただけだ。それこそ、人間なんか、古代や紀元前の時代から、全部帝国だ。民主主義のようなものはあるが、それも、奴隷制から成り立つ。自由の中では、勝者の集団が固定されるのは分かるが、単純に、王が決めた方が、色んな問題が生じにくい。それこそ、王が何も出来ないなら、支配して人を使えば良い。皆を支配することで、何も出来ないどころか、無茶なように見えることまで、何でも出来るのが皇帝だ。

ただ、昔から皇帝は悪い。暴虐の限りを尽くす。それに、失政すると、今度は革命が起きて、皆で王を殺す。王の方も国民を殺す。そういう、「殺し、殺される」だけが帝国だ。

どれも馬鹿だから、民主主義にした方が良い。税金で福祉をやると良いだろう。

今日も馬鹿な日になったから、もう政治のことは書かなくて良い。

もっとまともなことを言えば良い。もう、何もしないなら、しなくて良い。

昔は、構造的に考えて、「支配して一部にする」とか、そういうことを分かっていた。

最近、そういう考え方が、あまりに普通になった。ただの普通のことを言う。

そういうわけで、「宇宙には全てを一部にして機械にする生命が居る」とか、ありえないことをいつも分かっていた。それから、「生命を言葉や音楽から創造する」とか、バッハのようなことを言う。それは、神がそういうことを言うから、分かっている。

社会主義は止めた方が良い。民主主義と国家主義を良く考えて決めた方が良い。

それこそ、民主主義なんか、昔からある。古代ギリシャのアテネでは、民主主義をやっているし、アリストテレスも、君主政、貴族政、民主政を考えている。

あとは、ウィトゲンシュタインのような文章を書いていた。

心像とは、心における、ものごとの観念である。

プロセスとは、想起における、回想の関係である。

客観視とは、それぞれの本当の姿である。

事実とは、それぞれの表面的で、実際の姿である。

事とは、現象である。

理性とは、心像とプロセスにおける、それぞれの活動的な人格である。

経験とは、理性の中で生まれてくる、その人の個人の積み重ねである。

方法とは、考える必要のない中で、人々の生活を向上させ、自動化させるものである。

それらの相乗作用によって、この世界は成り立つ。

そういう、哲学的な定義のようなものを、ウィトゲンシュタインのように書いていた。

学校に行くと、馬鹿になる。それは、自由が無いからだ。自分一人でネットをした方が賢くなる。それは、自由があるからだ。だが、自分は間違っている。それは、不自由な方が、あとで見て、賢い人生になるし、頭もその方が賢くなる。引き篭もりの賢さは一時的なもので、何か間違ったことをすると、すぐに馬鹿になる。それこそ、最近は何もしていないし、何も分かっていない。学校に行った方が良い。不自由な方が馬鹿にはなるが、その代り、色んな経験をすることが出来る。その方が、長期的に見れば賢い。

自由になると、自由に色んなことが出来て、自分の好きなように行動出来る。ネットが好きだったのは、そういうところが好きだった。人と一緒では出来ないような、色んな賢いことが一人だけで出来たし、色んなことが体験出来た。そこが賢かった。

ただ、最近はネットも見ていない。この文章を書いているだけだ。

放送大学も悪くは無い。むしろ、どこかへ行った方が良い。辛いだけに見えて、色んなことを教えてもらえるし、人付き合いは好きな人間が多い。皆悪いようにはしない。最近は、そういう人間が居ない。皆良い人間ばかり多いし、良いことばかりしてくれる。

父親と買い物に行ってきた。

心で全て分かった。

心に帰属して、考え方などを心で作って分かった。心で作ったものを心が分かった。

経験から、心で全て分かった。

社会、理性、人生、歴史、意識など、この世界のことを全部分かっていた。

文章は、考え方をいくらでも作っていた。

1つの巨大な構造を作って、個々の構造を作って、説明と気づきから分かっていた。

科学のようなものを、ゼロから作っていた。

仮想社会を創造して、仮想的なこの世界の分身やコピーのようなものを作っていた。

地球と同じだったが、色んなところが違う、そういう惑星のようなものだった。

自由は、普通、代表を選べるのが賢い。民衆が、参加し、投票し、試験に合格して、国の方針を皆で決められる。そういう、社会主義のような自由が賢い。自然な発生と支配から、変化の可能性が「民衆の手によって」行うことが出来る。それが「自由な社会」だ。

昔から、そういう自由で分かる。誰しもの権利を保障すべきだと考えていた。

買い物で分かった内容は、ここまでだ。

ただ、自分の自由が欲しかっただけだ。そして、パソコンの仲間と経験する自由が好きだった。ただ、自由は最近嫌いになった。何もしないから、自由なんかある意味が無いようで、作家になってしまえば、その職業で良い。作家は、誰よりも良い職業だから、そういう右翼が多い。あとは、パソコンは昔とは変貌した。自由のようなものは、最近全部悪い。自由な経験で分かるどころか、自由過ぎて何も分からない。一度不自由に戻すべきだ。

ただ、昔は本当に自由な経験で分かっていた。2000年代は良かった。僕は2006年が好きだ。あの時代から、全てが変わった。2007年ぐらいから、地球は全く新しくなった。06年と言うと、ダイナミックな変化が始まったぐらいの年だ。最近は、良い方向だけではなく、悪い方向にも社会は変わっている。それこそ、イスラム勢力が本当に強くなった。ソ連も、プーチンで昔の体制のように、反米色を強めている。アメリカは右翼になろうとしている。誰もが、今までの自由な体制が嫌いだ。あとは、平成は悪くは無い。昭和が馬鹿だったようにしか見えない。平成は、パソコンで賢くなっている。それこそ、機械は馬鹿に見えて賢いから、賢いと思った方が良い。IT機器は賢すぎるが、水道や冷蔵庫なども、きちんと賢い。最近、そこらへんが分からない人間が多い。パソコンの社会性が馬鹿に見える。

あとは、全部「自分が出来るようになる」と言う発想が多かった。真面目に考えて、自由な中で自分が出来るようになる。そういう発想が多かった。

それを、もう一度すれば良い。何も出来ない人間になりたいのはおかしい。

きちんと技術を養ったり、芸術的センスを作ったり、そういうことをしないのがおかしい。

何かした方が良い。むしろ、一通りのことなんか、誰でも出来る。

昔賢かったのは、ネットに色んなことを言って、精神と意識の成長から分かっていた。ヘーゲルのようだった。社会性が喪失から生まれるとか、そういう体験をしていた。

あとは、心の働きは、そういう社会的経験から分かっていた。心で全て分かった。

あとは、細かいところを見ていると色々とある。小さな差異を大切にするとか、皆で共有して楽しいことを分かち合うとか、そういうことが多かった。

2ちゃんねるを右翼とは言うが、2ちゃんねるは共産主義者だ。皆をどんどん意味が無い人間にしている。意味が無い人間にすると、それが左翼だから、そういう風になる。

そういうわけで、ネットは馬鹿では無いが、共産党の犯罪者予備軍にしか見えない。

ネットは一番悪い。もっと良い世界にしたいなら、もっときちんと知り、考えるべきだ。

それぞれが、本当の価値と個性を発揮出来るようにしたい。それぞれが、認められ、許され、自由にされ、平等にされ、支えられ、助かるようにしたい。

そういう、思いやりの世界を創る。それを今から創造する。

この世界で、何をしても良いが、そこには自分の責任はあるが、もっと上の世界では、その人を助ける責任がある。また、責任があるからには、リスクがある。そこを、賢明に生きること。判断し、客観視し、思考し、試すこと。いつも、そういうことを言っていた。

賢明な世界を創る。今、創造する。

あとは、可能性豊かにしたかった。多様性がありながら、本当に難しい部分は共有する。そういう発想が多かった。共有の可能性は悪くない。優れた、巨大なものを共有して、個別の可能性を高める。いつもそういうことを書いていた。

可能性豊かな世界を創る。今、創造する。

そして、平等で創造的な世界を創りたい。それを、創造する。

この世界は、本当に良い世界になる。本当に賢くて正しい、良い世界を創造する。

昔から、そういう宣言をして、対話で導いて、本当にそれを体験していた。

あとは、そういう、パソコンの考え方のようなことを言う。Gentoo Linuxのように、「メタ・ディストリビューション」が考えられるなら、「メタ・プログラミング言語」が考えられるかもしれない。メタ的に、様々な構文を、場合によってカスタマイズして、コンパイル型なのか、インタプリタ型なのか、も自由に使い分けられる。マイクロソフトの.NETと似ているが、発想が違う。BASHからPerlまで、全てのプログラミング言語を統一出来る。あらゆるプログラミング言語を1つのスクリプトの中で使ったり、沢山のプログラミング言語によるそれぞれのスクリプトを1つのインタプリタで実行したり出来る。

あとは、データとプログラムの区別も無くす。LispのS式のようにする。

そういう考え方のようなものを、いつも作っていた。

馬鹿には見えるが、悪くは無い。アホな発想だが、PerlとCとJavaを混在させられるのは、良いかもしれない。それこそ、Objective-Cがそういう言語だったはずだ。

自分は、何もしないのが良い。ここまで何もしないでいると、楽になる。

世界史の本を読んでいる。今、アフリカの植民地化のところを読んでいる。

それに、きちんとこの文章を書いているから、何もしていないわけではない。

本当に何もしていないが、ここまでしない人間が本当に多い。何もしないのが楽だ。

昔は賢かった。数学、心理学、経済学まで、何でも自分で作って、正しく分かっていた。全てが分かった。哲学のような内容も多かった。

フランス語がやりたかったのは、分からないのが外国語ぐらいしか無かった。一番違うフランス語をやりたかった。あとは、Linuxの活動が、英語が出来ないせいで何も出来なかったし、日本へのLinux普及の希望を無くしていた。フランスで何か出来ると思っていた。

ただ、フランス語がしたいのも長くは続かなかった。入った英会話教室には行かなくなった。やりたいことも、ドイツ語やスペイン語に変わった。ただ、最近何年か、英会話教室にきちんと行っているし、英語は少しずつ出来て来ている。

歴史は、そろそろ内容が終盤だ。今、アメリカのハワイ、キューバ、フィリピンなどへの進出のところを読んでいる。そろそろ、日清・日露戦争から、世界大戦だ。今からが面白い。ただ、歴史は見ていると、本当につまらない。何も無い学問に見える。

歴史は、嫌いになるかもしれない。つまらないほど、歴史には意味が無い。

哲学だけをした方が良いとは言うが、この現代史は最後まできちんと読めば良い。

昔は、価値観や概念のモデルを作っていた。経験的に概念が分かる人間だった。

自分が出来る、と言う視点からものごとを考える。そこから手段を考えて、「この世界の文明の全てを論理的に考える」と言うことをしていた。本当にそれだけが多かった。

それから、自分が何を考えているのか、良く分かっていた。効果的に考えながら、包括して、「全ての経験に帰属し、包括する」ような知恵の内容を分かっていた。それから、世界は自由にすべきだと思っていた。「自由な中で何が実現可能か」を分かっていた。

あとは、「皆が何を目指して、何を願って生きているか」のようなことが、ネットで分かっていた。最近、そういう賢い人間が多い。皆も皆で色んなことを考えている。見ていると、分かっている人間は居ない。分かりたいなら、自分の力で考えるしかない。それぞれは、それぞれの分かる範囲のことしか分からない。分かりたいなら、それぞれの立場の違いや環境で出来ることを超えて、一人王や救世主のように分かるしかない。

そういうわけで、昔は本当に右翼みたいな人間だった。むしろ、レーニンに見える。

あとは、共産主義革命がキモイのは、独立の革命でも、王の圧政を終わらせるための革命でもなく、理想論を実行するための革命だ。あとは、何かが怖い。ロシア人の同化された人間たちのように、何かが終わっている。そこが怖かった人間が多い。世界のことを、完全に滅ぼして、地球を破滅に向かわせるように見える。それに、共産党には泥棒が多い。

現実を直視すること。実践的に考えること。

いつも、そういうことを言っていた。今、世界史の本に書いてあった、シュペングラーと言う人がそういうことを言っているが、どんな人なのかは知らない。

そして、理想と理由を様々な形で考えること。

世界史の本の、帝国主義列強による世界分割の章を読んだ。

昔は、皆が自由になるのを目指していた。それがおかしい。

あまりおかしくは無い。それこそ、おかしな時代が多かったから、仕方ない。

皆まともになるべきだと言うが、それは間違っている。情報化社会は何も悪くない。

自分も、自動運転車に期待を寄せているし、バーチャル・リアリティにも期待している。

そういうわけで、自由は悪くない。もっと自由になった方が良いだろう。

ただ、明らかに自由が悪いだけだ。僕は自由は一番嫌いだ。

自由を悪いとは言うが、「それぞれが自分の力で、自分のことを改善し、進歩する」と言う基本の精神はあるべきだ。そして、この世界を自由にすれば、良いことが出来るようになる。ならなくても、自由ならそれで良い。自由とは、そういう、ペテンのような思想だ。

そういうわけで、自由なんかどうでも良いから、この世界を平等にする。

ただ、平等は辛い。辛いのは当たり前だ。世界史の本を読んでいると、現代なんか、帝国主義の白人の軍隊と会社による、領土と奴隷の領有権の争いばかりしている。金を儲けることしか頭に入っていない。やっていることは、過酷な労働を奴隷に課して、搾取した財宝や金や資源や農業経営などで巨万の富を得ているだけだ。本当に悪い国が、そういう昔の欧米だ。それこそ、今から日清戦争と日露戦争の章だが、日本が欧米を相手に戦うのは当たり前だ。日本は、間違った戦争はしたが、それでも、アジアの英雄だ。

昔は、ネットを見ながら狂っていた。おかしな人間だった。

今から、もう一度この世界を支配する。

何故か、自分がおかしいのは、世界がおかしい。

世界の方がおかしいせいで、まだ神が話している。

そういうわけで、世界に宣言する。

世界は、ソ連を止めよ。そうすると、辛いのが終わって、楽になる。

世界は、アメリカを止めよ。そうすると、怖いのと馬鹿なのが治る。

世界は、達也を止めて、哲也になれ。

最近、達也になっている馬鹿しか居ないから、哲也になると賢くなる。

何かすれば、すぐに楽になる。そういうことをしていたのが、昔の賢治だ。

もう、楽な世界になった。あとは、皆、社会を捨てて、現世から仏の世界に移れ。

アルミヤ国、シルミヤ国の「ミヤ」は、「宮」と言うことにして、在宮、知宮と言う名前にする。「ざいきゅう」とか「ちきゅう」と読んでも良い。あまり考えていない。

昔は、これくらいで全部経験して、自然などの考え方と関係を簡単に考えただけだ。

あとは、これで色んなことを全部知れば良い。それで誰でも分かる。

辛い現実からの逃げ場所を作る。皆、そこに逃げよ。

辛かった人間関係や相手のことを、許せ。

失うことで、得られるものがあることを知れ。

そして、平和で安心出来る世界を創るために、行動し、自分の中に基礎を築け。

理想を信じなさい。

適当に色んなことがあった。そういう、適当な色んなことから分かると良いだろう。

あとは、疑って分かるプロセスのようなものを書いていた。

まず、環境を知る。

次に、手段を知る。

次に、目的意識を知る。

次に、自己意識を知る。

次に、社会を知る。

次に、運命から全てのことを考える。

次に、全てを実現する。

次に、社会的価値観から、社会性を知る。

次に、本当の愛を知る。

次に、理想と可能性を知る。

そこまでの段階で、ほとんどの経験が終わる。

世界を救うために、全てを許し、システムを構築し、環境を実現出来る能力をつける。

戦って、おかしくなって、治す。

それくらいが、昔の自分だ。

本当に、あとは何がどうなっているのかを分かっていた。

また、信じて分かっていた。そういう賢い人間だった。

社会的な経験と想像力が、全てあった。

能力は、可能性を分析することで、不可知と可知の全てを知っていた。

あとは、知を作っていた。本当に、知の全てを創った。

統一や平等の悪い点は、つまらない世界になった。平等にするせいで、何も無くなった。全部同じになって、楽しいことが何も無くなった。

もっと、多様性の自由になれ。それぞれが離別して、それぞれの世界を創れ。

本当に、その方が良い。多様性のある自由な世界になる。

あとは、ヘーゲルは止めた方が良い。こうなると、オウムに見えるのがヘーゲルだ。

自分の悲惨な点は、世界は何も変わっていない。思い込んで狂っているだけだ。

昔なんか、そういう多様な世界を全部分かっただけだ。

多様な環境を全部分かって、環境がどういう風に違う環境になるか、分かっていた。

それこそ、昔の時代に戻らないと分からない。そこから作用や反応や影響力を分かった。

あとは、音楽はもう聴かない方が良い。哲学もしない方が良い。それらは一番悪い。

アランの本に書いてあったが、愛情は最初からあるものではなくて、作って行くものだ。愛情にだって、努力は必要だ。そういう風に考えれば良い。

あとは、むしろ、哲学では分からない。もっと普通のことを考えれば良い。

皆は、用意されたものを食いつぶすだけではなくて、必要なものを1つ1つ作るべきだ。

自分の分を作るだけでは無くて、他人にも与えるだけの心の余裕を持つこと。

自分のために、全力で頑張りなさい。失敗を他人のせいにしている暇があったら、自分のやりたいことに、100%自分の責任で挑みなさい。

アランは、失敗を他人のせいにしない人は、自分の力で生きられる人だと言っている。それも間違っていないが、他人のせいにしか思えない時もある。正しくは、自分のせい、と言える行動だけをする、と言えば良い。失敗を全て自分のせいである、と仮定して、自分の責任でものごとを行う。そこに、他人の介入が入る余地は、無い。

アランは、自分がなりたい自分になるために、思うだけでは無く、声に出そうと言っている。それは、自分のやっている宣言と同じだ。ただ、僕が思うに、アランは、ただ心構えや価値観のようなことを言いたいだけではなくて、自分の経験から、「本当にものごとが上手く進む方法」を知っている。それも、神のようなものを信じているだけではなくて、きちんと正しく考えて分かっている。普通の人間に見えるが、普通の人間では無い。哀しくて、辛くて、苦しかった人間だ。そういう人間が書いているように思う。

何故そういうことを言うのかと言うと、僕自身がそういう人間だからだ。自分は、詩集を見ると、ただの平凡な普通の人間に見えるが、哀しくて辛かった、ありえない人間だ。自分と何も変わらないように思える。そういうわけで、アランも哀しい人間だ。

自分は、世界を治したいのがおかしいだけだから、あまり世界に関与しない方が良い。

世界は楽になったように見える。それで終わりにする。

昔は、本当に哀しい人間だったが、アランでは無い。アランはまともな人間に見える。

むしろ、本当にニーチェみたいに見える。ニーチェは、晩年は狂人になったと言うらしい。

あとは、ありえない体験をしていた。

何も分かっていない。ただ、自分がするしかないのは分かっている。

何も分からなくても、自分は分かっているつもりだった。

人格を破壊して、出口がどこにもない迷宮に入って、自分からロボットになった。

この世界を滅ぼす。それが、自分のことのようで、どこか違う、他人になったようだった。

革命だった。そして、世界を滅ぼし、倒し、何もかも失った。

何も分かっていない。どこかにあった救いの鍵は、消え去った。

何も出来なくなった。何が間違っているのか分からない。自分もどうしたいのか分からない。ただ、地獄になった自分と、その地獄をどこかで冷静に見つめている自分が居た。

神を信じるとは言うが、神には見えない。何も分かっていなかった。

自分は悪い。そんな悪い自分のことを、どこかでカッコいいと思っている。

そういう、おかしな狂ったマリオネットを演じていた。まさに、狂った人間だった。

あとは、それはもう良い。もう、何も無い。

いつもの文章は、知と経験から社会を作って、定義を書いて、説明しているだけだ。

相対性から意識や環境まで、全ての自由を書く。

あれはおかしな人間には見えない。狂っていない。まともな正しい王がしたかっただけだ。

あとは、宇宙のことは全て分かっていた。何も、この先にもうないのが辛かった。

良く分からない。あれは狂人だ。

あとは、昔の自分はもう全部書けたようで、何も書けていない。

昔は、この世界の意味が分からなくなっている。全てを否定して、全ての可能性を知りながら、ただ、自分の夢と目的を追いかけているようで、何もしていない。

真実ではない、悪魔を真実と思う。その、悪魔であることすら、真実だと思っている。

昔は、そういう狂った引き篭もりだった。

狂った人間は、狂った人間になって治る。一度、戦争のようにすると賢くなる。

そういうわけで、死ぬと治るのがこういう人間だ。

昔は、人知れず色んなことをしている。それで、理系のようなまともな賢い人間になった。

あとは、むしろ、誰も自分のことを知らないのが狂っている。

2ちゃんねるでしか関係しなかったせいで、思い出のようなことが何も無い。

こんな人間にならない方が良い。

そういうわけで、この世界を自分で無いものにしたい。哲也にはなりたくない。どこでも、哲也が達也をいじめるだけだ。賢治は居ないようで、どこにでも狂った人間が多い。

それこそ、どうでも良い。

自分は、良いカップルに見えるから、2人にした方が良い。

そういうわけで、名前は、仁(じん)と涼子(りょうこ)にする。適当だ。

その2人は、今から先の自分であり、今の自分の中に居る自分だ。

国は、ハルミヤと言う国にする。春の宮、と言う意味だ。

まとめると、アルミヤ国の達也、哲也、賢治、シルミヤ国の澄香、太一、聡美、康平、ハルミヤ国の仁、涼子、と言う天使だ。9人居るから、ワルキューレと思えば良い。

今から先、仁と涼子が多い。この2人が最後まで続く。永遠のカップルだ。

人間は、一度頑張っていると、それは出来るが、それはもう頑張るのを止めた時に出来る。そういうわけで、頑張っていると治るようで、治らない。

自分は、そういう、一度出来たことをもう一度すれば治るのが分かっていない。

そんなに高度に複雑に考えるのが間違っている。そういうわけで、馬鹿の方が治る。

あとは、出来ないことは出来ない。いつも、そこが分かっていない。

あとは、仁と涼子の内容は、文章に多い。昔の自分を仁で、文章を涼子だと思えば良い。

仁は、引き篭もりになって、オープンソースのことをやって、世界を救って、自分で滅ぼすまでの、2006年までの自分だ。涼子は、2007年から文章を書いて、戦って、神を信じて、死を経験して、作家になるまでの自分だ。その2人のカップルをいつも書いている。