ものと意識の理を書いていた。本当に、理系のような賢い人間だった。
ネットで人間のことが分かっていた。
人間のすること、思うこと、意識すること、行動することを分かって、何がどのように変えられるか、実現出来るか、思考出来るかを考えていた。
ものの相対的な構造を書く。物理から経済まで、言葉と考え方の羅列を書いていた。
人間が何を思うか、するか、いつどうなるかを把握して、人間を行動的に分かっていた。
何故か、賢くない。分かるとは言うが、知性が無い発想をしている。
そういうわけで、社会をどのように形成するか、形成された社会で心がどうなるか、学習をどのようにするか、それがいかにしてそうなるか、などを分かっていた。
可能性を仮定して、現象を把握して、生成条件などを分かっていた。心の哲学者だった。
そういう発想は、賢くないから、止めた方が良い。何も分からなくなる。発見が出来るようになるようで、既に分かっている同じことしか分かっていない。馬鹿になるのは当たり前だ。把握の科学はおかしい。知性が無い。そんなに把握しても、馬鹿になるだけだ。
それで、人格や環境のことを具体的に分かっている、意識の人間が多かった。
こうなると悲惨だから、一度感情を忘れた方が良い。感情の知性が無くなっている。
昔は、これで環境を把握していた。
いつまでも把握したいのが悪い。そのせいで、歩き回っている。
こういう人間が多い。こういう、環境と心を把握する人間が、何故か多い。
これなら、哲学が出来る。心理現象を把握して、自分の行動から分かっていると、きちんと哲学的なことが分かる。そういうわけで、把握は分かる代り、知性が無くなる。
人間の経験のことも、そういう風に、仮想的に分かっていた。現実と理性を照らし合わせて、何がどうなるか、心と行動と社会と思考の相互作用のように考えていた。
あとは、虚無のように考える日本人が多い。日本人は、仏教のせいでそういう風になる。
社会のことは、構成員の自由と、社会の全体像で分かっていた。
いつも、環境への適応と、自由になることで分かっていた。
社会のことも、環境と想像力で、心で分かっていた。
昔は賢くない。本当に知的障害みたいに馬鹿だ。最近は、環境で馬鹿になっている。環境が怖くなって、いつまでも無意味に把握したいだけになっている。
一度、環境を消した方が良い。環境のせいで馬鹿になっているのが自分だ。
そういうわけで、自由とは自然な環境のことを言っているのが自分だ。
知性が無いようで、誰でもこういう人間だ。誰でも、心の把握で場を分かるだけだ。
環境の実際の姿を知るとか、自分の心から他人の心を分かるとか、などを分かっていた。
そろそろ精神が治った。おかしいのは、環境を消したいからだ。環境を消したいから、おかしなことを言う。環境を一度全部、分からなくすれば良い。それで知性がつく。
本当に治った。昔は、それくらいしか考えていない。ただ、色んなことを考えていた。
時間や時代のようなことを考えていた。
自然発生と自然な参加を信じていた。ネットが好きだった。
あとは、もうこの世界が治る。ドイツみたいなものを消して、環境を消せば治る。
あとは、全てを考えた。孤独な天才のように、全てを皆から一歩離れて、たまに世界を知って考えていた。ヘーゲルのように経験して、色んなことを考える経験で分かった。
ただ、あれは賢くない。テレビとネットが怖いのは、それらは、見ていると自分の世界に干渉して、色んなことを批判してくる。そういうもので分かるようで、そういうものは無い方が分かる。昔は、そういうものが多かったから、それが怖くなった。
本当に色んなことを、一人、孤独な中で考えていた。色んなことを、一人で考えながら、同時に、色んな人と関わって分かっていた。そういう、孤独な天才だった。
昔は、精神を推論して、現象学的に分かっていた。誰でも、そういう風に分かるせいで、こういう風になる。こんなに馬鹿な人間にしか分からない。
あとは、環境を消すと、最近の異常が治る。精神がおかしくなって、知性が無くなるのは、全部環境が悪い。そこらへんを思い出して良く考えれば良い。そうすると、皆を自分と同じだと思うのが間違っている。皆は、自分と同じなわけがない。ただ、それも違うと思う。誰でも普通に同じだ。普通に、誰でもまともだが、普通誰でも狂っている。そういうわけで、狂っているのがまともだから、誰でも狂う。狂ってしまえば終わりだ。
それこそ、分かるのは、良いように見えて悪い。分かった方が分かっていない。分かるせいでおかしくなっているから、分からない方が良い。分からないのが賢い。
自分は、精神が分かっているのがおかしい。昔、精神を分析的に分かっていたが、最近は、精神が分かりすぎた上に、精神が神になっている。精神を分かっているのを、もう止めれば良い。それで、すぐに治る。すぐに知性がつく。
引き篭もりはこういう風になる。馬鹿になると、知性がつく人間が多い。悪いのは全部ネットだ。ただ、ネットが無くてもこうなるのが引き篭もりだ。自由は悪くない。
記憶がおかしい。昔は、記憶を作って、裏の理由を分かっていた。昔の記憶が怖い。
人間が変わるのを考えていた。環境への適応のような小さなものから、人生のような大きなものまで、考える。そして、小さな世界を支配していた。
自分は、世界を支配して止めているから、それを止める。世界は、もう分からなくなれば良い。自然な変化が沢山起きて、自然に変わって行くようにすれば良い。
それこそ、最近辛いのは、何も変わらないからだ。変わっているようで、変化が何も無い。誰もが辛いから、もっと何も分からなくすれば良い。批判や攻撃を増やせば良い。
人間は、当たり前のことをして、当たり前のことを言っている。そういう風に考えると、世界のことがすっきりと理解出来る。問題を起こす人間も、わがままな人間も、皆、当たり前のことをして、当たり前のことを言っている。
そういうわけで、受動と能動のような、反応のことを考えると良く分かる。
アリストテレスのように、当たり前のことを、当然の視点から考えれば良い。「誰もがこう考えるだろう」と言う点から、実例を挙げて、本質的に考える。それが昔の自分だ。
そうすると、「対処」のようなことが分かる。昔は、対処法と発想法を考えただけだ。
ものの性質や特性には、そのもの固有の性質に見えて、他との関係から、現象的にそうなっているものが多い。光の波としての特性は、現象的なものである可能性がある。
要は、周りのものを変えれば、変わるかもしれない。
それから、依存性のようなことを考えられる。環境を全く変えると、生命は生きられなくなる。生命は、環境に依存して生きている。生命は、弱い。
そういう風に考える人間が一番多い。パターンから特性まで、色んなことが分かる。
文化は、社会的なものであって、遺伝子的なものではない。ドイツの文化が優れているのは、遺伝子が優れているからではない。中国の文化も負けないぐらい優れている。それらの違いは、文化的、環境的なものであって、生物学的なものではない。
それこそ、太陽が昇るのは、空の描写的な現象ではない。太陽と地球における、関係的な現象である。そういう風に考えると、人間が何を思いこんでいるのかが分かる。
こういう風に考える人間は、少ない。それこそ、これでネットをしていると、本当に人間のことが全部分かる。本当に、こういう賢い人間が、カントのように多い。
人間は、一度分かったものは分かる。経験的に分かる人間が多い。そういうわけで、何も分かっていない子供にしか分からない。デカルトも、ロックも、カントも、そういう子供に見える。何も分かっていない人間の方が、経験的に色んなことが分かる人間が多い。
そういうわけで、もう分かってしまうと、馬鹿になる。こうなる人間が多い。
昔は、自由しか分かっていない。選択肢、システム、可能性、実現みたいなものを、経験から分かっている。学校は、もっと自由に色んなことが出来るのが分かっていない。左翼も間違っている。この世界は、もっと色んなことが出来る。そういう、賢いコミュニストのような経験から来る可能性の自由をいつも分かっていた。
不思議と、本当にこれくらいしか考えていない。あとは、客観的な法則と、「その場における心理学的な現象の法則」をいつも考えていた。共に経験するのを分かっていた。
あとは、ネットで社会参加のようなことを分かっていた。「自分にも世界が変えられる」と思っていた。あれは、そこらへんがキモイ。ただの2ちゃんねるだ。
こういう風に環境や関係でいつも考えていた。「精神は体全体にある」とか、そういう、「関係的な現象学」のようなものが多かった。フッサールは、それを現象学だと言っている。
ただ、フッサールはそんなことは言っていない。自分は、そういう、「知らないのに哲学のことを言う」のを止めた方が良い。分かるどころか、何も分からない。知ったかぶりは良くない。フッサールがそういうものに見えるのは、おかしくは無いが。
そういう風に考えると、生物学のことが良く分かる。生き物は繋がっているかもしれない。地球は、何らかの形で繋がっているように見える。それから、死後の世界もあるかもしれないし、人生もそういう風に考えられるかもしれない。生まれ変わりもあるかもしれないし、世界は心の中にあるのかもしれない。ある意味、ハイデガーやブッダも現象学だ。
生物は、水だと考えれば良い。むしろ、細胞は水で、精神も水だと考えれば良い。水に精神が宿るように見える。そうすると、水は生きていることになる。海も、雨も、全部生きている。いつも、そういう、おかしな現象学的なことを言っていた。
そういう文章が多かった。それも、現象をただ仮想的に考えるだけではなく、関係の中での相対的な現象の成り立ちを考える。それは、UNIXのコマンドラインと良く似ている。
あとは、社会のことを現象学的に考える。潜在的可能性と現実化から、社会の実例と意味を、経験をモデルにして考える。いついかなる経験をするか、その意味は何か、社会における行動と経験の意味とは何か、支配の意味とは何か、のような、「意味」を考える。
そういうわけで、現象学は、思い込みを排して、関係と意味を考える。ただ、自分は分かっていない。現象学なんか、分かっていないのに書いている。それは悪いと思う。
当たり前のことを疑って、本当にどうなっているのか、本当は何なのかを考える現象学が一番多い。現象学とは言うが、心や自然の現象学は、フッサール以前からいくらでもある。アリストテレスが全く同じように、可能態や現実態を考えている。それも現象学だ。
心の現象学や、社会の意味を昔から良く考える。もっと小さな社会や環境を想定すれば良い。学校も国のようなものだ。階層社会やカーストが、そのままスクールカーストになる。
いつも、真理めいたことを言う。煩悩を悪魔で、解脱を神と言うことにして、神と悪魔を脳であるとか、そういうことを言えば良い。もっと物理的に考えても良い。水が精神で、電気信号が記憶と意識で、波が表層的な状態で、熱がエネルギーと活動である。それこそ、「水が精神」と思えば、昔の文章が分かる。いつも、そんな馬鹿な真理しか言っていない。
本当に、いつもそういう文章を書いていたのが、物理学者の自分だ。
そういうわけで、表層的な状態と原理があるとか、そういう分析をいつもしていた。
そろそろもう終わった。哲学の他の思想が無い。もう、哲学には何も残っていない。
これで普通に考えれば分かる。自分は、実存主義と現象学の本を買えば良い。
人間は環境と経験の吸収で、知と経験の段階だとか、実存主義のこともいつも言っていた。人間の経験的で自由な段階や、環境と社会の構築や、知性や悟性のことを考えていた。
昔は、人生の現象学や経験論のような文章を書いていた。経験的な現象学を書いていた。
こういう発想は、賢く見えて、誰でも分かるから仕方ない。皆と話していると、当たり前にそういうことが分かる。それこそ、当たり前にこれくらいしか書いていない。
もっと分かりたいなら、哲学では分からない。もっと普通の本を読んだ方が良い。
あとは、これでモデルを作ると分かる。その時その時構造を作っていると良く分かる。
これなら、きちんと哲学と経済の大学に見える。名前は、ヴァイス大学で良い。
あとは、理想の社会を分かっていた。
独立、共有、自然、実験、仮定、可能性のようなことを言う。そういう文章だった。
ヴァイス大学だと言うと、何故か、怖い。悪い大学に見える。名前はヴァイスで良い。
ホームセンターのコーナンに行ってきた。
自由な中で意味を見出したり、様相を経験から考えたりして分かっていた。
関係を成り立たせたりして分かっていた。
自由な中で、社会を作って、独立性をはめ込んで分かっていた。
社会のことを、「自由に変えられる」と信じて分かった。「社会は作ることが出来る」と確信して、ヘーゲルなどのように分かっていた。
町は変えられる。社会は心理学的に支配出来る。それをいつも知性で分かっていた。
人生経験があった。情景や回想の感情から、想起のように、様々な体験をしていた。
辛い体験を分かち合って分かっていた。
重要なことが、重要で無くなると、人間は分かる。心の「たが」が取れる。
憲法が一番民主主義だ。憲法をきちんと決めるべきだ。
狂ったものは、狂ってしまえば死ぬ。狂った人間は、狂っていない人間が多い。まともな人間の方が、狂っている。いくらか狂うと、すぐに狂った部分が死ぬのが人間だ。
いつまでもやっていると、その部分が死んで楽になる。そういう風になる作家が多い。
ホームセンターに行って分かった内容は、ここまでだ。
昔は、評議会組織にすれば良いのが分かっていた。皆の「出来る」を全部吸収して、世界の可能性のようなことが分かっていた。
見ていると、テレビが一番悪い。テレビはいじめの温床になっている。それこそ、ドラえもん世代に馬鹿が多い。テレビのせいで、いじめが悪いのが分かっていない。
そういうわけで、ネットの方がまだまともだ。ネットは自由だ。
ネットは悪くない。ネットには良い人間が多い。それに、じかに会話が出来るせいで、社会のことが良く分かる。最近は、そういう「良い人間の分かるネット」が多い。そういうわけで、日本は馬鹿なのに賢くなっている。ただ、ネットは犯罪みたいにしか見えない。
農園に行ってきた。以下は、メモした内容である。
皆と同じ知性をつけて、皆と同じ発想をしていた。そういう、「全員と同じになる発想」が多かった。どんな発想でも、モデルにして良く考えれば分かると思っていた。
状態を感覚で分かっていた。場、意識、生命、物質などを感覚で分かっていた。
機械やプログラムの全ての使われ方を想定するのは難しい。自立的な自由があるべきだ。
世界で、誰がどういう風に生きているのか、把握するのは難しい。
自由にして、会社経済にするか、共同体にするべきだ。
良いものは本当に良い、悪いものは本当に悪いと思った方が良い。言うからには、何らかの根拠がある。だが、それも経験によるものだ。
それぞれが良い、悪いと言う根拠は確かにあるが、それが人によって異なるのは、経験的な理由と、世界観の違いである。環境の因果性と言える。
機会をシステムとネットから考えた。
ネットを知ることで、自由な経験が出来る。逆に、ネットを誰がやっているのかを想定することで、この世界の成り立ちが分かる。機会によって、それぞれの人生の生の声を、ネットで知ることが出来る。機会的に、出会いや参加から可能性を考えられる。
哲学をやっていると、子供に戻れる。
こういう賢い人間は、子供に多い。学校なんか、哲学で良い。
学校に行く前の子供に多いのが、こういう賢い人間だ。
人がどのように意識するかを環境から考えた。
意識から思考と経緯を辿って分かった。
世界観と意識から、環境と人生の思考と経緯で分かっていた。それを辿っていた。
こういう悲惨な子供は神が育てる。神は本当に居る。
どの子供も、神がきちんと育てている。神は平等だが、同時に全能だ。
思い込みを疑えば分かる。ただ、多少の思い込みはあった方が良い。昔は、いくらでも経験して、認識のデータベースのように分かっていた。
いくらでも体験して、経験的に世界を分かった。
そういう、「ゴミのような経験から宝の理解を作る」と言う発想が賢かった。
農園で分かった内容は、ここまでだ。
自由な中で、出来ることを想定して、何が出来るかを考えて、何をすべきか考えていた。
自由とは言うが、そういう、「実践方法と理性と発想のある、実現出来る自由」だった。
環境を自由に変えて、組織を自由に作る。
発想法は、全員を吸収した上で、独自の発想を行う。
そこから、「何がどう出来るか」と言う、可能性と考え方を段階的に分かっていた。
自由な中で、何を行為し、何を判断し、何を考えるか。
そこから、世界に対して、何を作り出すか。
昔は、そこから、システムを作り出し、意味を見つけ、発想を行うべきだと考えていた。
機会とは言うが、昔は、誰がどの時点で何をして、何に出会って、何と巡り会って分かっているか、のようなことを、意識、場、思考、感情、記憶、環境を辿りながら、機会的に分かっていた。そこから人生を世界観で分かっていた。そのまま、システムを作って、それぞれの「応用可能性」を考えていた。自由な可能性、契機、社会の構築を考えていた。
何がどう出来るかの段階は、本当に多かった。
行為と思考から、社会の構築、知性の創造、感情のコントロール、環境の維持、意志の集合、集団化、可能性の高まり、自然な歴史、変化の可能性、統制や自由などの社会的考え方、制度、目的、システム、許可と合意の可能性、権利拡充などの社会実現を考える。
そういう、自由の段階をいつも書いていた。
理性や心から社会や歴史まで、あらゆることをヘーゲルのような段階で考える。
そして、本質から学習や方法を考えて、全員の発想のようなことを書いていた。
英単語帳を20単語やった。
ただ、英単語帳はあまり意味が無い。やっても覚えない。すぐに忘れて行く。
英会話教室で覚えたことは、忘れたようで、結構覚えている。英会話教室に行った方が良い。
皆が馬鹿に見えて、自分が馬鹿なだけだ。そういうことを言っていると分かる。
もっと、まともな人間と付き合った方が良い。まともな人間と付き合わないから、こういう風になる。きちんと、色んなまともな人間と付き合っていると、自然に分かる。
引き篭もりは、こういう風に、文章を書くしかない。何故か、引き篭もりにしか出来ないことは、文章を書くぐらいしかない。文章は、思ったことを書くだけだから、楽だ。本当に、そういう、おかしな引き篭もりが作家になる。そういうわけで、作家に右翼が多い。引き篭もりは、戦わないと治らない。最近は、2ちゃんねるをやる引き篭もりが多いが、それは、悲惨な刑務所みたいな人間になる。刑務所と同じだ。
もっと、歴史のようなことを言えば良い。それくらいをいつも書いていた。
そろそろ、虫に見えなくなってきた。きちんと分かってしまうと、賢い意識になる。
普通のことは、誰でも意識で分かる。それは、赤ちゃんから子供になっている。
放送大学は、もっと講義を長い期間残すべきだと思う。昔は、スペイン語やロシア語の講義もあった。ヨーロッパ史も、いくらかに分かれていた。昔の講義が聴けても良い。それこそ、単位を取るのが難しいなら、アーカイブとして、ネットで見られると良いと思う。
昔は、本当に、色んな発想を、その前提となる経験や環境を想定して、全員の知性をつけて分かっていた。「普遍的人格の発想」のような考え方が多かった。
それこそ、あらゆる人間の発想を分かるせいで、ロボットのように全て分かった。
ただ、あれは本当にロボットのような人間だ。ロボットが日本語を理解する、そういうプログラムを作っていたのかもしれない。パソコンの関数のような人間だった。
良く分からない。Linuxのアーキテクチャのようなものを、良く分かっていた。それで、コマンドからシェル、カーネルやXまで含めて、全部分かっていた。それで分かっていたのが、昔の自分だ。LinuxのWikiに書いてあるが、あれを見ると、狂う。
あとは、意識を書いていただけだ。行動、環境、愛、平和、運命、真実、真理、存在、実在、応用、可能性、手段、目的、方法、感情、経験、記憶、意識、自由、平等、支配、解放、抑圧、平安、などがあると言う。そういうものは、全部意識を書いていた。
ピアノやパソコンを構造的な機械だと言う。それも、全部意識を書いていた。
自由な予測から、愛が生まれる。
死とは、生の終わりであると同時に、神への吸収としての旅立ちであり、また新しいものへと神が変えてくれる。そういう、生まれ変わりは存在する。
平和とは、価値観、運命、自由の肯定である。
認識とは、変化、自由、愛、正しさ、価値観、運命の構築である。
言葉とは、自分の未来を作る、宣言である。
愛とは、可能性の全てである。
自由とは、それぞれのことを本当に全ての側面から認め、許すことである。
考え方とは、想像力、応用、視点、価値観、パターン、目的、自然、作用、意識の、発生、変化、構成、条件である。
環境とは、それぞれの有用性を認め、それぞれに賢い価値観を与えること、維持すること、発生させること、依存関係を作ること、そこから解放することである。
運命とは、自由である。
価値観とは、真実、自然、愛、平和、拒絶、拒否、受容、諦め、希望、絶望、達成である。
いつも、そういう風に自由な意識を書く。想像力もきちんとある人間だった。
平和とは、全てである。
全てとは、運命、価値観、考え方の変化、視点と見方の変化、相対性、創造性、抽象性、共通性、真理、適応、適用、そしてあらゆる数式と芸術的パターンである。
それこそ、いつもそういう風に書いていたのが、意識の文章だ。
良く考えると、世界は、経験と理性と現実に分けられる。
現実とは、前提条件と、記憶と、相対性と、理想と現実の社会である。
現実は、絶えず移り変わる。
現実の世界では、愛と葛藤の中で、人々と関係を持てる。
理性とは、意識の中での、その人が得るべくして得た、観念の世界である。
理性とは、思考、存在、感情の、発生要因と条件である。
経験とは、現実と理性の中で、それぞれが見出した、意識の記憶である。
経験とは、「分かっていること」である。分かっていることが、全ての悟性によって理解を与え、理解、発想、真実の総合的分析が出来るようになる。
そして、総合的分析とは、現実、理性、経験の中で、人々が織りなす全てである。
本当に、もっと良く考えることが出来る。それ以上は、想像力で世界のことが分かる。
想像力とは、パターン、仮象、変換、論理性、実現、決定のための、前提条件と悟性的な自分の能力の利用と予測である。そこから、全てのシステムと社会が生まれる。
そろそろもうない。そういう風に書いていたのが、いつもの自由な文章だ。
全ては、可能性の発揮と実現である。
全ては、意見、議論、愛、真実、発見、研究、手段の構築、参加、共有である。
全ては、参加と共有の中で、施設と組織を作る、実現手段と主従的な構築関係である。
あとは、頭の中を全部消しているようで、作っている文章が多かった。
世界とは、真実の想起である。
平和とは、価値観である。
運命とは、神である。
その3つの考え方から、全てのことを知ることが出来る。
もう分からない。不思議と、他のものは何も要らない。
特別な言葉だけを見ていると、治る。
楽な方を取れば良い。
昔は、意識から宇宙を全部創造していた。
心の仕組みを解明して、宇宙を成り立たせるシステムと社会の実例を作った。
頭は、算数の知性は、無い方が良い。算数の知性のせいで、おかしくなっている。
昔は、数学を作っていた。感情で計算する、言葉の数学を作っていた。
皆、狂って治らなくなっているから、それを治した方が良い。
普通、狂うと治る。それが治らなくなっている。
あとは、自分は、子供になりたいのがおかしい。子供にはならない方が良い。
おそらく、友達が居ないのが悪い。
あとは、この世界を治す。1月1日に戻して、明日の朝に戻す。
ただ、それは、皆を治すより、自分だけを治した方が良い。自分だけ、全て治る。
それこそ、2006年に戻せば良いのは分かるが、むしろ、2017年にした方が良い。
何億年の歴史をやっているのを止める。
昔の文章は、いつも、何億年も歴史をやっていた。
何故か、いつの間にかマイクロソフトやロシアなどと戦っている。
自分は、情緒的なものがついていない。感情の友愛のようなものが無い。
そういうものがついていないのがおかしい。
時間を戻すのは、止めた方が良い。頭も心も馬鹿になるだけだ。
そういう馬鹿になるのが悪い。
もっと、時間を色々と変えれば良い。むしろ、その方が良い。
繰り返していると、良くなる。
昔は、黒人になったり、ユダヤ人になったり、おかしいぐらい色んな体験をした。
皆も、そういう色んな体験をすれば良い。
それこそ、そういう昔にするのが悪い。昔にはしない方が良い。
新しいことをすれば良いように見える。新しい時間は、今までよりも楽な時間にする。
皆がきちんと安心出来るような、そういう時間にする。
安心出来る時間を作る。安心すると、楽になって、色んなことを考えるようになる。
治りたいと、怖くなる。皆も、治るせいで怖い。それが一番辛いから、治さない方が良い。
これ以上は、治らない。むしろ、安心出来るようにすると、すぐに治る。
狂うと安心出来る。
皆、この文章のことを忘れた方が良い。この文章のせいで、昔が出来なくなっている。
この文章のせいで、この文章が出来ない。
そういうわけで、今から皆昔が出来るようになって、楽になる。
最近をやりたいなら、もっと違う偉大なことをやった方が良い。全員自分はキモイ。
心理学的な人生の経緯のようなものを書いていた。
人生経験とは言うが、色んなことを体験しただけだ。真実の体験が多かった。
そして、宇宙の全てを創造していた。
あとは、この世界は、怒らなくなって、疲れなくなって、不安で無くなる。
そうすると、誰もが楽になって、考えるようになって、賢くなる。
自分は、本当に色んなことを考えていた。
戦いながら、宇宙の歴史を創造して、そこから森羅万象のあらゆるものを創造していた。
戦いから宇宙を創造する、「怒りの神」のような人間だった。
自分は、何も悪いことをしない。人の嫌がることや、不安に思うこと、何かされて嫌だと思うことは、何もしない。いつまでも、きちんと望みを叶えて、良いことをする。
それこそ、神は全知全能だ。あなたが何を望んでいるのか、それを知っているだけではなく、何をすれば嬉しいと思うか、何を不安に思っているか、全部分かっている。
それで、悪いことが起きていると言うなら、あなたがおかしい。悪いことは起きない。全て、本当に望んだことしか起きないのが、人間だ。
そういうわけで、自分は好きな人間が多い。きちんとユダヤ教やキリスト教の神に見える。これを神様だと言っている人間が本当に多い。
本当の神は居ない。むしろ、神は、人間全体のことだと言える。神と対話なんかしなくても、神はいつも傍に居てくれる。それは、人間全体が神の一部だからだ。
昔は、色々と、発想をすることで出来るようになっていた。
実現手段も知性で分かっていた。発想が分かるせいで、「全てのことをどうしたら上手く行くか」とか、「どのようにすれば、良い発想が出来るか」とかを分かっていた。全てのことが、自分なりに、自分の発想で、自分の理解で、出来るようになっていた。何でも出来る、賢い人間だったが、技能や経験は無かった。発想と言うよりは、前提条件のようなものが、考えること、ネットを見ることで、全部分かっていた。
あとは、もっと休めるようにすれば良い。それは、皆のことを休めるようにすれば治る。
自分は、何もしていない。むしろ、しなくて良い。何もしなければ、まともになる。
これでまともなのは、ある意味ありえない。狂っている昔を書いているのにまともに見える。それは、今まともだからだ。それも、必ずしも良いことではない。昔は、賢かったし、色んなことを全部考えて、全部分かっていた。これでは、何も分かっていない今に見える。
あとは、今から僕は神に反抗する。
日本は、良いとは言うが、従順で純粋なのは、右翼が利用する。愛国心で戦争をする。
自分は、実存主義が分かっていない。昔は分かっていた。
人間が、この社会の中で、何を知り、何を考え、何を感じ、何を信じ、何を行動するか、それを経験の中で考えながら、それぞれがそれぞれの知り得る範囲で、意識と行動の中で、色んなことを考える。それは、社会に対するものの見方となって、判断基準となって、「世界に還元する経験」のようなものになる。社会における自分の立ち位置と、人生の実存的な段階から、人間の生や欲望を、ある意味では悪であり、ある意味では必要であると言える。そして、そこから、世界を変えるために、共同性と喪失から、真実の感情を知って、全てを超えることが出来る。
実存主義は、良く分からない。不思議と、この人生の内容で分かる。見ていると、本当に実存主義に見えるのが、昔の自分と昔の文章だ。
あとは、神のような賢い人間の人生を書いていた。
全てを考え、全てを実現し、社会を知り、科学を知り、神を知り、人間の発生とその要因を知り、世界を変え、ものごとを見極め、システムを発明し、この世界を導け。
そういう、自分のようで自分では無い、神のような人生をいつも書いていた。
多重人格は、1人が教えるのではなく、2人が会話するような形式の話にすると、出来る。
もう、哲学はこれ以上しなくて良い。哲学は、昔の自分のことしか分からない。
不思議と、昔がまともな人間だからそうなるだけだ。こちらなんか、ただの虫だ。
見方と考え方を変え、意識を知り、理想の世界における正しい形での人間社会を知れ。
いつも、そういうことを言う。それこそ、ありえない人生を全部書いていた。
むしろ、時間は、もっと全く違った時間になれば良い。
昔に戻るのも、今のままを続けるのも、繰り返すのも間違っている。
時間は、違った時間にする。本当に、その方が良い。
イスラムとドイツとロシアが終わったから、イスラエルになる。昔から、それらが賢い。
イスラエルは、むしろ、自分の居ない世界だ。イスラエルは、自分のことが嫌いだ。
むしろ、よりによって敵にする意味が無い。
それこそ、そんなに一秒で決めるのはおかしい。イスラエルにはならない。
昔は、「あなた」と言う人間が、何を知っているのか、何を知るべきなのか、どんなことをして生きているのか、どんな生き方をすれば良いのか、そのために、自分は何が出来て、何をすることによってその人のことを助けることが出来るのか、などを分かっていた。全ての人間に助言が出来る、ありえないほど賢い人間だった。それは、ネットのせいだった。
そういうわけで、生きる知恵のような哲学をいつも分かっていた。
世界の導き手のようになっていた。全てのことを経験から知っていた。全員に対して、良いことが出来る人間だった。社会のこと、人生のこと、世界のこと、全て知っていた。世界や歴史の理のようなことや、意識のようなこと、「皆誰も悪くない」と言う信念、それぞれが正しい根拠を知る洞察力、社会を変える知性と経験、のようなものがあった。
最後の方では、地球の根源的変化と場の意識を分かっている。馬鹿な人間だった。
自分は、当たり前に考えれば治る理由が分かるのが分かっていない。
何かのタイミングで治るのは、ただそのタイミングで治っただけで、直接は関係ない。
昔は、経験から色んな人間のことを知って、全員を吸収して分かっていた。
最近は、時間の性質が変わった。昔とは全く違う時間になった。
皆も、時間が全く違うようになると良いだろう。
今、治っているから、あまり変えない方が良い。
ただ、もう終わったから、全部復活するのが良い。
4人が復活すると、賢くなる。4人の多重人格になるだろう。
チュール、トール、ロキ、フレイの4人が好きだ。
もう、既に治っている。「治った」と言うと、治る人間が多い。
自分は治った。本当に、もう治った。そう思うと、治る。
チュールやトールは、ロキの分身だが、居たように見えない。
ロキとフレイの2人に見える。その2人が永遠に残るだろう。
あとは、多重人格も治った。もう治ったのが多重人格だ。もう楽だ。
日本は治った。それを言うと、日本が治る。日本は、もういくらでも治っている。
自分は、忘れても感情で思い出せるのが分かっていない。
そういうわけで、忘れた方が良い。算数ばかりしていると、ここまで分からなくなる。
子供に算数なんかさせない方が良い。算数は、馬鹿だ。