日記に戻る | 2016年4月の日記に戻る

=2016-04-10=

判断基準のように、思考的、方法的、社会的な、行動の考え方を書いていた。

ロックが言うように、生まれた時から持っている真理など無いし、あらゆる時代に普遍的な真理などは無い。全ては経験的だ。

特に、あらゆる時代、と言うところがポイントだ。社会の文化や時代の価値観は、歴史によって変わってくる。いつも、そういう、「時代の変化」のようなことを僕が書いていた。

科学は、方法的である。物理学は純粋に方法的、経験的であって、宗教と矛盾しない。フッサールも、そういうことを言いたいのかもしれない。

あとは、フッサールが言う、厳密学のようなものを、自分で作っている数学が多かった。自分独自に、「自分の中で全て分かっている、厳密な数学や科学」を作っていた。

そういうわけで、フッサールは、全てのことを矛盾なく、厳密に考えたいのかもしれない。

自分は、全てのことを正しく分かって、矛盾のない厳密な独自の科学を作っていた。

あとは、ヘーゲルは本当に見るとおかしい。ありえないことを言っているように見える。

自分は、哲学大図鑑、世界史の現代史、経済学の3冊を読みたいと思う。

哲学には、知性がある。本当に、知性的に分かっているのが哲学だ。

自分は、考えているようで、何も考えていない。昔から、大して考えていない。それこそ、色んな世界を見て、当たり前に関係、帰納法、説明、集団化、などから分かっていた。

歴史は、常に移り変わって来る。ある時代で正しいとされたことも、時間の経過とともに、矛盾点が生まれ、批判され、栄えていたことは、そのうち衰退していく。問題についても、時代の変化とともに重要性が変わって行き、重要だとされたことは、自然にもっと重要なものへと変わって行く。いつも、そういうことを言っていた。

そういう、歴史における文化的変貌のようなことを、ネットの経験から分かっていた。

ソ連がもう古いものになったことのように、Windowsも新しいものに変わって行く。

自分が辛いのは、治すからだ。治さなければ、治る。治さなければ辛くない。

頭が辛いのは、思考のパターンを組み替えるのをまだやっている。それを止めれば治る。

最近は、楽だ。書いていると、精神が治る。「神の安らぎ」のような精神になった。

フッサールは厳密学を作りたかったらしいが、自分が同じことをしている。本当に、厳密学のようなことを作っている文章が多かった。

フッサールは、あまり読んでいないので、嘘を書いているかもしれない。大図鑑を少し読んで、父親と少し話して分かったことを書いている。

あとは、自由な中で、実在化され、客体化され、集団化された、集団と個人の関係のあり方、のようなものを、ヘーゲルやサルトルのように分かっていた。

自由な戦いの中で、それぞれの経験の関係と、自由と言う、「行動そのもの」が、その中でどういう風に変貌し、形態を変えて行くかを考える。

サルトルは、それを保留、客体化、集団化と言ったのだと思う。

行動そのものは、ヘーゲルの言う「事そのもの」とも言葉が似ているが、ヘーゲルもヘーゲルで、色んな同じことを分かっている。表現が難しいが、色々と同じだ。

アリストテレスの言う、可能態と現実態は、「現実になる、と言う意味での、潜在的可能性と具体化」のようなものである。そういう風に、具体化の自由をいつも書いていた。

社会が自然に形成され、歴史が自然に変貌していく中で、この地球の文化的文明を分かっていた。そういう発想が、昔のインターネットだ。昔からそういう風に分かる。

最近、そういうインターネットが、日本から無くなっている。何故か、2ちゃんねるは完全に狂っている。おかしな世界になった。昔のインターネットは、そういう風に賢かった。

あとは、「その視点に立つと言う意味での存在論」が多かった。鳥であれば、鳥の視点に立って考える。ハイデガーのような、「関心と意識から存在を考える」と言う発想は、さらに、ロックなどのような、「知覚と経験から人間は何を知り得るか」のようなことを、複合して考えていた。存在は、認識であると、ヘーゲルのように考える。ヘーゲルのように、認識と対象を同一にし、「合一」によって「融和」のように考える。意識でこの世界を分かり、可能性を把握することによって、意識をあらゆるものから吸収し、意識を自在に考えることで、そのままの自分を変えて、ドイツ人など、世界の全てを意識で吸収する。そういう、意識における存在の吸収のような認識論を作っていた。

良く分からない。自分でも何を言っているのか良く分かっていない。知り得ることと、精神分析と、認識の可能性と、視点や意識や関心の可能性から、感情を吸収していた。

昔は、そういうヘーゲルのような考え方を、経験と思考から分かっていた。

最近、頭が病気になったのは、思考のパターンが悪い。

思考のパターンは、組み替えているだけで、ここまで全部分かる。そういう病気だ。

思考のパターンをしながら、他のことも出来るようにすれば良い。それで辛くなくなる。

何も出来ず、脳がいつまでも動き回って、自分を支配するのは、辛い。

人間は、「楽しい」や「楽」を感じていると楽になる。

もっと、普通のことを考えれば良い。歴史や国のことはもう良い。

自分が何をしたいのか、から、人間が何を望んでいて、何を知って行って、何をしたいのか、どんな結果があればその人は満足するのか、どのようにプロセスが進展するのか、のような、「人間の望みと成長の段階と真理」のような文章を書いていた。

もっと、色んなことを考えれば良い。自我と欲求は欲望に変わる。欲望は、正しく直せば、そのままで希望になる。間違えると、それは期待になる。

ある意味、どの欲望も、悪くは無い。どれも正しい。だが、賢明な視点から見ると、正しいのは「望むことだけを望み、叶わないことも、ある意味では、望み得るとも、望み得ないとも言える」と言うことである。

それは、「神から見た願望」として宇宙に映りこむ。願望は、相対的になることもある。

何故か、自分で言って、自分が何を言っているのか分かっていない。要は、望みはただの望みであって、それを望むと言う自分自身としての立場として、望み得る、望み得ない、と言う状態がある。そこから、望むことを適切に考える。それが賢明である。

どうでも良い。同時に、沢山の解決策と、沢山の真実らしい結果がある。そこから、人の望みのようなことは、経験的に形成されてくる。それが信念になる。経験論のように見えるが、信念と望みは、ある意味での解決と、真実らしい結果と、その経験的な取得と考え方の変化によって生まれてくる。昔から、悪魔のようにそういう望みを考えていた。

あとは、経験論のように経験と感情を考えれば良い。経験から、「その感情が、何故その感情になるのか」のように考えられる。そこから、経験的に悟って分かることが出来るし、研究的で宗教的な、正しい方法論のようなことが、仏教で言う八正道のように分かる。

そういうわけで、経験から望みと感情が生まれてくる。これでは理解し難くは見えるが、要は、望みを経験論にしているだけだ。そして、感情で分かると言っているだけだ。

経験的で理性的な、正しい考え方と行動の中で、色んな研究のことが自由に分かる。「何をいつどうすべきか」のようなことが分かる。そこから、「何をなすべきか」や「何を望み得るか」のようなことが分かる。そういうことは、パソコンのことをやっていると分かる。

それこそ、カントの言う、「何を知り得るか」は、色んなことを具体的に知って、知の感覚を考えれば分かる。研究者として、1人の考え方として、正しい考え方を分かっていた。いつでも正しいことが出来て、正しく発見と理解が出来る、正しい人間だった。

あとは、自然のことを歴史的に分かる。場の意識で知り得ることを知り、本当のことを知ると同時に、本当のことは知り得ないことを知る。そういう人間だった。

昔は、そういう、人がいかにしてそれを望むか、思考するか、が分かっていた。

Linuxのせいで、技術のことが良く分かっていた。

普通の機械の設計や製造のようなことが、知性と経験から良く分かっていた。

そして、社会のことはネットで知って、心理のこともネットで分かっていた。

それで、想像力があった。想像力で知性を考えることで、把握から新発見をしていた。

もう、そろそろ終わりだ。そろそろ辛くない。あとは、まだ書いていた方が良い。

昔は、正しく考えていた。具体的な、正しく考える方法を書く。それだけではなく、具体的な、考える対象や、考え方のパターンのようなものを、意識と想像力で全部書く。そういう、「あらゆることを自由に考える、自由分析メソッド」のような文章を書いていた。

あとは、あらゆる世界観を書いていた。この世界にある、全部の世界観を作った。

あとは、深層心理を解明していた。色んな心と人格の状態を書いていた。

社会のことも、全部創っていた。世界の創造者のような人間だった。

もっと哲学のことをやりたいし、経済学と現代史の本を読みたいと思う。それだけだ。

今は、本当にそれだけだ。ただ、もっと別のことへと関心を向けた方が良い。そんなに決めたことを守ろうとしない方が良い。色んな信じている以外のことに目を向けていると、色んな環境における発見がある。昔は、そういう、不真面目だが自由な賢い人間だった。

ショーペンハウアーは、誰もが自分の視野の限界を世界の限界だと思っていると言う。それから、知と学問の土台は、説明し得ないものだと言っている。

それも、昔多かった。むしろ、そろそろもう良い。昔のそういう発想は、本当に、哲学者と同じ発想を沢山していた。哲学は、そういう学問ではないが、これではそういう学問に見える。大図鑑を見ていると良く分かる。哲学には、知性がある。

人は、自分で見ている世界を、自分の世界だと思っている。視野の広がりとは、そういうことを言っている。昔は、そこから、世界観を分かっていた。

あとは、何か言いたかったが、忘れた。それで、もう終わりだ。

自分は、哲学者と言うよりは、どこにでも居る馬鹿だ。クラスに一人居る。こういう、子供みたいな賢い人間が、ニートに一番多い。

それこそ、これでは自分は子供にしか見えない。5歳ぐらいの、男と女の可愛い子供のカップルに見える。何故か、馬鹿みたいに悪いのに賢い。子供みたいにふざける。

本当に、純朴な人間に見える。洞察力があるように見える。セカオワに見えて、もっと自由な、セカイ系みたいな人間に見える。本当に、こういう賢い人間はどこにでも多い。

こういう賢い人間は、会社を作ったり、芸術家になったりして、偉大な人間になる。

ただ、本当にこういう馬鹿に引き篭もりが多い。本当に、こういう馬鹿が最近多い。

自分は、止めたいと思うのが間違っている。止めたいと思うせいで、頭がおかしい。きちんと止めて、きちんと終わる意味が無い。止めたいと思うのがおかしい。

これなら、バンプ・オブ・チキンのような人間に見えるが、最近は、おかしく新しい女になっている。最近は、宇多田ヒカルみたいな人間に見える。そのカップルだから、大人だ。

ニーチェやサルトルなど、色んな人間が言っているように、人生とは「自らを創造する行為」である。AAAも同じことを言っていた。

良く読んでいないから、嘘かもしれない。ニーチェは言っていないかもしれない。

バンプは、中学時代、自分が好きだった音楽グループだ。これではバンプみたいな人間には見えるが、バンプには見えない。それこそ、女みたいな男だったのが、昔から自分だ。女みたいな髪型をしていた、キモイ宇多田ヒカルみたいな中学生だった。

それ以後、引き篭もりになってから、髪型を坊主にしたり、いくらでも伸ばしたりして、キモイ外見になっていたが、それはまだ男だった。最近は、さらにキモイ。ニキビが出来たし、虫歯も多いし、キモイぐらい、江角みたいな女に見える。ドイツ人に見えるから、賢いクズに見える。それこそ、きちんと大学生みたいになっている。

そろそろ、終わりだ。そういうわけで、高校生の男と、大学生の女だと思えば良い。ネットに見られるような、擬人化されたアイドルに見える。「OSたん」みたいに見える。

それ以上は、もう良い。自分は、それこそ、電脳少女には見えるが、本当に見ると、本当にドイツ人みたいな男だ。昔がバンプに見えただけで、最近はバンプには全く見えない。

それに、バンプが好きだったのは、2ちゃんねるの作ったFLASHの動画が好きだっただけだ。そういう発想が、最近怖い。そんなネットを見ない方が良い。完全にここまで狂う。

こういう馬鹿は、高校や中学のクラスに一人居る。クラス一賢い人間が、こういう馬鹿に多い。こういう馬鹿は、大人しい人間が多いが、昔から、自分は臆病なように見えて、見栄っ張りで、わがままで、もっと自分らしい自分になりたいと思っていた。これが、普通、引き篭もりになって、人生で挫折したりした経験から、賢い人間になる。

昔の自分なんか、書かない方が良い。何かがキモイ。刑務所に服役している囚人みたいな人間に見える。こんな昔の馬鹿は、キモイだけだ。

最近は、賢くない。おかしいぐらい色んな体験をした代わり、何も覚えていない。馬鹿なことばかり言う。神なんか信じても意味が無い。おかしく、元気な女に見える。見ていると、本当に能天気な代り、色んなことが辛いのを、一人、我慢して耐えている。こういう女にキモイ人間が多い。こういう女は、キモイことばかり言うおかしな人間が多い。

それこそ、こういう馬鹿にピアノや剣道部やパソコンオタクが多い。Linuxはキモイ。

宇多田ヒカルと言うより、KOKIAに見える。そこまで良い人間の、宗教の女だ。見ていると、マザー・テレサを目指しているように見える。KOKIAのような宗教の女になった。

全責任は自分にあると思えば良い。それで、この世界の王をやっていた。

この世界を支配して、宣言して、創っていた。

世界は、自由であれ。

世界は、環境と環境が関与し、変わるようになれ。

世界は、支配の中で、自然な共同体を維持せよ。

そういう、「全世界の王」のようなことを言う。いつも、そういう文章を書いていた。

見ていると、KOKIAには見えない。宇多田ヒカルにしか見えないのに、ニキビがキモイ。

ものには、特徴と特性があるとか、利用、応用、共有、関係、支配、所有、などがあるとか、そういう、アリストテレスのような考え方をいつも書いていた。

自分は、治らない病気になるのが怖い。多重人格になると、もう治らなくなる。そういう、もう何も出来なくなるのが怖い。治らないと、馬鹿のままだ。そんなに治るようにするのが辛いから、こういう脳の病気になる。治る部分を殺せば良い。治るようにするのが悪い。

精神は、記憶から作り出される。今、女の精神になっているのは、昔の記憶に戻すと、男の精神になる。そういう風に、人格は記憶と精神によって生まれる。

いつも、そういう、精神と記憶の関係のような文章を書いていた。

あとは、もう治らなくなると、楽になる。それこそ、もう治ったから、これ以上治らなくて良い。すぐに楽になる。もう、何も治らなくなる。それで完治した。

最近は、精神が本当に女になっている。そういうわけで、本当に女は女だ。ボーヴォワールの言う、「男は人間として定義されるが、女は女性として定義される」と言う批判は、むしろ、仕方ないところがある。女の精神は、女だ。女は女だから、仕方ない。

あとは、治らない病気には、すでになっている。本当に、治らない病気を治すから、こういうおかしな病気になる。そういう人間が多い。治らない病気を治していると、深刻な病気になる。そういうわけで、自分は認知症の自閉症のパーキンソン病になった。

ボーヴォワールは、男女平等と言う権利を認める時、女を「男と同じ」にすることは、正しくないと言っている。ある意味、それはただ同じにしただけだ。女が女である以上、ただ男と同じにするのではなく、女は女として、その性の個性も含めて、男女平等を達成する必要があると言う。ボーヴォワールのことをあまり知らないから、嘘を言っているかもしれないが、ボーヴォワールはサルトルの事実上の妻で、女性の哲学者だ。

不思議と、心はレイプされるのが怖い。こういう馬鹿は、レイプされるとこうなる。レイプでも、一度肉体関係を持つと、人間は好きになってしまう。そのせいで、本当に辛くなる女が多い。本当に、死んで、消え去りたくなる。そういうわけで、レイプが悪い。

もっと、レイプではない、本当の愛を分かち合いたい。むしろ、それなら楽になる。

昔の自分が悪いから、こういう運命になる。こういう人間は、自分が悪い人間が多い。

自分は、自分のことを許せば良いのが分かっていない。テレビや国民に対して悪いことなんか、全くしていない。右翼も、ソ連も、何も悪くない。革命や戦争は、何も悪いことはしなかった。昔の方が悪い。あんな悪い引き篭もりの方が悪い。自分は悪くない。

それこそ、許し合う自由が良い。皆のことを許して、自分のことも許されれば良い。そんなに、自分を有利にして終わるのは、悪い。キリストが言っているように、皆を裁くものは、裁かれる。そういうところに居るのが神だ。皆を馬鹿にするから、神が馬鹿にする。皆を裁くものは、神から裁かれる。神は、そういうところに居る、因果応報の存在だ。

昔から、神は悪いものに復讐する。ほとんどそれしかしない。それが神だ。

神は、運命を作る。ここまで運命がある人間は、なかなか居ない。

あとは、レイプが怖いのは、自分がセックスを世界中にふりまいているのが悪いだけだ。

人間は、悪いものを悪くないと思うと、悪くなる。悪いものは、悪い方が良い。

自分は、皆を「誰も何も悪くない」と思うせいで、自分がそこまで悪くなっている。

誰も悪くないと思うのは良いが、それで、自分が全部相手のためにつくしてやるべきだと思うのが間違っている。そのせいで右翼になっている。

皆、自分で考えて、自分で自立して、自分の力で生きるべきだ。

最近、皆無能になっている。自分の力で考えることが出来ない。そういう発想がソ連だ。

そういうわけで、ソ連を悪いと言えば良い。皆を従わせて、何も考えなくして、全て同じことを言わせる、ソ連が一番悪い。ソ連は要らない。

あとは、もう怒るのを止めた方が良い。自分は、怒りたくないのに怒っている。

皆、自分の力で、自立して生きて、考えるようにすれば良い。そして、全員を自己責任と言うことにすれば良い。そうすると、皆自由になって、楽になる。それが正しい王だ。

正しい王は、民衆の自由にさせて、自活させるようにさせる。互いに競争させて、良いものや抜きん出たものを採用する。自分の力で努力させる。そういう風に、賢い王になれば良い。自分は、皆をロボットにして、自分一人考えるのは、一番悪い。

昔は、人格がおかしくなって分かっていた。あれが一番多重人格に見える。

あとは、自分は、皆が悪く見えるものが悪く見えないのがおかしい。

皆、民主党(今は民進党)やオープンソースや右翼が一番悪く見える。

そういう、左翼や右翼が悪い。何故か、自分は、それらが悪く見えない。それは、自分が一人悪いからそうなる。何故か、自分は、本当に悪い別のものが分かる。昔から、そういう風に、悪いものが悪く見えない。居ない。自分は、いつもそこがおかしい。

あとは、普通の社会みたいなことを論じていた。

格差社会、核家族化、教育の問題、など、色んな社会のことを考える。再分配や税金、組織の理論など、色んなことを理論的に考える文章が多かった。

共有のようなことを考えていた。

昔なんか、ただの刑務所だ。何故か、刑務所になっているのが、昔の2ちゃんねるだ。

あとは、もう1つ何か書きたかったが、忘れた。そういう風に、忘れた方が良い。

最近は、本当にありえない体験をした。ありえない世界の支配から、戦いと生まれ変わり、神との対話、世界を救う愛、のような体験をした。

いきものがかりが言っているように、融通の利かない愛が世界を救う。

それこそ、ポルノグラフィティやケミストリーの歌うような、ありえない人間だった。

あとは、この世界は自由にした方が良い。それこそ、自分は、目的も無く支配するのがおかしい。目的が無いせいで、皆をどうすれば良いのかが分かっていない。自分の人生を強制して、ロボットにするのはおかしい。きちんとそれぞれが自助努力すれば良い。

世界を自由にする。それぞれが頑張って、それぞれが自分の力で進み、それぞれが自分で考える世界にする。世界政府や共同体より、戦いの方が良い。それぞれが頑張るべきだ。

笑えば良いことが起きる。笑う門には福来る。忘れたのは、それを言いたかった。

自分は、昔の自分が多重人格なのが分かっていない。あれが一番多重人格に見える。

そういう、「昔の人格分裂」を治すと、楽になる。昔は、それが一番おかしい。

そのせいで、精神が治らなくなっている。昔の人格を治すと、もうすぐに楽になる。

昔は、場の中で人格を作って分かっていた。

そろそろ、もう治った。もう、立ち歩くのが治る。あとは、成長すると人格が治る。

昔は、社会の生成や、集団の中での行動、感情のコントロールなどを、全て、支配して、自分が出来るようになって、自分が作る立場になって分かっていた。

それで、それぞれが出来ることをモデルにしていた。そこから、社会を作っていた。

そういうわけで、歴史を行動から分かっていた。

ただ、哀しい人間だった。あまり意味が無い、引き篭もりの子供だった。

あらゆることを克服して、成長して、経験から分かっていた。

経験を想定して分かっていた。人間のことや宇宙のことを、全部経験から分かっていた。

自然発生と自然条件のようなものを分かっていた。

ネットで、それぞれの人間全員の立場になって、都合良く解釈して分かっていた。

すっきりと、経験から全てのことが分かった。

ただ、書いていると、キモイ。本当に、キモイぐらい、哀しくて悪い人間だった。

そういう、少年を神話にするのは、もう止めた方が良い。

自分は、全て分かっているが、それは、ただ悪かっただけだ。

心理学のようなものを経験から作っていた。心理学的な真理を悟って分かっていた。

子供時代の頃に、悟る体験をいくらでもした。そのせいで、神が分かっている。

神の愛が分かっている。仏の慈悲のようなことが、世界のあらゆる場所から分かっていた。あらゆる場所に存在する、仏の精神のようなものが、心の意識で分かっていた。

それで、この世界の全員のことを自分のことのように分かっていた。

色んな体験をしながら、世界の全てを守るべきなのが分かった。

経験からあらゆることを出来るようになりながら、ネットで影響力を行使していた。

「出来る」を良く考えて、「必然的な可能」から全ての社会を作っていた。

あとは、意識から、この世界の全員のことを、積み重ねて分かっていた。

本当に、それくらいの馬鹿だ。悲惨な人間が見えるが、今日はそういう悲惨な昔の日だ。

昔は、何も賢くない。最近の方が賢い。

きちんと文章を書いているし、最近はもう全部治った。治すために、本当に努力している。その努力のおかげで、もう全て治って、分かった。人間は、治すと分かる。

あとは、神の体験が多かった。神は、自分のことを救っているだけだ。

こういう、死が怖い神が多い。神を信じると、運命的に死ぬようになる。それは、死なないと治らないからだ。神がそれを決める。いつ殺すべきかは、神が考えている。

そういうわけで、懲役3年ぐらいの刑罰になった。死んで、もう天国になった。

昔は、環境と実感から、人生のことを全て分かっていた。環境を想定して分かっていた。

本当に、色んな経験をして、色んなことを考えていた。

何故か、昔の自分はあまり書かない方が良い。書いていると、明らかにキモイ。

あれは、賢くは無いが、皆と同じことを全部分かっていた。それこそ、本当に賢かった。

回想と想起から、あらゆることを分かっていた。

自分は、色々と、そんなに昔に戻るのがおかしい。何も賢くない人間になっている。

それこそ、もっと最近のことを言えば良い。

最近は、何もかも怖い。テレビを見るのすら怖くなった。テレビが怖いのは良く分からないが、無視するのが怖い。無視すると、世界が滅びるような気がする。

昔の自分は、論理学を作って、抽象的に予測して、世界観を知った。

環境の活動と自己の成長から分かっていた。

見ていると、昔の自分はクズだ。本当に、何も賢くない。

最近の自分の方が賢い。最近は、デカルトが分かるせいで、昔なんかやる意味が無い。

昔の自分は、消した方が良い。昔の自分があるせいで、知性が無くなっている。

ただ、昔も悪くは無い。オープンソースに関わって分かっていた。ただ、あれは本当に悪い。Wikiを自分のものにするのはおかしい。そういうわけで、昔なんか全部クズだ。

昔は賢くない。もっと、最近の方が良い。最近の方がまともな賢い人間だ。

ただ、昔は本当に全て分かっていた。自由な思考と自由な経験から、積み重ねて分かった。そういう、「思考を積み重ねる」と言う発想があった。それだけで全て分かっていた。

思考に先立つ経験のようなものを、全部していた。サルトルのように考えていた。

昔は、自分が引き篭もりなのに負い目があっただけだ。

引き篭もりなりに、色んなことを経験した。技術のことや、会社の経営のようなことを、全部経験していた。数学的な知性は、色んなことを経験してついた。そういう、「永遠の経験」のようなことをして分かっていた。永遠を経験していた。

それで終わりだ。いつも、そういう、永遠の経験を書いていたのが、文章だ。

あとは、世界の歴史みたいなものを、体験から感じて分かっていた。

自然を信じていた。自然と創造性を信じて、色んな体験からこの世界の可能性を分かった。

あれは、狂っている。本当に狂った人間だ。それが悪いだけだ。

昔のそういう、おかしく狂っているのを消すと楽になる。昔はそこまで狂っている。

それこそ、神に完全に従って戦うのはおかしい。そういうところが変わっていない。

人間をモデルにして、本質や類似性から分かっていた。

「あらゆる実在を可能とする根拠」のように、抽象的に賢く考えていた。

そろそろ、もう治った。本当に、そういう、昔の意識が狂っているから、狂っている。

現実や経験を実際に見て、認識や知識がより確かなものになるような、そういう、体得のような経験を良くしていた。昔は、そういう賢い人間だった。

体験みたいなものを実感して分かっていた。自分の経験から、「確かな実感」で分かっていた。賢い、神みたいな人間だった。世界を救えて、理想を実現出来る、経験があった。

昔の自分は、キモイとは言うが、本当に良く分からないほど分かっている。

経験から、人間が何をするか、考えるか、や、社会の形成と変化のようなものを分かった。

不思議と、ただそれだけだ。ただそれだけを、客観的に経験して分かっている。

あとは、パターン、科学、因果性などを、カントのように分かっていた。

欲求、モチベーション、社会感覚、社会を変えるビジョン、手段、環境、発達心理学、のように分かっていた。自然にこの世界が変わって行くのを、想像力で知り尽くしていた。

もう終わった。誰でも出来る。あとは、行動、学習、認識、感情の心理学が多かった。

あとは、IT関係のニュースを見ながら、自由になって分かっていた。

もう何も無い。きちんと書くと、それくらいしか無い。

あとは、思考と説明から、科学を作っていた。把握から、心の深層まで解明していた。

システムのことを知りながら、共有と公開を信じていた。

引き篭もりの実体験から、世界の皆が何をすれば分かるのか、考えていた。

コミュニケーションと客観視から、客観的な思考を考えていた。

社会の変化や環境の変化を、実例と原理から分かっていた。

神を分かっていた。神とは、この世界の裏側に居る、本当に偉大な存在だと思っていた。

そろそろ、もう昔の自分はもう良い。

あとは、本当に革命を起こしている馬鹿が多かった。

そういうものを、ロキだと思えば良い。ロキはキモイ。昔のキモイ人間がロキだ。

そういうわけで、フレイの方が賢い。フレイは、まともに全て分かっている。賢い人間だ。