農園に行ってきた。分かった内容は無い。
自分は、仏になる。
自分は、人を助けることがしたい。
仏になるためには、菩薩になることだ。菩薩とは、人を助け、人の苦を取り除き、人に楽を与えるために、ボランティアのように活動する人間のことだ。
菩薩になること、菩薩の行いをすることが、仏になる道だと仏教は言っている。
昔の自分は、オープンソースの活動をして、Wikiを書いて、菩薩のようなことをしていた。
経験して、成長して、努力して、人を助けて、マスターのような仏になっていた。
ただ、あれは、悪いだけの悪魔みたいな人間だ。そういう理由で、こういう地獄になる。
悪魔は悪い。悪魔を悪いといつも反省している。
最近は、声聞や縁覚のような、比較的高い存在になっている。
声聞は、本を読んで、人の意見を聞く、学者のような存在だ。
縁覚は、創作活動をして、直観で宇宙のことを分かる、芸術家のような存在だ。
本を読んで創作活動をしているし、昔は人の意見を聞いて直観で分かっていた。
昔から、自分はニーチェだ。ニーチェと全く同じだ。
何も辛くない方が、出来ることは多い。
たとえが悪いが、トイレで大便をするように、何も頑張らない方が人間は出来る。いくらかふんばるのは必要だが、そんなに頑張らない方が、大便は出る。
あとは、執着しない方が良い。昔は、引き篭もりで執着心が少なかったが、最近は執着するだけの人間になっている。人間の中身には、執着と苦しみしかない。分かる人間が多い。昔の賢い自分、昔の文章、ありえない体験などに執着すべきでない。悪いことはしない方が良い。この世界にも執着しないべきだ。世界が滅びたり、悪くなったりしても、良いことにすれば良い。自分は、人一倍執着心が強い。昔はそういうことは無かった。受け入れることで、執着を取り除く賢い人間だった。そういう昔の自分に、執着しない方が良い。
最近は、健康で正常な自分に執着している。そんなに治りたいのはおかしい。治りたいのが一番、頭が馬鹿になる。頭が馬鹿なのは、何もしないからだ。
それこそ、いくらか以前の自分は、神ほどに賢かったのに、治るせいで馬鹿になった。そこがおかしい。治らない方が賢いのは明らかだ。意識が馬鹿なのを受け入れた方が良い。本当に、意識が馬鹿な方が、分かるからこういう風になる。賢い人間は馬鹿だ。
神は、感想を言いながら、それに対話で応えて、さらに感想を言って、対話を言っているだけだ。対話をしているようで、最初からどんな感想を言うか、神が決めている。
仏教には、白骨観と言うものがある。自分は、曲解のようには見えるが、昔から人間を透視して、内部を分かったりしていた。ただ、それは仏教の言う白骨観とは違う。
自分は、普通のことを分かりたい。ネットは見たくない。学校に行けば良い。
自分は、色んなことが分かるせいで、普通のことが分かっていない。
良く考えると、色んなことをして、「人々と関わること」を考えれば良い。
交流、絆、繋がりのようなことを考えれば良い。励ますとか、迷いの中で絆を培うとか、そういう、AAAなどの歌手が言っているようなことを考えれば良い。
それは、考えても意味が無い。色んな人間と付き合って、人生のことを考えれば良い。
ネットなんか、しても意味が無い。それに、物理的な研究のことは、普通分からない。
そういうわけで、音楽を聴くのは悪くない。漫画でも読めば良いだろう。
昔は、一人の支配者と議会が居て、自由と平等の経済モデルがあって、支配と独立があって、自然にそれぞれが助け合うような、そういう国家モデルを作っていた。
ただ、そうでもない。もっと賢い国家モデルを作って、自分の経済学を作っていた。
それから、機械や技術の発想のように、社会のことをオープンソース的に発想する。
そして、自分の経験から社会が分かっていた。世界を変えるだけではなく、内面的な社会の中での経験と実感のようなことが分かっていた。
そして、経験と直観と友愛の精神から、人間のことがマスターのように分かっていた。
ポルノグラフィティの言うように、頭の中がバグっている。最近はそういう馬鹿だ。
あとは、自分の経験から発想して、カントのような「経験を可能にする」のを分かっていた。発想法のような国家モデルをいつも条件的な基礎から作っていた。
そして、創造性を信じていた。創造的な体験を全てして、ネットの経験から分かっていた。
あとは、良く分からない。最近は、自分が右翼なのを知らないフリをして、神が自分のことを見て見ないフリをしてくれるのに甘えている。そういう、普通の左翼だ。
ヘーゲルをしたい。ヘーゲルは、見ていると、本当にありえない。考え方とは言うが、論述的な観念論と言うべきだ。信仰の態度としてヘーゲルが言っているように、現実では無い彼岸に逃避して、純粋な思考による本質の世界を作り出す、と言うことをヘーゲル自身がしている。ただ、ヘーゲルは逃避では無い。ヘーゲルは、完成なのだ。
ヘーゲルはありえない。見ていると、何をしているのか分からない人間が多いが、ヘーゲルの分かったことや経験したことを全部言っている。精神現象学は、「全てが分かったヘーゲルの言う、全ての文章」だ。自分の最近の文章と良く似ているが、自分は馬鹿だ。
ヘーゲルは、事そのものを説明しているが、昔の自分はそういう風に分かっていた。事そのものとは、それぞれの相互にする中でのそれぞれの行為、そして万人の行為の本質と存在であり、それは他に対してある、事としての行為であり、本質の本質であり、精神的な本質である。自分は、ヘーゲルを解釈して自分なりに書いたから、ヘーゲルはこの通りは言っていない。ただ、ある意味、事そのものとは、「人間としての社会の行為における、全員の社会的関与性の中での、そして、知と理解と経験の中での、本質的精神であり、その行為であり、原因や結果としての本質である」などと言えるかもしれない。
自分はヘーゲルを少しの拾い読みでしか読んでいないから、ヘーゲルに詳しい人から見ると、馬鹿を言っていると思う。昔は、事そのものを社会、人生、経験、知から考えていた。
ヘーゲルの言う、「自分から疎遠になった精神」とは、昔の自分のようなことを言っているようにしか見えない。本来の自分から疎遠になって、社会的な価値観と自然の中で、自然に出立し、成長し、富や権力に意味が無いのを少しずつ知って行って、その上で、この世界を正しい世界へと変えるために、支配しようとする。そのために、ネットのような色んな場所で、疎遠になりながら、色んな存在を知って行く。あとは、ヘーゲルは、喪失から共同性に目覚めると言うが、そういう、引き篭もりやネットのことを言っている。
ただ、ヘーゲルを読まずに書いているから、トンチンカンなことを言っていると思う。ヘーゲルはそういうことは全く言っていない。自分が言葉から曲解して書いただけだ。
ヘーゲルは馬鹿だ。これでは、ヘーゲルは2ちゃんねるだ。
今からやりたいなら、ヘーゲルより、経済学と歴史をした方が良い。
昔がオープンソースの哲学で、それが共産主義のキリスト教になった。自分はそれだけだ。
哲学は止めた方が良い。普通、知性がある学問だ。賢いのが馬鹿に見える。
自分は何も分かっていないから、勉強なんかしなくて良い。経済と歴史なんか出来ない。
中島みゆきが言っているように、昔の自分は、最近の自分が信じられなかったし、最近の自分は、昔の自分が謎でしかない。そういうわけで、おかしなカップルになった。
不思議と、自分は本当に女になっている。宇多田ヒカルには見えない。宇多田はシャイで内向的な人間だが、自分は外向的で元気な女に見える。ある意味、元気な宇多田に見える。何故宇多田に見えるかと言うと、それが一番ちょうどいい女だからだ。そういうわけで、宇多田には悪いが、自分の恋人の宇多田ヒカルを作った。
あまり意味は無い。名前は、澄香(すみか)と言う名前が良い。昔の自分は、太一(たいち)と言う名前が良い。自分では無く、神がつけた。昔が太一で、今が澄香だ。
ヘーゲルは、古代ギリシャや古代ローマの精神を言うが、自分にもそういう、「歴史を意識と理性と経験で分かる」と言う発想が多かった。それも、2ちゃんねるだ。
ヘーゲルは悪くない。ヘーゲルは、本当に全部分かっている。本当に、昔の自分と良く似ているが、2ちゃんねるには見えない。ヘーゲルは、全部分かっている哲学者だ。
それこそ、全部分かっている内容を書いて発表した人間がヘーゲルしか居ないだけで、ヘーゲルみたいな賢い人間は多い。自分も、そういう人間だと思えば良い。
本当に、昔の自分が、自己意識から社会や人生の精神まで、良く似た内容を分かっている。ヘーゲルは理性的だ。理性的に、「経験と世界像を考える」ことで分かっている。
自分は、皆それぞれ違うのが分かっていない。
自分なりに生きて、自分なりに頑張れば良い。受け入れることで、人々を許し、苦しみから解放される。だが、苦しみの中にあるのなら、事前に苦しみが何なのかを良く分かって、対処法を日頃から考えているものが、救われる。本当に分からなくなった時は、神を信じるか、仏に委ねること。それこそ、「上手く行く」と思い込めば上手く行く。
宇宙に偶然は無い。全てのことは、自分が起こしている。そういう風に信じれば良い。
哲学者は、視点を変えているだけだ。視点を変えて経験を考えると、全ての哲学が分かる。
ヘーゲルは、批評する良心と行動する良心を考えている。
あまり2ちゃんねると言っても意味が無いが、そういう風に、行動や批評をすることによる良心のようなものは、昔の僕がいつも考えていた。そこから絶対知のように分かる。
それこそ、ヘーゲルなんか、これくらいの馬鹿だ。あまり賢くない。
自分は、そろそろきちんと勉強出来るようになってきたから、放送大学をすれば良い。日本語は、きちんと全て分かってしまえば、それで分かる。赤ちゃんに見えるのは、そういう、「日本語を分かるための基礎の理解」が出来ていないからだ。それが子供に見える。
世界を滅ぼすのは悪い。都合の良いことだけを信じるのも悪い。
この世界を発展させ、栄えさせるために、本当に何が出来るのか、経験するべきなのか、行動するべきなのかを考えて、客観的かつ、建設的に考えること。
僕は、もうこの世界を滅ぼすのは止める。不思議と、滅びているから、治した方が良い。
世界を治めるなら、むしろ、全く何も変えなければ良い。何もせず、ただ支配していれば良い。その中で皆を放っておくと、皆その社会に適応して、おかしな社会でも、放っておけば良い世界になる。自分の賢い点は、「ある意味普通で、ある意味違う、独自のワンダーランド」を作った。そんなことが出来るのは、自分だけだ。
そういうわけで、自分が一番賢い。そのワンダーランドを、そのまま放っておいたままで、改善し、自分の正しい王国にすれば良い。それが一番良い。正しい王だ。
そして、支配したり、ロボットにしたりするのではなく、皆にも何かが出来るように、裁量の余地を残すこと。それによって、この世界が自然な助け合いによって発展する。
そういうわけで、ただ自由と言っていればそれで良い。ソ連や右翼や宗教を言えばそれで良い。あとは、きちんと書いて教えれば良い。自分が一番正しい、日本の王だ。
天魔主義の国家だから、「天魔国」と言う名前になる。天魔連邦のような名前で良い。天魔帝国とか、天魔共和国と言っても良いだろう。神の国だが、きちんと政治思想だ。
あとは、本当にオープンソースのように社会のことを考える。領土や人種的な国民の国家では無く、それぞれの意志によって、「それぞれがグループを自然かつ自由に作るために、グループとなって、それぞれがそれぞれの国籍を共有して、貨幣と銀行を自由に作る」などと言うように、オープンソースやGPLのように国家を作る。そういう発想が多かった。ただ、それで日本が好きだった。大日本帝国の理想を良いと言う。おかしな人間だった。それから、工場のシステムや会社の組織管理や経済分配などを、オープンソースのように、共有して皆の手で作る。そういうキモイ発想が多かった。オープンソースは、キモイ。あとは、組織の意思決定は全員で行うが、意思決定者はローテーションでかわりばんこに行う。そして、王や政治家は、世界中の色んなところで勉強して、大学の講義を勉強し、色んな仕事を経験させる。政治のようなものは、大学の組織と試験で行っても良いだろう。
あとは、自分の人生を偉大だと思っていた。キリストのような人生だと思っていたが、こういう人間は、普通に多い。偉大な人生どころか、認知症のような馬鹿な人生だ。ネットで全部経験して、成長して、思考して、社会を知って、宇宙の全てが哲学的に分かった。
あとは、生物学を宗教的に考える。動物にも心があるとか、植物にも意識があるとか、そういうことを言う。動物は、心と生態のことを良く考えるべきだ。
いつも、そういう、考え方のようなことを言う。自分の本にある「鳥」のように、生態を実地的に考えていた。そういう生物学をいつも作っていた。環境の一部とも言った。
もの、社会、行動、方法、体験など、色んなことを意識で考える。意識を知り、その存在の視点を知り、成り立たせるような、「実地的、実践的な意識研究」のような文章だった。
ただ、宗教的なだけではなかった。社会や人間のことを、仮想的、根源的に、「実体としての客観的、宇宙的な意味」を考える。脳は神経に過ぎないし、電気のオンとオフに過ぎない。社会は、虫の共存のようなものに過ぎない。貨幣は、社会と言う幻想を与えている。そういう、実際の姿のような「幻想を排して考える」と言う発想が多かった。
あとは、社会の意味と経験を考える。自由なく働かされるなら、それは奴隷だが、平等なく働かされるなら、それはいじめである。平等は奴隷からの解放であり、自由は悪からの解放である。そういうことを経験的に考える。社会だけでは無く、人生もそういう風に考えていた。人生は、必然的な幸福への第一歩であり、自由とは、人生の中で幸福を築くための、1つ1つの権利と許可であり、材料から道具を作り出すように、自由から幸福を作り出す。いつも、そういう、ブッダのような「意味を成り立たせる考え方」を書いていた。
ヘーゲルは、心胸の法則や徳の騎士のように、青少年期の精神の成長を考える。ヘーゲルが不良や2ちゃんねるに見えるのは、不良にそういう人間が多いからだ。
ヘーゲルと同じように成長する人間は、本当に多い。社会との関わり合いの中で、青少年が何を目指し、何を実行し、それがどういう理由で実現出来ないのか、されないのか、次は何をするのか、などと考えている。人生のことが全部分かっているとは言うが、こういう、何もしない人間も多い。昔の自分を考えているようで、自分なんかヘーゲルと同じだ。
精神の成長の段階を全て経験すると、良心と絶対知に行き着く。また、社会的な精神も同様に、絶対精神へと行き着く。そういう、「絶対性へのプロセス」と言う発想が多い。プロイセンの時代の人間だから、そういう風になるのかもしれない。
自分は、パソコンの時代の人間だから、こういう、「自然な共有」のようなことを信じている。ヘーゲルもおかしいが、自分もおかしい。自然な積み重ねと情報共有を信じていた。
英語で言う、whatやwhereなどは、関係代名詞と言うより、「何か」とか「どこか」とか仮定のようなものである、と思うと良く分かる。ネイティブが何を意味して言っているかは僕には分からないが、英語のスヌーピーの会話を読んでいると、「何か」と言うような意味であると思えば、読みやすいところがある。今、少し読んだ。
要は、形容詞をもっと丁寧に説明している。そういう発想をしているように見える。
それこそ、red bookとも言えるし、book that looks redとも言える。そういう言語だ。
自分は、英会話教室には行っているが、何も分かっていないし、まだ英語は喋れていない。ネイティブが見て、アホなことを言っていると思う。
神や支配を悪いと思えば分かる。それらは、倒すのではなく、否定して無視すれば良い。
それこそ、宗教や支配者は、普通、皆を押さえつけて、抑圧しているだけに見える。
あとは、皆を同じにするのも、何も出来ないのも悪く見える。
自由な方が良い。むしろ、ネットのユーザーには、普通の人間が多い。そういう普通の人間は良く見える。そういう人間が多い。自由が馬鹿と言うことになると、それが馬鹿だ。
あとは、普通、科学的に分かるだけだ。
経験すると、人生や社会の意味が分かる。そういう人間が多い。そういう時に、「思い出す」人間が多い。誰でも、そういう風に、想起から経験が分かる。そういう人間は、普通、色んな人間と会話していると、ソクラテスのように分かるようになる。
哲学はしなくて良い。哲学なんか、しなくても、ネットで誰でも分かる。
それこそ、哲学を無意味に勉強しても、意味が無い。
自由な中で、何を信じて、何を分かるか。いつも、そういうことを言っていたのが文章だ。
ヘーゲルが言うように、自由な中で、可能性と具体性の果実を生み出すことは出来る。
ニヒリズムのように考えると良く分かる。自分も、私も、私のものも存在しない。
疑うと分かる。ヘーゲルやマルクスが言うように、私有財産がある、と言うことは、当たり前のことではない。ヘーゲルがそういうことを既に言っている。
あとは、自由なんかどうでも良い。そういう、理想に見える虚偽の事項は、最初から否定した方が良い。綺麗事なんか、要らない。ただ、それぞれの価値観と、社会が行き着く先にある本当の理想のようなものは尊重するべきだ。それは悪くない。
あとは、自分は皆のことを支配したいのがおかしい。それは悪いから、止めた方が良い。支配するのは、される側に立ってみると、全ての意味を否定されるし、体験が苦痛でしかないものになる。日本が辛いのは、自分が支配しているからだ。
自分はキモイ。おかしな女に見える。自分が自分に興奮するのはおかしいが、自分が一番エロイ。初音ミクみたいな電脳少女とのセックスに見える。良く分からないが、昔はオタクの男で、今は多重人格の女だ。自分と自分が融和している。
遺伝子が同じで辛いから、違う遺伝子にした。そうすると、本当にただエロイだけだ。
僕は、最近、エロイものは嫌いだ。そういうものが多すぎるのにうんざりしている。アニメや漫画のような表現が嫌いになった。音楽はまともだから音楽が好きだ。音楽も音楽でキモイ。そんなに自分のことを愛しても意味が無い。自分が皆の恋人なのはおかしい。
自分は、最近、そういうこの世界の全員が嫌いだ。特に、お笑い芸人が嫌いだ。何も賢くない。知性の無い集団だ。最近はあまりに知性の無いものが多いが、全部テレビが悪い。
この世界のことを、きちんと皆で真剣に考えるべきなのに、テレビのせいでそれが出来ない。安倍のような右翼がテレビを弾圧しているのは、テレビが悪いからだ。テレビがあまりに自由過ぎて、何も出来ない。そのせいで、右翼になったのが、安倍だ。
それこそ、自由な選挙は悪い。ソ連みたいにした方が良い。皆で真剣に考えれば良い。
ただ、ソ連は経済が劣っている。ものが何も無くなって、手に入れるために何時間も探して待つようになる。ソ連が無くなるのは当たり前だが、きちんと無くなったのが賢い。
母親と買い物に行ってきた。
皆の力で、真剣に考えて解決しなければならない問題もある。そろそろ、そういう問題を真剣に考えるべきだ。右翼だけに任せるのも、自由にするのも間違っている。皆で真剣に考えて、話し合って、決めるべきだ。そのためには、不自由も受け入れるべきだ。
家族や人間関係の問題も同じだ。真剣に考えて、周りの人間と話し合うべきだ。
法則とパターンから現象と実像を分かっていた。
あらゆる宇宙にある法則とパターンを、「もっと大きな法則」を考えながら、色んな形態で現れるパターンとして、相対的、具体的に、意識で分かっていた。
恥をかくと賢くなる。歌を歌ったりしていると、恥をかくようで、賢くなる。昔の自分も、ネットで色んな恥をかいて分かっていた。恥をかくのは、悪くない。そういうわけで、実名より匿名の方が良い。その方が好きなことを言える。それで分かる。
昔は、心理学や想像力のような内容を書いていた。ほとんど心理学しか言っていない。
良いでは無く、悪いと思った方が良い。良いものを最初から否定して、悪いと思った方が賢い人間になる。良いものは、無い方が良い。それもそれで、1つの良い考え方だ。
現象は関係だ。構造的な、現象と現象の複雑な相互作用の関係が現象だ。
社会は全員の経験だ。進歩へと繋がる、地球の経験だ。
可能性とは、価値の発揮だ。
何でも悪いと思った方が良い。
ありえない体験は、ありえなくない。ありえないと思うせいで怖くなっている。
自分は普通の人間だ。こういう人間が一番多い。見ていると、いきものがかりと良く似ている。もっとナーバスな人間には見えるが、本当にそういう普通の人間に見える。
大学生と女子高生のカップルに見える。オタクの男と元気なエロイ女だ。
買い物で分かった内容は、ここまでだ。
あとは、現実で試しながら、精神の実像を考えれば分かる。
仮定と可能性を想定して、「何が実現可能なのか」を考える。そこから、「いつ何が出来るのか」が全部分かる。社会、自然、人間、人生、環境の中で、何が出来るのかを、世界を知って、人生経験をして、良く観察して、色んなものを見聞きして分かる。
昔は、そういう、「何がどう出来るのか」を具体的に考えていた。それを全部分かった。
自分は、専門学校に行くと良いだろう。最近は何もしていない。
アニメの学校は悪くない。何故なら、作家だ。面白い物語のアニメでも作れば良い。ただ、絵は自分は描けない。そうでもない。昔から、美術の科目でも良い成績を取っていた。
あとは、状況を良く分析していた。実際とモデルを考えながら、いつ何が出来るのかを考えて、可能性を分かっていた。自由とは、そういう、「何でも出来て、何にでも対応出来る」ような自由だった。それこそ、そこから自然な歴史が分かっていた。
ヘーゲルを狂っているとは言うが、結構ヘーゲルはまともだ。全部思考で分かっている。ただ、分かっていることを正しく捉えているだけで、普通のことを考えている。
悪いことが悪いのが分かると分かる。学校は悪いから、しなくて良い。
今、父親と英会話教室で習ったことの復習をやった。
経済学は出来ない。経済学のことなんか、何も覚えていない。
経済学の本は読んでいるが、あまり賢くない。貨幣のことを少し読んだ。
自分は、哲学のことだけをすれば良い。それが一番賢い。
経済は、普通の当たり前の常識を言っているだけで、内容が賢くない。
足の精神は、辛くしない方が治る。辛くしなければ治るのが足の精神だ。
この文章で治るのは、何も治らないからだ。何も治していないから治るだけだ。
辛くしないでいると、心が治る。足も頭も治った。
頭も、辛くしないでいると治る。
頭は、対話しているだけだ。考える方と、感想を言う方に分かれている。
いつも、自由の定義と説明を書いていた。
自由とは、許し合い、分かり合うことだ。
自由とは、社会を皆で作り、高めることだ。
自由とは、自分の持っている能力に気づくことだ。
自由とは、支配することも許す代り、経験から、して良いことと悪いことを知ることだ。
そういう、自由の定義のようなことを良く分かっていた。
そろそろ、心が治った。本当に、辛くしていると治らない。辛くしなければ良い。
コミュニケーションから気づいて分かっていた。人々がどう生きているか、何をしているか、何を考えているか、何を知っているか、何を意識しているか、などを知った。
全てを自由に許すこと。一切の自由の中で、本当にすべきものは何か、それぞれの能力と経験から分かること。全ての自由の中で、価値あるものを築くために、考えること。そのために、全員の自由を尊重して、協力と機会と言う可能性を知ること。
昔なんか、ただ全部嫌いになっただけだ。一度全部嫌いになると、こういう人間になる。
最近は、決意の力から道を切り開いた。AAAが言うように、何が何でも先へと進むと決意して分かっていた。その日のことを忘れずに、ここまで頑張った。
あとは、テレビは悪くない。僕はテレビは嫌いだが、テレビは賢い。取材とリポートがきちんと出来て、アナウンサーとコメンテーターがきちんと賢いことを言う。テレビは賢い。
あとは、むしろ、結構楽しかった。好きなことをやっているのが、本当に全部楽しかった。
昔は研究で、今は創作だ。そこが違うように見える。昔は科学で、今は宗教だ。
そんなにすぐに判断して、決めつけるのは間違っている。もっと長い目で考えるべきだし、良く考えて決めるべきだ。それも、決める前に、事前に色んなことを考えて、用意周到に考えるべきだ。そして、1回の結果で判断するのではなく、厳密に、正しく、何度も試して考えるべきだ。昔は、そういうところが賢かったようで、馬鹿だっただけだ。
日本語を分かる時は、論理的に社会の変化を考えること。例えば、貨幣経済が無かったとしたら、どうなるか。可能性を仮定しながら、論理的に推論で考えると日本語が分かる。
何故、貨幣経済を行うのか。何故、貨幣が石や貴金属などの、保存しやすいものになっているのか。それは、劣化せず、長い間保管するのに適当だからである。そういう風に、色んなことを、理由やどうなるかを考えながら、論理的に考えれば良い。
何故か、経済学にはそういう人間しか居ない。経済学は、論理的に考えると分かる学問だ。
人間は、脳も賢いが、手や足が賢い。手はものを掴むことが出来る。足は、二足歩行で立って歩くことが出来る。そういうわけで、人間は可能性のある生命だ。
そろそろ分かる。最近、論理的な知性が無くなっているが、昔は、そういう風に論理的に考えただけだ。要は、人間や社会のことを、「何故」や「どうしたら」で考えれば良い。理由、根拠、動機、目的、課題、方法、そういうことを、知識と社会の具体性で考える。
自分はきちんと大人になっている。誰でもそういう風に論理的に考えるだけだ。
そのために何が出来るか、すべきか、それは何のためにそうなっているか、何故か、などを考える。そこから、それぞれの目的の共有と、行為の意味が分かって来る。
そういうわけで、哲学は誰でも社会のことを考えれば分かる。哲学は、もうすぐに出来る。
昔は、社会に対して何をするのかと、ものやプログラムを何を意図して作るのか、から分かっていた。特に、UNIXのコマンドやコンパイラやシステム構成から分かっていた。
本当に、歴史のことはパソコンと論理性から分かっていた。「それが、見せかけは何に見えて、本当は何なのか」から分かっていた。
そういうわけで、色んなことを経験と理性で分かっていた。社会の知識と具体性から考えた。「何故」は「意図」であると考え、「どうしたら」は「目的」であると考えた。意図と目的だけで、この世界の全ての成り立ちと手段的な自由と可能性を分かっていた。
社会がどうなるかを、宇宙的な状況と人生的な場合から、具体的に構築して分かっていた。
実例のようなものから、可能性と捉え方を分かっていた。
自分は、賢くなっているが、賢くなると、馬鹿になるし、もう分からなくなる。
今までの全てが賢かった。今が一番良い。そういう風に、信じればそれで良い。
自分の選択は間違いでは無かった。それだけを信じれば良い。それで受け入れれば分かる。誰もが、こういう経験をするべきだ。昔は、それを「実体験」だと言っていた。