農園に行ってきた。
ものや組織を作る、自由がある、潜在的可能性がある、チャンスがある、環境を変えられる、経験から作り出せる、など、自由な考え方で分かっていた。
経験から洞察してこの世界を分かっていた。
自由な関係を考えて、社会学や心理学と全く同じものを自分で作っていた。
自然発生、方法、目的をモデルにしていた。
根源的な意識で分かっていた。本来の自分に戻ると賢くなるのが分かっていた。自分の心と、自分の作った考え方で、科学と同じことを分かっていた。知り尽くして分かっていた。
農園に行って分かった内容は、ここまでだ。
哲学は、絶望を受け入れて、人生経験をすれば分かる。
経済は、ルールの下に秩序を作ると思えば分かる。
あとは、本質と愛を考えると、良く分かる。
あとは、愛すれば分かる。そして、信じれば分かる。
自由になると分かる。環境から自由になると、馬鹿になる代り、分かる。
知識をものに直して分かっていた。説明を全部作って、認識を一致させていた。
何故か、体が重い。最近は、そういう風に疲れる。病気になっているのかもしれない。
自由な推論と、自由な考え方と、自由な基礎で分かる。
昔から、そういう風に、「自由」と言う言葉で分かる。自由な考え方で推論しているのを、そういう風に表現していた。あまり意味は無いが、推論と説明が多かった。
仮想的な社会観を作って、どうすれば自分や皆が出来るか、考えていた。
生産手段のようなものを考えていた。
世界観を考えて、それぞれの世界観から、この世界がどう出来るか、可能性を考えていた。
具体的にどうすることで、この世界を向上出来るか、などを考えていた。
ヘーゲルのように考えていた。
ヘーゲルのように、個別性と普遍性から、行為、価値観、事、関係、などを考えていた。
自分がそうであるように、他人のこともそうであると考え、それをそれぞれの関係の中で、捉えて分かっていた。そういうところが賢かった。
今日は、そろそろ治った日だ。それこそ、足はもう最後まで終わった。
あとは、そもそものことや、当たり前のことを考えて、そのままの知性を再利用して分かっていた。そういう、おかしな経緯と推論の考え方が多かった。
そろそろ、もう全部終わった。終わったから、神との対話を治せば良い。治らないのは、まだやっているからだ。誰でも、終わってから治るのが、こういうおかしな人間だ。
ただ、自分で考えれば良い。そして、もう何もしなければ良い。
今、自分の昔書いた文章にざっと目を通した。
見ていると、昔の女が、ワードで成長して、ブログとともに男に生まれ変わっている。
良く分からない。今のところ、昔のブログまでをざっと見た。
ワードを見ていると、赤ちゃんから22歳ぐらいまで成長した、大学生の女に見える。
欲しいとか、所有するとか、そういうものは「欲」であり、幻想である。
仏教が言うように、私とか、私のものとか、そういう考え方は幻想である。
英語は、そんなに速く分かっていると分からない。聞いた言葉を保留して、あとで考えると分かる。普通、日本語はそういう風にすると分かる。英語も同じだ。
英語は、そろそろネイティブ並みに出来る。
自分は、すぐにするのではなく、する前に言えば良い。言わずにするからおかしくなる。
英語は、あとは聴いていれば出来る。何もしなくても、その状態に適応して分かる。
英語は、簡単なことが難しくなると出来る。
英語は、余計なことはせずに、分からなくても聴いていると出来る。
普通、余計なことをするのが一番馬鹿だ。馬鹿な人間には、余計なことをしている人間が多い。本来賢いのに、余計なことをしているから馬鹿になる。何もしない人間が賢い。