精神を作って分かっていた。
場の変化を分かっていた。場の価値観、意識、考え方、歴史、可能性を分かっていた。
場の変化を経験から積み重ねて分かっていた。
自分が自分なのを分かっていた。
自然な社会形成を分かった。
辛いのは、賢いから辛いだけだ。馬鹿が楽なだけだ。
何か言いたいことを忘れたが、それは忘れて良い。
自分は、学習すれば良い。昔は、学習から知性をつけて分かっていた。最近、学習しなくなった。普通、学習ぐらいする。学習をしないから馬鹿になる。
もっと学習した方が良い。学習していると、きちんと賢くなる。頭が成長する。
皆は、セックスが辛い。自分がおかしいせいで、皆セックスが辛くなっている。そこを治すと、皆が楽になる。そんなに何も無いのを止めて、皆をセックスで無くすれば良い。それで、すぐに皆楽になる。そんなにセックスにするのが、一番辛い。
農園に行ってきた。
もっと、単純で簡単な学習をすれば良い。見て学習すれば良い。
学習していると、哲学が分かる。日本語が分かって、認知症が治る。
昔は、学習と行為の感覚と関係から、経験して、人間や社会の形成のことを分かっていた。
経験的に、「人間の形成」のようなことが分かっていた。
宇宙人は、自分の体験出来る機械とか、逆戻りとかをする存在のことを言っている。それらは、全部自分の文章のことを言っている。
神は、フランスが一番怖いとは、昔の自分のことを言っている。戦う時代が怖かった。最近は、ドイツに全て起きて、ドイツに神が生まれると言っている。神は、全部そういう風に、自分のことを言っている。ロキがフランス人で、フレイがドイツ人だ。
農園で分かった内容は、ここまでだ。
自分は、認知症と言うよりは、知的障害だ。ただ、成長が遅いだけだ。それこそ、普通の人間より賢くなりたいからこうなる。一度馬鹿になって、それを治すと、賢くなる。
そういうわけで、昔は賢かった。それこそ、昔も馬鹿な狂った人間だった。
知的障害と言うよりは、ただ狂っているだけだ。何も分からなくなっている。
そういう、狂っているだけは、こういう風に治る。
この文章の悲惨な点は、書き方がおかしい。本当に、ドイツ語みたいな文章を書く。
世界を全部知って、世界観から抽象的な予測をしていた。世界が必然的にどうなって行くか、根源的な意識と実感から、全て分かっていた。社会を予測していた。
昔から、この文章が神だ。この文章を信じると、昔の馬鹿が出来る。悪い人間が、こちらになって、地獄になる。そのせいで、神は悪い。神は、そういう風に、悪人を裁く。神は、そういうものに見えるから、ユダヤ教が馬鹿になった。神はあまりに悪い。
ただ、神は慈悲深い存在だ。皆を本当に賢くして、悪いことは一切しない。皆、最近は、昔になって、本当に賢くなった人間が多い。カントのように賢くなる。
最近は、哀しい戦いをして、地獄の歴史を作った。
昔は、ネットで楽しいことをいくらでもして、自分から行動して分かった。
そういう、昔のことをもう忘れた方が良い。
もう分かっているせいで、何も分からない。そういう、分かっている昔を消した方が良い。
神は、それしかしていない。自然に昔を忘れるようにしている。
見ていると、皆、悲惨な人間しか居ない。そこが分かると分かる。皆、悲惨だ。
自分は、何か賢いことをすれば良い。それは、すぐには出来ない。それこそ、長い時間をかけて出来ることしかない。そういうわけで、数学はすぐには出来ない。
もっと、この世界に色んなことを思えば良い。神はもう良い。色んなことを信じれば良い。分からないのは、悪いからだ。悪い自分を変えた方が良い。
あとは、むしろ、馬鹿の方が賢い。こういう、変わらない人間は、賢く見えて馬鹿だ。すぐに変わって、好きなものが嫌いになる人間が賢い。そういう人間しか居ない。
色んなものが嫌いな人間が賢くなる。学校、パソコン、キリスト教、哲学のようなものが、嫌いな方が良い。それらは誰もが嫌いだ。もっと賢いものを好きになった方が良い。
人間は、色んなものが嫌いになるだけの馬鹿しか居ない。嫌いになって分かる人間が多い。
社会主義も、資本主義も、嫌いな方が良い。そういうものは、馬鹿だ。
テレビや学校も嫌いな方が良い。テレビや学校には、何も分かっていない馬鹿しか居ない。
ただ、人間は悪くない。それこそ、環境が悪いだけで、本人は悪くない人間が多い。
あとは、ドイツやアメリカも嫌いな方が良い。
哲学が好きなのは良い。そういう、自分がやっていることは、好きな人間が多い。
パソコンは嫌いな方が良い。パソコンは悪すぎる。本当に、クズの集団がパソコンだ。
あとは、これで色んなことを経験していると、分かる人間が多い。
日本が治った。何故か、色んなことが嫌いになるだけで、すぐに昔の自分が出来る。
あとは、昔の自分も嫌いな方が良い。昔の自分は、全部キモイ。
自分は、中学時代の自分が好きだ。引き篭もり時代の自分が嫌いだ。革命時代は、まだ悪くなかった。最近の右翼時代が一番嫌いだ。
ただ、昔も馬鹿では無い。情熱的で、色んなことを思考する、ブッダのような賢い人間だった。それこそ、本当に革命時代の方が悪い。あれは、悪すぎるだけだ。
人間の人生とは、何かを嫌いになって行く、1つのプロセスだと言える。
ただ、自分の心に正直になった方が良い、と言う意味でもある。嫌いなものは嫌いだと言った方が良い。不思議と、嫌いになった方が、相手が楽になる。嫌いなのに嫌いになれないでいると、その方が相手が辛い。嫌いなら、拒絶して、きっぱり嫌いであると言った方が良い。その方が、相手も楽になる。受け入れることと知性は、似ているようで逆だ。
そういうわけで、昔の自分なんか、まるごと全部嫌いな方が良い。
まともな人間が好きになった方が良い。誰かのことを「好きだ」と言うと治る。そんなに、全部総じて好きだとか、嫌いだとか、言うよりも、それぞれのことを良く知って、特別好きなものや、特別嫌いなものを作った方が良い。オープンソースは、そういうものだった。
僕は、家族と哲学のことが好きだ。
それから、日本やテレビのことは嫌いだ。あまりに馬鹿な人間が多い。
そして、フランスより、ドイツの方が好きだ。
それから、漫画やアニメは嫌いで、音楽とピアノが好きだ。
パソコンは嫌いだが、英語は好きだ。
あとは、昔の自分は全部嫌いだ。そういうわけで、哲学も結構嫌いだ。
ヘーゲルは、あらゆる現実は歴史的な過程だと言っている。それも、精神で考えている。
自分は、ヘーゲルは嫌いではないが、専門にしたいとは思わない。
カントも嫌いではないが、カントは、まともに見えて、全くまともでは無いのが分かる。
それから、サルトルやハイデガーは嫌いだ。ソ連と右翼に見える。
それから、右翼やソ連は嫌いだ。むしろ、まだ自由や日本の方がマシだ。
自分は、テレビは嫌いではないが、色々とテレビに対して悪かった。反省している。
哲学は、まともに考えれば誰でも分かる。そういう、まともな考え方が好きだ。
何故か、嫌いになるとまともな自分になる。何かが嫌いな人間が多い。
自分は、テレビが嫌いだ。馬鹿に見える。芸人は、特に、ネプチューンが嫌いだ。
あとは、むしろ、マイクロソフトが嫌いだ。ただ、グーグルも嫌いだ。
むしろ、そういう嫌いなものを、本当に嫌いになれば良い。そういう人間しか居ない。
見るからに右翼が悪い。そういう、「常に嫌いなものが嫌い」な人間が一番多い。
あとは、自分はガンダムが嫌いだ。
ネプチューンは、嫌いだと言うと、本当にテレビが嫌いなように見える。ただ、ネプチューンが嫌いな人間は、テレビを見ている人間にも多い。
あまり言わない方が良い。そういう批判をしていると、本当に2ちゃんねるに見える。
ただ、僕はテレビはそんなに嫌いではない。何故か、見て怖いだけだ。そこが嫌いだ。
昔は、精神の分析みたいな内容を書いていた。
それから、具体的な社会の実例のようなものを考えて、それを分析する。
具体的な実例やデータから、関係、構造、人生、可能性、前提などを分析する。
そういう文章だった。あらゆるものごとを、実例から解明していた。
それで、自由な思想や考え方を書いていた。
僕は、自由が好きだ。それこそ、自由で無いものを悪いと思った方が良い。独裁者のようなものは、あらゆる意味の独裁者が、悪い。自由で無い、制限された環境も悪い。自由のままで改善し、自由に任せながら、自由に変えるべきだ。
そういうわけで、僕は自由が好きだ。自由で無いものは、全部悪い。
自由なく支配するのが悪いから、平等にした方が良い。
皆を、平等にして、強制的に自分にしたり、支配したりしなければ良い。
そういうわけで、ある意味、自由と平等は同じだ。自分が一番、平等が好きだ。
自分は、平等と言えば良い。ただ、自由が悪いだけだ。
平等とは、平和で、健やかで、愛溢れる世界だ。
そういうわけで、平和で健やかで愛溢れる世界にすれば良い。そうしないのがおかしい。
希望のようで、勇気のような、理想の世界にすれば良い。それが平等だ。
平等は悪くない。自由と言うから、こういう風に、支配して滅ぼすようになる。
そういう、平等の希望のような文章をいつも書いていた。あれは、本当に自由だった。
自分が馬鹿なのは、数学と大人が悪い。誰でも、高校と大学でこういう馬鹿になる。数学が一番悪い。数学は、ここまで馬鹿になって分かるようになる。大人は賢くない。こういう、子供の頃より馬鹿な大人が一番多い。
数学の無い、小さな子供が賢い。子供には、賢い人間が多い。
高校なんか行かない方が良い。数学の知性なんか、無い方が良い。
子供が学校へ行くと、何故か馬鹿になる。それは、数学や算数が悪い人間しか居ない。
数学がキモイせいで、中学生がキモくなる。それは、明らかにおかしいのが学校だ。
自分が賢かったのは、数学なんかせずに、パソコンをしているからだ。神ほどに賢かった。
昔は、日本語で数学をしていた。そういう、日本語で数学をするのが悪い。
昔は、自分の行動をあらゆる角度から見つめて、客観視して分かっていた。
不思議と、日本語も悪い。日本語は、おかしい。英語の方が良いからこういう風になる。
皆、数学のせいで分からない。数学で分かるとは言うが、何も分からない。
それこそ、自分が数学なんかしていない。数学的に考えて、パソコンをしていただけだ。
論理的に考えるのは良い。「そうなるとそうなる」から考えれば良い。「そうであれば、そうでなければどうなるか」を考える。ただ、それは、分かっていないだけに過ぎない。
誰でも、普通きちんと分かる。分かってしまえば、数学なんか、無い方が良い。
それこそ、分かる人間は馬鹿だ。分かる人間は、自然に馬鹿になる。
昔は、まともに考えただけで、何も賢くない。本当に、ただまともに考えただけだ。
考える知性があった。まともに考えて、ロックやカントやヘーゲルと同じになった。
あとは、皆何も賢くない。テレビを見ていると、皆あまりに馬鹿だ。
賢い人間は、キモイ人間が多い。見ていると、本当に皆キモイ。全員馬鹿に見える。
自分は、もう、多重人格になる。それを「死ぬ」と言っている。
ロキとフレイになって、適当に何人か居るようになる。ただ、替わるようにはならない。
昔は、ネットで色んな人間のことを知ったのが賢かった。
この世界の全員のことが、ネットで分かった。
不純な気持ちの無い、「純粋な楽しさ」のようなものが分かった。
あとは、権威や宗教のようなものに従うのではなく、「自分の力で考え、推論する」と言う発想があった。そして、あらゆる前提を排除して、自分の力で考えた。
昔は、そういう人間だった。哲学者は、誰もがそういう人間だ。
自分は、経験のことを考えれば分かる。ヒュームのような、経験論を考えれば良い。
複合観念のようなものから、現実、自由、理性、理解、法則、推論、真理、のように、観念と知覚は発達していく。そういうところを良く考えると、ヒュームのように分かる。
そして、社会との関係の中で、自分の世界における立ち位置が分かって来る。
「何がどうなるか」と「その時何が出来るか」から、「何をどうすべきか」と言う総合判断になる。そういう、因果性と法則性と経験から、総合判断をする、その際の方法や知性のようなことを考えていた。数学的に、推論して考えていた。
数学は、本当に無い方が良い。子供が賢いのは、数学が無いからだ。
大人は賢くない。一度数学を分かって、数学を分からなくなると、本当にここまで馬鹿になる。数学が良かったように見えて、本当に数学が悪い。そこが分からない人間が多い。
ただ、昔は数学みたいな真理を全部作って分かっていた。数学も馬鹿では無い。
数学が馬鹿だと言うよりは、高校以降の学校が悪い。本当に、学校は馬鹿になる。学校を嫌いになって、数学は学校では無く、独自の数学的な思考をやっていると賢くなる。
あとは、パソコンは悪くない。どっぷりパソコンに浸かっていると、馬鹿に見えて、賢い人間になる。パソコンはおかしくない。パソコンのせいで、最近賢い人間が多い。
「それが成り立つためにはどういう条件があるか」から、条件を見出すことで、「何をどういう風にすれば、それが実現出来るか」を考える。
そこから、何をすればどうなるかを分かる。そういう、自分の数学を作って、経験的、演繹的、帰納的に、思考して分かっていた。
そういうものは、本当に、数学なんか無い方が分かる。数学をすると、そういう、もっと基本的な論理学が分からなくなる。学校が一番悪い。
あとは、これで全部経験すると分かる人間が多い。ネットなどで経験すれば良い。
国の違いは、社会的、文化的、経験的なものであって、遺伝子的なものではない。
それこそ、特別そんなことに注目する必要はない。
それこそ、カントやヘーゲルなんか、普通に日本人に多い。
人種差別は間違っている。人種に違いはあっても、それは遺伝子的なものではない。
そういうわけで、自由と思えば分かる人間が多い。同時に、平等にした方が良い。
人種に違いがあるからと言って、国民や人種全体を同じであるとするのは、短絡的だ。
それこそ、右翼は短絡的で、愚かな集団だ。そういうわけで、本当に自由の方が良い。
本当に自由の方が良い。賢い人間の自由にした方が良い。それが一番賢い世界になる。
右翼は、出来るとは言うが、出来るのは独裁者一人だけだ。それで、良い国にはならない。
それこそ、独裁者一人が考えて、賢いわけがない。戦争でドイツが負けたのは、独裁者一人に対する負担がかかったからだ。自由や平等が、皆で考えた方が、強い。
それこそ、ソ連が失敗したのは、自由が無かったからだ。
自由はあった方が良い。経験的な自由、手段的な自由、組織的な自由と思えば良い。支配すると同時に、それぞれがそれぞれの世界を把握して、自助努力して、可能性を高めて、それぞれが考え、改善する。そういう自由が、一番理想な「出来る世界」になる。
それこそ、それが一番強くなる。自由にして、本気で賢い国にするべきだ。