日記に戻る | 2016年4月の日記に戻る

=2016-04-22=

農園に行ってきた。分かった内容は無い。

考えることや、分かること、識別することは、心や気の持ちようで変わってくる。仏教がそういうことを言っているが、昔から自分もそういう風に認識と意識を分かっている。

昔は、そういうものを「環境への適応」や「言葉遣い」だと言っていた。

論理的に社会と人間のことを考えていた。分析する能力と知性があった。

構造を見出して、法則的かつ準備的、用意的、計画的に社会のことを分かっていた。

存在を吸収し、知性を吸収していた。哲学的に全員を吸収した。

科学を、実例を全部作って分かっていた。

人間は、否定した方が賢くなる。馬鹿なものは、無い方が良い。

辛くても、休んだ方が良い。それで楽になる。

そんなに大量に書くと、次の日に疲れる。

書くのを止めるのも悪い。止めると、辛いだけの引き篭もりになる。書いていた方が良い。

見ようによって、この世界の意味は全部変わってくる。何から何が見えるか、観念や印象だけではなく、像から仮象、可能性まで、見ようによって全部変わってくる。

見ていると、皆賢くない。自分が一番賢い。それで良いことにすれば良い。

まだ、書いていた方が良い。本当に、書いていた方が良いから、書いているだけだ。

思考を辿って、人格の発生のようなものを考えていた。社会を感覚から知っていた。

自分は、単純に辛いだけ、シンプルにただ辛いだけにすれば楽になる。

人間の理性に限界は無い。認識や純粋理性の限界はあるし、全ては知り得ないが、それでも、精神の力を上手く活用することで、宇宙の全てを創造して、神ほどに分かり得る。

ただ、常に限界値を何であるか、知っておくこと。常に、「人間に分かり得ることは何か」を考えて、批判的に捉えること。同時に、「何が可能で、何が知り得るか」のようなことを、常に知っておくこと。そこから、神と対話することで、「判断力」が身につくようになる。

心は、表面に現れている心と、潜在している心がある。フロイトだけではなく、仏教もそういうことを教えている。自分が考えるに、潜在している心も、欲求や行動の原理原則として、何かの形で表れているのかもしれない。フロイトや仏教のことを良く知らないから、それらの言っていることとは違うと思う。潜在している心に、精神病の根底となる心の「たが」のようなものがあるのだと思う。昔は、ネットの経験や実際の自分の奥底にある意識などから、潜在している心のことを分かっていた。仏教の本を読んで理解したい。

社会とは、人間の意識の一部である。昔から、自分はそういう風に社会と意識のことを分かっている。それこそ、いつも、意識から社会の可能性のことを書いていた。

昔は、あとは、感情で神のように分かっていた。

もっと、最近になった方が良い。最近のありえない体験の方が、昔より良かった。

それこそ、昔になりたいのはおかしい。最近の方が賢い神の体験をしている。

最近を、最近のまま治すと楽になる。もっと、実体を良く見れば良い。自分の方にあるものを消して、世界にあるものになれば分かる。あとは、もっと良く経験して、勇気を出して行動すれば良い。何もしないから、覚えない。覚えないから、知性がつかない。

いつも書いていた認識は、そういう、見方によって、あらゆることの意味が変わってくるのを書いている。それくらいを書いていたのが、いつもの認識だ。

自分は、仏教のことをもっと良く知りたい。そして、経済学と心理学をする。

それが一番良い。哲学や歴史やパソコンや数学は、もう終わったから忘れた方が良い。

ブッダは、不滅の魂のような実体は無くて、それは衆縁和合しているからだと言う。常に無常によって、全てのことが移り変わって行くために、不滅の変わらない存在、と言うものはありえない。自分は、それはある意味正しいことを言っていると思うが、むしろ、魂も何らかの形で変わって行くものである、と考えたい。魂は、この宇宙に最初から存在して、大きくなったり、小さくなったり、生成と消滅をしたりしながら、この宇宙の全てのものの実体として、生命の命をコントロールしている。そういう風に考えると、無常の中でも魂があっても良いように思う。それは、生命としての「命」を超える存在である。

そういうわけで、死後の生や死後の世界を、僕はあることにしたい。

そういうことを言うのは、自分が考えたわけではなく、神との対話と言う本に書いてあった内容に従っている。そういうわけで、魂と言うものは、変化する。

仏教では、現象界は心の現れに過ぎないと言うが、僕は、それを、眠る時に見える夢の世界のようである、と言いたい。自分の心の奥底で、「何かを自分がやり遂げたい」と言う心としての意志を持っている。また、心だけでは無く、生まれてくる時にも、「何かを体験したい」と思って、体験の内容を全部決めて生まれてくる。

それは、全てが生まれてくる前に決まっている、と言うことではない。体験することは決まっているが、そこで何をやり遂げるか、何に成功し、何に失敗したか、出来たことは何か、と言ったことは、原因と結果における縁起のようにあとで決まるのである。

そして、生まれてくるだけではない。今の自分の心、あなたの今思っているその感情が、この世界の現象界の全てを決めてしまう。心で思っている通りに、まだ起きる。いくらでも、いくらでも、心で思っている、「何かを達成したい」と言う欲求が、この世界に起きてしまう。それが、無常であり、縁起である。そういうことを言いたいのが仏教だ。

何故か、本当に宗教のような内容になった。今日は、宗教の日に見える。

一度、この宇宙にある存在や、社会にある全ての人々のことを忘れて、何も無い空っぽの境地に立つと良いかもしれない。仏教では、それでもなお、何か残っているものはあると言う。ただ、そういう境地に立つためには、あらゆる執着を無くすことだ。

そういうわけで、この宇宙の全てを忘れるために、執着を消す、と言う経験をするのは悪くない。そういうものを、瞑想と言う。そして、その上で、もう一度この宇宙をありのままに感じることが出来る。ブッダは、それでもなお残っているものがあると言う。

ブッダは、空と言う言葉でそういうものを説明しているが、自分は、そういうものを魂であるとか、神であるとか、そういう言葉で表現出来ると思う。宇宙にある、根源的な、何をしても消えてなくならない存在が神であり、魂である。ただ、それは仏教の教えに反するから、あまり言わない方が良い。仏教では、そういう永遠の存在はあまり信じていない。

ただ、ブッダはそういうものを空とは言っていない。今、まだ本を読んでいる途中だから、空とは何のことを言っているのか、自分は分かっていない。それは誤解しないでほしい。

唯識学派と言う仏教徒のグループが考えるに、そういうものが深層心理であり、心が現象界を起こしている、と考える根底の存在である。

昔から、自分もそういうものを、精神分析の経験から分かっていた。

唯識学派は、深層心理のことをアーラヤ識と名付けて、アーラヤ識が迷いの根源であると考えた。そして、ヒュームと同じように、経験的な意識の因果性や現象学を考えている。

自分は良く分かっていないから、おかしいことを言っているかもしれない。それに、まだ読んでいる途中だ。意識の深層をそういう風に分かるのは、自分にも多かった。

アーラヤ識にたまった印象が、次の印象を受ける時に反応して、呼び起される。それが、深層心理である。そこから迷いが生じる。自分はそういうものを「反応」だと考えていた。

それは、最近の自分が一番良く分かる。いつも、そういう風に迷っているのが自分だ。

印象だけでは無く、人間の行為も、そのアーラヤ識のサイクルの中で生起する。

アーラヤ識ではないが、昔の自分は、そういうところを良く考えていた。何から何が発生するのか、記憶と認識の中で、どんな因果性を持って、どんな認識がどんな認識に対して反応し、そこから何を行為するのかを考える。記憶と感情から、人格がどのように形成され、それが人々の関係の中で、心の状態としてどのように「在る」のかを考える。まさに、そういう風に考えていた。認識とは、そういうことを書いていたのが、昔の自分だ。

そういうものを、反応とか認識とか言っていた。何故か、仏教の方が賢い。

そこから、思考や感情を辿って、それぞれがどう生きているのか、存在しているのか、関係しているのかを考えていた。そういう風に、「人格と思考と場の因果性」を考えていた。

何故か、唯識学派は馬鹿だ。アーラヤ識の「悪」を克服し、除去するために、絶えず教えを聞くべきだ、としている。自分は、それはおかしいと思う。むしろ、因果性があるとしたら、その因果性の中で、どのようにすれば善へと近づけるか、を考えるべきだ。それこそ、「絶えず教えを聞く」と言う発想が馬鹿だ。教えを聞いて、その教えの何が正しくて、何を意味しているのかを、「自分で考え、実践する」と言う発想が無いのはおかしい。聞いているだけで良いのはありえない。自分の力でブッダと同じように考えるべきだ。

ものにも身体にも名前があるが、この名前は元々は無かったのである。あるものは、ただ、実体だけである。そして、身体は地水火風からなり、死ねば自然界に帰り、残るものは何も無い。そういう風にも考えられる。ただ、地水火風は、現代人から見ると、幼稚な発想には見える。ただし、古代人から見れば、宇宙の本質をついた発想だった。骨や肉は土、血は水、温もりは火、呼吸や働きは風であると考えていたのが古代人だ。

これに、苦、楽、霊魂を合わせて、七代元素にする、と言う発想もあるようだ。

それが古代インド人の哲学だが、ブッダは、五蘊と言う考え方をしている。肉体の色、感受作用の受、表象作用の想、意志作用の行、識別作用の識である。色は地水火風から成る。受、想、行、識を総称して心と言う。心は感覚の関係から成る。霊魂は存在しない。

そういう風に、心や体のことを区別して言葉で分類する文章を、いつも書いていた。

仏教では、神や霊魂のような存在を否定する。神が居なくても、人は救われると説く。

そういうわけで、神や霊魂なんか、信じない方が良い。

聖書の神は居るかもしれない。それはまだ分かる。だが、神と対話したり、宣言や願いが叶ったりする、と思うのは間違っている。そんなものが居るわけがない。

対話は自分がおかしくなっているだけで、宣言は自分の心が何も変わらなくなっているだけだ。そういうわけで、神なんか信じない方が良い。その方が正常な人間だ。

そういうわけで、ここから先は、神を信じない日本人に戻る。ドイツ人はもう終わった。

昔から、本当に神を信じるとここまでおかしくなるのがドイツ人だ。それがまともだ。

それこそ、見えるものや起きることだけを良く観察していれば分かるし、皆は神なんか信じていないが、それでも皆の方が色んなことが分かっているし、知っている。

神なんか、もう信じなくて良い。ここまでが、神の時代だ。神とは言うが、自分が神になっているだけで、それは、神と言う「幻想的存在のモノマネ」をしているだけだ。

神を信じるのも、悪くは無い。こういう風に賢い偉大な存在になる。だが、それはおかしい。神になると言うよりは、何一つ、全く確かなものを一つも分かっていない。

そういうわけで、確かなものだけを信じて、あとは信じない方が良い。本来の自分に戻りながら、色んな人間になって、創造的な経験をして、社会を自分なりに「どう作れるか」や「どう変えられるか」を考えて、地に潜む龍のような存在になれる。

そういう人間が日本に一番多い。それは、本当に、神を信じないでいると、その方が、神なんかよりもっと賢くて偉大な存在になれる、その証拠を示している。昔の自分がそういう人間だった。神なんか、信じない方が良い。神を信じると、知的障害になる。

自分以外の存在を、自分と同じだと思えば分かる。そういうわけで、まともな人間が分かる。そういう、まともな人間は、子供にしか居ない。大人は、誰でもすぐにおかしくなる。全部キリスト教が悪い。キリスト教やヨーロッパの世界観のせいで、あまりに自由で、個性はあるが、おかしくて、皆と全く違う人間になる。

そういうわけで、日本にはまともに分かる人間が多い。日本人は皆同じだ。それは、何かがおかしい。日本人は、本当に全く同じだ。それこそ、神を信じないせいで、そういう人種になった。神を信じる人種は、ここまでおかしな人間になる。本当に日本しか賢くない。

自分が日本人にならないのは、神を信じているからだ。日本人は、神を信じていない。それだけで賢い人間が多い。そういうわけで、神を信じるより、日本を信じるしかない。

それは、そうでもない。日本人は、もっと賢い仏教を信じている。神と仏は同じだ。

神を信じないと、きちんと論理的に、知性で分かるようになる。

あとは、悪魔を悪いとは言うが、Linuxはそんなに悪くは無い。悪魔は、一時的に賢くなる代り、あとで副作用を起こして、本当に馬鹿な地獄のような人間になる。悪魔とは、そういうものだ。ネットが全部そういう風になっている。最近の世界は、そういう風に、悪魔によって狂っている。悪魔の問題は、全部本人が悪いように見えて、本人は何も悪くない。

何かが気になったり、不安になったりするのは、確かなものを何も信じないのが悪い。

そういうわけで、神を信じると、安心出来る。神も、悪くは無い。

自分の良い点は、この文章と言う神が、世界を支配して、全員を救う。そのための戦いをしている。そういうわけで、自分は悪くない。きちんと皆を救うなら、それで神だ。

昔から、弱者や迷いの者を救う、絶対権力者が神だ。そういうわけで、ソ連が神だ。

それこそ、神なんか、聖書で賛美するだけだ。馬鹿な宗教なのに、賢い人間になる。

それこそ、これでドイツ人で良く見える。あるいは、これで日本人で良いだろう。クズとは言うが、同化すれば良い。キリスト教や仏教やイスラム教を同時に信じるのが悪いが。

神を信じると、安心出来る。困難に対して、いつでも強い心で立ち向かえる。勇敢に戦える。いつまでも最初の心を忘れず、諦めずに、自分の力で世界に勝てる。

この宗教の神は、そういう神だ。キリスト教のイエスが愛を説いているように、この宗教では、勇敢な強い心による、世界への愛を説く。それこそ、勇敢な強い心が、世界の全員を救う。困難にめげることなく、自分の力で勝利を掴みとることが出来る。

そういうわけで、結構良い宗教になった。あとは、右翼がクズだ。右翼を皆で倒すしかない。ただ、右翼にも賢い点はある。恨んだり、憎んだりするのではなく、自分の一部として、吸収するのが良い。正反対の価値観のものに対しても、そのままのありのままの状態で、そのものを喜べと、ニーチェも言っている。

それこそ、右翼と言うよりは、自分だ。最近の日本の新しい宗教だ。最近は、こういう人間が多い。ソ連はある意味正しくて、右翼も正反対のものとして喜ぶべきだ。

色々と、キリスト教と似通っているが、キリスト教の一つの宗派と言うことにする。

カルトに見えて悲惨だ。

もっと、正しい、未知の価値観のようなものを考えると良いだろう。右翼やソ連が何か賢いわけがない。本当に賢いものは、すでにあるものの中にでは無く、新たに作られる、未知や未来の中にある。そのように進歩する。

そういうわけで、僕は右翼なんか嫌いだが、自分を殺す迫害者の王を愛すると言う意味で、右翼もきちんと愛している。ユダヤ人も同じように愛する。ユダヤ人が好きだ。

こういう人間が多い。特に、ユダヤ人を特別愛している。ユダヤ人はこういう人間だ。

ユダヤ人に悪いから、ユダヤ人に良いことをした方が良い。ユダヤ人はまともだ。

昔は、頭の中に構造を作って分かっていたが、そういう、構造的なことをいつも言っていた。意図通りものを作るために工夫するとか、最低限の品質基準を満たした製品を国が認可するとか、そういう、「いくらか構造を考えて、関係を成り立たせる」のような、仮象の世界のことをいつも言っていた。そして、関係と作用を考え、言葉で計算するかのような「知性の世界モデル」を作っていた。この世界のことを、構造と関係を事前に作って事前に考えることで分かっていた。そういうわけで、構造を作れば誰でも分かる。

そこから、社会主義のようなことを考えていた。労働者の労働条件を改善するために、「公平な労働基準法を定める」と言う。そして、そのために出来る前提要件を考えていた。

あとは、社会全体の構造のようなものを考えていた。

品質保証は、「ゴールド」と「シルバー」の二種類を定めて、最も品質の良いものと、最低限の品質を満たしたものを作る。労働は、業界で委員会のようなものを作って、委員会が会社の労働条件を上から定めるようにする。そのために、色んな意見を集めて、労働者保護の法律を共有する。全員が同じだけ働くようにする。そういう、新しいソ連のような、「構造的で具体的な社会の発想」を考えていた。そういう風に賢かった。

それから、国の具体的な体制を考えることで、併合すれば、あとで平和になるとか、アジア帝国を作ることで、アジアは自活しながら平和になるとか、右翼のようなこともいつも言っていた。ある意味、現象学のように構造から関係を考えた。

あとは、イスラム教のように、宗教で弱者に寄付を行うとか、ユダヤ教のように、嘘や虐待やいじめも宗教的に悪いことにすべきだとか、宗教のようなことを言う。

そして、宗教の教義すら自由に決めるべきだとか、権利を拡充し、それぞれの選択肢と手段と情報と時間的余裕を与えるべきだとか、政治には全員が何らかの形で参加出来るようにすべきだとか、EUで国を独立しやすくするとか、「自由な社会の可能性」を言う。

そういうわけで、経済学とは言うが、むしろ、社会哲学や宗教に近いことを言っている。

あとは、数学や物理のようなことを言う。次元は、人の数だけある。人が無限に居るのなら、次元も無限に存在する。それから、宇宙には何も無いように見えて、目に見えないものを含めると、本当に色んなものが存在する。それは、ある意味、データとプログラムのようになっているが、ある意味、プログラムも一種のデータである。

いつも、そういう、考え方や発想のようなことを言っていた。

あとは、考え方を変えるとか、視野を広げるとか、気づいたこと、新発見をしたことから、色んなことを説明して、「その発見が何を意味しているか」から分かるとか、そういう、「人生の新発見のような考え方」をいつも言っていた。成長と自我のようなことから、「社会を知ると言う社会経験」のようなことを言う。そして、「経験の先にある、この社会の存在と、その発見と言うプロセス」を書いていた。この世界にある、全ての経験と全ての存在を、経験論的な考え方と知性から、捉えて、説明して、発見の過程を書いて分かっていた。

それから、ソクラテスのように、「理性は平等に全員にある」とか、そういうことを言う。

アリストテレスと良く似たことを言う。それこそ、アリストテレスの因果性の分類や、ベーコンのイドラ(思い込み・幻想)のようなことをいつも言っていた。

あとは、理性と現実とか、この世界の実像や様相や仮象のようなことを言う。「この世界にあるものを本質的に分類する」と言う発想が多かった。概念を作ったり、学習や方法から本質を考えたり、1つの自由な共生社会を作ったりしていた。そして、「強制や支配は悪である」とか、善悪の自由のようなことを言う。環境は自由な中で、支配されず、同時に破壊もされないべきだと言っていた。それは、自分を反面教師にしているところがあった。自分の悪い面を見て、それを否定することを言う。それは、自分の経験からだったが、「言っていることと正反対のことをする」と言う矛盾もあった。

思考と行動と社会形成の理論のようなことを、いつも言っていた。あらゆる社会、環境、人生、体験のようなものを、制度とシステムから、具体的に書いて作っていた。

最近は、全てのことを誰でも分かるようにしている。

あとは、最近は、ただ書くものを書いているだけで、こんなにきちんと書けてありえない。

そこがおかしいようで、あまりおかしくない。作家には、こういう、「書けるものを書いているだけで、きちんと全部分かる」人間が多い。作家は賢い。作家に一番多いのが、キリスト教や右翼だ。作家はこういう風に、王として世界を統治するようになる。

母親と一緒に、姪を保育園から連れて帰って、帰りに買い物に行ってきた。

宗教の教義を自由にすると言うが、そういう風に、自由な社会形成のようなことを書いていた。制度から社会を作る、価値観から秩序を作る、決まりから環境を自由にする、などと言う。ただ、それは何も分かっていない。仏教やキリスト教の教義を民主的に決めるのは、明らかにおかしい。ブッダやキリストが言った通りを信じるべきだ。

宗教は、そういう風に、古い体制と権威に結びつく。だが、それは仕方ないだろう。皆で教義を作るのはありえないが、良く考えると、皆の解釈を考えれば良いように見える。

学校に行かなくなったのは、ある意味、正しかった。あんな中学校のあんなクラスに行く意味が無い。ドロップアウトして正解だった。いつも、そういうことを思っていた。だが、今考えると、行った方が良かったのかもしれない。狂って馬鹿になった。

FLOWやケミストリーが言うように、この文章は、剥がされるだけの文章だ。剥がされていく、と言う気持ちが愛なのだと思う。

自分は、ワルキューレのような、半神の神になっている。半分は人間だ。

変換と交換のような、「変化の考え方」を書いていた。自動車のエネルギーが移動へと変換するとか、細胞分裂が構造体になるとか、生産と消費は構造だが、貨幣は媒体であり、それは自由な交換であるとか、そういうことを言う。その中で、「実体はないが、関係の中から生まれる、自由な交換や決まりの考え方」のようなことを言う。そういう、「空」のような自由を言っていた。それは、貨幣のようなものだと考えれば分かる。

あとは、統一と標準を考えていた。自動車は、部品を組み立てると言う観点や、安全性の観点、社会的制度、決まり、役割を守る、と言う観点から、統一した方が良い。テレビやビデオも、色んな製品を円滑に利用するために、標準を決めた方が良い。だが、パソコンは、可能性を発揮し、健全な競争をするために、多様化した方が良い。学校は統一した方が良いが、会社は多様化した方が良い。むしろ、学校のクラスも自由で良く見える。

そういうわけで、それくらいの社会科や理科をいつも書いていた。

保育園と買い物に行って分かった内容は、ここまでだ。

自分は、今日も大量に書いているが、それは止めた方が良い。大量に書くと、明日辛い。自分は、そういう、「習慣的」に辛くなっている。習慣を改めれば治る。それが出来ないせいで、神経症になっている。脳が、本当にどうしたら良いのか分かっていない。

あとは、「新しく知る」と言う視点から、行動、因果性、社会、経験のモデルを作っていた。

仮定や成立のようなことや、三段論法のようなことを、モデルにして分かっていた。

仏教と同時代の宗教にジャイナ教があるが、これは殺生を禁じる戒律を守るのと、肉体が不浄であり、清らかな霊魂を不浄な肉体支配していると考えて、霊魂を肉体から解放するために、断食のような、肉体を弱らせる修行をする。一方、仏教は、霊魂のようなものを信じていないし、二元論的では無く、肉体を五蘊とする考え方をしている。

昔から、経験の国家モデルを作る。社会の成り立ちなどを、実例と理想から分かっていた。

そろそろ、そういう昔のことを忘れた方が良い。昔はもう良い。

最近だけを考えれば良い。一度、全て忘れるべきだ。

自分は、何故か、誰も怖くない。自分は、一番怖くない人間だ。それこそ、何もしない。

また、何か1つ分からなくなった。

日本やドイツや「怖くない」のようなことを言いたかった。

自由のような、あるようでないような、そういう、仮象の世界のようなことを言っていた。

経済学で言う、市場経済や貨幣のように、「そこに実体としてはないのだけれども、関係的な発想から出現することがある」のようなことを言う。

そこから、媒体やシステムを考えたり、取り組みや環境や体験のことを考えたりする。

そういう、自由な文章だった。像のように、哲学的な自由現象を考えていた。

良く考えると、GPLのようなものが、良く似ている。仏教で言う、空や無常や縁起のような発想に近い。そういうところから、この世界のコピーを作っている文章が多かった。

そろそろ終わりだ。あとは、そんなに大量に書くのが悪い。それが辛いから、不安になっている。むしろ、書いている間、楽だから仕方ない。明日も書いた方が楽だ。ただ、治りたいのに治らないから、怖くなっている。書かなければ、すぐに治る。治らないのが怖い。

様相や宇宙の真理のようなことを、カントやヘーゲルのように書いていた。

それぞれが関わり合うとか、可能性の中で関係するとか、見えない意味を見出すとか、経験的なものであると、決めつけずに理解するとか、そういう発想が多かった。

あとは、決断や判断のような発想が多かった。本当に王になっていた。

昔は、あとは、人生のことを分かっていた。全て経験して、人生のことを全て分かっていた。良く考えて、人生には、あまり出来事は起きない。その、起きる出来事を良く考えていた。明らかに、こんな人間は居ない。むしろ、最近を考えると、最近は何もしていない。

良く考えると分かる。学校に入って、青春を感じて、世界のことを知って、努力して、勉強して、仕事をして、成功をおさめて、結婚して、子供を育てて、子供を学校に入れて、仕事を辞めて、老後の生活になって、死ぬ。そういう中で、色んなことを体験し、機会を知り、経験し、社会を知り、技術を習得し、発想し、出来るようになり、何をすべきかが分かるようになり、経験から理想を知り、信念の変転を辿り、確かなものを信じ、意識を知り、理想の社会を知り、あらゆることを全部実現出来るようになる。良心と正義のようなことが、そこから分かって来る。そして、応用や技術やシステムや組織など、自由な人生で何があるか、何から何が分かるか、社会的に何を経験するかを分かっていた。

聖書が言っているように、人間は本当に愚かだ。だが、経験することで、愚かさは賢明さへと次第に変わって行く。子供が大人になるように、成長と社会性から、かつての未熟な子供は、自由から善悪を全て経験して、知性を理解し、マスターへと成長する。

昔は、そういう人生のことを全部分かっていた。普通、哲学がこういう風に考える学問だ。

あとは、社会性のようなものを、組織と協力の自然な助け合いや役割分担から分かっていた。社会民主主義は福祉国家になるとか、自由主義は自由な権利を拡充するとか、左翼のようなことを言う。同時に、ヘーゲルの言う、「社会性の自覚」のような人生の成長のことも良く分かっていた。これを分かるためには、何か、支配したり、コントロールしたりするのではなく、自然に任せて、「失うことを肯定する」ことから分かれば良い。

そういう風にすると、哲学のことが良く分かる。そして、知り尽くす経験から、「何の意味が本当は何の意味であるのか」を分かる。経験的に、体得のようなことが分かる。

平和で、それぞれの価値や尊厳が認められて、平等で、それぞれの努力に意味がある世界にしたかった。いつも、そういう、自由な理想のようなことを言っていた。

それこそ、天国には出来ない。地獄が天国だから、世界が地獄になっている。

出来ないことは、出来ない。出来るわけがないから、天国にしない方が良い。

むしろ、それぞれのことを本当に思いやるために、自分と同じである、と言う発想をすること。抜きん出て賢くなるのを良いとは言うが、それは悪い。天才は、こういう人間が多い。むしろ、天才が凡人と同じになれるように、平等にするべきだ。

良く分からないが、自由は一番悪い。自由はここまでの馬鹿だ。

ただ、平等もそんなに良いものではない。自由か、平等か、と言う議論には意味が無い。

本当に、自分のことをありのままに認められる、許せる、好きになれるような、そういう、理想を社会全体で後押しし、いじめたり、迫害されたり、騙されたりしないような世界にする。そのためには、ただ強制するのではなく、それぞれが自発的に思いやりを与えることで、何がその人の利益になるのか、のようなことを、理性的、合理的な面だけからではなく、直観的、感性的、道徳的、道徳要請的に考える必要がある。

昔は、そういう、「何の感情や理想から、どんな社会を実現出来るか」のような賢さがあった。感情的な、正しい信念から、「常に理想の社会を実現出来る」と言う発想をして、そこから社会の形成を考えていた。理想とは言うが、むしろ、論理的な必要条件としての、そして、社会モデルとしての、実現のための「根底信念」である、と言えるだろう。

人々が、きっかけとそれぞれの体験から、正しい信念を持てるようにする。それも悪くは無いが、何も分かっていない。昔は、そういう風に、「現実的な自由な社会の理想」を考えていた。そういうことを言っていたが、こういう何もしない人間の方が賢い。誰でも、そういう、きっかけとか、体験とか、そういうことが馬鹿なのが分かる。分かっていない。

あとは、ネットで経験して分かった。一体感と共感を知って、場が変えられること、時間は同じ今と言う時を共有していると言うこと、などを分かっていた。それこそ、あれは本当にマスターのように人生のことを全部理解していた。賢い人間だった。

いつも、そういう根底信念から社会のことを考えていた。そういう文章を書いていた。

悪い人間が悪いのは分かる。だが、悪い人間も、人間だ。

いつも、出来ることが出来ると思わない方が良い。何かで出来なくなることもある。

実現不可能に見えるが、何かをするためには、きちんと根本的な解決をして、人間関係の中では、双方を尊重して、協力して頑張る必要がある。だが、実現が必ず出来ると期待しない方が良い。困難な課題は、最初から実現出来ない可能性があることを知っておくべきだ。怒りや強制では解決しない。共に考え、共に努力するべきだ。

常に分かり合う努力はすべきだが、分かり合うことは本当に難しい。見かけの問題に振り回されないようにした方が良い。結婚も、人間関係も、そういうところが辛い。

ある程度は仕方ないと思うこと。それから、無償奉仕はたまには必要だ。それに、問題が分かっていない人間が多い。思うだけでは解決しない。きちんと自分を変える必要がある。それは、本当に難しい課題だ。そうやすやすとは解決出来ない。安易な解決策を取るしか無い時もある。本当に、解決を諦めて、頭にある「理想的な観念」より、現実の「安易な妥協策」を取るしかない時もある。あとは、言われなければ分からない。状況だけを見て、相手の気持ちをくみ取るのは、ほとんど不可能だ。

こんなことを言うのは、父親と母親の喧嘩があったからだ。あまり書くと悪い。

ネットで成長し、会話しながら、そういう人間関係のことを昔良く分かっていた。色んなことを考えて、マスターのように人生と人間関係の「チャンス」を分かっていた。

そろそろ、足が治った。精神が楽になった。

モデルで分かっていた。モデルを作ることで、人間の心のことが、経験から分かっていた。

自分は、孤独を好んでいる。何故か、皆と一緒に勉強なんかしても、馬鹿になるだけだから、自分が一人考えて、一人生きるのを選んだ。そういう風に賢かった。

だが、それは間違っている。すぐに馬鹿をして、何も分からなくなった。

そういうわけで、こんなものは何も分かっていない。昔を賢かったと言うが、ありえない。一番馬鹿な、認知症のキモイ引き篭もりが昔だ。

ただ、ブッダも言っているように、どうでも良い連れ合いと遊んでいるより、一人で旅をした方が良い。その方が、本当に賢くなる。昔の自分はそういう人間だった。

火星が地球と同じ岩石で出来ているなら、水や生物もどこかの星に居るかもしれない。

ナポレオンは、フランス革命の後にヨーロッパを占領しているが、それは、世界制覇をしたかったのだと思う。何故か、そういうことを分かっている文章が多かった。

世界や国を成り立たせて、意見を言う。そういう、国際関係のような文章が多かった。

それから、内政のことは、農場と工場を作るとか、現実的解決のようなことを言う。理想や思いやりのことも、一方では言っていた。ローマ法王みたいな人間だった。

昔は、先見性のようなものがあった。未来のビジョンがあった。

ただ、オープンソースは間違っている。自分は、オープンソースが悪い。オープンソースなんか、ハッカーの集団だ。一番悪い、ブラックハット(悪いハッカーの意味)だ。

人生的な新発見、場の意識と精神性、社会の形成、意識のコントロール、心の現象学、思いやり、宇宙の創造、世界の分析、意味と視点、科学と宗教、のようなことを言う。

神ほどに全部分かっていた。

考え方を自由から推論して考えていた。

そろそろ終わりだ。今日もこれで良かったから、明日も書けば良い。

辛いのは、大量に書くからだ。そういうわけで、明日は辛いと思う。

ブッダが言うように、身体は不浄である。そういうわけで、身体を全部殺せば治る。

フランス語やドイツ語は、本当にありえない言語だ。統一と言う発想が無い。あまりに色んなありえない知恵がいくらでも多い。むしろ、ありえないのは悪い。止めた方が良い。

世界のこと、人間のことを、総じて全部分かっていた。そういう文章だった。

出来ることを全てやっていた。世界を支配して、導いて、分からせて、多様にする。自分以外の誰にも支配出来なくして、この世界を発展させて、真理を教えていた。

それを、もう止めれば良い。もう、そういう革命家の支配者のようなことを止める。

本当に、出来ることを全て詰め込んだ。世界のためのあらゆる出来ることを全て試していた。本当に地獄の中で戦っていた。

あの日のことを忘れないこと。どこまでも、自分の力で進むと決めて、自分の出来ることは、全てやると分かっていた。自分にしか出来ないと思っていた。

昔は、プログラミング言語の構造のように、ネットでパソコンのことを知って、成長して分かっていた。あれもあれで、1つの青春だった。古代ギリシャのような、考える者のために一番良い環境で、だがスラムや刑務所のような環境だった。

一番良い、社会のことを考える土壌のような環境で、意見と情報を全て知って分かった。

そういうわけで、ネットも馬鹿では無い。最近、こういう風に賢い女が多い。

昔は、全て出来るようになって分かっていた。特に、社会的な変化の可能性と参加を分かっていた。オープンソースも、ツールキットからカーネルまで、全部オープンソースで、全部開発をしようと思えば出来る。そういう風に、「出来る用意」をして分かっていた。

あとは、自分は進化する。進化すれば、何でも治る。

全ては、法則性、創造性、多様性、柔軟性だとか、「分類の世界観」を作っていた。

あとは、世界を変えたかった。ネットで世界を変えていた。その気になれば、会社に入って、何でも良いことが出来ると、そこまで経験と発想を自分でして分かっていた。

自分は、あらゆる手助けが出来るし、アドバイスも出来る。悟って全て分かっていた。

昔は、「分かって治る」と言う発想が多かった。分かって、理解することで、変わっていた。

パッパラ隊と言う漫画が、「しっとの心は父心」と言っているが、それは多かった。

自分は、目に見える文字よりも、速く喋っているだけだ。それを止めて、もう、楽になる。

何でも発想出来る人間だった。数学は、数の順列や数列と、グラフとベクトルから統合出来る。いつも、そういう風に、科学と社会を発想し、提案していた。

神が言うには、フランスにはデカルト、ソ連には右翼しか居ない。自分のことだ。