日記に戻る | 2015年7月の日記に戻る

=2015-07-12=

いつどうすれば良いか、考えて、心のことを分かった。

裏の構造が分かっていた。

賢明になればなるほど、欲や驕りは無くなる。

安心すれば治る。あとは、楽をすれば良い。

止まると治る。それは、分かるだけで、しなくて良い。当たり前のことが分かっていない。

心のことは、全部分かっていた。神みたいな経験があった。理性と体験で分かった。

安心して、止まればまともになる。

むしろ、安心して動けば良い。

辛いまま放っておけば治る。

足を違うように使う。

生かすより、殺して治る。

定義や歴史を書いていた。

もう足は治った。

なれば良い。足はなる部分だ。何にもならないのがおかしい。

色んなものになるのが普通だ。感情で分かる。英語も分かる。

昔は、何にでもなれるという発想が多かった。全部になれるようになった。

何にでもなる文章が多かった。

判断で理解の箱を全部作っていた。

その通り理解して分かる文章だった。

場、制度、プラットフォーム、普遍性のようなことを言っていた。

安心してなると、反応が分かる。黙っていれば良い。

普通、いくらでも反応する。頭は反応したいだけだ。

それが対話になった。

昔は、反応を考えていただけだ。適応と予測を分かった。

あとは、反応の心理学を作っていた。精神分析をした。ビジョンのようなものもあった。

反応を考えれば治る。違ったようにすれば良い。

あとは、記憶を中心に心と行動を分かっていた。

経験から心と行動を分かっていた。

予測して考えれば治る。一度無になれば良い。

心は、体験を予測して分かっていた。

分かる可能性のようなものを考えていた。

体験を作って、場の意識を考えて、人間の可能性を考えていた。

サルトルが、実存は本質に先立つと言うように、人間の可能性を考えていた。

人間がいかにしてそれになるかを考えていた。

グーグルには、金がある。資本主義では、金があるものが強い。

もうこの文章を書くのは終わりにする。意味が無いし、辛い。

人間の可能性のようなものを考える文章が一番多かった。

もう終わりだ。十分だ。それで全部だ。

誰でも、サルトルと同じになれば、人間が全部分かる。最近は、そういう人間だ。

精神分析で、状態と反応と「なる」を考えた。書いて判断して、精神を作った。その作った精神が、そのまま神になった。虫から女になった。

書くのが怖いのがおかしい。それで、楽が怖くなった。書くのは怖くない。

この文章が書けるのは、単純に、怖いからだ。怖いから出来るだけだ。

書くのが怖くなくなると、もう安心出来る。書かない方が悪い。怖くなって辛くなる。

心を減らせば治る。

吸収した人間を全部出せば良い。

もう何もしない。何もしなければ治る。

人間の自由と行動を捉えて、全体の構造と決まりを考えた。

色んな自由な段階を考えた。制限の無い、選択出来る、普遍的な感性の自由だった。

もう終わった。もう何もしない。何もしなければ、楽になる。

そろそろ、全部死んで行く。もう楽になって死んで行く。

自由が怖いだけだ。自由を忘れれば良い。誰かが自由なことを自分に対してするのが怖い。されるのが怖くなった。そういう理由で、自由が無くなった。皆の自由を無くした。

いつも、自由が分かっていた。皆が何をするか、何を思うか、色んな自由な経験から全て分かっていた。だが、ただ馬鹿だっただけだ。

自由なんか、子供の学校とネットにしかない。自由は一番悪い。

自由は悪い。昔は、自由な人間活動と行動が全部分かっていた。そのせいで怖くなった。

自由なんか、要らない。

ただ、自由を良く考えて、制限を取り払うと、それで哲学が出来る。

経験から人間の活動が分かって、自由が分かる。

サルトルは、オープンソースをやっていると、誰でも分かる。

それで終わりだ。自由は悪い。もう怖くなくなる。

怖くなって自閉症のようになる馬鹿が自由だ。本当に、死ぬほど怖かった。

哲学とは言うが、作る自由や変えられる自由、議論する自由が正しいと思っただけだ。

哲学的に見て、自由はただの馬鹿だ。

自由は実を育てるための、社会の状態のようなもので、努力と行動と知見が備わっていないと、意味が無い。サルトルは、自由を刑だと言っている。自由な中で、人はさまよい、何も分からず、選択の強制によって苦しんでいる。

だが、良く考えると、自由は良いものだと言える。そういう人間が昔の自分だ。

可能性のようなものはあるべきだが、それは自由とは関係ない。

自由が無い自由、と言う発想もある。共同体で皆で決める社会を作ることも自由だ。

今日は、サルトルの日だ。むしろ、明日も書いた方が良い。書くのと自由が怖いだけで、何も怖くない。それで、不安は無くなる。楽になる。自由な経験を信じるのが悪い。

場があって、そこに何らかの可能性がある。それは、自由と言うよりは、知見である。知見のある世界では、支配者と国民が賢くなって、賢い社会を作る。そのための手段と実現は、全部考えて知って分かることが出来る。自由は、いずれ、何でも出来るようになる。

昔の自由は、世界のことを何でも実現出来る、何でも出来る自由だった。

それを分かった経緯も、経験と、推論と実験による理性と言う、自由な方法だった。

自由なんか、嫌いだ。本当に、自由なんか要らない。もっと楽になりたい。自由は辛い。

サルトルは参加を束縛と言うが、それは正しい。だが、参加のようなことを、意識と適応を考えて、全部捉えれば分かることもある。昔は、そういう、束縛を全部吸収して分かる人間だった。

自由とは、出来ることを増やすことだ。そういう、自由な制限を、環境とともに、手段や機会によって分かっていた。手段を与え、知る機会を与え、出来ることを増やし、環境を皆の手で変える。そういう、自由にする可能性を考えて分かる人間だった。

今見ると、ただの子供に見えるが、成長が爆発的に多い子供だった。

人間を知る機会と考えて、思考と精神を作って捉えて考えると、人間の可能性が分かる。

そういう風に、全て分かった。あらゆることがきちんと分かって、しかも分かりやすく理解出来て、皆に教えられる、頭の良い、賢い人間だった。人を導いて分からせていた。

あとは、状況における対処のような、知性の考え方で分かっていた。

当たり前のことから推論して分かった。

ハイデガーのように、意識と関心を存在である、とするのは良く分かる。

だが、むしろ、宇宙は異次元まであって、存在はどこまでも無意識の中に続いていく、と考えるべきだと思う。おかしな存在も、確かに存在している。意識の中だけではない。

経緯を分かっていた。経緯を考えて、可能性を高めていた。これも、サルトルのようなことを言いたかった。自由な経緯であるべきだ、それぞれは自由であるべきだ、と言う。

だが、自由なんか、ただ辛いだけだ。自由の無い環境の方が、楽だし、分かる量は明らかに、ネットより大学の方が多い。最近、ネットが賢いせいで、自由が良いと言う人間が多い。おかしくは無い。自由なコミュニティの提供によって、孤独な人間や、抑圧や迫害の中に居る人間を救っている。自由な場はあった方が良い。自由は、現代人の救いだ。

だが、自由が一番そういう馬鹿だ。迫害に迫害を重ねるだけの、右翼が自由だ。

そういうわけで、2ちゃんねるの右翼は、一番悲惨な集団だから、見ない方が良い。

人間のことを良く考えれば分かる。価値観から分かることもあれば、可能性から分かることもある。昔は、自分が出来る、変えられる、から分かっていた。何故か、悪魔のように、人間のことを何でも変えられ、支配出来る人間だった。

人生の解決策や、哲学的な知恵のようなものや、実体験による人生経験みたいなものがあった。人間のことは、完全に分かっていたが、全てネットだった。何もかも間違っていた。そういう、間違った考え方を、神が治した。全て治って、この文章で分かるようになった。ただ、キリストが賢いだけだ。キリスト教を信じると、このように、何でも出来る偉大な人間になる。誰でもこういう風に出来るから、悲惨な人間にしかならない。

本当に人間のことを完全に分かっていた。実体験と根拠の理性と心から分かった。

経験と理性で分かったのは、思い出して分かっていた。思い出して、環境と人間がどのようになって、環境がどのように変わるか、意識がどう出来るか、などを分かった。

影響力から、人が自然になるとか、自然に任せることで自由になるとか、分かっていた。

許してやると、良くなる。助け合いは、再構築出来る。そういう自由だった。

あとは、断言して、分からなくして分かる、分かった人間が多かった。

考え方とは、平和、自由、言論、存在の、実現、助け合い、関わり合いである。

理性とは、考え方、自然、相対的な場と決まりと人間像による、理解と精神である。

全ては、変えられ、実現出来、移り変わる。

1つ1つの細かい点にも、注意を配ること。

どれだけ自由にするかによって、その制限と自由度は変わってくる。それによって、世界全体の限界値が変わってくる。自由な中で分かることは、世界の中の一部である。

そういう風に、理性的に考えれば分かる。もっと、分かった人間が本当に多かった。

あとは、言論の自由や組織への参加などから、本当に自由な人生を生きること、与えること、教えること、辿ることは、一体何なのか、どのように出来るのか、を考えた。

これで、いつも言っている内容が良く分かる。

思考を辿るとは、そこまで人間を吸収する、世界観のことを言っている。

もうそろそろ終わりにしたいが、そうでもない。もっと続けた方が良い。まだ分かる。まだ、何も書いていない。

適応とは、世界構造を作って、皆のことを理解する、精神のようなことを言いたかった。

こういう風に分かると、それで終わりだ。やる意味が無いから、やらなくて良い。そういうわけで、そんなに害はないのが、この文章だ。感情で分かるようになる。

こんな文章を真面目に頑張るのがありえない。本当に何もしていないから、本気で考えている。適当にこなしながら、本気で努力している。そういう馬鹿が、今の自分だ。

森羅万象を、基盤的に考えれば良い。

調和、誇り、潜在性のように、ただ普通に考えれば良い。

普通、支配や反抗が悪い。自由に何かのために従うのは、良い人間が多い。

ロシアはおかしい。盲信的に従うだけの馬鹿な国になっている。

自分を本当にすると、やみつきになる代わり、悲惨な人間になる。

多様な場を作った方が良い。多様な環境から何か分かるように見える。

自分が勝つと、皆何も出来なくなる。しても意味が無くなる。

悪いことはすべきではないが、もっとそれぞれが出来る、自由な社会にした方が良い。

最近のWindowsを見ていると、マイクロソフトはおかしい。狂っている。

最初から勝つことを約束された、意味の無い会社と製品だから、仕方ない。

LinuxやGNUも、それはそれで馬鹿だ。最初から負けることが決まっている。悲惨に、それは、その方が賢い製品になる。Linuxは賢くなった。

Linuxの問題は、普通、あれは動かないのを頑張って動かすのが面白いのに、最近、何をしなくても勝手に動く。使う意味が無いから、誰も何もしない。意味の無いものになった。

神は、大学は3年で出来て、馬鹿が治ると言っていた。この文章のことを言っているようで、そうでもない。放送大学を今からやるのを言っている。

LinuxとGoogleがつるむのは、おかしくない。敵の敵は味方だ。人間を機械と一緒くたにするのはキモイが、Googleが勝つしかないだろう。それで終わりだ。

日本が作った方が良いとは言うが、OSなんか誰も作れない。

コンパイラだけで一年かかる。作れるわけがない。

調和や誇りは良いと言うし、潜在性は自由だ。そういうものを、適当に考えれば良い。

森羅万象のことを、決まりと基盤から考えていた。相対的で、どのようになるか、どれだけそうなるか、いかにして対象がその対象になるか、人間やものになるか、のようなことを考えていた。どうやってそれをするか、いつどのように出来るか考えた。

いつ何が分かるかが分かっていた。神のようで、悪魔のような考え方だった。

大学をした方が良いとは言うが、日本語すら分かっていない。最近、まともに本も読めるようになってきたから、そのうち出来る。そういう、賢い馬鹿は、治る。

マイクロソフトを馬鹿とは言うが、本当に強い。最初から勝つ。負けることを知らない。そのせいで、馬鹿になっている。キモイ会社になった。

Linuxなんか、普通、工業大学の学生がUNIXを学ぶために使う。他のことには使えない。ビジネスで使うのはありえない。色んな制約から、標準的にワードしか使えない。

Linuxも悪くは無い。2ちゃんねるの僕が書いた文章を見ると、システムが分かる。使えないようで、きちんと分かって使うと、いくらか楽しい。だが、意味が無いと思う。

工業大学の学生が使うとは言うが、姉が見ても、Javaは普通Windowsで使う。Linuxは姉が見ても馬鹿だから止めた方が良い。要は、自分に出来るものが他になかった。まさに自由だ。使うのは、本当にカーネルやコンパイラがオープンソースな条件が必要なところで使う。Javaの研究をするのに使うとは言うが、誰でもWindowsが標準だ。

人工知能で使ったりするように見える。IBMは、スパコンに使っている。低コストで高性能なスパコンが作れる。どうでも良いから、Linuxは好きにならなくて良い。好きなのは、自分だけで良い。当たり前だ。

サーバーに使うと言うが、最近はWindowsも安定しているせいで、WindowsでASPを使うことの方が多い。姉がいつもそういうものを開発している。

IBMを賢いとは言うが、何百人体制で、莫大な金と時間をかけて作るだけだ。

Linuxは悪くない。開発体制が自由だ。オープンだ。悪くは無いが、キモイ点が多い。

特に、GPL汚染がキモイ。オープンにするなら、勝手に欲しいまま、パブリックドメインにすべきだ、と言う人間が多い。Linuxが好きな人間にも、GPLが嫌いな人間が多い。

ただ、永遠にオープンソースにするために仕方ない。

そういう、キモイOSだ。中身は賢いとは言うが、明らかに、本当に負けている。技術的には、ただUNIXをパクっただけだ。パクることしか出来ない、日本のようなOSだ。

放送大学には、情報コースと言うものがある。他のコースでも、科目は自由に学べるが、情報コースは、コンピュータやプログラミングのことを教えている。やった方が良い。それでOSが普通に開発出来るようになる。念願の夢が叶う。あとは、姉に教われば良い。

放送大学は自由な大学だから、自分が選んでいるのではない、他のコースの科目も、学ぼうと思えば好きなだけ学ぶことが出来る。

情報コースは最近出来た。ソフトウェアからハードウェア、基本から応用まで、色んなことを教えている。工業大学ほど賢くは無いが、それでもやれば良い。

Linuxは、よってたかって開発した、バザール開発と言う開発体制が革新的なだけで、技術的には、古くからあるUNIXだ。安定はしている。工業大学の学生なら、誰でも作れる。本当に誰でも作れるように見えるから、馬鹿なものにしか見えない。Windowsは難しい。

ただ、Windowsなんかただの馬鹿だ。DOSにMacのパクリを乗せただけだ。安定なんかしていない。Appleよりは安定している。それくらいの馬鹿だ。

全部実体験で分かっていた。

大学は、馬鹿だから止めた方が良い。本当に何も分かっていない。

大学なんか、概略を見ているだけだ。本当に研究している人間は、もっと違うことをやっている。本を読んだ方が賢い。

そういうわけで、本を読むときちんと分かる。自分が一番きちんと分かっている。

大学もおかしくは無い。概略を見ているだけなのは、基礎の講義だ。専門的な講義になると、研究内容が高度になってくる。ただ、賢くは無い。普通のことをやっているだけだ。

一度、今までの知識を捨てて、ゼロから考えれば分かる。

ものと空間があるだけだ。

FLOWも言っているように、あふれた情報の中で、自分の眼で世界を見極めることを止めてしまっただけだ。もっと、ゼロから、何も無いところから考えるべきだ。

総じて見るようなことを言っていた。実現とは、全体像を見ることだ。

大学は、止めた方が良い。本を読めば良い。

ただ、大学と本は矛盾しない。本を読みながら大学をすれば良い。

大学は、研究機関だ。最初から、それぞれが己の賢さで研究することを目指している。授業では、何も教えていない。知識は教えているが、道案内をしているだけだ。

そうでもない。大学は、普通、全てのことを教える。賢い機関のはずだが、あまり賢くない。概要しか教えていないのは、専門的で高度な授業でも同じだ。

本を読めば良い。そうすると、それでプログラミングなんか誰でも出来る。大学で出来るはずがない。大学の情報は、自分の作った人工知能のようなプログラムを作る人間が多い。

大学の研究なんか、いつもこの文章と本でやっている。自分が一番大学に見える。

昔のLinuxの調査研究が、大学と全く同じだ。むしろ、会社なんか同じだ。

会社では、大学しかしない。大卒を雇うのは、大学と同じ会社だからだ。

最近の経済や哲学は、もう作家になっている。賢い作家になった。

そういうわけで、これ以上は、本をもっと読めば良い。

そうでもない。哲学はもう知り終えた。もっと歴史をやれば良い。

そんなに読まなくて良い。もう読んだ。全部正しく分かっているから、賢い。

本を読めば良い。それに、勉強は悪い。勉強と思わずにした方が良い。

昔のUNIXと同じと思えば、出来る。大学には、そういう、やりながら分かっている人間が多い。自分と何も変わらない。自分は、哲学者の詩人だ。

概略とは言わない。基礎を教え、研究する。

大学には、いくらでも本を読んでいる人間が多い。辛い人間が多い。

父親の物理の本がたくさんあるが、あれを本当に全部読んでいる。

辛いから、しなくて良い。大学は、誰もが一番辛い。

もっと本を読めば良い。不思議と、大学なんか誰でも簡単に出来る。すでに全部読んで知っている人間が一番多い。大学の知識が欲しいなら、本をあたることだ。

環境の必然性を良く分かっていた。

大学が有用だと思うなら、すれば良い。基礎をざっと全て知るのには有用だ。

この世界のことを色々と分かると、良く分かる。だが、馬鹿しか居ない。

2ちゃんねるのクズから、マイクロソフトの社員まで、全部馬鹿だ。

哲学者すら馬鹿だ。つまらない世界だが、馬鹿に分かる人間が多い。本当に馬鹿が賢いのが良く分かる。馬鹿は、良く考えれば賢くなる。無明や煩悩で無い馬鹿が多いからだ。

社会と環境の必然性から、推論、証明、解決をした。

昔は、色んなことが分かる人間だった。

大学は賢くない。本当に、放送大学が賢いわけがないから、悪い。

いや、結構、放送大学も、賢いものだ。きちんと基礎が分かる。それこそ、知識を知りたい中高年に教えているから、自然と、大人向けの基礎の知識が全部分かる授業になる。馬鹿が治る。放送大学は、悪くない。

わたしの哲学入門に、語学習得の道が書いてあった。毎日単語を書いて、文法を覚えて、何時間も勉強して、何か月もかけてやるのが語学だ。出来なく見えて、そこが出来ないと、何も出来ない。

サンドイッチメソッドは、あまり効果が無かった。そういう風に、毎日猛勉強すれば、語学は出来る。それをするのが良い。

哲学なんか、もう終わったから、しなくて良い。歴史をするとは言うが、全く出来るように見えない。語学が良い。この著者の人のギリシャ語やラテン語と同じように、繰り返し単語を覚えれば良い。

そういうわけで、単語を書けば良いのが分かっていない。ユメタンをやれば良いだけだ。

毎日何時間もすれば良い。何か月もかかって出来る。勉強はそういうものだ。

昔は、数学的な体得や、知識や考え方のようなものもあった。それが、相対的な関係を考えていただけだ。

英語をやるのが良い。毎日8時間勉強して、3か月はかかる。この著者の人は、英語、ドイツ語、フランス語、ラテン語、ギリシャ語をきちんと読めるようになった。ハイデガーの存在と時間などの哲学書を、ドイツ語で読んでいる。大学は、賢い。

意味を良く考えれば良い。自由なら、それは自由だ。出来るなら、それは出来る。

そこから、社会全体を、自由な構造にすることが出来る。そこでは、関係を考えられる。

あとは、歴史や場の意識のようなものを考えていた。

そろそろ、そういう、馬鹿すぎる昔は、忘れた方が良い。

賢く全部分かったのは、善のイデアを信じていたからだ。まさに、ありえない。

英語の勉強をした方が良い。何か書けば良い。難しくは無い。努力すれば楽になる。

計画的に努力すれば良い。毎日、4時間ぐらいで、何週間かすれば、ユメタンは出来る。

自分は、自由な代わり、そういうところが出来ない人間だ。

神を信じると、こういう人間になる。永遠の地獄になって、馬鹿になって分かる。

神が馬鹿だから、そうなる。神になっているだけだ。神から見て、戦う王が賢い。

神をもう止める。神の言っていることをまだ覚えている。もう忘れるべきだ。

勉強したい。英語と歴史の勉強で良い。何もしていないからだ。

出来ないかもしれないが、やってみることだ。当たって砕けろ、だ。

社会の同じと違うのようなものをいつも書いていた。

人間には、同じものも、違うものも居ない。

グーグルはおかしくない。みんな違うから世界は楽しい。

学校を見ていると、そういう風になる。

皆と比べてどうか、なんて意味が無い。解答は人それぞれ違う。

そういう風に考えれば自由だ。自由な方が良い。

神は忘れた方が良い。

神を信じると、何も無くなって、虚無のようになる。神が一番辛い。

神は、昔から、そういう、ドイツのキリスト教の神だ。

昔は、分かっていたから簡単に覚えられた。想像力もあった。

今は、何も覚えなくなって、馬鹿になっている。知性が無くなっている。

今、ユメタンを書いている。1つの単語を3回書いて、発音して、25単語書いた。それくらいで休めば良い。まだ30分ぐらいしかしていない。もっと頑張りたい。

昔は、あとは、実践や行動のようなことを分かっていた。

今日は終わりで良い。25単語書いた。明日も続けば良いと思う。きちんと覚えられたかどうか、不安も残るが、続ければ良いし、何度も何度も繰り返せば良い。反復が大事だ。

母親と一緒に、歴史の本の音読をした。

頭を使わないと、賢くならない。これで日本語が分かるようになる。

経験から意識で分かっている。ここまでの人生で分かるから、賢いのが自分だ。

そういう賢いを、もう止めた方が良い。

経験は、信じてはならない。経験を、疑い、批判しなければ、何も分からない。

それだけで分かる。それも、経験も経験で因果性がある。

そういう風に信じないと分からない。経験だけは信じてはならない。

古代の神話を考えてみると良い。ロキやフレイなんか、居るわけがない。

あとは、経験から分かるところも確かにある。

経験は、上手く使うことで、全てを枯らす毒にもなれば、全てを悟る愛にもなり得る。

だが、単純に言って、経験は信じるべきではない。

ベーコンの言う、帰納は悪くは無いが、もっと理性的に帰納を分かるべきだ。

観察や実験のようなものは、何も分かっていない。もっと、正しい宇宙の姿が、どこかにある。異次元にある。それを普通、イデアと言う。

昔から、今まで、何も変わっていない。経験を信じない人間が賢いだけだ。

神なんか居ない。神と言っている馬鹿は、馬鹿を言っている。

文献なんか信じなくて良い。地球の現象は、数学でしか分からない。地球の現象なんか、信じなくて良い。人間なんか、何も分かっていない。哲学者は、そういう人間が多い。

そういう、理性的な視点から自己と認識を考えると、人間のことが良く分かる。

もちろん、デカルトやカントのようなことを言っている。

経験論なんか、経験を信じない方が分かる。

経験は、信じない方が良い。それだけで賢いことが全部分かる。

経験なんか、自分がそうなっただけだ。他もそうなるとは限らない。

そういう発想が、悪魔だ。経験とは、悪魔のささやきだ。

ヒュームもヒュームで、経験が分からないだけだ。

ただ、そういう合理主義の人間が、良く考えて経験するのは、あまり悪くない。

ネットで、人間や社会のことを経験して分かったのは、悪くない。

だが、そこでも、経験が悪魔なのが分かっていない。2ちゃんねるが普通の人間や社会のはずがないし、オブジェクト指向なんか、ネットは何も分かっていない。

そういうわけで、デカルトのように、経験は全て疑ってかかるしかない。

つまり、経験を否定することで、おかしな認知症状は治る。全て経験が悪い。

昔は、経験のような観念を理性的に考えて分かった。確かにそうだった。

だが、自分の体験は、自分だけの、それも今の自分だけ、そして今のこの世界だけの体験であることは、分かっていた方が良い。

それが分かると良く分かる。歴史のことや地球のことが、存在や時間と言う単位で見えて来る。デカルトからハイデガーまで、どれも同じだ。哲学者は、経験を疑うだけだ。

そろそろ哲学も出来たように見える。デーブは終わりだ。歴史と哲学はきちんと出来たのが自分の大学だ。もっと本を読みたいなら、読めば良い。良く考えて、目的から本を選んで読めば良い。

目的や手段のようなことを考えると良く分かる。応用や共有が分かる。共通の認識のようなことも分かる。体得や無限性、段階的な知と法則のようなことも分かる。

もっと考えると、知の属性や因果性のようなことが分かって来る。きちんと思考すれば分かるものだ。

あまり、そんなに言い過ぎるべきではない。昔なんか、それで経験がいくらでも、いくらでも多かっただけだ。経験は、過度や極端ではないならば、すべきだ。

最近は、おかしなキリストのような体験をした。本当に、神のような人生体験をした。それも、1つではなく、いくらでもした。自分が一番良かった。神は、そういう風に、キリストのような人間像で、宇宙に1人居る。本当に居るかは分からない。キリスト教は、それを作って分かっただけの、フィクションの宗教だ。

スピノザのように考えれば良い。宇宙には、目的や意志は無く、ただあるだけだ。

また、ヴィトゲンシュタインのように考えても良い。全ては、言語ゲームだ。

語り得ないものについては、人は沈黙すべきだと言うが、こんなにそれを語るのが、一番愚かしいのが、自分の文章だ。

そして、カントやヒュームやヘーゲルは、科学的に考える中で、精神が成長していく。

ものは、意図、手段、実現の潜在的な可能性、新しい発想と目的から生まれる。

そういう風に、観念的にこの世界を見れば分かる。経験を排除して、分析すれば良い。

もっと分析すると、全てのことは、合理的に共有出来る。

そういうことを言いたかっただけだ。

全ては意図、関係、物質、意識である。決まりを皆で作る、と言う考え方がある。

共有することで、多様性と実現性が生まれる。個別では出来ないことが、集団によって実現出来る。また、工夫を共有出来る。自然から、改善の積み重ねにすることが出来る。

ある意味で正しいものは、全部それなりに正しい。

科学は、必ずしも正しいとは言えない。

科学も、人間の研究と経験の産物だ。そのうち、すぐに変わる。

ニュートン力学も、今では間違っている。昔は正しかった。

そういう風に考える文章が一番多かった。

認識は、心と重なり合って、涅槃から煩悩まで、あらゆる現象を起こす。

認識は、経験によるものと言うよりは、ただの馬鹿な子供であるとした方が良い。

それ以上は、キリストのようなたとえ話から、カントのような仮象の世界になり、行動を捉えて考えることで、道徳律やヘーゲルの精神や良心のようなものになる。

もう、全て分かった。哲学がきちんと分かって良かった。昔をすると、すぐに心が治って、知性がつく。足も治るかもしれない。

ヒュームのような観念の大掃除は、すると良く分かる。昔、純粋感情のようなものから、印象のようなものまで、哲学的な頭の構造を分かっていたことが多かった。

あとは、哲学者になるようで、もう終わりだ。

神は、ここまで分かった人間の、自分のことを言っている。こういう風になる。全て、神のおかげで、分かる体験が起きている。そういう人間は、地獄になる。

そういうわけで、こういうユダヤが多い。ユダヤは、良いものだ。世界を滅ぼす代わり、本人が全てのことが全部分かる。ユダヤは、悪くない。ユダヤ人は賢い。

あとは、影響力と受動・能動でも考えれば分かる。テレビやネットは、何も分かっていない。皆を馬鹿にしている。そうでもない。結構自分より分かっている。テレビはこれくらい、誰でも分かる。

大学は、そのうち出来る。哲学なんか、誰でも出来るだろう。簡単だ。出来ない人間がやる意味が無いが。そろそろ、この文章も終わりだ。もう、死んだ。永遠は終わりだ。

いつか、時間に終わりが来るまで、もう何も起きないのが、宇宙だ。

予測して、構造や関係を考えれば良い。それで想像力がつく。

この世界は、関係に満ちている。全ては、複雑なようでシンプルな、無常、縁起、空の概念から生まれている。相互に関係し、依存し、融和して起きている。だが、分かってしまえば、美しい、良い世界だ。そこでは、経験を疑いながら、良く考えて経験から結果を知れば分かる。経験を、遡って、さらに前の経験を疑う。それで分かる世界だ。

あとは、社会のことを情熱的に考えれば分かる。人間は、社会を変革したいと思うものだ。そのために、自由な参加と、変化可能な組織が考えられる。だが、自由も疑うべきだ。

もっと疑えば良い。信じないべき部分を、どんどん信じなくなれば良い。それで賢くなる人間が、どこにでも子供に多い。

大人は、分からなくなる。自分の言動を盲信している人間が多い。盲信や妄執は悪い。自分のことを疑い、反省し、謙虚に向き合うべきだ。そして、集団に没することなく、今の自分の置かれている状況を知るべきだろう。

どこへ向かうかは分からなくても、どこから来たのかは分かる。そこから考えれば良い。

自分を馬鹿だと思いながら、選択肢の賢いものを取り、選択肢を自ら作り、反省し、考え方を変え、信じることを慎重に選ぶこと。それが正しい自由な人生だ。

正しい見解や意見を持つこと。正しく瞑想すること。正しい行いを持つこと。仏教では、そういうものは八正道と言う。それによって、不安と煩悩が無くなるだろう。

あとは、繰り返しネットで体験し、色んなことを考えてする経験を持ったことで、マスターのようになった。意識で全てが分かった。それをすると良いかもしれない。

あとは、視野を広げて、そして、正しさを積み重ねて、自由を捉えれば分かる。

哲学が出来て良かった。英語は出来ないかもしれない。哲学の著者のやり方も、1つの方法に過ぎない。もっと他の人間は、出来ないように見える。同じことは出来るように見えないだろう。自分は、そんなにしたくないと言っても良いが、何もしていないだけだ。

時計と日付のスケジュールは、すでに、分かるだけに変わっている。自然に狂って分かった。それが出来ないと、最近は出来ない。世界と戦って狂う必要がある。むしろ、そんなに自分と同じにするのはおかしい。そういうわけで、狂った方が良い人間も居る。

環境の外側で無いと、分からないことも多い。そういう、環境の内と外への適応は、昔多かった。そういうことを言いたかった。

もう分からない。今日はこれで終わりだ。また明日にすれば良い。

歴史のようなものも疑うことが出来る。いつかどこかに居た誰かのことを考えられる。どんな社会だったのか、分からないが、確かにそれはあって、今に続いている。その、今に続いている、と言う視点が重要だ。

目が死んだ。もう想像力が治った。目が死ぬと、もう文字が見えなくなる。終わりだ。

出来事の関係のようなものも考えられる。この社会には、沢山の人間が居る。それら1人1人が大切な存在だ。それらが関わり合って、助け合って、この世界が成り立っている。そこでは、1人1人の認識と経験から、全ての場、環境、組織が生まれている。それぞれの組織こそ、それぞれの場であり、現実である。

そこに、意志と目的と習慣がある。人間の本性のようなものがある。

平和とは、大学と、哲学者と、宗教家で分かることだ。

あとは、不可知のようなものが多かった。人間には何も分からない。

あとは、完全な自由な社会も、支配された平等な社会も、どちらも理想だと言っていた。