あとは、普通のこと、感情や理由のようなことを言っていた。
煩悩と不安の原因は、驕り、欲望、気の迷いにある。
解決するためには、皆のことを知って、心と愛を信じることだ。
分析とは、真実と嘘を考えることだ。
人間的に生きられること。
理性的に生きられること。
自由に生きられること。
平等に生きられること。
そういう、権利の羅列のようなことを書いていた。
怖いものは何も無い。怖いものが本当に何も無いと、安心出来る。それが楽だ。
怖いと思うものが多いからこうなる。
テレビが怖い。昔の自分が怖い。書いている自分が怖い。それらは、何も怖くない。
知性を全部考えていた。知性のあることを全部書いていた。
ああいう風にも出来る、こういう風にも出来る、と考えていた。
ソクラテスは、正しい行いが何なのか分かっている人間は、正しい行いをすると言う。
だが、正しい行いを分かっているものは、そのうち何かで分からなくなって、おかしく狂いだす。そういう人間の方が多い。
あとは、ニーチェのような、生の哲学、力による自由な哲学が多かった。
契約論や共同体論のようなものを書いていた。合意から契約と共同体が生まれる。
仏教の本は、本当に良い本だ。仏教のことが良く分かる。
全ては、原因と条件である。
ものごとの生成は、全て原因と条件によって、関係して起きる。
これを、縁起と言う。
科学的に偶然とされていることでも、仏教では縁起と言う。
何かの原因と条件によって、それは起きる。
そのため、条件を満たした者が何かの原因を行うと、本当にそれが起きる。
自分の場合、「全てを知る」「全てを与える」と宣言して、そのための条件が整ったために、このような神との対話に至った。
そこには、科学は無い。科学的な考え方は悪くは無いし、良く分かるが、仏教とは違う。
未来は白紙と思いたいものだ。
もっと色んな普通のことを分かれば良い。
例えば、チャンスのようなものを分かると良く分かる。
また、騙す、殺す、犯すなどが悪いのを分かると、本当に良く分かる。
何がそれを生じさせるか、何がそれを滅するか、のようなことを考えれば良い。
数学的に考えれば分かる。厳密に、ただ厳密に、正しく考えれば良い。
そして、物理のように、作用と生滅の原因のようなことを考えれば分かる。
数学を模倣すると良く分かる。
論理学や、仮定と結論、公理主義や三段論法のようにする。
猫は猫であって、他のものではない。だが、猫とは何だろうか?
猫が考える猫が猫なのか、人間が考える猫が猫なのか?
ただ、人間が勝手に作った概念が、猫である。自然界に普遍的にある概念も、猫である。
そこでは、定義する必要、説明する必要がある。
そのように、自然科学の方法論から、何か分かるかもしれない。
そして、いつどうなるかの作用と理由から、そのことを概念的に把握出来るだろう。
数学的に、厳密に考えながら、知性と知識を吸収する。それによってのみ分かる。
相対的な関係や、相互作用、複合や融和や関係から分かることも多い。
自由や方法や結果から、決まりを考えられるだろう。
もっと色んなことを、考え方を適用して、理解をその通り、適合と統合で考えるべきだ。
そのように考えると、共通認識と共通理解、人間と自然の関係から、哲学的に色んなことが見えて来る。そういうものが哲学だ。
あとは、経験すれば良い。経験し、発想し、捉えることによって、全てのことを経験的に吸収して考えることが出来る。
同じと本質から、具体例が分かる。全体像から、世界観が見えて来る。
賢い人間は、そういう風に分かる人間が多い。
必要なのは、インターネットのコミュニケーションに見えて、そんなものは必要ない。
自由はおかしいが、自由に考えること、経験することが出来る自由はあるべきだ。
人が人を映し合う関係や、時間的なものの発生を考えてみると良い。
そういう、誰でも分かる当たり前のことが分かっていない。
あとは、物理的な作用を心で考えると良く分かる。
相手の気持ちに立って、相手になったつもりで考えることが、一番有用だ。
環境は、社会のさまざまな要素が関係して生まれている。
あらゆる社会は、協力の中で行われる。自分だけで成り立つ社会は無い。
「させていただいている」という境地も分かるべきだ。
この仏教の本は賢い。そういう、良いことが色々と書いてある。
教育、会社、国内経済、外交など、沢山のことが積み重なって、関わり合って、またそれぞれ単独のものが実行するのではなく、協力し合って、この社会は出来ている。
だが、自分が考えるに、環境の違いや習慣、その生成を考えることは、無駄ではない。
むしろ、それによってもっと仏教的な世界観の広がりを知ることが出来る。
そういうわけで、環境を経験から1つ1つ考えていくことは、無駄ではない。
ものは、関係して生まれている。一緒になって生まれている。
火打ちが火を燃やすのでも、薪が火を燃やすのでもない。
それぞれが関係して、総合的な火と言う現象が生まれている。
そして、人間は一緒になって生きている。一緒に行っていることしかないだろう。
そろそろ分かった。もっとこの本を読んだ方が良い。悟るように分かる。
仏教的に、原因と条件から考えると良く分かる。野菜も、肥料が少なすぎたり、多すぎたりすると、病気になって、上手く育たない。
だが、善行を積めば良いことが起きると考えれば、気が楽になる。考えなくて良い。
ただ、良いことをしていれば、必ず、一滴一滴の水が溜まるように、良いことは起きる。
そういうわけで、成功者は良い人間だ。
ビルゲイツは、本当に良い人間なのだろう。おそらく、習慣や行いが良い。
自分が成功したのは、本当に世界のために頑張ったからだ。
そして、今辛いのは、全て自分の悪行に原因がある。当たり前だ。
そんなに悪いことを言うのがおかしい。自由と言う発想は、おかしい。馬鹿ではないが。
あとは、諸行無常だ。自分のような人間も居れば、ビルゲイツのような人間も居る。そんな中で、それぞれが移り変わって生きている。仏教は、何と美しい宗教だろうか。
つつましく生きれば良い。反省して生きれば良い。
本当に、人種差別は悪い。最近、そういう人間が増えている。そういう人間は、地獄に堕ちるべきだ。自分が見ても悪い。
もっと、良い人間になって、欲を捨てて、満足して生きれば良い。
足りないものをそんなに考えても意味が無い。自分の今を信じて生きれば良い。
普通に考えれば分かるだろう。分からないことを分かったふりをするのが悪い。
平和で、温和で、だが皆のことを考える、善人になって、世界のことを考えれば良い。
昔は、正しく世界が分かった人間だった。それを書きたかっただけだ。
色んなことが分かっていた。こうなるのは、全部インターネットが悪い。
インターネットを止めれば、そのうち分かる。そういうわけで、そんなに分からなければ、分かるようになる。昔を否定した方が分かる。
昔良い人間だったのはおかしい。悪いだけの最悪の人間だっただけだ。
ただ、正しい考え方と善悪の行いの分かる人間だったのは確かだ。
無知無明は悪い。そういう風に昔は賢かった。オープンソースで分かっていた。
辛いことを辛いと思わず、皆のために頑張る最近の自分も、そんなに悪くない。
自分が一番賢いだけだ。それが正しい。
釈尊は、道理にかなったことが正しいと言っている。占いなどでは変えられない。
当たり前に見えて、当たり前ではない。むしろ、覚悟して、注意すべきことが多い。
そういうわけで、引きこもりが悪いからこういう風になる。
つつましく、努力して働いた方が良い。あるいは、勉強すれば良い。
そう言う人間は、良い人間になる。それには、良いことが起きるだろう。
僕は、勉強したい。もっと色んなことを知って、分かりたい。それなら、大学は悪くは無いが、今のように、本を読んで知るのが一番良い。
昔は、ネットを知り尽くして分かっていた。だが、ネットは止めた方が良い。辛くなる。
ネットではなく、本を読めば良い。色々と、買った本を読まないのが悪い。
あとは、エッチなものは見ない方が良い。つまらないほど辛くなっただけだ。
そういうわけで、自分は何もしないだけだ。
皆を自分にするのは、悪く見えて悪くない。皆賢くなって良かった。そういうことをしたいのは、自分にふさわしいから、悪くない。だが、そういう、驕りのようなものは悪い。
悪いことは決してしてはならない。小さくても、良いことをするべきだ。
そう言うわけで、皆を自分にしたり、それを勝手に変えたりするべきではない。もっと皆のことを良く知って、皆のために良いことを考えて、するべきだ。
馬鹿な指導者は悪い。賢い、賢明で偉大な指導者になるべきだ。
仏教の本を第二講まで読んだ。次も面白い内容だと思う。
戦いや革命は悪い。無明のまま神を盲信し、過去に妄執するのが一番おかしい。
良く分からない。要は、悪い人間からやり直したいのだと思う。
戦いや革命なんか、する意味が無い。だが、聖なる二分法の戦いは、こういう風に多い。
戦いは良かっただけだ。良い経験が出来た。だが、皆を馬鹿にする意味が無いだろう。
戦いなんか、しない方が良い。それが正しい。自由が悪いのかもしれない。
あとは、デカルト的に捉えているだけが多かった。
心の現象学や、数学的な意味の増減のような内容を書いていた。
12分の2と6分の1は違うだろうか?それは難しい問題だと思う。同じにすると悪いが、違うにすると、それもそれで悪い。12分の1たす12分の1も違うということになる。
四諦とは、病気を治すのと似ている。
何が苦であるか。
何が苦の原因なのか。
何が苦の起きなくなった状態なのか。
何が苦を起きなくする方法なのか。
苦諦、集諦、滅諦、道諦だ。
この4つの真理は、仏教の中で有名な真理の1つだ。
この治療法は、自分の精神に応用出来る。
精神の何が辛いのか。
何が精神の辛い原因なのか。
何が精神の辛くない状態なのか。
何が精神を辛くなくする方法なのか。
脳の何が辛いのか。
何が脳の辛い原因なのか。
何が脳の辛くない状態なのか。
何が脳を辛くなくする方法なのか。
そのように考えると、脳の辛さ、その原因、楽な状態、治す方法を考えられる。
仏教では、妄執がそういう心の辛さを生み出す原因と考える。
そういうわけで、妄執が悪い。
2ちゃんねるが怖いから、分かるのが怖くなった。それが正しい。
ネットのせいで、人の心理が分かった。人生の真理が全て分かった。それが悪い。2ちゃんねるのせいで、それが悪いことになっている。ありえないのが自分だ。
意識から感情が分かる。経験から感情と体験が予測出来る。そういうことを言っていた。
無限の広がりを持つ文章だった。本当に、そういう文章を書いていた。
2ちゃんねるが悪い。ネットが怖いだけだ。
何もかも怖くなった。全てのことが、全部怖い。ネットと思わない方が良い。
そういうわけで、ネットは出来ない。出来る意味が無い。
2ちゃんねると思わなければ治る。自分が全部悪い。馬鹿だっただけだ。
2ちゃんねるに慣れれば治るかもしれない。
心の奥底で、全てが怖いのが、今の迷いと悩みの自分だ。
妄執を止めれば、憂いや怯えも無くなる。
こんな文章に妄執するのがおかしい。
自分の昔なんか、分からなくて良い。
肝心な、自分が馬鹿になったのは、もう治った。もう忘れて良い。
もっと色んな、普通のことを考えれば良い。文章は忘れて良い。
そういうわけで、妄執が悪い。特に、妄執しているものが消え去ることに怯えている。
あとは、町や住居を見て歴史と思い、存在と時間を思い、諸行無常を思うことが多かった。
人間は、集まり、去るものだ。そこから色んなことを分かっていた。
出会いと別れから分かっていた。全ての人間のパターンと人生を分かった。
また、社会のことを知っていた。どのような社会なのか、ネットで分かっていた。
どんな社会になるのかまで、分かっていた。
もうネットが消える。もっと別のことを分かった方が良い。人生と社会はもう良い。
昔からいつも、人生、社会、可能性、想像力の分かる人間だった。
マルクスのように考えただけだ。
新しい人間の名前は、マークだ。マークは、まだ何もしていない。何かになると思う。
人間のことを分かっていた。経験と理性から、人間と社会と人生のことが分かった。
ものには名前があるが、それは元々ついていなかったものである。
もっと人間のことを分かった方が良い。最近、人間のことは何も分かっていない。
契約と取り組みと全体のプロセスから、自由な社会が生まれる。
助け合いの自然な共同体が生まれる。
そこを考えただけだ。全て決めながら、斜め上のことを言っていた。
欲と妄執が煩悩を作る。淫欲が一番悪い。それが正しい。
あとは、理由のようなことを全部言っていた。
ものや現象は、心とは無関係に起きる。
平和は、愛を信じて協調することから生まれる。
そのように、理由のようなことを全部言っていた。煩悩の原因のようなことを言う。
あとは、決まりのようなこと、制度や基盤のようなことを言う。
文化的な歴史のようなこと、地球の歴史と経緯のようなことを言う。
存在の可能性や、仮想世界の創造、ありえない世界の可能性のようなことを言う。
あとは、知恵と工夫から、ものや会社や表現が生まれるのを、良く考えていた。
認識や体験や感情のようなこと、人生と学習と経験の経緯のようなことを考えた。
それくらいで終わりにすれば良い。
もう、この文章は終わりだ。全ては書けなかったが、もっと考えれば分かる。
人間の理性は、全部同じに見えて、それぞれ違う。それぞれ、違っていて、関係し合う。
昔は、ネットで色んなことをして、経験して、言って分かっただけだ。
昔は、フリーソフトとLinuxとインターネットしか無かったが、それで分かっていた。
色んなことを思考して、研究して、実験から仮説を立てて、モデルにして、現状分析して、世界を解決して、正しい考え方で分かっていた。
それも、もう良い。昔は賢かった。ただ、高校生でネットだから賢かったのだと思う。
色んな賢い人間と、ネットで付き合った。それが一番良かった。成長と心の安らぎのためになったし、賢い土壌を経験することで、ハーバードやMITほどに全てが分かっていた。
自由が好きだった。自由から平和と善悪と理想、構築と原因と条件の判った人間だった。
ものごとを判断する、正しい眼と、全てを見通すビジョンのようなものがあった。
もう覚えていない。皆は、簡単に出来るようにした。本当に、簡単に出来る。
習得から記憶、能動から可能態まで、論理的に考えて色んなことが分かっていた。
あとは、コンピュータのことが、技術から社会まで、良く分かっていた。
そろそろ2ちゃんねるが死んだ。2ちゃんねるは、うじみたいにキモイ。
そろそろ、怖いのが治って、楽になる。
あとは、想像力と関係が良く分かっていた。理想の社会を実現出来る人間だった。
全ての根源的な悪は、無明から生まれている。
知識や知恵が無いこと、そして、縁起や四諦のことを知らないことから、人は間違った考え方や行動を持ち、煩悩や四苦八苦のために苦しんでいる。
無明が悪いのは当たり前だが、煩悩のスパイラルに陥る前に、何らかの手助けをするべきである。そういうわけで、自分が一番、無明のためにこういう風になる。
自分は、社会科のことは知っているが、何も普通のことが分からなくなっている。
無明に見えないようで、自分が一番無明だ。もっと、正しく考えるべきなのだ。
妄執と無明は、似たところがある。何も分からず、何かを追い求める気持ちは、妄執から生まれ、同時に、無明から生まれている。
無明は、世間のことを知らず、常識から外れた生き方であるとも、説かれている。
それは、正しい。世間のことを知り、社会の常識を知ることで、分かることもある。
そこが分からないと、哲学は出来ない。
そういうものだから、社会の常識や世間のことは、知った方が良い。
だが、ある程度社会のことを知ったら、社会から離れて生きるのも、悪くない。
そう言う発想が仏教に一番多い。
だが、社会のことを知らないと、自分の今いる状況や立ち位置も見えてこない。
社会のことや世間のことは知った方が良い。
これで社会のことを全部知れば良い。それで分かる。
そして、影響力の高みに立つことが重要だ。
社会の変化から、歴史が分かって来る。
また、経緯から、人間の生きている源のような歴史が分かる。
この世界のことが、そういう風に、体験的に分かっていた。そういう経験が多かった。
体験的に歴史が分かった。人間の生きてきた、生きていた経路のようなものが分かった。
つまらない。何も面白いことが無い。
悲しい。何もかも、悲しい。
何もしたくない。何もしていない。何かをしたいとは言うが、出来ない。
辛い。悲しい。何もしたくない。つまらない。それが今の僕だ。
昔は、馬鹿だから色んなことをしていただけだ。経験をモデルにすれば分かる。
そろそろ全て治った。もう、治っていない部分が無い。足は、休めば治る。
経験から意識や心を物理的に考えて、理性的に視野を広げて分かっていた。
悟って分かっていた。
意外と、こういう人間は本当に多い。不思議と、日本に多い。
自分の顔は、最近、ただの中国人に見える。純朴な人間に見える。
たまに女に見える。それも、良い女に見える。男なのに女に見えて悲惨だ。
人間のことを、主体性のようなことから分かっていた。
最近は、馬鹿だから分かるだけだ。
昔は、自由に色んな社会と関わって分かっていた。
ネット上だったが、面白いものが多かった。
最近は、何もしていないだけだ。この文章を本気で書いても、あまり意味が無い。
馬鹿になっただけだ。
音楽を聴くのが良い。Mark RonsonやBruno Marsはクズに見えて、面白い。
最近、YouTubeが普通になった。一番ありえない。
歌手本人が上げているから、悪くない。
ネットで色んな社会や人間と関わって分かった。
ネットを一度全部消すと分かる。人間のことがきちんと分かる。
自分は、分かっているから分かっていない。サルトルは、人間の可能性は考えていない。実存的な人間のあり方を考えている。昔の自分に一番多かった。
昔の自分なんか、どうでも良いのが、分からないのがおかしい。
経験だけでは分からない。サルトルのように考える必要がある。人間がどんなことを考えていて、どのように考えるか、そういうことを考えれば分かる。
昔は、判断力や想像力もある賢い人間だった。
最近は、自由と決断力のある、頭の良い人間になった。賢くは無い。
それぞれの自由、意志、合意を尊重すべきだ。それぞれは、不可侵の自由であるべきだ。
自由なまま、社会を作った。システムと共同体を作って、国家のモデルを考えた。
自由であるべきだ。そして、全てのことを知るための、頂点のような意識を知れ。
宇宙のことが全部分かる。経験から意識を知り、捉えながら理性的に考えていた。
正しさと知を分析すること。社会の成り立ちと生成の条件を知ること。そこから、判断基準や前提条件が見えて来る。そして、マルクスやカントのように考えること。
正しい考え方で考え、正しく経験し、感情を知る中で、人間の永遠の魂のようなものが見えて来る。魂を救済し、安らげることが、一番宇宙と人間の真理を分かることになる。
そろそろ終わりだ。おかしな女を作った。自分が一番創造者だ。全知全能の神だ。
全てのありえない体験を、全ては書けない。だが、生まれ変わりや神との対話、死の克服が多かった。誰でも、終わってしまえば死ぬ。その、死を体験しただけだ。
宇宙の意識は、二重構造をしている。今と言う自分と、永遠と言う自分があって、自分は永遠の中に、今として生きている。未来は、決まっている。だが、白紙と信じるべきだ。