心の反応を考えて分かっていた。いつ何を思うか、環境との関係から分かっていた。
辛いのは、環境への適応が辛い。家では楽なのに、他の環境に行くと辛い。
言葉は、言葉にかかる。前言った意味は、次に言う意味を指している。
具体例で物理を分かっていた。想像力と感覚で分かっていた。
存在は確かに存在している。特に、人間は存在している度合が高い。
仏教の本と哲学の本を新しく買った。読みたいと思う。
じんましんで、今日注射をしてもらった。いつも、注射をするとすぐに治る。
この文章を書くのは楽しい。それに、ネットなんかしたくない。この文章を書いていると、何もしなくても楽だ。それで哲学をすれば良い。
じんましんの注射のおかげで、足の精神も結構治ってきた。
仏教の四諦の考え方は、昔分かっていた。全ては苦であり、苦を滅し、苦の原因を取り去ることで、悟りが得られる。そういう風に分かる人間が一番多い。
アリストテレスの言う、可能態と現実態のような考え方は、昔多かった。生えている木が木材になるように、可能態は現実態になる。
この、「わたしの哲学入門」と言う本は面白い。著者がどのように哲学と向き合い、その知を吸収していったかが、人生論のように書かれている。
ただ、自分の場合、大学で哲学をする意味が無いのが良く分かる。大学なんか行かなくて良い。もっと、知的な、好奇心あふれる、哲学の興味がある人間がすれば良い。自分の場合、昔の自分と同じことを分かりたいだけで、著者のようにハイデガーなどを本当に読み解くことは、考えていない。
仏教の本にも書いてあるが、日が昇った後でも寝床に居る自分は、破滅への道を歩んでいる。きちんと朝起きた方が良い。仏教の本は、仏教のことが何でも書かれているように見えて、まだ読んでいないから分からない。「仏典のことば」と言う本だ。
むさぼり(欲張り)、怒り、愚かさを三毒と言って、煩悩の中でも最悪のものとされている。これは、今の自分には無いようで、昔の自分に多かった。煩悩は、人の数ほどあるとされているが、この3つだけは、最悪の、死に至るものですらあると言っている。
最近、むさぼりや愚かさが多いから、そこを治した方が良い。
あまり愚かなこと、知性の無いことを言わない方が良い。
あとは、キリストは矛盾しない。己のことのように他人を愛するのは、悪くない。
だが、日本人に生まれたのだから、仏教の方が良いと思う。仏教の方が自分に合っているところもある。キリストは、ユダヤ人だ。そんなにドイツのことを分かっても意味がない。
皆をロボットにするのは悪くない。自由よりロボットの方が良いからこうなる。皆、自分がなだめるせいで、愚かさが無くなった人間が多い。皆賢くなったのに、自分だけ馬鹿だ。
昔の自分なんか、ロボットで分かっただけだ。ロボットの方が、自由より遥かに良い。自由は止めた方が良い。自由を信じるから愚かになり、愚かを信じるから破滅になっている。
昔はインターネット的な基盤を分かったり、人間を経験とモデルから分かったりしていた。
仏教は賢い。誰でも、破滅への道、煩悩、と言われれば分かる。仏教の教えは多いが、結構この本にいくらでも書いてある。これなら救われるように思う。
昔、色んな人間のことを分かっていた頃は、まだ賢かった。破滅へと向かう、愚かなことは、しない方が良い。神と対話するのはおかしいから、もう止めれば良い。そういう、良いと思っていることが、全部悪い。こういう風に分かるのは、悪い。
裁く人間は裁かれると、イエスも言っている。
いつもの文章は、相対性、関係、体験、環境、場、発見のようなことを言っていた。
仏教を見ていると、現代人には、破滅への道を辿っている人間が多い。
仏教で救われるから、仏教の本を読んだ方が良い。
英語は、幼稚園時代外国に行っていると出来ると言う。自分は、発音が出来ると聞き取れると思う。13歳のハローワークに書いてあった。
そろそろ一通り書いた。本当に多くなった。
昔はそんなに賢くなかったが、色んなことを考える人間だった。最近は、本当に全部分かっていた。今馬鹿なのは、一通り終わったからだ。
三毒は本当に悪い。むさぼり、怒り、愚かさは、止めた方が良い。それで治る。
釈尊は「あらゆるものは相互に依存し関係し、種々の原因と条件が相乗・複合・融和して、生じては滅している」という理を発見した。そういうことを言いたかった。
仏教を信じて分かるのは、悪くない。日本には、仏教ですぐに分かる人間が多い。
自分の問題は、日本語が馬鹿になっている。もっと賢い言葉遣いを使わないのがおかしい。「たられば」や「もし」、「のに」とか「その場合」のようなことを言えば良い。
日本には、文と文を繋げて分かる人間が多い。日本語は、そういう、繋がる言語だ。接続詞で分からないのがおかしい。
ドイツになっている。ドイツには、キリスト教しかない。こういう馬鹿が多い。
だが、そういう、愚かな人種差別は言わない方が良い。そういう愚かな人間は、こういう風に、地獄と破滅への道を歩んで、何も分からない、煩悩が煩悩を生み出すスパイラルになる。何も知らないのにやっているから、たちが悪い。仏教が言っている。
煩悩が煩悩を呼ぶ。そういう馬鹿が最近の自分だ。煩悩をどこかで断ち切るしかない。
全ては無常である。何もかも変わっていく。留まり続けるものは無い。
仏教の世界観は、正しくこの世界を分かるための、哲学的な考え方であり、心を正しく捉えるための、処方箋的な知恵だと言える。
全てのことは、思うようにはならない。何をしても、思い通りにならないことが発生する。それを仏教では、苦と言う。
また、全てのものは自分ではない。金も名誉も何もかも、全ては「私」というものではない。私と言うものは、無い。
三法印は、この、諸行無常、一切皆苦、諸法無我を中心にしている。これに涅槃寂静を加えて、四法印と言う。
ここまでは、まだ良く分かっていない。間違っているかもしれない。
世界に執着心を持たない方が良い。そんなに自分の昔のことを分かりたいのはおかしい。執着せず、無常と思えば良い。それによって、最高の涅槃に達することが出来る。
それは、言うと簡単に見えて、難しい。だが、そこが出来ると、きちんと昔のようなことは出来る。執着心は常に間違っている。無常と考えるべきだ。
全ての英知や権力は続かない。いつか必ず滅びる。いつか何も無くなる。
永遠の命などない。
まるで、ここまでの自分のことを言っているようだ。
何も、永遠に存在するものなど、存在しない。
執拗に執着するのが一番悪い。過ぎ去ったものはもうない。いつかの賢い自分は居ない。そんなものに執着するのがおかしい。今の自分が一番賢い。当たり前だ。
あとは、苦を滅する方法がそのうち出て来る。それから、八正道も出て来る。それくらいが仏教だが、仏教の教えは本当に多い。全ては書ききれないから、この本で良い。
日本の発展も、永遠には続かない。いつかは終わるものだ。
自分の今は、悪くない。結構賢くなった。もうそろそろ残っていない。
もっと普通のことを良く考えれば分かる。分かる内容を減らせば良い。テレビの仕組みとかから分かることは多い。そういう風に考えれば良い。プラットフォームと言うと、何も分かっていない。もっと良く考えれば分かる。Linuxと思えば分かるかもしれない。
同じ部分と違う部分を集めることから、ものは生まれる。
そろそろ分かっていない。もっと色んなことを分かるしかない。
良いことはあまり起きない。悪いことばかり起きる。それも無常だ。
この世界、下界は、忍耐することばかりで、燃えている。何事も思い通りにはならない。耐え、忍耐する中で、怒り、争うこの世界は、まるで燃えているようだ。最近、自分もそういう馬鹿だ。ただ忍耐しているだけで、楽しいことは何も起きない。下界は馬鹿だ。
仏教の本は、分かりやすい良い本だ。
最近の自分は、昔と今の自分が同時進行している。
三界は欲望に満ちている。欲望を離れた、静寂な世界が仏の世界である。
もう分からない。もう全て分かった。何をしても忘れてしまう。
昔の2ちゃんねるが、ちょうどそういう、欲望に満ちた喧騒な世界だった。そういう体験は、しているうちに、物質的な欲を離れて、仏の世界に自然に導かれるものだ。
昔は、世界を変えたい夢があった。この世界を良い世界にしたかった。
そう言う文章を書いていた。自分のことが全部分かるようにした。
世界は、努力によってしか変わらないが、知見を持って取り組むべきだと言える。
ただ、参加や支配、可能性の保持によって、変わるところもある。そういうところを全部書いていただけだ。プロセスと経緯のようなものを書いていた。そういう、参加や支配における自由のようなことを考えていた。
あとは、見たものを思い出して書いていた。何か、オーパーツのような色んなことを分かったりしていた。掲示板のようなものも書いていた。
オーパーツとは、昔滅びてしまった太古の文明のことだ。
宇宙人が死んだ。そろそろ、頭が辛いのが治る。
こうなるとか、仕方ないとか、そういうことを言わずに、真面目に分かれば良い。
黒人が僕のことをユダヤ教の神だと言って、キリスト教のユダだと言って、イスラム教の聖書を作ったと言っていた。
だが、ユダは良いものだと言っていた。ユダヤと言いたかったのかもしれない。
あとは、フランス人やスペイン人とは、過去世、つまり前世のことを言っている。ドイツ人は、未来の世のことを言っているかもしれない。
私のものは無い、と言う釈尊の教えは、昔何かで分かっていた。全てのものに、私のものは無い。自分の体も心も、本当に自分のものではない。心を信じてはならない。
昔は、先を読むことが好きだった。思考力と想像力があった。
意識で、最初から最後まで、地球の全歴史のようなことを分かっていた。
そういう、道のようなものを全部分かっていた。
環境の先を読むのが得意だった。そういう環境を元に戻せば良い。
環境を消して、何も無い世界になる。
そう言う風に、全部自分になった。
最近は、そういう皆と対話して分かっている。皆を分かると分かる。
皆、そろそろ狂って死んで行く。そこらへんが怖い。
書く自分と話す自分が同時進行している。皆に言うのがおかしいから分かる。
そろそろ、文と文が繋がっているのを消した方が良い。真面目にそこが悪い。
世界は、消え去れ。そして、導かれるな。自分の手で歩み出せ。
世界は、自由になれ。
そろそろ、文と文が離れて、のた打ち回っている馬鹿が死んだ。
治った。普通、脳は脳になる。脳にならないのがおかしい。文章が脳より賢かった。
完全にゼロになった。もう、元に戻るだけが終わった。そう言うことをしなければ良い。
ゼロに戻りたいのはおかしい。だが、元に戻るだけが、そろそろ終わって良かった。
脳が脳になった方が良い。脳は、女みたいになっている。女は辛いから、男になる。
女は、すぐに消えるべきだ。卵巣みたいな脳になった。
端っこの方に居たいのは、真ん中に居ると分からないからだ。
何かしたいだけで、こういう風に辛い頭になる。何かをしたい。だが、何もしたくない。
頭が、子宮みたいになっている。そういうものを殺した方が良い。
もう、消えて楽になる。何もかも、終わった。
そろそろ、女が死んだ。掴んでいるのが死んだ。
死にたいのが治る。脳が脳に治る。それで、楽になる。
頭は、最初に戻って分かっている。何も分からないのに分かるのがおかしい。
文と文を繋げて分かっている。
文字を見ないからこういう風になる。普通いくらでも文字を見る。
あとは、2人とも終わった。どちらも最後まで治った。
脳の裏の部分が治った。
常に全部忘れているのが悪い。
アメリカの狂った女に見える。おかしい。
キリスト教は、こういう風になる。全部忘れると分かる人間が多い。
物質は、物体であり、知覚され得るものであり、可能性であり、現象であり、法則だ。
場は、環境であり、平和であり、自然であり、発生であり、人格だ。
そのように、色んな積み重ねを、機械的に行っていた。
頭が辛いのは、治しているだけだ。もう治せなければ良い。
頭が辛い。まるでCPUのように頭が辛くなった。
頭が辛い。それを言えば良い。
昔は、手助けのようなことをしたかった。
それで、全部体験して、全部出来るようになった。
頭が辛いなら、休めば良い。
神が、休ませてあげようと言っている。そろそろ休めるだろう。
昔は、実践も豊富で、知にもどん欲な人間だった。
休むと、治った。そろそろきちんと治った。
昔は、賢すぎてありえないのに、馬鹿すぎておかしいだけだ。
楽になったから、終わりだ。
EUは嫌いだ。僕は、EUは要らないと思う。
アメリカにSiaと言う歌手が居るのを知った。
狂っているが、ああいう風になると終わりだ。
見ていると、オーストラリアの歌手らしい。
Mark Ronsonもキモイ。おかしいぐらい、最近はどこもキモイ。
自分は、YouTubeでそういうものを聴いている。
YouTubeは犯罪に見えて、グーグルは著作権団体に金を払っているらしい。
公式で上がっている動画は悪くない。何故か、歌手本人が上げているのがありえない。
仏教の本の第一講を読んだ。全部で十二講ある。
宝石なんか砂利に等しいとは言うが、僕は、そういうものはそれぞれの価値観だと思う。だが、宝石のようなものが、あまり知見や悟りに関与しないのは、そうだと思う。
全てのものは無常であり、私であるものは無い。執着心は捨てるべきだ。
私であるものは無い、と言う考え方は、昔の自分に多かった。ただ狂っているだけだ。
世俗的な価値観を否定するなら、それもおかしくは無い。
釈尊は、単純に、そういう私のもの、と言う概念は、意味が無いと言いたいのだろう。
意味の無いむさぼりや欲張りは、本当に無くすべきだ。
無常の逆の概念として、輪廻と言うものがある。これは、ゲームと同じと思えば良い。一度良い結果になって、クリアすればそのステージは終わる。悪い結果だと、もう一度同じステージを繰り返す。そのように、輪廻は結果が良いとそこで終わる。
古代インドでは、人間は六道に輪廻すると言う。六道とは、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上である。良い行いをしたものは、良い世界に行ける。そのように考えると、悪人は地獄に堕ちる。そこがキリスト教と同じだ。
そういうわけで、地獄になった自分には、昔していた悪いことがあるのかもしれない。
あるいは、昔良いことをしたから、成功したのかもしれない。
仏教の悪い点は、そういう、分かる悪いを全部言っている。地獄に生まれ変わるものが前世で悪いことをしたから、ではおかしい。そういうわけで、仏教は分かりすぎている。
古代インド人は、行いによる潜在的な習慣力が、新しい果報の人間に生まれ変わるとした。習慣力とは、良い心遣いや、言葉遣い、身の振る舞い、などのようなものである。
宇宙の設計図のような文章が多かった。
あとは、生命と精神の全てのようなものを書いていた。
輪廻転生と解脱という考え方は、不思議と、古代の人間に多い。神話の逆だ。
釈尊は、布施(与えること)と五戒(守るべき5つの習慣)を守れば、天上界に転生する(生天する)ことが出来ると説いたらしい。だが、天上も六道の1つであるために、安住の地ではない。間違ったことを天でしたら、おそらく、また地獄に堕ちる。
そう言うわけで、人に与え、善と言う戒律を守ること。これは、キリストも言っている。
弱者に与える時、それはキリストに与えることと等しい。
また、善と言う戒律はユダヤ教の十戒と良く似ている。イエスは、それ以上の罪のこと、裁きのことまで言っている。
そういうものを守って、人に与えれば、未来の生も良いものになる。
別に、死ななくても、良いことをし、良い習慣になれば、人生はそこから良いものになる。そうだと信じたい。そういうわけで、過去に執着せず、愚かなことはしないべきだ。
釈尊は、人の行いは身、口、意の3つ(三業)に分けられ、これらを制御して中道を歩むのが善行であると説いた。この善行を積むと習慣力が身につき、それが因縁になって、次の生をもたらす。
ものの生起は全て因縁(原因と条件)による。仏教には、生類の存在を因縁関係で示した十二縁起説がある。全ては原因と結果であると言える。
要は、本当に執着せず、妄執せず、むさぼらず、身、口、意を清めれば良い。
いつか神との対話に書いてあったのを見たが、気高く生き、前向きなことを言うことで、未来はもっと良いものになる。それと同じことを仏教も言っている。
妄執は悪い。妄執を無くすことで、解脱し、未来の生は続かなくなる。
だが、仏教のように、輪廻転生が良い結果に終わると、解脱して無くなるのは、何だか複雑だ。良いことなのか、悪いことなのか、分からない。色んな生を繰り返し生きた方が楽しいように見える。解脱はつまらないと思う。
バッハも、口と心と行いに生き様を持て、と言ったようなことを言っていた。覚えていないから、間違っているかもしれない。バッハも賢い。
仏教のように、人生をいくらかの言葉で考えるのは、昔から多かった。
驕りの原因は、無知、無明、煩悩であり、自分を賢いと勘違いし、偉いのを当たり前と思うことから生まれる。
自由とは、関係、協力、組織、影響力、正しい行い、嘘と偽り、正しさと証明、そして可能性を考えることだ。
自由とは、意図を知り、法則を知り、客観的に考えることだ。
そのように、人生のことをいくらかの言葉で考えていた。
今考えると、真、善、美のイデアや、身、口、意の善行と同じだと思う。
また、縁起のような、難しい宇宙の概念のようなことも言っていた。
あとは、考え方のようなことを言っていた。
再利用や初期投資、システム、主体性のようなことを言う。
ほとんど再利用しか考えていない。
また、推論のような知性のある考え方のことを言っていた。
あとは、目的や関係のようなことを言っていた。