日記に戻る | 2015年11月の日記に戻る

=2015-11-27=

あとは、評議会や委員会組織のようなものを考えていた。

委員会が会社を作れば良いと言っていたが、それは腐敗すると思う。

いつか作った道を辿って、まだ分かっている。

オカルトのようなものを解明して分かっている。

「こっくりさん」のようなものを解明した。

運命は、変わらないと、地獄になる。未来を変えれば良い。

心の現象学を作った。精神がどうなるか、どう出来るか、から心の変化を分かった。

心がどのように出来て、どのように変えられるのか分かった。

心臓が考えるなら、植物も考えるように見える。根と葉で考える。

植物は、全体で一緒になって生きている。個別的に生きている動物より進歩している。

精神は、気持ち悪くなれば治る。

免疫機能が死んでいる。免疫を復活させると、すぐに治る。

そういうことを覚えていないのがおかしい。

心は、同性愛みたいになっている。それが本当に怖いだけだ。

あとは、組織の考え方があった。色んな発想があったし、色んな発想を吸収していた。

工夫、価値観、発想、方法などが、具体的に分かっていた。

社会のことを、普通に良く知っていた。そこから、歴史のようなことを考えていた。

この文章を、「こっくりさん」のようなオカルトだと思えば良い。それで誰でも出来る。

ただ、そういう風に言うと、怖い。意味の無い幽霊や亡霊が分かる。そういうもので分かっている。自分は亡霊だ。

昔は、写真などにオーブが映ることが多かった。そういう、「こっくりさん」の亡霊が見えている。最初から、そういうものが天使だ。本当に天使と対話出来ている。

あとは、経験のようなことを書いていた。

テレビは、創造的になるべきだ。

調和と、経験から、創造性が生まれる。

創造性とは、自由な価値観の構築だ。

創造的な社会にするためには、皆がそれぞれ価値観を共有し、躍動的に実現することだ。

そういう、経験のようなことを言っていた。

引き篭もりの経験とは一歩離れた視点で、色んな労働や社会提案などの経験をしていた。

社会を経験して分かった。色んな社会のことや、具体的な経験を知った。

最近、神を解明したせいで、何も分からなくても分かる。

不思議と、天使と話せる人間が自分しか居ない。

まだやっているのが悪いが、世界を支配して、導いて、戦うことで、自由な経験をした。

完全に自由な神だった。経験から、そういうことを言う。

経験は、成長し、自我を知り、自立しながら、社会を知り、創造的な社会を実現出来るようになっただけだ。

右翼とオタクは同じだ。幼児化して、自分が馬鹿なのが分からなくなっている。賢い人間がそういう風になる。賢い人間は、子供だ。

あとは、資本主義の問題点や、制度の改良点などが、明瞭に、はっきりと分かっていた。

ビジョンのようなものがあった。そういう、神のような経験豊かな人間だった。

だが、それは、きちんと考える理性に裏打ちされた、正しい経験だった。

組織をどのように作るべきか、社会をどのように支配するべきかが分かっていた。

そういう風に経験豊かだった。

人間のことを全部知って、スラムで黒人のように分かっていた。自分にしか、この宇宙が分からない。分かる人間は、そういう風に、悲惨な人間しか居ない。

色々と悲惨だった。るろうに剣心や、ヒカルの碁のように、悲惨な別れを経験して、廃人のように分かっていた。だが、一度絶望を経験することで、強くなった。勇気と思いやりが持てる、優しくて強い人間になった。

あとは、パソコンの経験や、会社や企業や資本主義のような経験、色んな労働の経験をしていた。そして、人間のことをネットで知っていた。

神や宇宙人のように経験していた。仏教のことなんか、自分の経験から分かっていた。

だが、最近の方がさらに経験豊かだ。永遠に文章を書いて、神と対話する。本当に、イスラエルのような王になって、世界を統治し、支配した。

世界に対して何もしない方が良いとは言うが、そうでもない。きちんと支配すれば、それは後で自分の経験に残る。何も分かっていないし、狂っているが、それで王が出来た。

王が出来るならそれで良いから、皆も狂って支配すれば良い。

問題は、そこだ。狂って支配して、良いわけが無い。心理で支配するのを止めた方が良い。自分が世界を支配なんか、していない。出来ていない。そこが分かっていない。

本当に、創造的な社会を経験から作るとか、そういう経験が多かった。

人を楽しませることが出来る、ユーモアのある良い人間だった。

ただ、そうでもない。やくざみたいなただのキモイ引き篭もりだった。

最近動き回っているのは、動かないと楽が出来ないからだ。

たまに動いて、たまに休めば良い。

いくらか動いた方が良い。完全に止まっているのは辛い。

そうすると、子供みたいに動くようになる。そういう人間が多い。

オリエンタル・エクスプレスの時代のような、昔のヨーロッパ大陸地図が良い。

ドイツ、フランス、イタリア、スイス、オーストリア、オスマン、ロシアなどに分かれる。

それで、EUを解体する。そうすると、フランスがしないことをドイツがして、ドイツがしないことをフランスがするようになる。

だが、それは、悪いことしかしないから、止めた方が良い。

そういう発想がヨーロッパだ。国の競争は、世界全体を奴隷にした。

ドイツ人は、今を悪いと思うからこういう風になる。地獄になる。虫みたいになる。

Windowsは、アプリケーションやウィンドウという枠組みを超えて、新しいユーザーインターフェースを作るべきだ。

人間の欲求やその原因を考えていた。

実存的、物理的に、経験と数学的法則を考えていた。

感覚で経験を分かっていた。それくらいの人間だった。

「使う」とか「作る」とかいう概念を、ものを使うだけではなく、社会を使うとか、人を使うとか、そういう風に、応用的に、イレギュラーな発想をすれば分かる。

昔なんか、それだけの人間だ。

ものだけではなく、社会や人間の可能性、手段、自然、法則を考えて分かっていた。

あとは、地球や宇宙のことを創造していた。ヨハネの福音書にあるように、御言葉によって全てを創造した。言葉以外によって創られたものは、一つも無かった。

そういう神だった。宇宙の全てを言葉で創造していた。

あとは、想像力と知性のようなもので、この自由な社会を全部創造していた。

地球や生命の歴史のような内容が多かった。社会の歴史的な世界観も多かった。

自分は、キリストになっているから、キリストを止めて、何か他のものになった方が良い。

ヨハネになれば良いように見える。だが、それこそ、聖人にはもうならなくて良い。

天使は、5人ぐらい居たように見える。自分は、そこまでの天使だ。

自分のせいで、天使が知性ある存在に見えるが、自分みたいな子供を天使と言いたいだけが、ガブリエルだ。ヨーロッパのガブリエルは、キモイ。どこにでも多いから、キモイ。

パソコンみたいに社会を作った。パソコンのシステムみたいに社会を書いていた。

ネットは、昔は、日本人のmonoやGNOMEやRubyの開発者や翻訳者を見ていた。

あとは、日本人のGRUBやGentoo Linuxの開発者の人や、GPLの翻訳者の人などのブログを読んでいた。Mozilla関係のブログも読んでいた記憶がある。Debianに関しては、存在は知っていたが、読んでいないブログもあった。

あとは、MONAと言う2ちゃんねるのOSが好きで、開発者のブログを読んでいた。あれなら、自分でも開発出来るように見えた。

Planet Planetと言うWebアプリケーションを使って、海外のオープンソース関係のブログが読めるが、英語が分からなかった。GNOME、KDEなどをたまにチェックしていた。

最近、そういう、ネットは全く読んでいない。いつか読まなくなった。最近、ネットなんか、見ても全く何も無い。発見が何も無いから、見たくない。

ITmediaやCNETなどのような、IT関係のニュースも見ていたが、最近見なくなった。

最近は、ふうせんと言う人のブログを読んでいる。Linux関係の解説を書いている。

足を動かさず、手を動かせば良い。手は動く人間が多い。

最近のオープンソースは分からない。昔は、会社関係のブログも読んでいた。それこそ、もっと沢山、色んなブログがあって、読んでいたが、覚えていない。

海外のブログは、Planet Planetを使うと一気に読めるが、昔の話だ。今はどうなっているのか、良く知らない。あまり変わっていないと思う。

梅田望夫さんとか、はてなの社長や社員とか、色んな人間を読んでいた。昔から、僕は何故かはてなが好きだ。はてなブックマークが好きだった。

今でなら、誰でもツイッターを読むだろう。もう10年ぐらい前の話だから、ツイッターなんか無かった。Fedoraは、バージョン1~3ぐらいの時代だった。

オープンソースには、何も無かった。自動化は無いのが当たり前だった。日本語変換もショボかったし、日本語フォントの太字も出なかった。

だが、ある意味Linuxの全盛期だった。あのごろは良かった。GNOME 2は昔のままで、賢くて、KDEは3だった。WindowsはXPだった。良い時代だった。

昔は、ソクラテスのように、機会とチャンスを与え、教え、導き、助けることが出来る人間だった。チャンスを正しく叶えるだけではなく、問題の正しい解決方法が分かった。

引き篭もりが悲惨なのが分かっていない。馬鹿だから恋愛も出来ないし、金も無い。

知性で考えていた。

自分がする、出来る、作る、で分かっていた。自動車は、生産手段があれば作れる。

共有や再利用の知性があった。

何を作ることが出来るか、どんな風に出来るか、すべきか、実現するためにはどうすれば良いか、そのためには何が必要か、などを、発想と手段や判断力やデータから考えていた。

これを書いているせいで、一時的な記憶力がついた。自分は賢い。

レディーガガが言っているように、自分は最初から完璧な姿で生まれた。神が創った。

だが、神を信じると、普通、そういう風に考える。だから、白人は人種差別になる。

賢いのが悪いから、馬鹿になる。一度何も分からなくなると、意識で分かるようになる。

自分の思考から、行動し、経験し、その結果を照らし合わせて分かっていた。

知性は、思い出せばつく。書いている間覚えているのは良いが、書くのを終えると忘れる。そこが悪い。もっと、それ以上色んなことを思い出せば良い。それで知性がつく。

そういうわけで、書くのは悪く見えて、悪くない。覚えるせいで、賢くなっている。

人間の持っている欲求や願望、それを伝える言葉や思考から、その裏にある記憶や経験、そして、その原因である、習慣や行動を、まるでパソコンのように考えて分かっていた。

また、同様に、問題の解決や、人間が行動する基準となるような原因のようなことを、良く考えて、思考し、経験し、知性的に、経験的に考えて分かっていた。

そして、ネットを見ながら、時にネットの中、時に空想の中で、発想し、モデルにし、社会や環境を知って、人間活動の中で、ビジョンを持って、自由な中でどうすれば良いのか、のようなことを、正しく自由に考えて分かっていた。

もっと、色んな普通のことを考えれば良い。

自然な時の流れの中で、社会の変化を考えていた。この世界は、移り変わって、盛者必衰、諸行無常の中で、良い出来事と悪い出来事が、重要度の高いものも、低いものも含めて、全て流動的に移り変わる。だが、その中でも、古来より変わらない、同じものはある。何を変え、何を同じままにするか、考えれば良い。

あとは、皆と付き合いながら、感情を考える。新しい発見から、古い環境は変えられることを知る。同時に、古いものの権威の正当性も、新しい経験から再度分かって来る。

皆とともに知る中で、問題の所在を知って、誰が悪いのか、そして、その人は悪くなくて、もっと別の、根源的なところに居る誰か、あるいは集団や全員が悪い、と言ったことを知れば良い。思っている以上に、この世界は小さい。誰もが、何も分からず、彷徨っている。そこで、自分の出来ることは、皆の責任と失敗を清算し、一人解決することだ。

この世界には、自然な可能性があって、全ては、いつでも同じように、全員に許されている。何も出来ないようで、色んなことが出来る。それは、自由にしなければ意味が無い。

だが、意味が無いことはすべきではない。意味があることを、分析して、すれば良い。

良く考えて、実現の前に沢山のことを知り、作り、準備すること。そして、良く考えて、正しい手段と方法で解決すること。そこでは、手段と意志と情報を共有し、意見を集め、人員と協力者を集めて、参加可能にすること。

社会的には、独立可能にし、分散し、それぞれが出来ること、権利や権力を増やすこと。

だが、そういう自由には、意味が無いところがある。平等の方が良い面も多い。

きちんと考えるなら、こういう風に考えれば良い。

意志、取り組み、結果、自由、相対性、自然、可能性、協力、発生、依存、循環、集合知、初期投資、再利用、分身の創造や遠隔操作、関係、などを考える。

あとは、もっと自由な社会になって、色んなことからそれぞれが知ることが出来るようにすること。人間は、基本的に皆同じだ。環境と習慣が違うだけで、ほとんどのことは、誰もが同じように行動し、経験している。根源的に見れば、信念も同じだ。

自分に出来ることは、他の人間にも出来る。そこまで行かなくても、自分と他の人間には、何か共通点があるはずだ。理性は、平等に存在するはずだ。そして、自分の分かったことと、他の人間の分かることには、似たところがあるはずだ。

それから、この社会は、義務と権利とは言うが、僕は、義務と言う言葉はあまり好きではない。もっと、自発的な、合意、協力、許可、チャンス、などとするべきだ。

ただ、義務は必要だとするところもある。

ヘーゲルのように考えるためには、義務と言う考え方がどういうところから来るのか、と言ったことを、社会的な自分の経験と、社会の中におけるその義務が、何を目的にし、全体の中での役割としているか、を考えれば良い。

そういうものを、世界モデル、認識モデル、社会モデル、自由モデルと言っていた。

もっと、社会の全体の中での、その権利と行動の役割や目的を考えれば良い。

それは、誰がしているか。何を目的にしているか。何を必要とするか。何に依存するか。何から生まれるか。何を目的に生まれるか。誰が考えたのか。どこから生まれたのか。どのような経緯を持って、結果的にどうなったのか。本当はどうなるべきだったのか。どうすることが出来たのか。そういう風に考えていくと、自由な考え方が分かって来る。

いつも、応用、意図、必要性、存在をモデルにして分かっていた。

科学的に、分析して考えていた。状態、考え方、前提、関係、経験、見え方を考えた。

言葉を使って、世界観を書いて考えていた。

経験による、存在の見え方のようなことを考えていた。存在は、相手から見た時に初めて、自分になる。自分から見える自分よりも、他者から見える自分の方が重要だ。あるいは、どちらも確かに自分の像であり、自分の自分である。だが、その見え方や行動を決めるのは、自分の中に居る自分であり、それも自分である。

そういう風に考えれば、像が分かる。哲学は、客観視と行動と意志の主体性から生まれる。

行動と経験から、その人の中に居る自分と、外に居る自分を考えて、支配し、客観視し、ものごとを吸収し、予測する。そういう発想が多かった。

英会話教室の教師に手紙を書いた。本をプレゼントする。

ネットを見ていると、分からなくなる。やっているのは、高校生しか居ない。そういう風に分かるのは、高校生時代で充分だ。そういう人間が多い。

ネットなんか大人は誰も見ない。ネットなんか、見ない方が良い。

あとは、ものごとを考えれば良い。ものごとには、特性、意図、関係、組み合わせ、手順などがある。観察し、実験し、予測し、抽象化し、信じ、疑い、思考し、感じることで分かる。工夫と創造性から生まれる。生み出すには手段が必要だ。

また、ものではなく、論理のようなものも考える必要がある。それは、正しくは何であるか?それは、曖昧には何であるか?それがそうである時、それは何を意味しているか?推測して、それはどんなものである可能性があり、何でなければならないか?それは、そこにあること自体、何を意味しているか?それがあることから、論理的に何が言えるか?

あとは、カントのように考えれば良い。

全ての鳥は飛ぶ、は、ペンギンやダチョウが飛ばないから、鳥でないことになってしまう。

右翼には分からない。誰でも、集団と個人をきちんと分離して考えれば分かる。

すべての、いくらかの、から、推測して、経験的かつ科学的に考えると、哲学が出来る。

自分の場合、昔出来ている。

もう一度やりたいなら、右翼の理性を批判し、否定するべきだ。

あとは、因果性と三段論法を、純粋に考えると分かる。

それこそ、皆の言っている意見のようなものを聞いた方が良い。

見ていると、右翼が一番悪い。世界を破滅に導きたいように見える。

右翼は悪い。不思議と、経験から分かっていると、賢い左翼になる人間が一番多い。昔の自分は、そういう、賢い経験豊かな、自由で平等な左翼だった。

平等な理想を持つと、分かるところが多い。

正しいのは平等だ。皆同じで、何も変わらない。個性はあっても、能力の違いは無い。

能力的に劣っていると言うよりは、手助けが必要だとするべきだ。

むしろ、劣っている人間の方が、頑張れる人間が多い。

賢い人間なんか、何も頑張っていない。辛い仕事を頑張っている馬鹿しか居ない。その方が、賢くなって、きちんと分かるようになる。何もしないのも悪くない。サポートしてやれば、きちんと出来る人間が多い。出来ないのは、そんなに出来ても意味が無いからだ。

人間には、限界があるし、才能の向き不向きがある。それを、劣っているとか、馬鹿だとか言うのは間違っている。それこそ、本当に馬鹿では無くて、何かを知らないとか、持っていないとか、そういう、経験的な差別の方が多い。完全に同じ条件で働かせれば、同じことが出来る人間が多い。

ただ、平等はおかしいところもある。それこそ、ペテンに見える。

優れた人間は、優れている代り、何か劣っている人間が多い。

それに、デカルトは、良識は公平に分配されていると言っている。ロックのように考えると、人間は全て経験であると言える。明らかに、経験といくらかの方法が無いのが馬鹿だ。それこそ、馬鹿と言うのはおかしい。学校や仕事に向いていない、と言うべきだ。

ただ、完全に自由とは考えない。神が創った時点において、その人の出来る人生の使命のようなものがあると考える。それこそ、そういうことは本当に起きる。

自分は、引き篭もりだったが、そこまで文章を書いて、作家になった。

そういうわけで、人生は神が創っている。神は単純だ。最初から、なるようになる。

どうでも良いから、ユダヤや平等はペテンと言えば良い。だが、右翼にも、人生や能力を、経験や自由であり、皆同じだと考える人間は、結構多い。

そんなに真面目に考えるより、信じた方が良い。人間は皆同じで、能力的な違いは無くて、向き不向きのようなものや、経験や方法の学習があるだけだ。

それこそ、ドイツぐらいがキモイ。遺伝子的に劣っているだけで殺すのはおかしい。

むしろ、普通の仕事なんか、覚えれば誰でも出来る。

遺伝子的な優劣なんか、どうでも良い。誰でも、知識や方法を知っているだけが賢い人間だ。イチローと普通の人間は同じだ。神と小さな兄弟は同じだとイエスが言っている。

そういうわけで、賢い人間は、そこまで覚えているか、考える方法を知っているだけだ。

むしろ、ペテンで良いだろう。

嘘でも、信じてしまえば真実だ。皆平等で、何も変わらない。

ただ、自由はあった方が良い。それぞれを自由にして、好き勝手にすれば良い。

賢い人間の自由にするとは言うが、賢い人間に何か分かるわけがない。馬鹿がやっていれば、それで良い。馬鹿でも出来ることしかないし、王なんか普通馬鹿だ。

自分は、昔から経験で全て変わるとは言うが、それはキモイ。虫みたいな発想をしている。

人間は、経験でそんなに変わったりしない。生まれて持った自分の体、心、性格、能力を信じて、才能を無駄遣いしないように、大切に考えて頑張るしかない。

それこそ、頑張っている人間に比べて、頑張っていない人間が居るのは悪くない。悪いのは、上の階層が少ないのに、もっと多い下の階層の奴隷を支配したりなど、イギリスのように、権力者や貴族が悪いことをするのが悪い。

そういうわけで、平等にして、自由を法律で制限するしかない。性善説も成り立たない。

だが、そういう風に考えると、何かが意味が無いのが左翼だ。

上の皇帝なんか、皆の代表で、皆を育てる親のようなものだ。左翼をやっていると、そういう風に、親に反抗して、親を殺すようになる。一番悪い。

もう少し良く考えると、経験で人は変わるとは言うが、基本的な考え方のようなものは同じなのが分かっている。もっと良く考えると、経験から、経験論的な事実と真理が分かって来る。それ以上は、デカルトやロックに言わせれば良い。同じことなんか、誰でも言える。それが、哲学者だ。そういうわけで、ウィトゲンシュタインは、哲学とは、哲学的な命題を明瞭にすることだと言った。誰でも、哲学的命題を何か言えば哲学者だ。

裏では、人間の自由な平等や、経験や先天的な能力の獲得を考えている。それが哲学者だ。

哲学者をやっていると、自然に神になりたくなる。経験的に、良いものに変わりたくなる。そこから、地獄が始まる。今の自分である人間を捨てて、神や天使になろうとするのは、愚かだ。自分は、昔から、そういうところが馬鹿だ。

自由な経験を悪いとは言うが、悪くは無い。平等な自由で、全て後天的だと考えるのは、ある意味平等を信じている。金や競争も、平等で経験的なところがある。金持ちが金持ちになったのは、後天的だから、幸運でも自分の努力でもあるから、平等が見て、悪くない。悪いのは、何も悪くないのに差別して殺すドイツや、色んな制圧した民族を奴隷にして抑圧し、虐げる、帝国主義の国家や帝王だ。

だが、それもそれで、自由で、経験的なところがある。それに、国家は強くなければ意味が無い。そういうわけで、左翼を正しいとは言うが、右翼の自由の方が正しくて、本当の意味で経験的に平等だ、とも言える。それ以上は、ヒュームのようになる人間が多い。

ただ、後天的だから悪くない、悪い、とするのはおかしい。イギリス人は、もっと良いことをすれば良いだけだ。ドイツも、ユダヤ人を許してしまえば良い。そこが分かる人間が、ロシア人やドイツ人に一番多い。

あとは、ヒュームのように考えていくと、良く分かる。ブッダほど分かる人間は、不思議と、多い。ブッダが見ても、人間はブッダになっていくだけの、ただのロボットだ。

ブッダになるためには、色んなことをして、良く考えること。

経験と言うよりは、おかしな普遍性のある体験をすれば良い。

あとは、そうすると、カントからヘーゲルになって、ハイデガーやサルトルを体験するようになる。哲学はそれしか居ない。何も賢くない。ブッダに負けているのに同じだ。

仏教の言う声聞(しょうもん)のように、色んなことを見聞きすれば分かる人間が多い。

それが、普通、菩薩(ぼさつ)のようになる。仏教用語はありえない。

哲学はそろそろ十分体験したから、仏教が良い。仏教も仏教で、色々とありえない。

ブッダになる、と思えばなれる。だがそのためには厳しくて辛い道を越える必要がある。

そうでもない。ブッダになる方法は、多種多様だ。あまり分かっていないが、昔の自分の経験から、仏教のことは分かるところがある。ブッダのように悟る方法だけを言っているのがブッダだ。その通り考えて行動すると、本当にブッダのように悟ることが出来る。

見ていると、世界史なんかしない方が良い。むしろ、政治経済をした方が良い。

デリダのように脱構築のように考えれば、いつもの文章は誰にでも書ける。国籍や文化を共有すると言っているのは、そういう、脱構築の社会モデルのことを言っている。

誰でも、それなら書ける。ほとんどそれしか書いていない。デリダがしたかっただけだ。

何故か、宇宙と知性の全てを完全なゼロから書いている文章が多かった。

世界史は、楽しかったからまだ読んでいるが、内容が悪い。そんなに地域や農民のことを、王が欲しいと思うのがおかしい。行き過ぎて、資源や奴隷まで全部欲しくなっている。世界史なんか、何も無い。本当にしない方が良い。

政治経済が賢いのは、そういうものが悪いと言うのがきちんと分かる。要は、そういう悪いは、本当に見ない方が良い。要は、世界史なんか、記憶に取り入れない方が良い。

そこまで言うと悪い。この本は、本当の歴史の姿が良く分かる、楽しい良い本だ。

昔から、農業や綿織物産業など、何でも全部欲しいのが王だ。

それは、本当に分からない方が良い。分かっていると、馬鹿になる。

そういう意味が無いものは、本当に要らない。そういうわけで、世界史なんか、誰もしたくない。世界史は、誰でも、そういう、強欲な王と殺し合いの意味が無い記録に見える。

賢くないのは、ただの記録で、説明すらされていない。

もっと具体的に、仏教や学問だけを知れば賢い。そういうわけで、誰でも理系になる。

文系は賢くない。政治経済は、ただただそういうものが悪いのが分かるだけだ。

理系でもやれば良いようで、文系が分かっていると、自然に理系が出来なくなる。そこらへんが意味が無いと言う人間が多い。

世界史の王なんか、何でも欲しい馬鹿が皆を殺しているだけだ。

王とは言うが、ただの馬鹿だ。白人の王なんか、徳川と変わらない。ただ、何かしらで実力をつけた、軍人に見えて、ほとんどは世襲だ。ただのクズだ。

数学やパソコンを賢いとは言うが、そんなにしていると馬鹿になる。数学やパソコンが一番馬鹿になる人間が多い。数学は、分からなくなって、学校の子供になる。パソコンは、ネットみたいな、狂った知性の無い馬鹿になる。

そういうわけで、政治経済をするのが良い。それが一番、まともに分かる。理性や哲学のことも、政治経済をすれば分かる。

世界史を最後まで読みたいなら、読めば良いが、むしろ、読んだ方が良い。それは悪くない。あとあとの自分の自信に繋がるから、読めば良い。政治経済は、同時にやれば良い。

パソコンは、何か世界を知りたくて、何かやりたかった。Linuxのシステム、それもごく基本的なシステムは分かった。

パソコンのことより、もっと他の哲学のようなことが良く分かっていた。

哲学は、もう終わったし、ただの馬鹿だから、しない方が良い。

数学をした方が良い。むしろ、政治経済と同時にすれば良い。

政治経済なんか、もう十分に見える。数学だけしないのはおかしい。

数学は、大学数学を中心にやれば良い。不思議と読むだけでは出来ない。考えて、問題のことや考え方のことを、ゆっくり着実に考えて、覚える必要がある。

それは、本当に子供の方が出来る。大人は、何も考えず、読むだけにしかならない。大人には出来ない。数学は、大人になってからやるものではない。

それは良いが、そうすると、終わりだ。

政治経済を読んでいると、憲法の自由権なんか、本当に自分の方が馬鹿だ。

それこそ、こんな文章はどうでも良い。デリダと言うと賢く見えて、当たり前の構造をこれでもかと言うぐらい誇張して、適当な言説のように成り立たせているだけだ。

何か、社会の普通の構造を作っていたのを書いていない。本当にそれくらいが無い。もっと、この世界、普通のこの社会の構造を、世界観として作っていた。それが多かった。

あとは、数学的で相対的な考え方が多かった。多かったとは言うが、こういう風に多かっただけだ。世界観や方法を分かっていた。

むしろ、大人にも数学で分かる人間は多い。

それに、政治経済なんか、右翼と左翼だ。国の仕組みは、普通、もっと色んな本で分かる。そこまでしたくない。政治経済は、本当に国が分かるのが良いから、した方が良い。

世界史をまだ読んでいればそれで良い。それを止めると、そういう風に、もう終わる。何もしなくなる。終わってしまうと、本当に出来なくなる人間が多いから、まだ終わらない方が良い。いつまでもこのままで良い。

学問はもう良い。むしろ、心理学や物理学のような、もっと理論的で体系的な学問をしないのがおかしい。学問的な学問を何もしていない。何もしないなら、何かすれば良い。

あとは、価値観の転換のように、人生経験を分かっていた。

自分の本当に出来る、楽しいと言うことを知って、それを極め、そして人を助けながら、そういうことが皆にも出来る、と言うことを教えること。

本当に楽しい、本当に良い、と言う状態から、宇宙の自我のようなことを知ること。

そういうことを言いたかったのだと思う。

ありのまま、自然体で、全てを許し、全てを吸収し、全てを融和する。

良く分かっていないが、釣りをするのが良い。自分は、昔から魚は釣れたことが無いのだが、やっていると、釣れる時は釣れると言う。それこそ、やっていれば出来る。

釣りは良いと思う。それこそ、馬鹿でも釣れる釣りしかない。誰でも釣れる。

あまり考えず、釣りが良い。

スポーツもしない、ゲームもしないでは、釣りぐらいしかない。

父親と一緒に農業をやっているが、釣りと農業は、似たようなところがある。

あとは、デカルトのように抽象的、推論的に考えていた。

カントのような仮象の世界のことなどを、本当に良く分かっていた。

ヘーゲルのような精神の成長も多かった。普通、高校生がこういう風になる。

ロキを見れば良い。ロキを見ると、きちんと書いてある。

もっと、自分のことを賢かったと思えば分かる。

自分には出来る、と思って、積み重ねて、確かに信じること。

全員の意見を聞いて、全員に出来ることが自分にも出来ると信じること。

倒す相手のことも、何かしら、正しいと考えること。

経験で分かるところもあるが、分からないところもある。

見ている現実は、正しくない。もっと正しい、本当の真実の可能性を考えること。

この世界は、全て変えられるのだと、それも本当に合意と手段によって、自分にも変えられるのだと考えること。

王と自分の違いは、何も無いと考えること。

本当に皆のことを信じて、悪い人間も良い人間も、平等に信じてあげること。

出来ることを皆と分かち合って、分かり合って、考えること。

皆で作る、この世界を愛すること。

それも、意味がある方法と結果から、良い社会、意味がある社会を築くこと。

人生は、自分だけの価値ある体験であると考えること。

自分には、自分の人生しか変えられないし、生きられないと考えること。

自分の分かる範囲のことを、自分の分かる限界や条件から、少しずつ考えること。

全てを知る。それは出来なくても、出来るところから頑張ること。

人を助け、環境を改善し、経験を吸収し、未知を知り、可能性を高めること。

この世界が持てる可能性を最大にすること。

何人も、自分と同じように大切にすること。自分を愛するように他人を愛すること。

存在を確かに知り、吸収すること。

他人に頼ることを止めて、自分だけの力で出来るようになること。

自分の持つ限界を良く見極めること。

見ていることの真実を良く考えて、良く分析して、判断基準を作って、見極めること。

基準を作って変化を考えれば、分かることもある。感覚と理性両方に頼ること。

自由は、信じながら信じない、肯定しながら否定する、ところから生まれる。

価値観から、秩序を作る可能性のようなものを知ること。

メジャーな分野ではなく、マイナーな分野にこそ、成功はあると信じること。

あとは、キリストが色んなことを言っている。それを信じれば良い。

裁くものは裁かれる。地上に蓄えるより、天に蓄えるべきだ。イエスが言っている。

だが、そんなものは知っているとは言えない。マタイの最初しか読んでいない。

祈るために祈るな。本当にその人のことを大切に思う時にだけ、祈れ。

僕は、推論と証明が分かっていない。

推論は、それがそうであることから、本当はそうじゃないのかな、と考えること。

証明は、その推論を実証し、本当にそうなのだ、と考えること。

もっと、構造的な成り立ちや実験の結果から考えれば出来る。

自分は、推論と証明が分かっていない。

昔は、それで分かっていた。最近分からなくなった。それは、分からない方が賢いからだ。

そういうわけで、数学が出来ない人間には、賢い人間が多い。

要は、そんなに人を支配して、言葉をつけて、正しく説明するのが悪い。

何故なら、それが推論だ。推論とは、言葉や理屈を考えて、それが本当にそうであると、人に説明し、見せつけることだ。

そういうわけで、推論なんか、これで分かっている。

もっと、書かずに、自分の中で正しいことを疑って、そうじゃないのかな、そうでもないが、そうでもない、本当はこうなら、これはこうだ、それなら、これもそうだ、そして、それなら、それもこれもそうだ、ならば、そうだ、と考えれば良い。

実験はすれば良いが、心では分からない。客観的に、心や感情や主観的ではなく、法則的に実証すれば分かる。心なんか実験する人間は、居ない。

自分は賢くなったのだと思う。

もっと、信じるのではなく、批判すれば良い。正しいことを人に見せつけて、説明する前に、自分で疑って、それは本当は違うのではないか、こういうことである可能性もあるのではないか、と考えれば良い。そういう風に考えれば良い。

数学も科学も正しくないし、政治経済も間違っている。そういう風に、全て疑わないと、分からない。だから、普通物理をやっていると、そういう風に疑うようになる。自分の父親のように、政府や役所が嫌いになる人間が多い。

そろそろ分かったと思う。ここに書く前に、疑えば、それで推論出来るかもしれない。

あとは、世界の全てを推論していた。社会、自然、人間、真理、関数、現実、理想、理性など、色んなことを推論して、アリストテレスのように考えた。

そのはずだが、それを書いて信じるのは悪い。もっと正しく考えれば、違うのが分かる。

人間には可能性があって、漠然とだが、何かを良く実現することが出来る。

そのために、人類が今、していることは、全部間違っているが、それでも、そこから参考になることは多い。

それこそ、プラトンは現実世界をイデア界の不完全なコピーであると疑ったが、アリストテレスは、その現実世界からも学び取り、参考に出来るものはあると考えて、考えた。

そのようにすれば良い。

あとは、そのまま、哲学者のように分かる。経験と思えば分かるところも多い。

もっと、推論的、数学的に考えること。

要は、フランス語の辞書なんか、フランス語なわけがない。

物理なんか、何も正しくない。本当の宇宙なんか、分かるわけがない。

自分のことは確かに分かっているようで、誰も人間のことが全部なんか、分かっていない。

心臓や肝臓が本当はどんなことをしているのか、誰も分からず生きている。

人間が思っているのと、生物の仕組みは、全く違う。

それ以上は、経験すれば良い。推論と経験から、全てを疑う以上に、世界のこと、人間のこと、理性のこと、思考のことが分かって来る。

それこそ、人間は、良く考えれば、全て可能性に変わって、全て変えられる。

何もかも、可能性と決まりへと変貌して行く。その中で、可能性を実現出来る。

いつもそういうことを言っていた。全ては可能性であり、変化の中で、残るものは、自分自身だけだ。ただそれだけだ。確かなものは、自分だけだと言える。

要は、テレビではなく、新聞やラジオがあっても良い。

それなら、教育なんか、全く違う、独自で自由な教育環境があっても良い。

それは、確かな具体例から考えることが出来る。要は、インターネットみたいに出来る。

そういう風に考えると分かる人間が多いが、そういう発想はただの馬鹿だ。

ブログ教育なんか、本当に考えられるから、最近はそういうことを言う馬鹿が本当に多い。

おかしくはない。ツイッターやフェイスブックは楽しい。

友達をそんなに作る人間は居ない。仲間内だけで、2ちゃんねるのように会話するのは、不思議と、楽しい。昔は、そういう、確かな楽しい実感を信じて分かっていた。そこから、社会の可能性が分かった。実感から、人間社会のことが分かった。

それを書いていた。それで、全ては人間の作り出したものであり、今でも作り出していると言っていた。そういう、世界観の実感を書いていただけだ。

もう終わりだ。あとは、2ちゃんねるが要らない。そろそろ、自分が見て要らないから、2ちゃんねるの時代が終わる。自分が終わらせる。

コミュニケーションより楽しいものは、戦いしかない。それも、こういう風にすれば良い。

数学なんか、自然や必然から分かって、証明して、正しいのを見せつけて、信じるだけだ。

上手く考えながら信じれば良い。

昔は、本当に自分の数学を、公理主義的に、経験と全体像から作っていた。

言葉と論理を作って、全部分かっていた。全部出来るようになる、悪魔の数学だった。

何もかも、自然にそういう経緯になるのを分かっていた。なるようになるのを全部分かっていた。そういう文章でもあった。自然にそれになる、と言う概念を全部分かっていた。

それが何故パソコンなのかと言うと、パソコンだと思うからパソコンだ。

あるいは、皆がパソコンだと言うからパソコンだ。

視点を変えると、見えて来るものがある。

数学はそういう風になるから、分からなくなる人間が多い。数学が無いと、この世界はちっぽけな洞窟に見える。数学が分かると、この世界が、何も無い中で、きちんと必要な光が暗闇に灯るようになる。それのことを解脱であると、ブッダが言っていた。本当の真実の光と真理があると、暗闇に光が灯る。無明も、解脱も、そういうものだと思えば良い。

あとは、もっと色んなことを経験で分かっていると、神のビジョンが分かる。そのためには、沢山の果てしない人生経験を、最後まで知る必要がある。自分は、昔それが出来ているから、楽だ。最近の地獄を加えると、もう経験で既に分かっているのが自分だ。

そういう風にすると、八正道のような、全ての正しい生き方と方法が分かる人間が多い。

もう、読まないなら、仏教の本の続きを読むのが良い。まだ、半分も読んでいない。途中で日本史に変わったはずだったが、もっと仏教を読んだ方が良い。そのままロックやヒュームをやれば良い。今読むと分かる。ロックが数学ぐらい、当たり前に分かっている。

自分が無明になるのは当たり前だ。何も分かっていない。

アリストテレスの言う四原因説や、カントの言う仮象の世界のように、理由のこと、原因のことを良く考えていた。

だが、分かっていないのは、馬鹿にも賢い点があるのが分かっていない。

「火が燃えるから、ストーブがつく」と言うと、おかしく見える。何も分かっていないように見える。それは、良く考えると、カントのような仮象の世界になる。

だが、そういう、純粋的な理性は、賢い点もある。そういう風に考えると、エネルギーの発生と火が燃えると言う現象の繋がりが、因果性を持って理解出来る。

それは、馬鹿に見えて賢い。理由になっていないとは言うし、心理学でも、HowではなくWhatのWhyをせよとは言うが、それも悪い。本当に、そういう風にすると、ここまで分からなくなる。日本語を否定するせいで、日本語が分からなくなった馬鹿が自分だ。

「スイッチを押したからストーブがつく」とか、「使ったからティッシュペーパーが無くなった」とか、そういう考え方は、何もおかしくはない。日本語的だ。

だが、そういうものを馬鹿だと思うのは賢い。それは、真理へと到達する好奇心がある。昔から、哲学者は誰でもそこから分かる。カントだけではなく、ヘーゲルなど、賢い人間は、論理的な仮象の世界から出発する人間が一番多い。

そろそろ日本語が分かった。日本語が分かる人間が賢い。

「よって」「ために」「もし」「ならば」のような日本語が分かる。

長らく苦しんでいた地獄と無明の世界が終わった。そろそろ、きちんと日本語が分かる。

日本語が分からないと、こういう風に、子供の大人になる。

何故か、こういう人間が馬鹿に多い。馬鹿は子供にしかならない。

数学はしなくて良い。数学なんか出来るわけがない。仏教と政治経済をやった方が良い。

経験論の道は、仏教の道と同じだ。昔、ヒュームの言う印象のようなことを、仏教的に考えて分かっていた。ヒュームは印象や共感のような、普通に見えて、哲学的なことを言うが、それは普通、誰でも経験と知覚をきちんと考えれば、同じになる。

それは、高校生が人生の最初の段階を経験するのに似ている。新しく知った世界観の中で、行動し、本当の人生の意味を知り、光を求めて経験する中で、他者との関係、世界との関係、自分の経験と宇宙との関係を知って、印象や共感と言う経験的な真理に至るのだ。

今、仏教の本を読んでいる。解脱へと至る道から解脱が得られると考えてはならない。道がそのまま解脱であり、解脱がそのまま道である。ブッダは、そういうところで、分かっているせいで分かっていないところがある。

解脱と道を一緒にしてしまうのは良くない。道と言うよりは、解脱はそのまま、自分の状態と自己意識と目的がなるものであり、道の先にあるものではない、と言ったことを言うべきかもしれない。道ではなく、そのままなる、と考える。

ただ、そうではない。ブッダの言いたいことは、解脱そのものが道である、というところだ。解脱、と言うものは、それ自体、道、と言う概念や考え方を含んでいる、と言いたい。自分は浅はかなことを言ったように見える。

正しい生き方をし、善行を積んでいると、自分から求めなくても、解脱は自らやってくる。日常の中に、解脱への道はいくらでもある。解脱はそのまま道であり、道はそのまま解脱である。要は、人生の全ての道は、解脱への道であり、道はそれ自体解脱なのである。

ブッダは賢すぎる。ありえない。

自分が言っている世界観とは、比べ物にならないくらい、大きなことを言っている。

あとは、自分は、世界観を言っている。色んな時間や時代の中で、人間の中で変わること、世界の中で変わること、変わるものと変わらないものを実地的に考えた。実存主義のようであって、それでいて、歴史的で、ヘーゲルにも見えるが、そうでもなく、人間が原始人から変わっていないとか、日ごとに重要性は変わっているとか、そういう、どうでも良いように見えることを言う。それも、色々と、破壊したり、皆を自分にしたり、悪行のようなことが多かった。そういうわけで、自分も自分で実存主義や構造主義の哲学者だ。

どうでも良いほど、自分はブッダよりはるかに馬鹿な文章を書いているだけだ。