日記に戻る | 2015年11月の日記に戻る

=2015-11-02=

書かないと怖いから、まだ書いた方が良い。

食品関係の単語は、良く考えるとまだある。「食糧」、「食材」、「軽食」、「グルメ」など。

だが、そこまで言うと、外国語でも、食品関係の言葉は多いようにしか見えない。

「ランチ」や「ディナー」なんか、アメリカでも言う。日本は賢くない。

自動車を無くすためには、徒歩で行けるぐらい、コンビニを配備すれば良い。

そして、虐待やいじめを無くすためには、皆で子供を育てれば良い。

「食料品」、「生鮮食品」、「農産物」、「特産品」など、本当に日本語は多い。だが、それぞれ意味が違う。それらは、それぞれ意味が違う単語なのが分かっていない。

良く考えると、「定食」とか、「弁当」とか、どうでも良いほど多い。

ランチやディナーは、日本でも言う。それこそ、そんなに多く見えない。アメリカでもそれくらい言うように見える。これなら、そんなに多くないと言う。

日本は、水から野菜まで、言葉をいくらでも作る。ただの馬鹿な島の文化だ。

忘れてはならないのが「食文化」だ。不思議と、言う場面が違う。それぞれ何が違うのか、漢字のせいで誰でも分かる。そういうわけで、漢字が賢いだけだ。

意味がちょっと違うが、「ファストフード」、「レストラン」、「メニュー」、「レシピ」など、カタカナ語もきちんと多い。何故か、きちんと英語もカタカナで分かっている、賢い国が日本だ。英語が出来ないとは言うが、カタカナ語は誰でも分かる。日本の知的水準は高い。

「食堂」や「料理店」のように、店を指す言葉もある。

どうでも良いから、本当に日本はどうでも良い。賢いのは、世界の逆を言っている。短くせず長く言うし、漢字は難しくなる。本当にサムライみたいな言語だが、そんなにキモくない人間が多いのが、日本語だ。外国人が見て、中国語や日本語はそんなにキモくない。日本語が一番賢いのは、日本人なら誰でも分かる。何かが賢い。あとは、敬語が多い。

あとは、世界の設計図や、世界観みたいなものをいつも書いていた。

こういう人間は、日本に普通に多い。日本が一番賢い。

言葉はもっとある。「飲食品」や「ジャンクフード」、「ご当地グルメ」など、どうでも良い言葉が本当に多い。どうでも良いほど、それはアメリカにも多い。

世界の設計図のようなものをいつも書いていた。歴史やモデルといつも言っていた。

あとは、宇宙の設計図、物理の構造みたいなものをいつも書いていた。

具体的な法則と網羅から、宇宙のことを具体的に全部作っていた。

日本語は、敬語が賢い。敬語のおかげで、礼儀正しい良い民族になった。

日本人は、敬語が賢いだけだ。

あとは、語尾につける単語が賢い。「でしょう」をつけると肯定的表現になり、「だよね」をつけるとカジュアルな確認的表現になる。そういうところが賢い。

カタカナ語があるせいで、英語なんか誰でも既に分かっている。日本人が英語が出来ないのはおかしい。カタカナ語を既に分かっているのに、出来ない。カタカナ語をそのまま話せば良いのが、分からない人間が多い。日本人が英語はカタカナ語で全部分かっている。

日本語は、英語と比べて、話す順番が全部逆だ。良く分からない。日本人はありえない。賢くしているように見える。ただ、賢くはしていない。逆なせいで、誰も話せない。

日本語は、文字は中国語の派生だが、文法的にはドイツ語と良く似ている。格助詞が自由な順序で話せるし、動詞も同じように使う。ドイツと文化的に似ているのが日本だ。

だが、明治維新はイギリスを模したものだし、文化的には中国で、戦後の経済はアメリカやドイツの製品をコピーして作っている。日本は、文化的に全世界が融和している。

辛いことには、逃げ出さず、立ち向かえば勝てる。

そんなに逃げ出していると、その方が辛い。正しく捉えて、信じて打ち勝てば、勝てる。

自然や社会の状態や変化を、基盤と知性から分かっていた。

本当に全部分かっている、知性や考え方のような文章が多かった。

パソコンのような文章を書いていた。ボトムアップやプラットフォームと言う。

全員を平等に幸せにする、のような、理想と思いやりの考え方のようなものを、作って分かっていた。全ての思想のようなものを作って、理想のような言葉にしていた。

自由に世界を変えたかった。

インフラは基盤の共有だと言って、制度は経験による秩序の発明だと言っていた。

そのように、言葉で全てのことを考えた。本当にそれくらいしか、書いていない。

ドイツ語は話せる人間が多い。ドイツ語と日本語の比較のようなことをいつも言っていた。日本語は概観で、ドイツ語は判断だと言っていた。ドイツに良くしていたが、今考えると、はるかに日本の方が賢い。日本語が一番賢い言語だ。

日本語は、ロシア語やラテン語と良く似ている。特に、語尾に格変化がつく。

賢い言語は、フランス語だ。発音がありえないだけではなく、前置詞などがどの言語よりも賢い。ドイツ語は古くて、良く覚えていないが、動詞や前置詞の格支配がある。

これで自分の大学だ。本当にこれで良い。

昔は、線形代数や微積分やベクトルのようなものを、全部自分で作っていた。

何もかも、数学を自分で作る。全てを証明して、全部解決して、全て分かっていた。

自分の大学を作りたかったから、これで良い。本当に一番良く見える。

昔から、外国語にいくらか詳しいのが自分だ。ドイツ語とフランス語をしたかった。

この文章が、何故かドイツ語と全く同じように書いてある。ドイツ語の判断の知性がついた。そういう風にしたかっただけだ。これでドイツ語もきちんと出来たのが自分だ。

昔、ソシュールのような言語学を全部作っていた。イチからフランス語を作った。言語哲学もきちんと出来たのが自分だ。ウィトゲンシュタインと同じように言語分析をしていた。

天使になった男のような、人生論や人間論が多かった。

色んなことをしているようで、何もしていない。

昔は、自由を積み重ねてネットを経験していただけだ。本当に何もしていない。

何かしたいようで、したくない。出来ない。哲学のせいで何も分からなくなった。

良く分からない。これ以上、何もしない方が良い。

自分は、文章を書くのが好きだ。それなら書けば良いが、書いていると、本当に辛くなる。

もう、書きたくない。楽をしたいなら、その楽をしたいのも悪い。楽は楽でない。

何かしたいようで、したくない。いつまでも文章を書きたいなら、それは楽に見えて辛い。

良く分からないが、会話はフランス語をしているだけで、文章は英語を書いているだけだ。

これが理想だ。理想の大学生になっている。

いつまでもこのままで良いのが分かっていない。今のままが一番賢い。

要は、おかしくて、馬鹿だと思っている。それは、いつまでも馬鹿でおかしくて良い。

おかしくはない。いつまでもおかしいのが一番賢い。これなら、学者ほどに知識が分かって良かった。哲学と歴史なんか、本当に全て、隅から隅まで分かっている。

意味の無いものには意味が無い。意味の無いところには、行かない方が良い。

アートスクールなんか、行っても意味が無い。アートスクールは悪くない。ただ、そんなに分かる人間は居ない。アートスクールなんか、何も分かっていない。

英会話教室が怖いのは、英会話教室で英語なんか、誰も出来ない。悪いのではなく、意味が無い。それこそ、悪いわけでは無い。何も考えていないし、何も分かっていないだけだ。

それこそ、出来る人間は出来る。賢い人間が、上手く利用すれば良い。それこそ、自由に出来る人間が多い。英語が出来ないのは、本人が悪い。そういう本人が自分だ。

自分には、夢が無い。辛いとは言うが、何もしていないだけだ。

不可能なことに挑戦する気力が無いのがおかしい。賢いことをしたいと思えば良い。

自分には出来ないとは言うが、それはおかしい。やれば出来る。それを信じれば良い。

数学的に考えれば分かる。コップは、「ガラスで出来たもの」にして、抽象的に予測する。そして、グループや条件や論理の証明を考える。そういう風に、厳密に考えれば分かる。

あとは、歴史をする。高校なんかしなくて良い。大学をいきなりやれば賢い。

あとは、厳密に考えて、論理や作用を積み重ねて、自由を積み重ねて分かっていた。

体験的な経験を積み重ねて、論理的に考えて、自由の積み重ねのようなことをしていた。

そういう、数学的な論理性や抽象性のことを、いつも言っていた。考え方の文章だった。

数学的な段階や、世界観のようなことを言っていた。

状態と知性から、愛の感情が分かる。それは、経験と関係になって、調和になる。

そういうことを言う。全て分かっていた。

最近は、支配して、分かることを全部詰め込んで、全部変えていた。

解放する意味が無いから、支配した方が良い。

日本は、自分のせいで時が止まっている。それを支配して直せば良い。

そんなことがしたかったのはありえない。聖書にある、神の御業のようだった。

自分は、もう死ぬかもしれない。これ以上は、何も出来なくなる。

手相の生命線が長いから、まだ生きると思う。生命線に三人が出ている。生命線は当たる。

テレビが怖いのは、皆が狂っているのが怖い。見ていると、分からなくなる。

怖いのは、自分が怖いだけだ。自分は、脳の無い、社会主義者のロボットだ。

本当に、ドイツみたいに怖い。ソ連の監視社会に見える。自分が怖いのが自分だ。

心が生きているのが死んだ。ほとんど完全に死んだから、もう楽だ。

このまま生きるのが良い。そういうわけで、死んでも死んだりはしない。

あとは、本当に自分が怖い。いつまでも、ソ連のような監視社会が怖いし、ロボットが怖いのは、自分が怖いからだ。テレビが怖いのも同じだ。

テレビが狂っているのは、自分のせいで、Linuxのせいだ。Linuxのせいで、皆狂って分かるようになった。インターネットが悪い。テレビやインターネットは見ない方が良い。

最近、テレビを本当に見ていない。ニュースはたまに見ているが、他に何も見ていない。

中央集権と地方分権とか、社会の設計図とか、相対的な数学の自由な考え方のモデルとか、世界の全体の構造とか、行動や方法の構造とか、そういうことをいつも書いていた。

ソ連が怖い。ソ連は、完全に自分を殺すだけの、監視社会だ。

自分が革命を起こしたせいで、そういうソ連の日本が怖くなった。

今でもそういうものが怖い。日本が自分をロボットにしたいように見える。今でも、そういうものが怖い。どうでも良い。日本は自分が好きなだけだ。

そろそろ終わりだ。覚えていないのはありえない。本当に永遠みたいに多かったせいで、そこらへんを覚えていない。まだロボット人間になるのが怖い。アンドロイドが出る前の、Linuxの妄想がロボット人間だ。皆が自分をロボットにしたいように見える。おかしい。

最近、まともだ。テレビを見ないだけで、まともな人間になった。

昔の自分は、狂っている。不思議と、Linuxは賢い。あれなら誰でもきちんと知恵が全部分かる。最近は、Linuxは賢い。きちんと分かっている代り、狂うのがLinuxだ。

日本語は、前置詞が賢い。そういうことを言っていたのがいつもの自分だ。

アメリカが狂っているのは、自分のせいだ。Linuxが悪い。何故か、英会話教室が怖い。

あとは、状態と比較における、認識と考え方、のようなことを言っていた。

デカルトのようなことを言っていた。モデルを作りながら、推論や部品化、疑うや検査など、デカルトとあまり変わらないことを言っていた。状態と比較を作っていた。

相対的な、行動と実験の結果から、色んな考え方が分かるのを書いていた。

デカルトは、あまり極端な思想に走るべきではないと言っているが、それは正しい。

あとは、環境を自由にするとか、自由なまま導いて教えるとか、自由なことを言う。分かっていないものには、アドバイスや助言を与えるべきだと言っていた。

昔は、デカルトのような考え方を経験から分かっただけの人間だった。

つまらないが、Linuxで分かっていた。人生の調和と真実と経験の考え方が分かっていた。

プログラミングやOSなど、技術の歴史が好きで、創造性を愛していた。

皆のことは全て分かっていた。皆の経験が分かる人間だった。

そういう、ブッダのような、人類の長のような人間だった。最も高いところで色んなことをやっていた。精神から脱出するなど、ブッダのように悟って分かっていた。

人生経験から、ヤスパースのように、全てを悟り、実現し、実行する人間だった。

何でも全て大切で、守るべきだとする、優しい気持ちの分かる人間だった。

そういうわけで、自分が一番神に見える。昔から、救世主のような右翼だったが、見ていると、右翼には見えない。昔を本当に見ると、悪い左翼にしか見えないのが自分だ。

自分は、一番賢い、救世主の支配者で、革命家だ。右翼や左翼と言うよりは、革命軍だ。

それは、言わなくて良い。悪いことはしていない。この文章を書いているだけだ。

昔は、ネットで大人と議論して分かった。大人とは言うが、子供しか居なかった。子供の中の王になっている。何でも恥をかいて、皆と議論して、色んなことを言われて分かっていた。不思議と、内向的ではあったが、楽しいことや面白いことを言える、経験とビジョンがある人間だった。自分は、楽しい人間だ。

もっと欲を持った方が良い。欲が無いのがおかしいから、こういう馬鹿になる。欲張りにならないのがおかしい。勇気もないし、わがままでもない。そこが悪い。

そういうところで終わりにすれば良い。いつも、一言多い。

自由な中で、何でも出来ると思っていた。自分は世界を支配して、何でも変えられると思っていた。何でも、考えることで、全て分かって、全て知っていると思っていた。

そういうことを言っていたのが、自由とか、全ては未知である、などだ。

そろそろ終わりにしたい。もう、皆をもう解放もしないし、時が止まっているのはもう治さない。皆が自力で治るべきだ。そういうわけで、精神科医のドクターも終わりだ。

Linuxやオープンソースの賢い点は、拡張性と公開性があって、色んな機械に応用出来る。それこそ、NetBSDはトースターでも動く。

ネットを見ていると、プログラマはカッコよく見える。そういうわけで、バザール開発のプログラマなら、自分でもなれるように見えた。それだけの人間が昔だ。

オペレーティングシステムの本は買ったが、読まなかった。理論は難しい。

運命には、良い運命しかない。全ては、こういう風に、自分のためになる。

エネルギーのようなことを良く考えれば分かる。熱いのは、熱エネルギーがあるからだ。

KDEなんか、本当にカッコいい。そういうわけで、KDEが勝つだろう。

考えているだけではなく、自分で体験し、経験すれば分かる。

昔はそういうことを言っていた。経験の洞察みたいなものが多かった。

本当に、経験から来る洞察のようなものを書いていた。

辛い部分は、無視すれば治る。楽になる。昔虫歯を無視して賢くなった。足の精神が辛いのは、無視していると、すぐに治る。

WindowsにGNOMEとKDEを乗せれば良い。Windowsアプリケーションも動く。

社会は平等な理想から生まれるとか、社会のことも洞察し、想定し、分析していた。

昔は、パソコンの経験から体験的に、体得と具体例と科学を分かっていた。

足は、もう治った。もう全て楽になった。

最近は、パソコンを止めて、神を信じながら戦って文章を書くようになった。

昔は、本当に経験から科学のことを考えていた。同じ発想を全部して分かっていた。

本当に、経験から科学者のように科学を分かっていた。

最近は、意識で全部分かっている。宇宙のことが全部分かっていた。

もう、既に最近ではない。もう何年も前だ。

今は、もう分かっていない。普通の人間になった。昔は賢かった。

社会の設計図を書いて、全ての「出来る」を考えていた。そういう文章だった。

変化の可能性を考えて、成り立たせながら、存在と言葉を作って分かっていた。

そろそろ終わりだ。もう治った。足はもう楽だ。辛いのは、無視すればすぐに治る。

いつも、解決の方法が全部分かっていた。そういう風に治していただけだ。

神のように全てが分かる、導いて解決する、全て分かった人間だった。

最近は永遠だ。昔は実地的な体験と自由な争いだったが、最近は永遠の神の地獄になった。

そういうわけで、この世界はもう狂って永遠になれば良い。

だが、それも悪い。自分にはならなくて良い。

ヒンドゥー教が見ると、昔がヴィシュヌで、今がシヴァだ。ヴィシュヌはすぐにシヴァになる。それが繰り返す。そういうわけで、神を信じると誰でもこういう風になる。全部同じことを言っているのが、全ての地域の宗教だ。どの地方も同じだ。

あとは、全ての哲学が出来た。ウィトゲンシュタインのようだ。

昔は、意識で分かっている。不良みたいな意識の体験をして分かっただけだ。

何でも全て体験し、哲学的に考えて分かる。全ての体験を愛していた。

そろそろ終わりだ。もう、あとは、皆はもう治らなくて良い。そんなに治すと、自分の方が治らない。そういうわけで、あとは自分だけ治って終わりだ。

昔は、ヴィシュヌのように、建設的にものごとを積み重ねる。最近は、シヴァのように、全てを支配して、破滅へと導く。だが、どちらも本当に良い人間だった。

インドと日本は、昔からよく似ている。カーストと天皇が似ているし、ブッダを日本人が信仰している。帝釈天などのように、ヒンドゥー教の神を日本人が信じている。

あとは、歴史上の日本は、朝鮮や中国などの外国利権を求めて争った。歴史には、そういう、外国の利権と言う考え方がある。イギリスやフランスやスペインなどに多い。

日本は、中国と仲良く出来ないのがおかしい。全く同じ文化なのに、中国よりアメリカやヨーロッパなどと仲良くする。日本は中国やインドと仲良くするべきだ。

放物線や波から式を知ると言っていた。そういう、賢い、分かることを言っていた。

歴史において、人の生活は変わっているが、大きな人生と社会のテーマは同じだ。

昔は、そういう、科学や歴史の、分かることみたいなことを言っていた。

利権とは言うが、植民地が欲しいだけだ。

もっと、分かることをモデルにして考えれば良い。それで分かる。

ソ連は、奴隷にせず、地球を全員平等にして、本当に幸福な社会を作りたかっただけだ。

アメリカなんか、自分の国のことしか考えていない。人類のことを考えるのはソ連だけだ。

そういう風に、分かる歴史、科学、数学、哲学、のようなことを言っていた。

政治は、キリスト教民主同盟を作れば良い。キリスト教徒が皆で支援する。それで、きちんと世界を直せる。コンピュータを無くしたり出来る。政治は、色んなことが出来る。

数式で、何でも分かる。降水量から地球のシミュレーションまで、数式で何でも分かる。

生命は、環境を自分で変えられるようになると、それが人間だ。

そういう、賢い考え方のようなことをいつも言っていた。

パターンとは、放物線や波のようなことを言っていた。

そろそろ終わりだ。そんなものしか書いていない。きちんと考え方を分かっていた。

宇宙には、理論的に見て、ありえないものが多い。

むしろ、太陽も生きているように見える。そういう風に、考え方が多かった。

キリスト教民主同盟をやれば良い。自分でも勝てる。だが、そんなことはしない。

町を美しくしたりすると、キモイ。日本の建築は、醜いだけ、面白い。

いつも、そういう風に、何をすれば良いのか、発想と提案と意見と解決を考えていた。

もう一度言うと、放物線と波から式を知る。それは、もっと考えて、ベクトルと作用を統合したりすれば良い。合理的かつ自動的にプログラムを作れば、人工知能に見える。

賢い知識は、普通伝番するが、自分の場合、伝番せず、自分の中に溜め込んで考えていた。

相手と向き合って、距離を離れたり、近づいたりして分かっていた。遠くへと離れたり、じかに対話したりして、環境の内側と外側を分かっていた。

無駄を無駄と思わないのがおかしい。そんなに良い人間になっても意味が無い。学校や部活が無駄だったのが、一番怖い。パソコンもゲームも無駄だ。そういう、無駄なことはしない方が良い。分からない人間が多い。無駄な努力はすべきでない。

剣道部が無駄だったのがありえない。学校の勉強も、プログラミングの学習も無駄だった。それらは、本当に頑張って、努力した分野だ。無駄にしたのが一番おかしい。

怖いのは、全部、そういう無駄が悪い。引き篭もりになって、全部無駄にしたのが怖い。本当にそれだけがあまりに怖くなった。言わないから分からない。もう分かった。

剣道は、本当に頑張っていたのに、無駄にしたのがありえない。学校の勉強も、頑張っていたのに、無駄にして意味が無い。人間関係も無くなった。良く考えると、怖い。

コンピュータのことを全部知っていた。

あとは、ヘーゲルのように、喪失から共同性を自覚して分かった。何故か、全部一度体験して、経験して、試して分かっていた。ヘーゲルもそういう人間だ。

ただ、全て失っただけだ。失うことは、そのまま、得ることに繋がる。失うのも悪くない。