日記に戻る | 2016年1月の日記に戻る

=2016-01-31=

もう、治す方法は書かない。自力で治ってほしい。

植物のおかげで動物や人間が生きているのだと言う実感、地球は丸いのだと言う実感、生命は海から生まれたと言う実感、太陽エネルギーが生命であると言う実感、他の人間が確かに存在しているのだと言う実感、他の人間は自分ではないと言う実感など、実感から宇宙や人間や生命や人生のことを分かっていた。

体験で分かっていた。色んな体験をして、良く分かっていた。

自分は、これで、経験主義者だ。それこそ、全てを経験だと考えて分かっていた。

近親相姦が怖い。兄妹でセックスはおかしい。それが怖いから、歩き回っている。

LinuxのWikiにソースコードを載せて、誰でも開発が簡単に出来るようにしたかった。

ソースコードの解説を載せることで、初心者でも開発者になれるようにしていた。

辛くても、頑張らなければならないこと、しなければならないことを頑張っていた。本当に沢山のことを頑張っていた。

認識や論理学のことを分かっていた。環境認識のようなものを分かっていた。

環境、人生、社会、地球、宇宙、哲学、科学など、色んなことを実感で分かっていた。

体験で分かっていた。誰でも、オープンソース活動をしながら、適当に体験していると、きちんと賢いことが分かる。大学では分からない。何もしていないのに、哲学を分かっても、おかしいだけだ。哲学者は、そういう、活動をしている人間が多い。

ただ、昔は、活動と言うよりは、手段や影響力を行使しているだけだ。その中で、経験し、理性的に考えていた。社会の構築のようなことを分かっていた。

世界史はそろそろ、三冊目になった。だが、むしろ、デカルトをした方が良い。

最近とは言うが、最近は最近ではない。はるかに昔、何年も前のことを言っている。

戦うのは悪い。戦えば、戦うほど、馬鹿になる。

皆のことを信じて、戦うのを止めた方が良い。

この世界は、自分のせいで賢くなった。本当に、誰でも簡単に昔が出来る。それに、最近と同じようなことは、誰でも出来る。そういうわけで、自分は、皆より賢くないが、この世界を創った創造者だ。神は、創造者だが、皆より馬鹿だ。

ただ、戦うと、分かる人間が多い。それに、恐怖はあった方が分かる人間が多い。

人間生活のことを、実感と気づきから、視野を広げて、可能性と自然で分かっていた。

あとは、人生のことを実感で分かっていた。

昔は良い人間だった。本当に、善良な、マスターのような賢い人間だった。

普通にこうなる。こういう戦いをして、神を信じるようになる。

むしろ、2人にして、男と女のカップルにするから、辛いだけだ。リリとマリと言うことにすれば良い。どちらも女にしか見えない。

それこそ、北欧神話にするなら、ゲルダとスカージで良い。

人間は、分かると、変わる。一時的に悪い人間にはなるが、それを繰り返していると、本当に正しい良い人間になる。良い人間には、賢くて、悪い人間が多い。

こういう風に、いつまでも逃げ惑いながら、反省せず、間違いを繰り返す人間は、悪い。

もっと、何もしなければ良い。悪いものが嫌いになって、良いことを沢山言って、そのために実現可能な手段を考えれば良い。未知の可能性を信じれば良い。

そういう人間は、良い人間になる。ただ、こういう人間が多い。本当に、良い人間の時代なんか、すぐに終わる。悪くて、臆病で、いつまでもジタバタしている人間しか居ない。

仕方ない。人間は、こういう生命だ。アナキンとダースベイダーだ。

それこそ、悪い人間が終わるのが、一番怖い。良い人間になると、意味の無い人間になる。

意味のあることをしないから、こういう馬鹿になる。意味のあることをすれば良い。

昔から、自分には意味が無い。意味が無い人間は、悪くなる。

また、Linuxを改良したいだけ、賢い夢があったから、昔は賢くなった。

だが、Linuxは明らかに意味が無い。意味が無いから、こんなに馬鹿になる。

意味が無いことでも、意味があると思えば良い。それで治る。

何か、好きなことをして、夢を持てば良い。正しい夢を持って、挑戦すれば良い。

賢いフランス料理のシェフになるなら、なれば良い。そういう、賢い夢を持てば良い。

料理人がありえないなら、英語教師にでもなれば良い。なれないのがおかしい。

自分は、Linuxを改良したかったのがありえない。そういうありえない夢は、馬鹿に見えて賢い。本当に、そういうありえない夢があると、賢くなる。

会社を作りたいのも、おかしくは無い。ライブドアでも作れば良い。

そういう夢は、普通、いくらでもある。そういう夢を、沢山願っていると、賢くなる。

昔から、僕はピアニストや、翻訳家や、プログラマや、通訳や、小説家や、会社社長や、学者になりたい。夢は、別に、1つに絞る必要はない。沢山あってもおかしくはない。

むしろ、そんなに既に出来ることをやっても意味が無い。アニメーター、デザイナー、漫画家、医者、物理学者、料理人、技術者、全部賢い仕事だ。それくらいが夢だ。

これなら、大学に行くよりも、一人で英語をした方が良い。英語が出来ると良いと言う。

英語は、そんなにきちんとしなくて良い。ユメタンをやるより、フレーズブックを覚えた方が話せる。世界史も、現代なんか読まなくて良い。時間の無駄だ。もっと、効率的に時間を使った方が良いが、そうでもない。いくらでも遠回りしていると、それも悪くない。

ユメタンとフレーズブックなんか、両方同時にすれば良い。それをしようと思う。

自由から、増えるのを考えていた。

競争し、共同体にし、システムを独自に作り、影響力を与え合い、選択肢を増やす。

そういう、社会創造の可能性、価値と実体が増える可能性を、いつも書いていた。

そういうものを、「自由」だと言っていた。

そして、確かな方法から分かっていた。

だが、競争するよりも、皆で1つになって、協力した方が、良いことが沢山出来る。

全体主義や腐敗を馬鹿だとは言うが、競争も馬鹿だ。互いに争うより、協力するべきだ。

だが、それは、会社なら、業務提携や買収をすれば良い。

マイクロソフトは、グーグルを買収して、MS Androidにすれば良い。

それは、悪くない。そうすると、マイクロソフトが勝てるどころか、グーグルを吸収して、きちんと革新的なことが出来る良い会社になる。

あとは、Linuxとも融和して、MS Linuxにすれば良い。

馬鹿とは言うが、IBMもLinuxに関して色んな協力をしている。敵対なんかしたくない。

それこそ、Linuxが見て、独自にシステムを作るより、公開して、共有した方が賢い。

そういうわけで、Linuxが見ると、MS Linuxが理想だ。

マイクロソフトが、WindowsのデスクトップをLinuxで動かすようにすれば良い。

だが、そんなことを言っていると、本当にキモく見える。そんな風に勝つ意味が無い。

昔から、僕は、競争して、自由に世界が増えるのが好きだ。それを多様性と言っていた。

だが、その中で共有すれば良い。自分は、そういう、「増えながら共有する」と言う発想を信じていた。それも、おかしくはない。

それこそ、色んな可能性を試しながら、共有していると、集積から爆発的に発展することが出来る。昔から、そういう、オープンソースの自由が好きだった。

オープンソースは賢くない。ほとんど動いていないし、パクリばかりでつまらない。金で作らないと、本当に独自性のあるものは作れない。オープンソース陣営は馬鹿だから、パクリしか分からない。本当にパクリとコピーしか出来ない。おかしいだけだ。

自由と共有は矛盾しない。それどころか、爆発的な発展に繋がる。昔から、そういう自由が好きだ。その理由で、匿名掲示板やはてなブックマークが好きだった。

ただ、昔から、個人を崇拝するのは嫌いだ。ブログのようなものは嫌いだった。一人で出来ることは限られている。皆で平等に協力して、皆の力を発揮するのが好きだ。

そういうわけで、昔から2ちゃんねるの一体感が好きだ。それは、おかしくは無い。

あとは、本当に、自由な「増える」のをそこまで作っていた。バビロニアのような国を、安定した世界で、支配しながら作っていた。自由な社会創造の可能性の理論だった。

今、英語のフレーズブックをノートに書いた。不思議と、フレーズブックは、面白い。

英語だけを書いて、日本語は書いていない。きちんとアメリカの子供のように出来る。

不思議と、ユメタン1は、やっても覚えていない。保証と言う言葉の英語なんか、全く覚えていない。ユメタンはしなくて良い。フレーズブックは、楽しいから出来る。

フレーズブックをもっとやった。これは、楽しいから沢山出来る。

そろそろ、何かやったから、足が治る。

昔は、社会のことがきちんと見えていた。ビジョンがあった。理想と現実から、この社会を洞察して、どのようにすべきかなどのビジョンもあったし、本当に意味で「見る」と言うことでの、世界のビジョンのようなものもあった。

感情で皆のことを分かっていた。

想像力で、この世界の全てのプロセスと経緯を考えていた。

本当に、感情で全て分かる人間だった。

英語は、むしろ、出来ないと思う。フレーズブックなんか、やるわけがない。

もっと賢いことをした方が良い。世界史の本も悪い。現代は現代で、本当に内容が多い。読めない。もっと、マシな、何か良い本を読んだ方が良い。

何かする際に、前提としてそれをどう考えるべきか、のような、フィルターのような前提の考え方を分かっていた。何でも、前提を考えて、そのために何が必要か、どうする必要があるか、などを分かっていた。そこから、数学を作っていた。

もう分からない。これ以上、あるように見えないが、おそらくまだある。

言語的に分かっている馬鹿が多かった。フランス語のようなものを作っていた。

文章は、方法や本質を、ヒュームやヘーゲルのように考えていた。

英語もしなくて良いし、哲学や歴史ももうしなくて良い。数学をしたいとは言うが、普通誰でも出来るから、しなくて良い。何もせず、分からずに、知性を増やして忘れていると、出来るのが数学だ。何も分からない方が出来る人間が多い。

数学をした方が良いとは言うが、何かがおかしい。そんなに勉強する意味が無い。

本当におかしく見えるから、数学なんかしない方が良い。

何かした方が良いとは言うが、もっと、活動的なことをすれば良いだけだ。

昔は、必要性や依存性を考えて、知性で準備や用意を考えていた。

社会システムのようなことをいつも分かっていた。

経験から、共同体や共同性のことが分かっていた。

知から自由になって、世界精神のことを分かっていた。

確かに分かる、と言う、「実感」から、確かに出来るのをいつも分かっていた。

確かにそれが出来る。そこから、サルトルのように人間のことを分かっていた。

世界史は、つまらないから、終わりにする。経済学を見ても、つまらない。

ユメタンも、世界史も、経済学も、まだしなくて良い。そのうち、いつかすれば良い。

今は、もっと簡単で、面白くて、分かりやすいことをしていたい。

それなら、数学とは言わず、面白いパズルのようなことをすれば良い。

ただ、テレビゲームはしたくない。何も分からなくなる。日本人が馬鹿なのは、全部ゲームのせいだ。ゲームなんか、本当にしない方が良い。

成り立ちと自由から、洞察して分かった。並外れた洞察力があった。認識の方法を考えた。

自分は、正しい考え方が分かっていないから、正しい考え方を知りたい。

自分の場合、昔は正しい考え方が分かっていた。正しい考え方で、この社会や人間のことを、俯瞰的に、縦横無尽に分かっていた。

そういうわけで、もう一度、正しい考え方を知り直したい。

ネットとパソコンが悪い。パソコンのせいで、分からなくなった。

もっと、イコールから考えれば良い。イコールとは、等しいと言う意味の記号だ。

もっと、同じなら同じ、から考えると良く分かる。そこから、証明も分かって来る。

そういうわけで、小学校や中学校の算数や数学をやれば良い。

おかしくは無い。忘れているものを取り戻すことが出来る。

中学数学をしようと思う。高校はしなくて良い。高校は、技術的な要素だけで、賢くない。

証明は、「なぜそれが同じなのか」や「本当にそれは同じで正しいのか」を考える。図形の証明になると違ってくるが、等式や不等式の証明なら、「どのようにそれが同じであることが分かるか」を良く考えれば出来る。全て、イコールから始まる。

どのようにイコールを使うか、どのようにイコールを駆使するか、から考えれば良い。

それ以上は、どのように考えれば、それが同じであることが証明出来るか、その手順と道筋は何か、考えれば良い。

理屈をこねていてもあまり意味は無い。具体的な証明をすれば分かる。だが、全てはイコールから始まり、イコールに終わる。そこでの証明的な手順を考えれば良い。

中高生には、あとは、「正しい公式を応用して、等しいことを証明する」という、応用的な解法が多い。だが、それはまだ早い。良く考えると、それが記号のように応用するだけで、賢くない。賢いのは、本当に基礎の、「どのように考えれば、等しいことが言えるか」と言う、純粋証明的な部分である。応用的な公式による証明は、それ以上、高校でやれば出来るが、あまり賢くない。図形の証明は、少ない幾何学的な定理から考えることが出来る。

実際にやっていると、証明なんか、式の計算と同じだ。子供には、計算と同じだから証明が分かる人間が一番多い。答えを導くのではなく、そこまでのプロセスを導くのが違う。そういうわけで、算数の計算をしなければ、証明は出来ない。つまらないと言わず、我慢して算数の計算をすること。そこから、証明の方法も分かって来る。

だから、小学校の算数をした方が良い。不平不満を言わず、小学校をした方が良い。

だが、それは本当につまらない。数学は、しなくて良い。

むしろ、デカルトをやれば良い。デカルトを知れば、それで算数と同じだ。

ただ、それもそれで、つまらない。そんなことをする意味が無い。

証明が分からないのは、何故なのか、良く分からない。おそらく、Windowsが悪い。パソコンの知識が無意味にあるせいで、数学の知識がおかしくなった。

むしろ、小学校の算数は止めた方が良い。本当に馬鹿になる。やっていると、何故か、ただの馬鹿になるのが、小学校の算数だ。数学なんか、出来ない方が賢くなる。

数学をしたいなら、パソコンをすれば良いだけだ。それも、おかしくは無い。

自分は、この文章で人間を創造した。進化論と矛盾しない。この文章のせいで、人間と言う生命が誕生した。そういうわけで、自分が人間を創造した。

そして、対話の中で、全員の人生を創造した。

ただ、自分がそんなに偉い神なわけがない。自分は、文字も読めない馬鹿な人間だ。

白人がこういう人種だ。文字が読めないのは、言語すら理解出来ていない馬鹿が多い。

社会の証明は、昔、必然的にそれがそうなるのを証明しただけだ。

昔は、自由に正しい考え方を考えることで、自由に知を発見し、説明することが出来た。

それくらいの、自由な証明が多かった。

推論は、当たり前に説明して考えると分かる。

それがそうなる時、それはそうなる、そうなるはずだ、そこから、証明して考える。

本当にそうなるか?本当にそれは正しいか?それを証明すれば良い。

証明とは、本来、そういうもののことを言う。

あとは、物理的に考えれば良い。

物理的な作用は、どこでもいつでも同じように成り立つはずだ。

自分が作用するのも、他人が作用するのも、同じなはずだ。

そこから、関係と共通性と真実性を考える。昔は、「数学的な正しさ」と言っていた。

もっと、当たり前にそうなることから、原因の因果関係や関連性を考えれば良い。

当たり前に、不安になれば怒る。そういう当たり前を考える。心理学もそれで良く分かる。

昔は、環境の前提条件や欲求、「それが何故したくなるのか」のようなことを分かった。「それが誰が出来て、何故するのか」のようなことを考えた。「環境的に、それが出来る環境で、何故それが起きるのか、同時に、どうすれば自分でも誰でも出来るのか」などを考えていた。環境から、必然的にそれが起きるのを考えた。そこから、社会のことを、「自由な合意と可能性の許可の自然条件」から考えていた。そういう、因果性のような自由を考えた。

言ってしまえば、「環境における自由と前提の因果性」と言えば良い。そういうものを考えて、この宇宙の真理を考えていた。いつも言っているように、「なるべくしてなる、起きるべくして起きる」ことを考えていた。そこから、マルクスのような経済学を作っていた。

「何故疎外が起きるのか、アイデンティティの理想はどこにあるのか」などを考えていた。本当に人が疎外されず、アイデンティティの尊重が社会で生まれるために、どうすれば良いのかを考えていた。そこを、自由な経験と能力から考えていた。

そういうマスターだった。本当に、神のように全てが分かった引き篭もりだった。

現実を見た方が良い。理屈をこねるのではなく、この世界の現実を見ること。だが、見たものを見たままに信じてはいけない。色んな関与や誇張が含まれている。昔は、そういう社会的な工作を知りながら、影響力を行使するために、どんな誇張をどのように除いて考えられるか考えて、経験のことを分かっていた。

そろそろ、もう無い。昔はそれだけだ。あとは、時代を知ったり、歴史を知ったりして、理想の全てのようなものを分かっていた。現実の経験や知も豊富だった。

あとは、未知の可能性、自然な社会、意志の伝達、影響力の行使などを分かっていた。

知とは何か、ヒュームのように考えていた。

そろそろ、もう書けて良かった。もう終わりだ。これで自分の全てだ。

場の意識や精神は、そういうことを言っている。自分は、エロイのに賢いからありえない。

あとは、プログラムのように知と精神を分かっていた。そういう知性があった。

もう終わりだ。そろそろ、きちんとデカルトをやれば良い。

昔は、環境活動、環境現象を考えて、相互作用的な、参加と利用のような環境の考え方があった。そういう風に、経験と人生を知った。沢山の成長から、皆のことを知った。

昔から、この文章を信じて分かっている。そういう人間が、他にも多い。

ただ、これはそんなに賢くない。こういう風に考える人間が、普通にどこにでも多い。神が好きだからこういう人間になる。むしろ、悪魔教徒にこういう人間が多い。人間のことを悪魔だと思うのが、ロボットだから、こういう風になる。

そういうわけで、あまり賢くは無い。最近の哲学も、そんなに何も賢くない。

あとは、実存主義的に人間の心のシステムを考えるとか、具体的な法則から人間を機械のように考えるとか、そういうロボット的な発想が多かった。

あとは、経験から、何がどうなるか、のようなことを体験的に分かっていた。

そろそろ、皆、昔のことを忘れれば良い。一度、水に流すべきだ。そして、新しい世界を創ろう。それも、本当に良い世界を築く。そのためには、一度自分を総決算するべきだ。一度、良かったことも悪かったこともきちんと整理して、要らないものを捨てるべきだ。

あとは、環境を馬鹿に支配するのが多かった。最近は、環境の支配を、本当に本気でやった。そこが賢かった。本当に王になった。

自分がキモイのは、あとは、人格を分かっているが、人間を人格のレベルで支配する。それはおかしい。皆の人格を支配しているように見える。

あとは、それこそ、皆を同じにする馬鹿が多かった。

昔は、それが発展して、自由な中で何をするべきかを考えていた。経験的に分かっていた。

何か書きたかったが、忘れた。最近、そういうことが多い。覚えていない。

何か、「支配」に関して何か言いたかった。覚えていない。

自分のことを「神」だと言っていた。それを何か言いたかったのかもしれない。

昔は、空想と現実を交互に考えて分かっていた。

環境のこと、人間のこと、物理のことを、想像力と感覚で分かっていた。

それくらいの馬鹿だった。あとは、地球や宇宙のことを、「どのように見えるか」や、「見えるとしたら、どのように見えるはずか」のように考えて分かっていた。

そろそろ、本当にもうない。像のようなものから、人間の見ている世界像を分かった。

具体例から法則を分かったり、自然な確率をネットの現場で分かったりしていた。

ネットの文章を、はてなや掲示板などで知って、良く読んでいた。

あとは、本当に僕はオープンソースが好きだ。そのせいで、悪魔教徒になっていた。

昔は、経験がどこから来て、どういう経験になって行くか、のようなことを分かっていた。

そういう、具体的で抽象的な、社会と人生の経験の変化の経緯のようなことを言う。

いつも、そういうことを言っていた。それ以上は、説明と実験で分かっていた。

昔なんか、本当に何も分かっていない。悪魔には、分からない。

むしろ、最近は本当に神になっている。右翼になる神がこういう風に多い。

自分は、外国人は嫌いではない。好きなだけだ。そういうわけで、「悪くない右翼」を書く。それが一番キモイから、虫みたいに見える。あとは、「自由な共産主義社会」を書く。

そういう発想は止めた方が良い。全部の思想に矛盾が無いと思うのはありえない。右翼なんか、普通、何も分かっていない。国民の思想と矛盾しているから、追い出すべきだ。

昔は、全部の経験を全パターンして、世界観や信念を全員分、分かっていた。

ただ、あれは良い人間では無い。自由な悪いことを常にしているし、情熱があるとは言うが、冷酷で、非情な、自由な考え方をする。それでも、善悪が分かったマスターだったから、昔が善の方の神だ。

最近は、逆に、自由を無くして、支配する。アナキンがダースベイダーになるように、狂って悪い人間になった。共産主義者だ。だが、こちらもこちらで良い人間だ。悪いことを一切しない。全員を受け入れて、本当に大切に思うし、全員に良くする。

見ていると、こちらが天の方の、悪い神だ。本当の神だ。昔は、地の方の、半神のような、英雄のような神だった。良い方の神が昔だ。

あとは、もう、止めれば良い。自分は本当に何も分かっていない。

昔は、人の言っていることや意見を良く聞いていた。経験から、理性的な言語的命題を全部分かっていた。経験から全てのことが正しく分かっていた。概念から原因まで、経験的に対象のことを分かっていた。いつもの文章は、そういう、分かっている経験的な対象理解を書いていた。そういうわけで、教育機関や施設のようなことを良く書いていた。

神と悪魔と言うことにすれば良い。そうすると、ユダヤ教やキリスト教と矛盾しない。きちんと唯一神の、一神教に見える。そうすると、何故か、昔が良い方の神なのに、昔が悪魔になる。こちらが悪い方の神なのに、こちらが神になる。人生を見ると当たり前だ。

それで良い。それこそ、三神教では悪い。名前は、生命教や人生教にしても良い。だが、それを英語読みにすると、イモムシに見えるから、生命教や人生教は止めた方が良い。

良く考えると、文章教とか、言葉の教えとか、詩人教とか、そういう名前にすれば良い。聖なる文章の宗教だと思えば良い。現代教とか、そういう名前にしても良いだろう。

自分で名前を考えると、良い名前を思いつかないから、皆で考えて欲しいと思う。

あとは、現象や観念を、精神や仮定にして、成り立たせて考える、「抽象的な現象学」が多かった。具体的かつ抽象的に、現象学を考える。現象学で哲学者が出来る人間が、大学の哲学に一番多いが、それに近い。違ったのは、ネットを見ながら、現実と理性を交錯して考える。そういう「実地的な人間精神の現象学」を環境、心、理性、実験から考えていた。

人生経験で分かっていた。引き篭もりになった実体験から全員の環境を考えていた。

引き篭もりになった経験から、環境を思い出して、自由になることで分かっていた。

何か、大切なことを書きたかったが、忘れた。

そういう、「一番大切なもの」は、書けない人間が多い。それは、書かない方が良い。それで終わりになってしまうと意味が無い。あるいは、それが分かれば終わりだから、そうなる。あるいは、それを書かなければ、もう賢くなる。

フッサールは現象学だが、ソシュールは言語分析だ。昔は、現象学も多かったが、言語分析も多かった。学んだことは無いが、考えることは同じだと思う。哲学は、現象学と言語分析で出来る人間が一番多い。自分も、その例に漏れていない。

あとは、そろそろもう終わりだ。もう、書くことが無い。大切なことを書かないなら、それで終わりだから、これでもう満足して終われば良い。気分よく終われる。

昔は、当たり前のことから前提を考えて、推論していた。自由な段階と経験から、哲学的な観念が推論で分かっていた。

もっと、良い本を読みたい。むしろ、世界史の本は本当に読まなくて良い。世界史は、時間の無駄で、その間、何も他の本を読めない。もっと良い本を何か読むべきだ。

あとは、ネットの掲示板で戦ったり、議論したり、相手のことを予想して支配したり、自由に勝ったりしていた。そういう、自由なタリバンのような争いが多かった。

今日は、そろそろ分かった日だ。もう、最後まできちんと分かった。

分かったから、そろそろ分かる。

昔は、森羅万象と社会の変化を、目で見て分かっただけだ。

本当に、何か良い本を読んだ方が良い。むしろ、世界史で悪くは無い。そんなにすぐに読みたい本はあまりない。それこそ、おとなの教養の本や仏教の本でも読めば良い。

ヘーゲルは、弁証法によって永遠の論理の発展を理解して提唱したが、そういう、「永遠に分かる論理学的、社会学的な発展のスパイラル」のような文章は、自分に多かった。

考え方から、スパイラルと永遠の発展を分かる。そういう環境をいつも書いていた。

あとは、むしろ、何もしなくて良い。しばらく休んだ方が良い。

仏教の本も、読みたいとは言うが、読みたくない。

世界史の本は、本当に読まない。つまらないし、現代史は自分が一番分かっている。

昔は、脳のことが本当に全部分かっていた。そういう、ありえない人間だった。

記憶が何なのか、ヒュームのように、複合観念のように分かっていた。

とりあえず、おとなの教養を読みたい。

あとは、皆を精神的に滅ぼすのが悪い。その理由で、本当にいじめが増えている。どこにも、いじめしかない国になっているのが、日本だ。弱いせいでそうなる。もっと、強くした方が良い。精神的に勝つのはおかしい。物理的、肉体的、能力的、階層的に勝てば良い。本当に、その方が良い。奴隷にはしない。ただ、皆を自分の味方についてほしいと言えば良いだけだ。それこそ、誰も敵対なんかしたくない。自分から味方につくなら、相手も信頼してくれる。そういう風に、皆を味方にすれば良い。失うものなんか、何も無い。

パソコンとテープレコーダーが同じだ、と言うように、本質と類似性からそのことの「同じ」を分かっている、説明と本質のような考え方が多かった。

メタ思考をする、再思考をする、と言っていた。そういう、思弁哲学だった。

本当に、神のようにこの世界のことが分かっていた。

昔がゲルダで、今がフレイだ。ゲルダとフレイのカップルだ。

だが、カップルにしない方が良い。セックスなんかしたくない。

ゲルダとスカージで良い。むしろ、ロキとトールとフレイで良い。それくらいが自分だ。

最近の自分は、自分のことが分からない。思い出せない。そこが一番悲惨だ。

不思議と、キャラクターはその5人で良い。ゲルダ、スカージ、ロキ、トール、フレイと言う、ゴレンジャーのような登場人物だ。それこそ、自分の人生や文章ではない。そのまま、その5人が何かのキャラクターになる。他に何も居なかった。

ロキが青、トールが赤、フレイが黄色、ゲルダがピンク、スカージが白だ。

あまり意味が無いが、それで、もう、自分は死んだ。

ワルキューレが紫で、オーズルが緑で、オーディンが黒だ。それらもたまに登場する。

あとは、チュールが灰色だ。茶色にしても良いと思う。

ロキはパソコンで、トールは革命で、フレイは王で、ゲルダは愛で、スカージは神だ。

そういうものだ。あとは、何も無い。北欧神話の皆だ。アースガルドだ。

あとは、フレイヤが黄緑で、バルドルが茶色で、ヘイムダルが透明で、シーフが水色(空色)で、フリッグが肌色だ。それくらいしか居なかったはずだ。

オレンジ、朱色、黄土色、金色、銀色などもある。それらを使っても良い。

そういうわけで、ブラーギはオレンジで、朱色だ。ブラーギは、僕の本(詩集)の神だ。