日記に戻る | 2016年1月の日記に戻る

=2016-01-11=

考え方のようなことを書いていた。

社会は、具体性と可能性だ。

ものごとは、個体性と関連性だ。

システムは、基盤と自由だ。

あとは、記憶と場とか、可能性と法とか、制度と社会的な経験とか、そういうことを言う。

文字には、意味がある。

存在は、ありのままに存在している。

決まりは、皆で作って、皆で変えて、皆で守る。

出来るようにすれば、出来る。社会も、機械も、出来るようにして、作る。

あとは、むしろ、馬鹿になった方が分かる。

ものごとは、自然に生まれ、自然に消え去る。

世界は、先人の知恵と労力があって成り立つ。確かにそれをしてくれた人がいる。

先人の労力と遺産があって、初めてこの世界がある。

社会は、自然に積み重なって出来ている。

世界は、人間によって、全て変えられる。

経験によって、本当に大切なことが分かる。本当に大切なことは、経験から分かる。

平等にしないのはおかしい。自由は間違っている。平等にした方が良い。

生命は、確かに生きている。

ものは、再利用出来る。

こういう風に、考え方から分かる人間が一番多い。

自然と相対性から、類似性と関連性が分かって来る。それが構造になる。

認識の段階を考えていた。

電子が力で、光が時間なら、回転と浮遊がものなのかもしれない。

引き篭もりは悲惨だ。一度引き篭もりになって、怪我をしたせいで、何も出来なくなった。

学校に行った方が良い。放送大学で良い。きちんとどこかに行かないと、意味が無い。

家に居て、常に何もしていないのが、間違っている。この文章は書いた方が良い。

ものごとは、決まりと記憶である。

物理学は、もっと実体を考えた方が良い。光が存在では、宇宙にある実体を無視している。

人間と人間の関係、心と心の関係、環境と環境の関係、社会と社会の関係を考えていた。

放送大学を見ていると、物理は出来ない。物理は本当に難しい。

何も出来ないから、大学なんか出来るわけがない。働くのも辛いから、何もしなくて良い。

自分はクズだ。クズと言うよりは、グズだ。昔からグズみたいな人間だ。

最近、もうオヤジみたいな顔をしている。骸骨みたいなキモイ顔をしている。

ただ、たまに可愛い女みたいな顔をする。ドイツ人の兄ちゃんみたいな顔をしている。

最近、顔が丸くなったと言われる。昔はやせ細った悲惨な顔をしていた。

昔は、ウィトゲンシュタインのような顔をしていた。最近は、赤ちゃんみたいに見える。

あとは、ロシアの文明のようなものが分かっていた。そういうものが分かる人間だった。

大学はしない方が良い。コンピュータや情報工学の授業は、それはそれで難しい。

本を読んだ方が良い。自分は、本を読むのが一番良いと思う。

工場で働くのは、辛い。何も出来ない。会社にも入れないし、入っても何も出来ない。

おとなの教養の宗教の章を読んだ。次は宇宙だ。

この世界に、人間の力の及ばない、何かの存在がある。宗教は、そこから始まった。

祈ることや、瞑想することによって、何らかの安心感があるのは、良く分かる。

科学の発展とともに、無理があるところも出て来ているが、宗教はそういうものだ。

昔が悲惨な馬鹿だから、悲惨な馬鹿になると治る。

カントのように考えると良い。様相や仮象を考える。あとは、デカルトのような正しい考え方をすると分かる。正しいと分かっているものだけから考える。

そういう風にすると、きちんと分かる。

もっと、未知が未知であり、自分が何を考えているのか、良く考えれば良い。

自分が何を知っていて、どのように考えれば正しくものや世界の理が分かるのか、考える。

何が分かっていて、何が分かっていないのか。

本当に正しく考えるために、どうすれば良いか。

そういうものは、会話と経験から分かる。色んな人の話を聞いて、読まないと分からない。

色んな思考をすること。読みながら思考していると、そういう風に考える人間が多い。

もちろん、物理的な考え方が出来る必要があるが、自分はそれくらいが分かっていない。

いつも、そういうことを書いていただけだ。

ものが黒いからと言って、全部のものが黒いわけではない。

ものが黒くなるからと言って、最初から黒くなるのが決まっているとは限らない。後天的に黒くなった可能性もある。だが、最初から黒くなるのが決まっていることもある。

そういう発想が、遺伝子だ。そういうわけで、馬鹿な右翼には分からない。

デカルトも、同じように、数学や自由と思えば分かる。

例えば、環境に人間が居て、それが自由に任されていて、そこにインターネットがあれば、その人間はインターネットをする。その人間が知識を持っていて、Wikiの書き方を知っていれば、その人間はWikiを書く。

それを可能とするための手段は、自由な環境と、Wikiだ。逆に、自由な環境とWikiがあれば、それは可能となる。

そういう、可能性、特に、自由な条件が満たされた可能性のようなことを考えていると、数学的にものごとが分かる。昔の自由な可能性は、そこを考えていた。

だが、デカルトはそういうことは言わない。もっと、命題的、証明的な、ものごとの認識の理のようなことを言っている。そういうわけで、認識や命題を考えると良く分かる。

それこそ、いじめを解決するために何が出来るか?それは、条件的に考えれば良い。

いじめを誰もが見つけられるなら、処罰すれば良いだろう。

だが、いじめは見つけられないことも多い。

そういう風に考えていると、もっと見つけるために頑張れば良いように見えるし、見つけられなくても、最初から自発的にしないように、道徳精神を教えれば良いように見える。

それこそ、そういう社会問題をデカルト的に考えていると、分かる人間が多い。

人間が何をいつどのようにするか、何がどうなるか、科学的な知の発見のプロセスはどうなるか、全てデカルトと考える内容が同じだ。

そういうわけで、デカルトはまともな賢い人間になる。分からなくなって、分かるようになる。不思議と、デカルトなんか、無い方が分かる人間が、自分のように多い。そうは言うが、昔デカルト的にきちんと分かっていた馬鹿が自分だ。

論理的に考える、と言うことと、デカルト的に正しく考える、と言うことは、イコールだ。

こういう、提案的、解決的な考え方は、昔の自分に多かった。

デカルトは、書けていない。普通、命題を正しい方法で考える。数学的に考えるだけだ。正しいと分かっているものだけから、考える。

むしろ、もっと正しいデカルトを書いたように見える。

デカルトをした方が良い。それで分かる。思弁哲学がきちんと出来るようになる。

ヘーゲルも、ただ数学的に考えているだけだ。デカルトをすると、きちんと出来る。

ただ、出来るわけがない。普通、そんな考え方はしない。デカルトは、昔の自分で充分だ。

環境で、自由に色んなことが出来るようにするのを考えていた。

自由を考えていた。

色んな環境で、具体的に色んなことが出来るようにする。

実践的に、環境を皆の手で作れるようにする。

そういう、環境の具体的な自由のようなことを、いつも書いていた。

言語を自由にすると言っていた。

形容詞や動詞を文法的に改善し、冠詞を多様にし、語順を自由にする。

あとは、数学的な命題と法則のようなことを言っていた。

数学は、一番馬鹿になると分かる。昔は、数学のことは分かっていた。

デカルトと同じように考えて、数学的に美しい文章を書いていた。

推論や証明などは、一番出来る人間だった。論理学は、基礎から全部作っていた。

最近、分からなくなった。何故か、証明の方法すら、分からない。

数学なんか、無い方が賢い。こういう、数学が無い方が賢い人間が多い。

世界が馬鹿なのは、数学的なものが多いからだ。そういうもののせいで、馬鹿になる。

あとは、環境だけではなく、認識や手段など、色んなところで、自由に色んなことが出来るようにするのを考えていた。心理学や経済学や国家モデルを作って考えていた。

あとは、論理学のような文章が多かった。論理的なモデルを作って、全貌を書いていた。

そして、自然な法則性の全貌のようなことを言う。ヘーゲルと似ている文章だった。

不思議と、経験論と数学が分かると分かる人間が多い。

昔の自分は、そういう風に分かっていた。

知覚、観念、印象、知性、経験のような、経験論をモデルにして分かっていた。

それで、パソコンと理性によって、数学を分かっていた。

そういうわけで、分かりたいなら、数学とデカルトとロックをすれば良い。

誰でもそれくらい、しなくても分かる。子供には、そういう、賢い人間が多い。

おとなの教養は、天動説と地動説のところを読んでいる。不思議と、科学は賢くない。

学習と本質と方法でも考えれば良い。

そういう、上へと上がって行く、と言う発想が無いのがおかしい。

もっと、レベルアップしていけば良い。今のままで賢いと思うのが間違っている。

経験を理性的に考えること。

昔は、何でも経験したいと思っていた。経験は、全てが自分のためになると思っていた。

文章にも、そういう文章を書いている。経験は全て、自分のためになる。

最近、全部考えるようになった。昔から、そういう、全部考えるための方法を書いている。

何故か、「ために」とか「もし」とか「よって」を考える。

正しく、道筋をきちんと考える方法を練習した方が良い。

それは、教えてもらわないと分からない。

誰でもそれくらい分かるから、分かった方が良い。

数学の問題を解かないと分からない。

自分は、知ることは出来ているが、考えることが出来ていない。

昔は、逆に、何も知らない代り、自分で考えることが出来ていた。

そういう、昔の幻想を一度全部消した方が良い。

キマグレンの言うように、自分自身が誰なのか分かっていない。

怖いのは、昔の自分は、レッドハットのハッカーのような、悪い人間だ。

そういう理由で、分からなくなった。そんな悪いものは、必要ない。

知ることを一度止めて、何も無く考えれば良いが、そんなに知らないのも間違っている。

そのためには、何も知らない人間の言うことを聞けば良い。

皆の言うことを聞かないと、分からない。

だが、普通そんな皆は居ない。普通、学校には馬鹿しか居ない。その馬鹿が賢い。そういう学校の馬鹿は、まともな賢い人間が多い。

誰でも、そういう風に賢くなる。要は、学校に行かない、孤独な人間なのが間違っている。

皆と付き合わないで、分かるわけがない。ネットも悪い。悪い人間ばかりネットに多い。

要は、キモイ人間と付き合っても、何も分からない。賢い人間と付き合えば良い。

そうでもない。質より量だ。沢山の人間と付き合えば良い。賢い人間なんか、居ない。

昔のハッカーも馬鹿では無い。本当に数学や物理を全部分かっていた。

哲学的に考える力もあった。思索と思惟の理性があった。昔は賢い人間だった。

要は、普通分からないことは、分からなくて良い。もっと、普通分かることを知れば良い。

知っている対象の選択がおかしい。歴史や哲学や宗教なんか、知る意味が無い。

もっと、社会のことや物理のことを知った方が良い。誰でもそういうことを知りたい。

不可知なものは要らない。もっと、可知なもの、普遍的なものを吸収すれば良い。

要は、皆より賢くならなくて良い。皆と同じように賢くなれば良い。それが賢い。

あまり言う意味が無いが、ウィトゲンシュタインなんか理解しても意味が無い。物理的な真発見もしなくて良い。コーヒーの銘柄とか、仕事の方法とか、生きる心構えとか、憲法の基本とか、北朝鮮のニュースとか、近くにオープンしたイタリアンの店とか、そういう、誰でも分かる普通のことを知った方が良い。

あまり意味が無い。それこそ、それでは間違っている。普遍的なことを知れば良い。普遍的なことを2ちゃんねるで知って賢くなったのが昔だ。そういう発想が良い。

昔は、子供のように考えていた。

色んな環境があれ、人間があれ、多様な社会があれ、と思っていた。

そういう、賢い人間には、子供のような大人が多い。

むしろ、大人のように理想や思いやりや希望のようなことも分かっていた。

賢い人間に大人が多いとは言うが、本当に賢い人間には、子供が多い。

そういうわけで、賢い大人ばかり子供になる。子供に見えて、本当に大人の人間が多い。

子供は大人だ。賢い人間は、そういう子供しか居ない。

あとは、一般常識と言うと間違っている。知るのをやめて、もっとゼロベースで考えれば良い。最近は、民主党の誰かがいつか言っていたように、ゼロベースが分かる人間が多い。

ゼロベースは悪くない。ゼロから考えないと分からない。

そういうわけで、プログラマにはゼロベースで考える大人の子供が多い。それは馬鹿だ。

むしろ、行動や思いやりや想像力を考えれば良い。これならそういう風に考える。

理想と社会のことを知りたいなら、どんな理想があるのか考えれば良い。

そういう風に、具体的なことを考えれば良い。

社会が分かりたいなら、どんな社会があるのか考える。人間が知りたいなら、どんな人間が居るのかを考える。行動が知りたいなら、どんな行動があるのかを考える。

それ以上は、論理的に、成り立ちと出来ることを考えれば良い。

何をするためにはどうする必要があるか、どうなったら良いと思うか、とか、そういう風に、色んな希望や欲望を考える。そこから生まれてくるのが、哲学的な理性だ。

もっとそのために何をすれば良いか、何があれば良いか、それは、誰がすれば良いのか、誰がするべきなのか、その人が出来るためにどうすれば良いのか、そういうことを論理的に考えれば良い。同時に、その人が何が出来るのか、どんな自由があるのか、実際には何をしているのか、どうすればその人が出来るようになるのか、考えれば良い。それがそうなっている原因を考えて、どうすれば変えられるのか、そのためには何が出来るのか考える。それがそうなった時、この世界や人間はどうなるか、変わるのか、考えれば良い。

昔は、認識や環境やプラットフォームみたいなことを考えていた。

認識から、環境やプラットフォームが生まれると言う。

そういう、自然で自由な秩序のような文章を書いていた。

環境や共同体を認識から作っていた。

そろそろ終わりだ。それ以上、何も無かった。

あとは、想像力で原因や経緯のようなことを考えていた。

哲学者は、こういう人間が多い。

自由をもう書いたせいで、書くことがもうない。こういう風に書いていると書ける。

もっと面白い文章を書いた方が良い。最近のこの文章はつまらない。自分の大学だ。

人間は、ものを作る。それはあまり書いていない。役割分担をして、設計図から部品を作って、組み立てる。昔の場合は奴隷を使って作る。最近はきちんと自由にしている。使って作る。作って使う。そういう風に作る。

ただ、自由にも悪い点はある。奴隷で儲けて、奴隷を増やすのは、何も平等で無い。

ただ、ものと向き合って、頑張って作る。

そこには、方法と本質と考え方とプロセスがある。そして、手段によって自由になる。

皆頑張っている。だが、何も出来ないから、頑張っていない人間も多い。

ソ連だって、誰も働いていない。働かない楽をユートピアだと言っているように見える。

ものは、部分化して、組み合わせて、初期投資して、機械の再利用で作る。

パソコンぐらいが辛い。工場は楽だ。何もしないでも、誰でも作れる。簡単だ。

自由の方が良い。金儲けにすると、おかしいぐらい出来る。平等には何も出来ない。

あとは、これで色んなことを経験していた。

経験から人間や人生など、色んなことが分かっていた。

また、日本の将来を考えていた。

文章にも書いていたし、ネットでも未来学者のように分かっていた。

今日はそれで終わりにする。もう寝る時間だ。明日も書いた方が良い。今日は良かった。