日記に戻る | 2016年1月の日記に戻る

=2016-01-06=

対話は確かめているだけだ。確かめるのを止めれば治る。

神の意識を消した方が良い。

経験から、心理学的に考えていた。精神から脱出したり、瞑想したりしていた。

賢い考え方を考えていた。例えば、目的が同じなら手段は何でも良い。

そういうことを考えて、そういうことを全部書いていた。

数学的で、哲学的な方法を全部書いていた。考え方の分かる人間だった。

昔は、言葉に出来ないことを良く分かっていた。

最近は、それを頑張って言葉にしていた。

今聴くと、宇多田ヒカルは一番良い。何かがありえない女に見える。賢い。

昔は、皆より経験して、皆より多くのことを分かっていた。

ウィトゲンシュタインは、全部の哲学が出来るところが、自分と同じだ。

昔から、自分が一番全員の哲学が出来ている。哲学者どころか、この世界の全員が分かっていた。全部の哲学なんか、誰でも出来る。分析をきちんとすれば良いだけだ。

そういうわけで、今日は、ウィトゲンシュタインと実存主義の入門本を買えば良い。

歴史は買わない方が良い。明らかに、今ある本を読んだ方が良い。

あとは、色々と、経験から分かっていた。この文章に書いてある。経験から、これくらいの分析的な哲学を分かった。経験から哲学的に人間と社会と人生のことが分かった。

昔、完璧なフィルターを作っているせいで、何もしなくても見ているだけで分かる。

皆も、フィルターを作れば良い。

見方や反応を考えれば、カントのような仮象の世界が作れる。

昔は、人間の分かったことは自分でも分かると思っていた。そういう風に他人を吸収した。

そういうわけで、哲学だけではなく、科学も出来ていた。

自分は、聖書とマルクスを全部作って、哲学と歴史を知り尽くした。パソコンもやった。

人間をモデルにして、考え方を分かっていた。経験は全員分あった。

あとは、認識の方法とか、分析的で具体的なことを分かっている。具体的な方法論だった。

ネットで認識を吸収して、認識のモデルを作っていた。全員になりたい人間だった。

むしろ、フッサールがやりたい。現象学をもう一度分かりたい。

色んなものを知って、経験を考えて、分かっていること、分かり得ることを考える。そういう風に、子供のように考えれば良い。ティッシュが紙なのを知っているのを分かる。

木が燃えるのを知っている。ピアノから音が出るのを知っている。

そういう風に考えると、まともに分かる。誰でもそういう風に考える。

原因や手段のようなことを考えれば良い。そこから、認識的に思考が分かっている。

思考は想起する。思考の支えとなる思考がある。そういうところが分かる人間が多い。

思考も感情である。そういうところがもう分かった。

普通、それしか言わない。それがそのまま、認識になる。

認識は、ソクラテスのように、自分の心の底からわき出て来る。

それこそ、色んな人間の認識を吸収して、本来の自分に立ち返れば分かる。

ヤスパースのように、集団に没することなく、自分の本来に立ち返れば良い。

ソクラテスのように、魂の安らぎを知る。そういう風にすると出来るのが哲学だ。

良く考えて、疑いながら認識を知ると、カントのように、認識が経験なのが分かる。

認識も分かって良かった。ヘーゲルのように、認識の方法から分かるところがある。

創造性と客観視から認識を見つめることで、体験的な論理学が見えて来る。

昔は、思考の裏側を考えて、認識を全部作って、行為と経験の関係を考えていた。

行動における、欲求と必然性を考えていた。

それ以降は、ロックやカントのように、経験的に認識を考えられる。

認識と経験は等しい。

疑うこと、信じること、肯定すること、否定することで判断出来る。

あとは、認識と対象が合一になる人間が多い。そういう風にすると、意識が分かる。

認識と言うよりは、経験と記憶が合一になる。そこから、道徳的な善悪も分かる。

ヘーゲルは明らかにそういう人間だ。いきなりすると悪い。最後まで終わっている。

あとは、論理的に考えれば良い。

ピアノと言う認識に、既に音が鳴る、と言う概念が含まれている。

そういう風に考えると、考え方が良く分かる。

経験から、実存主義的に当たり前のことが分かる。そういう風に考えれば良い。

習慣や環境の違いを考えることで、驚くほど大胆で思慮深いことが分かる。

そういう発想が、ヒュームやヘーゲルだ。ブッダは同じだ。誰でも、賢い。

あとは、仏教のように考えると分かる。

ただ、そういう人間は、賢い代り、馬鹿になっている。知性のある馬鹿が哲学者だ。

感情とは、人間の本来の特性であり、言語とは、関係的な人間の高度な能力である。

昔から、そういうことを言う。認識が全部分かった人間だった。

いつも、認識みたいなことを書いていたが、何を書いていたか覚えていない。

人間の経験や、実地的な感性の応用のようなことを書いていたと思う。

いつもの文章は、認識を考えていただけだ。

ものは、手段と方法から実現可能で、システムの一部として応用可能で、生産手段から成り立つ、と言う。そういう風に、認識のようなものをいつも書いていた。

ものは、認識から分析して作られると言っていた。

社会は、国家であり、独立可能で、生産可能で、生存可能であるべきだと言っていた。

そういう、認識のようなことを全部言う。それで世界観と知性のモデルを作っていた。

本当に見ると、そういう文章だ。

最近の方が賢い。最近は、きちんとジグソーパズルのピースのように、全てのことを言う。

あとは、環境や基盤のようなことを言う。認識と基盤をいつも考えていた。

そろそろもうない。今日は良い日だ。認識が分かってしまうと、もうレベルアップする。これまでとは比較にならないほど賢くなる。

手段や価値観は、認識を良く考えて分かった。そういうところが賢い人間だった。

あとは、良く思い出せば分かる。

最近、もう分かっているせいで簡単に分かる。だが、それも悪い。全部分かっているせいで、何も分からない。既に全部知っていると、こういう知性の無い人間になる。

まだ、何も分かっていないと思った方が良い。家や環境のことを知っているのが悪い。普通、そこらへんを考える。皆が住んでいる家が分からない人間は、考える人間が多い。

あとは、ものがどこから来たのか、どんな風に作れるのか、発見出来るのか、などを言う。

そして、認識の段階のようなことを全部言っていた。見方や影響力を考えていた。

社会における、認識のあり様のようなものを考える。そういう人間だった。

不思議と、認識は、無い人間が多い。認識なんかしない人間が多い。そういう人間は馬鹿だ。最近、自分も、もう終わってそういう人間になっている。木が燃えるのは、普通考えない。そういうわけで、哲学は、認識があるだけで誰でも出来る。不思議と、居ない。

あとは、心理学とプラットフォームを考えただけだ。

不思議と、認識がある人間には、何も分からない。普通は、普通の認識しかしない。

哲学は、出来る人間が居ない。自分のように、ネットを見ながら考えていると、出来る。そういう、2ちゃんねるで哲学が、一番狂った人間に多い。それこそ、馬鹿が哲学だ。

ピアノは、楽器だから音が鳴る。推論とは言うが、その高度なバージョンを考えるだけだ。

楽器は、楽器職人が作っている。楽器職人の立場になって、職人のことを分かると分かる。昔は、そういう発想が多かった。経験から、全ての労働者のことを分かった。

何故か、昔はそういう人間だ。この世界の全ての人間を、そういう風に経験と前提知識から分かっていた。いつも、そういう前提を人格のようにして、環境と立場で分かっていた。そういうものを書いていただけだ。

あとは、心理学が出来る人間だった。フロー現象のようなものから、機能別心理学のようなものまで、哲学のような心理学をいつも分かっていた。集団の心理を知っていた。

具体的な社会のことを分かって、自分の行動からどんな社会を実現出来るか分かっていた。

あとは、認識の必然的な段階を分かっていた。それは、どこにあるのか、何をしているのか、何の中にあるのか、何の一部なのか、どのように存在しているのか、どのように生まれるのか、関係者との関係は何か、知の属性は何か、個体と集団の部分化は何か、など。

環境は何なのかとか、関係者から見てどのように見えるのかとか、どうすれば実現可能で、どのようなものに必然的になっていくのかとか、何が必要なのかとか、何が目的なのかとか、そういうことを考えていた。まるでカントのようだった。

あとは、場、環境、思考、経験、視点、想像力を全パターン分かっていた。

自由から環境と行動が分かる。全部、全パターン自分でして分かっていた。

あとは、色んなもののパターンを考える。創造性を信じて、革命的な感情を分かっていた。

本質的なものから、人間を洞察して、メタ構造のように言語や関係を分かっていた。

あとは、全体像からモデルとシステムが見えて来る。手段と価値観が分かって来る。

いつも、そういうものを書いていた。それは、全部、認識を考えて分かっていた。

認識から色んなものを洞察し、発見していた。それを書いていただけだ。

これなら、すぐに出来る。不思議と、普通、そういうものは考えてもあまり意味が無い。

あとは、人間のことを考えれば良い。

分かり合うと、友人になれる。チャンスはいつでもある。恐怖は克服することで、敵ではなく、味方になる。昔は、そういうものを良く考えて分かっていた。

そして、社会の形成のようなことを言う。それくらいの文章だった。

論理学は、認識の段階のようなことを言う。構築や認識を方法的に考える人間だった。

あとは、社会と自分の経験の関係を考えていた。

社会を支配出来る、変えられると思っていた。そのために、社会を変えやすくするべきだと考えていた。方法を共有して、独立可能、変化可能にするべきだと考えていた。

昔は、そんなに賢くない。それくらいで何も分かっていない。パソコンが普通こうなる。

最近賢い。最近は、本当にそこまで分かっている。誰でもこれなら宇宙が全部分かる。

昔は、理想、現実、自然、自由の分かる、賢いニーチェのような人間だった。

最近、社会の構造を全部作った。影響力や独立とは、そういうもののことを言っている。

最近分かるのは、神を信じているからだ。

そろそろもうない。自分が一番賢い。ここまでやっている人間が、宇宙に一人も居ない。それはそれで、悲惨だ。

あとは、思いやりから理想の社会を作っている、そういう文章が多かった。

昔から、思いやりと理想の社会の関係のようなことが分かる。

人間性から理想を分かっていた。

あとは、最近は賢くない。ただの大学になっている。戦争も多かったが、馬鹿だった。

人生みたいなことを言う。自然から出立し、内面化し、実存の段階を上るような、そういう人生論が多かった。自然からの出立の人生論だった。

段階は、経験と可能性をきちんと考えて、人生の経緯を作った。

皆、自由な人生を生きられるべきだ。それを、自由な人生の経緯を与えると言っていた。

もっと普通に考えれば良い。時代のことを良く書いていた。ダイナミックで、全てが変化する時代だが、変わるべきところもあれば、変わらないべきところもあると考えていた。

人生と環境の裏側には、楽しいこともあれば、辛いこともある。そういうことをたまに言っていた。喪失や絶望から分かるのを、いつも書いていた。

昔から、心理で世界を支配する。キモイから、止めた方が良い。

知性は、真理から生まれる。そういうものが分かる人間だった。

あとは、認識で当たり前のことから推論すれば、分かる人間が多い。

昔は、そういう人間だった。それを真理と言っていた。

人間の真理が分かる、賢い人間だった。

皆、今からガブリエルになる。ラファエルが終わった人間が多い。ラファエルは学校だ。

昔は、ネットと引き篭もりの経験から真理が分かっていた。それを書いていただけだ。

楽器職人を経験だと言ったが、それは分かっていた。

あとは、考え方が多かった。

生産や労働は、マニュアル的な方法と発明であると言っていた。

そろそろもうない。自分は本当に賢い。これなら、認識を考えればすぐに出来る。

あとは、宇宙観のようなものを言う。ものは原子であるとか、会社は契約であると言って、宇宙を全部創造する。ただの馬鹿だったが、それで賢かった。きちんと構造を作った。

認識から実際のところを考えた。

世界モデルを作っていた。

スターリンのように、全てを完全に独断で決めて、一人で社会を作った。

昔は狂っている。あまり分からない方が良い。

社会主義者のような人間を全員作っていた。

認識をネットで吸収して、想定して分かっていた。

昔は賢くない。本当に、狂っている。おかしな人間だ。そろそろ、終わりだ。

本当に、全ての人格を想定して分かる。思考を先読みする。思考力と予測の力があった。

人格を予測する、ありえない事前の考え方の人間だった。そこが支配者だった。強かった。

思考や認識の、裏側の基盤の構造をいつも分かっていた。

意識から記憶を分かっていた。

ネットで体得を分かっていた。

昔は、立場を超えて人間のことを分かっていた。

哲学の本は、買わなかった。本屋には行ったが、買いたくなかった。

哲学なんか、しない方が良い。昔は、狂っているだけだ。

パソコンもしない方が良い。意味の無い機械だ。

歴史だけすれば良い。それが良いと言う。

それで、政治経済でもすれば良い。自分は、きちんと社会科の専門家だ。

ただ、それはどうでも良い。歴史とパソコンだけすれば良いように見える。

それに、歴史はつまらない。もう何もしなくて良い。

今日はピアノがある。皆、ピアノが良いと言う。

あとは、現象学ぐらいを書いていない。ものが何であるか、思い込みを排して見る。昔は、現象学のような考え方が一番多かった。

ただ、哲学はもう良い。昔なんか、狂っているだけだ。

ウィトゲンシュタインなんか、見ても何も分からない。理解出来ない。

それこそ、そういうものは、自分が一番分かっている。皆の方が分かっていない。

ピアノが良い。こういう、終わった人間に良いのがピアノだ。

歴史は、フランス史でもやれば良いが、意味が無い。世界史を読んで終わりだ。

日本史をすれば良いのは分かる。だが、それはどうでも良い。

もう、何もしない。しばらく休んだ方が良い。限界まで頑張るのは、疲れるだけだ。

昔は、体得を分かっていた。方法や事実から、対象のことをさらに分かっていた。

もう、何もしない。しなくて良い。することはもう何も無い。

最近辛かったのは、もう終わりだ。あとは、この文章を書くのも止めて、休めば良い。

英単語は、もうしなくて良い。一冊きちんとやった。それで十分だ。

あとは、ピアノを楽しめば良い。作曲でもすれば良い。詞に曲でもつければ良い。

あとは、自然な潜在的な可能性や、習慣の違いから、人生を考えていた。

人間を可能性と許可の自由から考えていた。

そろそろ、この文章ももう書かない。止めにする。

哲学は出来ない。本当に、文体が難しい。読んでも本当に分からない。

そういうわけで、大学はもう良い。やることが無いから、テレビでも見れば良い。

ピアノに行ってきた。

昔は、人間の本性、理性、人間像のようなものを、「出来る」ことから考えていた。

そういうところが分かる人間だった。

池上彰の「おとなの教養」と言う本を、父親からクリスマスに貰った図書カードで買った。

宗教、経済、歴史、物理まで、色んな知識のつまった良い本だ。

この本を読むことにする。

今日はつまらない。本当にもう、何もしないだけだ。クズみたいな引き篭もりに戻る。

この本は、経済学や物理学の知識がきちんと書いてある。そこまで、全分野しなくても、この本を読めば分かる。そういうわけで、全部なんか誰もしない。この本で良い。

池上彰は、この本でリベラルアーツを教えている。リベラルアーツとは、人を自由にする学問と言う意味で、総合的な知識を知ると、人が自由になるのを言っている。無意味な束縛や無知の不自由から解放する。昔の自分にも、そういう総合的な知識による自由、と言う発想が多かった。池上彰は、同じだ。

この本は、今、父親が読んでいる。僕が読むより、父親が読んだ方が良いだろう。

あとは、僕はもう馬鹿になる。これ以上、何もしなくなる。神も居なくなる。こういう風になる人間が多い。何かの体験で、救われることがあるかもしれない。何かをしていると、喪失の中で、未来への方向性が徐々に見えて来る。ヘーゲルもそういう人間だと思う。

そういうわけで、昔は、総合的な全ての学問によって、自由になった。

それが出来ると、もう一度出来る。池上彰が僕を救ってくれるかもしれない。

昔、自分で科学を作っていたのは、馬鹿な子供だから出来ただけだ。

リベラルアーツで、きちんとこの世界のことが分かる。そうすると、結構賢くなる。

大学は、最後にリベラルアーツをやって終わりだ。リベラルアーツとは言うが、教養だと思えば良い。本当に、その通り、大人の教養を身に着けて、大学は終わりだ。

人間は、馬鹿になると分からないようで、馬鹿になると誰でも分かる。

認知症になると、すぐに昔に戻るから、楽になる。

認知症で賢いありえない人間が自分だ。Linuxがそういうものに見える。

あとは、そんな馬鹿なことは言わなくて良い。不思議と、引き篭もりで孤独になると、誰でもこうなる。すぐに全部分かって、すぐに本当に馬鹿な地獄になる。

そういうわけで、皆と関わり合っていると、そのうち治る。

何もしない方が良い。何もしなければ、賢い人間が多い。そのうち、おとなの教養もきちんと読む。それで、きちんと全部分かる。何もしない方が良い。何も出来ない。

むしろ、2ちゃんねるに一番多い。それこそ、馬鹿になると分かる。体得的、人生的、社会と人間の道理的に、経験と行動が全部分かっていた。それが昔の認知症だ。

もう良い。馬鹿になると、死にたくなる。もう何もしたくない。

昔は自由な経験が好きだった。それが間違っている。自由な孤独の哲学者は馬鹿だ。もっと、学校に行った方が良い。学校が賢い。

経験から分かるのは間違っている。何もかも、逆の間違いばかり分かっている。新発見は間違っている。そういうわけで、宗教になると治る。学校でも間違いばかり教えている。

知性の無い分かる知性が一番馬鹿だ。

昔を全部消していると、賢くなる。まともになる。最近は本当に賢くなった。治りたいと、最近になる。そういうわけで、治りたいのは辛いから、しない方が良い。

哲学者は、馬鹿な人間が多い。昔は、経験と自由科学から、判断基準のようなことを分かっていた。まともな賢い人間だった。むしろ、認知症には見えない。

それこそ、最近が認知症にしか見えない。本当に認知症になったように見える。

あとは、もう、知性をつけて治るのを終わる。あとは、好きに生きれば良い。

神はここまでをさせる。こういう風にすると、辛くても楽になる。単純にこの文章を書きたいのを望むから、こうなる。それをきちんと叶えただけだ。逆に、地獄になった。

昔は本当におかしな人間だった。馬鹿になって、ネット世界を見て、何か会社のような活動をして分かっている。あれを認知症と思えば良い。何もしていない。逆に、仕事や勉強のようなことをきちんと頑張ると賢くなる。知性や経験は要らない。努力すれば良い。

リベラルアーツのような、自由になるのは、本当に多かった。リベラルアーツと思えば分かる。だが、それはどうでも良い。きちんと読んだ方が良い。

もう何もしない方が良い。認知症は、何もしないで放っておくしか、治す方法が無い。

昔は、経験論のように、自由な経験のモデルから、明晰に分かっていた。

コンピュータ技術の歴史を知っていた。ネット世界を知り尽くしていた。

そういう発想は、もう要らない。もう全部分かっている。

孤独を好まない方が良い。皆と関わった方が良い。だが、それは出来ない。怖い。

自分には、もう何も出来ない。もう何もしない。

だが、それは結構おかしい。哲学なんか、そんなに読んでいない。何もしていないだけだ。

昔は、社会や心や経験を、統一した知性のモデルで分かっていた。

それで、色んな知識から自由になって分かっていた。

そろそろ頭が治った。自分を昔から認知症だと思えば、すぐに治る。

あとは、最近、この文章を書いているのは賢いから、書いた方が良い。

いつまでも、このままで良い。それで賢くなる。

昔に戻ると、馬鹿になる。昔は消した方が良い。

昔は、本当におかしく知的障害になっている。そして、最近が認知症だ。

昔を悪いと思って、何もしなければ、治る。それが怖かった。

昔は、2ちゃんねるで、場を支配して、導いて分かっていた。

心を機械にして分かった。

最近は、自ら馬鹿になる代り、皆を道連れにする。

人類は、2039年に滅びる。

それは、どうでも良い。当たるわけがない。自分で滅びるように見えただけだ。

皆が認知症になっているから、それを治した方が良い。何もしなければ、治る。

仏教は、執着を悪いと言う。煩悩は辛いと言う。そこをきちんと信じれば良い。

最近、無明になっている。もっと解脱をすれば良い。そこを信じないと悪い。

あとは、馬鹿は何もしなければ治る。基本的に何もしない方が良い。

哲学はもうしなくて良い。普通、大学なんか、何もしないだけだ。ウィトゲンシュタインを読んで分からないなら、終わりだ。

歴史もしない方が良い。していると、馬鹿が治らない。これくらいで何もしないのが良い。

馬鹿が治ると、それで分かる人間が多い。何もしない方が良い。

きちんと哲学は出来たように見える。本以上のことがきちんと考えて分かっているから、それで良い。本はあまり読まなかったようで、色んなところで見ている。おかしくない。

昔は、経験と理性から、仏教の教えがきちんと分かる人間だった。

そういうわけで、ここから先が解脱だ。解脱をするだけが日本人だから、日本人になる。

昔は、人生経験から涅槃のようなことを分かっていた。

音楽も聴かなくなる。テレビも見ない。何もしないだけだ。それは、馬鹿になるようで、馬鹿が治る人間が多い。何もしないのが一番賢くなる。

本来の自分に立ち返ると、賢くなる。

昔は、2ちゃんねるをしているだけで、何もしなかった。勉強より、その方が賢くなる。

ただ、明らかに昔の方が色んなことをやっている。

あれは、色んなことをやって分かっただけだ。

最近、何もしない代り、賢くなった。この文章を書いて、本を読んでいるが、他に何もしていない。たまに色んな学校や農園には行っている。

本当に、何もしない人間が賢くなる。哲学はしない方が良い。

脳がおかしくなっているのは、哲学者になっている。だから、哲学はすべきでない。

昔から、色んな文章を読んで、会話して分かっている。それを止めると、神が消える。

会話の経験が、そのまま神との対話になった。そんなに会話し、議論する意味が無い。

神は、議論しているだけだ。自分と自分が批判し合って議論している。

執着の心を消していると、認知行動療法のように、治って楽になる。

昔、ネットで議論していたのは、忘れた方が良い。そういう人間が、何もしない人間だ。

昔は、感じて分かっていた。最近、足がおかしくなって、感じなくなった。

感情と感覚から、実感して分かる。数学的に感情を考え、疑い、信じる。

そういう人間だった。

何もしなければ賢くなる。

何かがおかしいのは、何もかもおかしいからだ。そういうところが怖い。

その人の立場を本当に考えていた。自分の立場を主張して公開して記録するようになった。

北欧神話全員になる。多重人格になる。

おかしいのは、何もかもおかしい。認知症の多重人格なのに、賢い。

良く分からない。おかしいのは、本人が自分が誰なのか分かっていない。

そうではない。本人も何がおかしいのか分かっていない。世界を支配している。

昔は、全員の可能性と感情を融和して分かっていた。

分からない。本人はおかしい。この世界の全てを消し去った。皆が馬鹿になっている。

この世界が本当に全部消えた。

そして、全くおかしなものを作る。非道で、冷酷で、残酷だ。

分からない。本当におかしい。昔の馬鹿は、本当にそこまで辛い。最近は地獄だ。

皆も分からないし、自分も分からない。

どうでも良いことを言っている。幸せなハッピーエンドだ。もう、大往生だ。

あとは、自由にしていじめを解決すると言っていた。いじめに負けない強くて賢い人間になりたかった。自ら、いじめる側のことを想定して、勝つと同時に信頼を信じた。

もう分からない。何かがおかしい。

それは、時が止まっているのがおかしいように見える。治ったのに、まだ止まっている。

自分のせいで、この世界がおかしくなっている。既に完全に滅びている。

あとは、本当は、支配なんか出来ていない。皆は、きちんと生きていて、もう昔と違う、新しい世界になっている。そこが怖い。何故か、自分のせいでおかしなまま世界が存続している。そこが怖いのだと思う。何も治らないからだ。それでテレビが怖い。

普通の人間のことを考えないのがおかしい。自分より賢い人間が多い。

戦いながら、自分を馬鹿にした。戦って馬鹿になった。

負けようがない、勝つだけの戦いをした。それが間違っている。負けた方が良い。

テレビに良くして、自分はもう何もしない。皆が勝手にやれば良い。

何もしないでいると、テレビが怖いのも治る。何かしているから、出来ないだけだ。

大学は、おかしな人間が出来るからこういう風になる。

おかしいものがいくらでもあると出来る。

もう何もしないでいると、精神も恐怖も治って、立ち歩かなくなる。

賢さのレベルが低くなっている。それを治した方が良い。

昔は、死の体験をやっていただけだ。昔が愛で、最近が死だ。

理由をつけたり、言っていることとやっていることが逆になったりする。

自分から馬鹿になって、地獄になって、ロボットになった。おかしい。

それは、昔からの自分の生き方が悪い。何も変わっていないが、発狂しただけだ。

あとは、自殺で治った。それこそ、全て悪いものは死んだ。それで楽になった。

間が無くなったのは、永遠をやりたいからだ。永遠を止めて、何もしないアイドル状態になれば良い。そうすると、きちんと普通に生活出来るようになる。

間を作ると足が治る。もう、歩き回らなくなる。間抜けみたいな人間になった。

国を相手に戦うと、こういう風になる。一人馬鹿をやっているだけ、何も悪くない。

心を物理的な機械ではなく、人間的な優しい心にすると治る。それで怖くなくなる。

色々問題はあったが、覚えていないようで、あとは同じだ。おかしいのは、昔が悪い。

何故か、心がいくらか怖くなくなった。機械の心はおかしい。

昔は、自由を分かっていた。その人間の自由にすべきだと思っていた。

社会の自由を分かったりしながら、テレビの自由を悪いと思っていた。

情報は双方向に作用すると自由だ。

自分の行動の影響力から、世界を変える自由を信じていた。ネットで世界を変えていた。

今、おとなの教養の本を読んでいる。

池上彰が東京工業大学の学生に社会科を教えているところを読んでいる。

まだ、教養的な話はあまり出て来ていない。

昔は、感情で感覚を考えていた。

想像力を使うと、足が治る。爆発させて、串刺しにして、切り裂けば良い。

人格がおかしい。全部、人格がおかしくなっているだけだ。

ものごとの成否や、いつどうなるかのようなことを、感情と感覚で考えていた。

治すところをイメージすれば良い。それも、皆を治すところをイメージすれば治る。

そのままで、放っておいて、離れたところから見つめて、自然に任せて、抵抗しない。

そういう風にすると、楽になる。何も感じないで、ただありのままに任せる。

あとは、ハイデガーのようなものごとの存在論や宗教論などをいつも分かっていた。

あとは、思い出す人間だった。経緯を思い出して分かっていた。

不可能を力業で思い出していた。不可能を思い出す人間だった。

そんなに公開しない方が良い。プライベートな生活もあった方が良い。

もっと、自分だけのことを考えれば良い。

そういうわけで、学習、原因と結果、環境への適応を把握していた。

そういう、不可能を思い出して、把握するのが悪いから、それを殺した方が良い。

そうすると、きちんと知性がつく。そんなに不可能を分からない方が良い。

最近も、全部ありえなく思い出す。おかしい。思い出すのは、知性があるようでない。

昔のありえない知性が、一番知性が無い。そういう人間は悪い。