日記に戻る | 2016年1月の日記に戻る

=2016-01-30=

悪い人間は、居ない。皆良い人間だ。

感情で全て分かった。

皆同じで分かる。そういうわけで、子供の方が分かる。

数学を分かりたい。

数は、無限にある。巨大な数も、マイナスも、小数点もある。

円周率のような数は、小数点が無限に続く。そういう数もある。

分数は、比である。普通表せない数も、比、平方根、虚数を使えば、表せる。

数学には、記号が多い。

記号は、積み重ねて、他の記法に直して、定義から証明して考えられる。

10進数の位取り記数法は、2進数のようにも出来る。

あとは、沢山の公式の積み重ねは、理解することで、体得的に分かることが出来る。

数学は、忘れる人間なら誰でも出来る。こういう、覚えて減る人間には出来ない。忘れて増える人間が出来る。

数学は、きちんと習えば分かる。学校に行った方が良い。

だが、数学は、賢くない。あまりしない方が良い。数学は、出来ても何も賢くない。

自分は経済学をすれば良い。それこそ、この世界の皆は、ほとんど経済学しか分からない。数学ぐらいが分かる人間が多い。哲学なんか、誰にも分からない。

あとは、微分積分や、行列とベクトル、集合と論理、関数のグラフなどがある。

もっと、数学のことを分かりたい。

それから、政治経済のことも、民主主義について知りたい。

それは、誰でも出来るから、出来る。数学は止めた方が良い。賢くない人間になる。

最近、科学的な考え方が分かっていない。昔は分かっていた。数学的で物理的な、推論と発見のような考え方を、いつも書いていた。

昔から、それで分かっていた。最近、分からなくなっている。

数学は、一度消した方が分かる。数学的に分かっていると、それは、知性があるようで、知性が無い。もっと、具体的なものごとを分かった方が、賢い。

だが、数学的な知性が無いせいで、本当に馬鹿になっている。人間は、何でも知性だ。知性は、多ければ多いほど良い。数学をやると、無限に知性がつくようになる。そういう人間が多いから、これで数学や物理をやれば、きちんと分かるようになる。

水は、使うと、使った分だけ減る。そういうものを考えないと、数学は出来ない。それこそ、体積や表面積などを普通考える。そういう風に、対応関係を考えていると、哲学も出来る人間が多い。哲学と数学は、考え方が同じだ。そういうわけで、普通、哲学は数学者や心理学者が出来る。経済学者や文学者も多いから、自分もおかしくは無い。

もっと、数式を考えれば良い。何から数式が生まれるか。図形やグラフなど、色んなものから数式が生まれる。デカルトは、そういう、解析幾何と言う分野を作った数学者だ。

あとは、論理学や、物質と物質の関係や作用のようなことが多い。相対的に、1つ1つのものの関係、構造、共通点、相違点、比較、個別性、普遍性、などを分かっていると分かる。理性より、感覚で分かると分かる。数学を理性とは言うが、純粋理性を批判していると、きちんと理性的に分かる。そういうわけで、そんなに純粋理性を信じていると、出来ない。

あとは、むしろ、難しくは無い。学校へ行って習えば良いだけだ。

放送大学は、つまらないが、頑張った方が良い。哲学と歴史か、数学と経済学か、それくらいをして卒業すれば良い。興味のあることからやれば良い。

放送大学は、何故か、おかしな人間が多い。おかしな人間しか入らない。テレビとラジオだけで授業するのがおかしいから、あまりにおかしな人間になる。狂った人間が多い。

あとは、実験して、観察しなければ分からない。当たり前に何があって、何が無いのか、などを考えれば良い。共通点や相違点は、実験することで見えて来る。積み重ねと判断から、構造的、体得的に考えられる。そういうことを教えている高校や大学が一番多い。

昔は、人間や存在のモデルを作って分かっていた。大学が無くても、ネットを見れば良い。ネットでいくらでも賢い人間が数学的な考え方を教えている。

普通、実証と推論の考え方が多い。経験的に、色んなことを考えて、「正しい考え方」を発見して分かっていたのが、昔の自分だ。

グラフは、1つの数式から生まれる、具体的な数列の変化だ。そういう風に考えれば良い。

物理は、単位と関係だと思えば分かる。関係しか考えない。想像力の構造を作れば分かる。

昔は、そういう風に、相対的な構造にして、数学的なことを書いていた。

個別と共通のモデルから分かっていた。

あとは、数式は、放物線や三角関数から導き出すことが出来る。そういうことを言う。

数学は、しなくて良い。これ以上は、学校に行かないと出来ない。

昔から、証明のようなことを言う。証明は、自分はまだ分かっていない。証明と言われて、何をするのか、漠然としか分からない。数学が出来ないなら、しなくて良い。

昔は、証明のようなこともきちんと分かっていた。相対的なことをいつも書いていた。

あとは、関数のような文章を書いていた。

社会的な多様性、共存、独立も、そういう風に、数学的な個別と共通のモデルから書いていた。それくらいの馬鹿な文章だった。組織は、グループから数学的に作っていた。

視野を広げて、共通性とモデルを考えて、推論や実験をすれば、考え方が分かる。そういう風に、考えると、誰でも分かるのが昔だ。

そういう、「考える以前の前提」のようなことを書いていた。モデルと実験が一番多い。共通性から推論し、実験し、経験することで分かる。そういうことをいつも書いていた。

人間が人間であり、場に存在するのでも考えれば良い。

昔は、手段、参加、意図、目的のようなものを、モデルで分かっている。前提の前提を考えて、何でも社会的、相対的なモデルにして分かっていた。

意味のことが良く分かる。戦争と平和など、意味と自覚が一番良く分かっていた。

最近、分からなくなったようで、分かっている。

最近は、言われてすぐに分かる人間になった。

ものごとの道理なんか、いつもきちんと分かっている。自分は、全部分かって分かっている。モデルとは言うが、論理学や人間の人生、体験、環境、学習のことも、きちんと分かっている。本当に全て分かっている。それは、高校時代賢かったからだ。

あとは、社会、人生、考え方のことを、経験や自由から分かっていた。

起業と買収、株式市場、リベラルアーツ、オープンソース、ボトムアップ、ロングテール、そしてインプットとアウトプットなど、自由から社会や考え方をいつも分かっていた。

いつも、そういう風に人生を分かっていた。自分から経験しなければ、分からない。自分から、何でも経験しようと思うこと。そういうことを、論理的に考えて分かっていた。

あとは、人生のようなことを書いていない。自分は、学校に行かなかったのが悲惨だ。引き篭もりで家で生活するのはおかしい。スラムから、救世主のような賢い人間になった。だが、あれは何も賢くない。ブログと掲示板を読んで、Wikiを書いている。書けないのが分かっているのに、書くのがおかしい。Linuxが悲惨だ。Linuxなんか全く開発出来ない、パソコンの知識も無い人間が、Wikiを書いている。そういうところがおかしいから、こういう風に、悪い馬鹿になる。一番悪い。昔から、世界のことは自分にしか分からない。

あとは、学校がどう変えられるのか、全部分かっていた。学校は、基本的に変えなくて良い。今のままでも、ある意味賢い。もっと賢くは出来るが、その方が馬鹿な点もある。

人生なんか、同じだ。もっと賢い人生なんか無い。変わろうと思えば変われる。だが、その人のそのままで、良い人生だ。

人生は一度きりだから、楽しんで生きた方が良い。他人に強制されて生きる人生はつまらない。自由に、放任に生きた方が良い。自由なだけ、良い人生だ。

未来なんか、自由だ。自由に生きれば良い。振り返るのは、辿りついてからで良い。どの歌手も、そういう、自由な左翼のようなことを言う。それこそ、自由は良い理想だ。

モデルとは言うが、昔は数学的なモデルを作っていただけだ。

数学者に一番多いのが、構造を作って分かる人間だ。

昔は、理性批判をしながら、構造をきちんと作っていた。それが賢かった。

証明が出来ないとは言うが、昔は出来ていた。あれは、本当に、誰よりも証明が出来る、賢い人間だった。パソコンのせいでそうなった。

出来なくなったのは、パソコンが馬鹿だからだ。パソコンの部分を全部消したかった。それは、おかしくは無い。それで辛くて狂っているのが治る。

それこそ、この文章が推論だ。きちんと、「分かることから分かることが分かる」のが出来ている。この文章は、そういう、推論と証明のような、「意識の証明」のような文章だ。

証明は、最近も多い。それこそ、自由主義や共産主義の政党と共同体は、正しい考え方で導いて分かっている。そういう、証明は、本当にそこまで分かっている。そういう、「独自の証明」が沢山ありすぎるせいで、本当の証明が出来なくなった。そういうものだ。

そういうわけで、昔は現実社会のことを証明で分かっていたが、昔の方が馬鹿だ。

概念と経験から証明すれば良い。そういう、思考の前提条件が分かっていた。経験から具体的に分かっていた。

最近は、証明が発展して、ものごとの構造を簡単に作って分かる。その、「成り立ち」のようなことを良く考えると、証明が分かる。証明なんか、いつもきちんと分かっている。

自分は、そういうわけで、自覚や気づきが足りない。いつも自分がしていることが賢いのが分かっていない。昔は、自分のしていることが何なのか、考えて分かる人間だった。自分が何なのか、本当に良く分かっていた。不思議と、証明はそういう人間が出来る。

そんなに漠然と煩悩のように考えていると、証明は出来ない。曖昧さや漠然としたものを全部消せば分かる。数学者は、それしか居ない。自分に関係することを全部きちんと、はっきりと分かれば良い。数学者には、そういう、自分に関することがきちんと分かる人間が多い。それ以上は、構造や基礎を作るしかない。

数学の本に書いてあったが、数学的な発見をするためには、暗記をするよりも、確かな少数の方法をきちんと分かって、その考え方の有用性を知ること。そこから、全体の構造や全体像が見えて来る。自分も、そういうものを全体像と言いたかった。

証明が発展して構造を作るようになったのは、昔からだ。昔も、今も、何も変わっていない。方法や全体像から構造が分かるのも同じだ。正しい考え方とは、そういうことを言う。

あとは、むしろ、人の言っていることを聞いた方が良い。皆も賢いのが分かっていない。

構造と比較から、理性的にきちんと疑って考えれば分かる。経験も疑う。

最近は、それが進歩して、疑いながら信じて考えて分かる。本当にここまで分かった。

昔は、思考を辿って分かっていた。最近は、思考を書くようになった。

仮説からモデルを立てて、証明することも出来る。

原子やブラックホールなど、仮説からモデルを作って、「その時そうなればそうなるはずだ」と考えて、証明して、実験する。

そうなるはずだ、そうなるだろう、そうかもしれない、そう出来るかもしれない、などと考えて、証明する。

その時そうなる、あればある、のようなことが、モデルと証明から分かる。

心のこと、社会構造のこと、環境と場のこと、空間と時間と存在のことが分かる。

自由な経験と可能性と「出来る」ことから、社会を作っていた。

言語的に分析して分かっていた。

脳は、治らない方が治る。そんなに治りすぎない方が良い。

右翼になると楽になる。日本には、右翼しか居ない。

人工知能は、もっと「曖昧さ」を全部学習すれば良い。それで人間と同じになる。

子供には分からない。子供は、「好きになる」と「嫌いになる」しか分からない。知性は、想像力からつく子供が多い。だが、子供は、この宇宙のことは、最初から普通に分かる。見て居ると、赤ちゃんすらきちんと分かっている。自分の方が馬鹿だ。

そういうわけで、心と社会と環境のことを、証明して分かっていた。

あとは、ものと知性のモデルを作っていた。「あればある」や「出来れば出来る」などを、可能性のように、アリストテレスのように考えて分かっていた。

森羅万象とは言うが、そういう、知性と自由を分かっただけだ。そういう人間が多い。

証明は、予測したり、不可解なものを考えたりしていると出来る。

「それが何故そうなるのか」を良く考えれば良い。

それこそ、既に知っている、真理や知識のようなものが、何故正しいのか、分からない。

普通、分からない。そこから、何故正しいと言えるのか、自分で考えれば良い。

そういうわけで、証明は馬鹿の方が出来る。

こういう、分かっている人間には、証明は出来ない。既に全部分かっている。証明なんか、する意味が無い。そこが馬鹿だから、賢いのが馬鹿なだけだ。

何故か、馬鹿は分かっている人間が多い。馬鹿に見えるが、賢くて良い人間が多い。

もっと、「パソコンは何故動くのか」のようなことを考えれば、原理から法則が見えて、証明も出来るようになる。そういう、原理から証明し、法則を知るのを言っている文章が多かった。昔は、技術的なことや機械的なことも、物理的に良く分かっていた。

全くそういう人間に見えないが、昔は、そういう、技術者の科学者のような人間だった。

「いじめは何故起きるのか」でも証明すれば良い。そのことに関して、本当に沢山のことが考えられる。昔は、そういう、「人間のことを考える思考」のようなものが多かった。

あとは、自分を変えれば分かる。自分と自分を比較すれば、分かる人間が多い。

最近は、単純に2人の自分を比較するようになったが、自分と自分の比較は、昔の自分に多かった。そういう風に、「自分を変える」ことで分かっていた。

それこそ、昔なんか、「そうなればそうなる」と「あればある」が分かっただけだ。

そういうものは、本当に誰でも分かる。

自分は、それだけで宇宙や人間のことを全部分かっていた。

証明は、もっと簡単なものから分かった方が良い。パソコンの仕組みや、いじめの原因は、難しすぎる。社会が何故自由に出来ないのか、とか、そういうことを分かった方が良い。環境を自由にすることで、何が出来るのか、とか、そういうことを考えれば良い。

あとは、実存主義的に時間を考えていた。ハイデガーのように、存在を時間から考える。時間的なこの社会の共存のようなものをいつも考えていた。

何でも「何故」と考えれば良い。何故学級が崩壊するのか、何故他人をいじめるのか、何故ストレスがたまるのか、などを考えれば良い。それは、全部、分かっていないからだ。この社会や人間のことが、分かっていない。それこそ、弱い人間の方が悪くなる。強い方が良くなる。勝つと楽になる。負けると不安になる。そういう、簡単で当たり前のことから考えれば良い。いつも、そういうことを言っていた。

当たり前のことから推論すると、この社会のことが分かる。それは、これくらいの内容で、誰でも分かるはずだ。昔は、当たり前のことから推論して、モデルを作っていた。

積み重ねて、自分で考え方を作ると、感情で分かる。そういう風に、感情と理性から、理性批判を、感情を融和しながら実践して行っていた。昔は、それだけの人間だ。

その対象のことを、その裏側にある人生、環境、体験、存在のことを想定して、裏側を分かって分かる。昔は、そういう風に存在と対象の関連性を分かっていた。

そろそろ賢くなった。もう、きちんと分かる。

数学は、記号だ。プログラミングと同じように、沢山の処理を自動的に行う記号がある。コンピュータは新しい数学だ。関数として、いくらでも独自に記号を作る。

コンピュータの賢い点は、いくらでも多様なプログラミング言語がある。そこが賢い。いくらでも、独自の数学体系と記法の方法を作る。昔は、それを記法と言っていた。数学は、独自の記法を許すべきだと言っていた。コンピュータのことを言っている。

それこそ、ゲームを見ていると、数学が出来る。ゲームには、関数が多い。グラフィックは、グラフと同じように描く。ゲームは不思議と、賢い。

それこそ、小説や文学は、漫画で出来る人間しか居ない。オタクは馬鹿では無い。それこそ、オタクなんか、スターウォーズやガンダムが好きなだけの、普通の人間だ。

オープンソースは、プログラミング言語も多様だが、OSもGUIも多様だ。そういう多様性は悪くは無いが、多様過ぎるせいで、劣ったものになっている。昔は、統一もするのかもしれなく思えたが、最近は統一なんかしない。標準のものも無い。最低とは言うが、むしろ、結構そこが最高なのがLinuxだ。本当に多様で、選択肢がある。

あとは、フランス語と英語とドイツ語の違いのようなものを、言葉遣いと知性から、推測的に分かっていた。ただ、それは馬鹿だ。形容詞の順序の違いのようなことを考えている。

もっと賢い方が良い。GNOMEのコンポーネント指向は、これでは分からないように見えるが、昔きちんと概略ぐらいは知っていた。全く分からないように見えて悲惨だ。

聖書が言っているように、自分は熱くもないし、冷たくも無かった。

だが、神は、自分が熱くあるか、冷たくあるのを望んでいる。

そういうわけで、もっと熱くなるか、冷たくなった方が良い。自分が見てもその方が良い。

自分は、死人の屍や植物のように、熱くも冷たくも無い。そんな人間はありえない。もっと、熱くなったり、冷たくなったりした方が良い。聖書は、それを言っている。

もっと情熱的な人間になりたい。冷徹で残酷なら、それも悪くは無い。天使に見える。

昔は、人間のことをモデルにして分かっただけだ。宇宙の全てが分かった。

大学にこういう人間が多い。全てのことが全部分かる人間は、不思議と、一番多い。

昔は情熱的な人間だった。そこに戻れば良い。この文章は、情熱的に見えない。むしろ、冷徹な人間には見える。気まぐれで、残酷な、思わせぶりの天使のような人間に見える。

昔は、熱くなったり冷たくなったりと言うよりは、色んな静と動の感情を分かって、実感で分かっていた。聖書は、そういう人間を良いと言っている。

もっと、プラスになったりマイナスになったりしても良い。ゼロとイチでも良い。不思議と、そういう人間には見える。正と負を繰り返しているように見える。機械のような人間に見えて、人間的な、失敗と挫折がある人間に見える。むしろ、失敗なんかしない。

聖書は、悲しみには2つあると言っている。1つは、世の中に溢れている悲しみだ。この悲しみは、死へとたどり着く。もう1つは、自分のなしたことを悔いる悲しみだ。この悲しみは、神の救いへとたどり着く。自分は、そういう人間になっている。常に、全部、自分のなしたことを悔いて分かっている。そういう理由で、自分は神が救ってくれる。

聖書は、自分をかいかぶるなと言って、自分に特別な知恵があるとも思うなと言っている。それは、正しい。自分には偉大なことが出来るようで、それは皆の知恵と謙虚さが無ければ、全く実現しない。自分のことを凡人と思うものが、非凡な才能を生む。

おかしくは無い。そんな天才は居ない。天才は、誰もがしていることをきちんと人より沢山している人間しか居ない。自分の場合も、きちんとネットと経験から考えて、人より沢山の文章をいくらでも書いたから、出来るだけだ。

聖書は悪くは無い。斎藤の本と変わらないが、聖書は、本当に、人生のことを全て分かって、きちんと神ほどに正しいことを言っている。だが、神や宗教は悪い。斎藤の本は、人生のポジティブな生き方が分かる、普通の良い本だ。だが、聖書は、むしろ、ネガティブな生き方をするべきだと言うかもしれない。ただ、そうでもない。両方似たような本だ。

聖書が言っているように、悪口や酷い言葉を言うのが悪い。もっと、心にある全ての悪を消し去るべきだ。自分は分かっていない。こんなに悪いことをいくらでも言うのがおかしい。昔のネットの頃から、批判する人間だった。いくらでも悪いことを言う。

白取が賢いせいで、聖書が賢く見えるが、聖書にはそんな賢いことはあまり書かれていないと思う。ほとんど、神の賛美とユダヤ人の歴史しか書かれていない。

あとは、むしろ、数学的な体得を分かっていた。事実を知り、肯定し、否定し、信じ、疑い、さらに分かる。照らし合わせて、多角的に分かる。いつもそういうことを言う。

だが、昔は体得と言うよりは、ネットを見ながら、グーグルで検索したりして分かっていた。だが、あれも馬鹿では無い。本当に、数学的なこと、人生のことを分かっていた。

聖書を見ても、神は賛美するものだ。嫌いなら、信じなくて良い。

あとは、失うことで得るものもある。AAAが言っている。

ケミストリーが言っているように、誰かが決め付けている、勝手な未来は、書き換えてしまった方が良い。本人も書き換えて欲しいからだ。それが自分だ。

ケミストリーが言っているように、この文章は、無限に広がり続ける。剥がれ落ちて行く自分の感情が愛だと言っている。これがそれくらいの馬鹿だ。

もう、怖い。世界の未来が変わる。最近は、最後まで終わって、何も分からなくなっている。自分が決めた世界の終わりは、本当に皆をそこまでの馬鹿にする。

そういうわけで、そういう風に死ぬ人間が多い。人間は、こういう風に死んで行く。神と言うよりは、死が起きているだけの、普通の人間が自分だ。

不思議と、それは、本当に死ぬと治る。自分も、橋から転落して、足を折って治った。そういう風に、一度死を経験すると治る。そういうわけで、皆も死ぬしかない。

それは、怖いから、起きない。むしろ、死を作る、と言う発想がおかしいのが自分だ。死と言う体験を創造した。こういう風に死ぬ老人が多いのは、自分のせいだ。

自分は、FLOWが言っているように、絶対に諦めない思いが賢かった。だが、理性的に受け入れて、諦めるのは、何も悪いことではない。仏教では、四諦と言う人生と宇宙の真理を教えている。漢字が「諦める」になっているのは、諦めるプロセスを四段階にしているだけだからだ。そういうわけで、諦めると、苦の原因や方法が分かる。そういう人間が一番日本に多い。諦めない人間を賢いとは言うが、それは少ない。諦める人間の方が賢い。だが、それを言うと、つまらない。スポーツ選手や芸術家を否定しているように見える。

聖書は、光あるうちに歩けと言っている。こういう、光を失う人間のことを言いたい。

聖書は、生まれた時は誰も変わらないと言っている。聖書は平等だ。

聖書は、二人の主人に仕えることは出来ないと言っている。金に仕えるか、神に仕えるかだ。そういうわけで、こういう、仕事をしない、神を信じる人間の方が、賢くなる。

あとは、聖書は賢いことを言っているのは分かるが、聖書なんか、普通、神を賛美しているだけだ。これでもか、これでもか、ぐらい、神を賛美している。おかしい。

聖書は、人間の人生を塵のように儚いものだと言っている。自分は、そうだとは思わない。本当に、ここまで偉大になる人間が多い。儚いものだからこそ、楽しく生きるべきだと思う。それこそ、それは、矛盾していない。聖書を信じないわけではない。聖書の言った通りではないが、それで信じると言いたいだけだ。

あとは、知の前提のようなものを正しく考えていた。生物が、生物学なんか知らない。

あとは、漠然に考える知性が多かった。パソコンのタグやキーワードを考えていた。

賢いのは、Wikipediaだ。僕は、昔からWikipediaが好きだ。無くなってほしいとは言うが、Wikipediaは賢い。それこそ、良いのに無くなってほしい馬鹿が自分だ。

自分のせいでどこまでも道が続いていく。嵐が言っている。だが、最近はそうでもない。治すせいで、道が続かなくなった馬鹿しか居ない。

そういうわけで、皆もう治らない方が良い。治らなくなれば、道が開ける。闇から光へと戻って、光ある世界になる。

この文章は、理由と肯定を書いているだけで、否定が無い。書くことが、そのまま否定になっている。その否定を付け足すと良く分かる。もっと、この文章に書かれていることを、疑って、否定しなさい。そうすると、きちんと分かる。

自分は、肯定して欲しいと言うよりは、根拠が何であるかをきちんと知ってほしい。昔は、そういう風に、「根拠をきちんと知って考える」ことが多かった。そこから、「経緯を知って融和する」ことが多かった。そういう文章や考え方がいつも多かった。

何かが哀しい。そこまで喪失した人間に見える。そういう人間になる人間は、ヘーゲルのように多い。神は、哀れみを好む。それこそ、皆もっと哀れんだ方が良い。

聖書が言っているように、敵には良いことをしてやった方が良い。そうすると、敵の心が揺らぐ。敵を味方に変えられる。昔は、ネットを見てそういうことを分かっていた。

聖書が言うように、良い木は良い実をつける。聖書は、良い心が良い言葉を生むと言っているが、僕は、良い環境が良い人間を生む、と考えたい。

だが、そんなに環境中心主義者になるのは良くない。ソクラテスが敵対した、ソフィストと言う権威の集団は、人間を環境によって変わる、と考えていた。ソクラテスは、それを疑って、全員に平等な理性があると言った。自由より、平等の方が良いこともある。

だが、おかしくは無い。ブータンの国王がスピーチで言っていたように、人間の出生の環境は違って、人は本当に客観的になることは出来ない。それもそれで正しい。

自分は、そんなに他人の言っていることしか分からないのがおかしい。自分の力で考えていない。昔は、自分の力で考えていた。だが、そうでもない。最近の方が、自分の力で考えている。何も見ず、自分だけで考えている。そこが、仏教で言う無明になっている。昔は、色んなものをきちんと見て、正しく考えていた。同じ発想をしているのは、昔からだ。

だが、そういう発想は、聖書が言っているように、光が既に無くなって、闇になっている。だから、皆には、光あるうちに歩んでほしい。こういう風に、光が無くなる人間は多い。

FLOWが言っているように、皆と違うと悩んでも、視点を変えればそれが個性だ。

最近は、そういうことが分からなくなっている。そういう、普通の考え方が分かっていない。それで、無明になっている。妄執になっている。煩悩になっている。

それこそ、この文章は煩悩と妄執のかたまりだ。おかしいぐらい、ソ連を言う。自分が見てもおかしい。民族主義的、イデオロギー的に考えるのはありえないほど悪い。

昔は、人種のことも、教育のことも、人生のことも、国のことも、環境だと思っていた。

自分は、環境中心主義者は止める。もっと平等な理性を信じる。

むしろ、昔から、環境とは言うが、人間は同じだと信じていたのが自分だ。

それこそ、ネットの体験から、人間の理性が誰もが同じなのを分かっていた。ソクラテスは、そういうことを言いたいのだと思う。そこまで議論していると、平等なのが分かる。

あとは、ポルノグラフィティが言っているように、皆は町に置き去りになっている。そういう、置き去りになっている人間を、そろそろ運んで行く。

あとは、民族主義者の共産主義者は、キモイ。右翼には見えない。まともな自由な右翼になると治る。本当に戦うだけになっているのは、そこが分からないのがおかしいからだ。何も分かっていないから、こういう風に、馬鹿の方が分かる。そういう人間が多い。

あとは、相対主義者も止める。神が人間なわけがない。宇宙は物理学には見える。だが、物理学が考えても、説明出来ないありえない現象は多い。そこには、神の秩序を見出すことが出来る。仏教も言っているように、この宇宙は複雑な縁起で成り立っている。複雑な条件と原因の関係から成り立っている。そういうわけで、絶対主義者の方が分かる。

環境中心主義者と、相対主義者を止める。そんなに、人間のことをゴミだと思うのは、おかしい。神秘や奇跡を信じた方が賢い。人生には、希望と品格と気高さがあるべきだ。そういうことを言う賢い人間が多い。そういう人間が、相対主義者の分かることぐらい、きちんと分かる。昔から、自分はそういう人間だ。相対主義者なのに、神を信じている。

ただ、環境中心主義者は、そんなに悪いものではない。この宇宙のこと、人生のことが、きちんと説明出来る。経験から分かっている。

だが、本当に、それらは賢く見えないから、止めた方が良い。人間をゴミだと思っている、唯物論者の無神論者に見える。誰でも、そういう風に孤独になって、その後に神を信じる。そういう人間がドイツに多い。それは、どちらもそこまでキモイ。虫に見える。

あとは、不思議と、昔は観念論者だった。頭の中に、観念のようなものを全部作って分かっている。観念とは言うが、単純な考え方や精神や知性のようなものを作っている。そういうわけで、そういう人間が哲学が出来る。経験論者でもあった。観念は、全部、自分の経験から、観念を比較し、関係性を考え、対応し、原因と結果を知り、心と場を知り、作用と意識を知って分かっていた。

そういうわけで、ヒュームやヘーゲルは、何故か、知らなくても出来る人間が多い。それこそ、観念で考えれば良いだけが、人間なら誰でも分かる。分かる人間の方が分からない。哲学なんか、勉強する意味が無い。自ら哲学をするのが普通だ。カントがそういうことを言っている。そういうわけで、自分のように哲学を勉強していると、その方が自分の哲学が出来なくなる。ほどほどにした方が良い。

哲学をするためには、人がどんな生き方をしているのかを知ること。そこから、ありえない人生の可能性が見えて来る。夢と葛藤の中で、人が何を思い、望み、叶うのかが分かる。昔は、そういう風に考えて、サルトルのように社会と人間のことを考えて分かっていた。

昔は、社会のことがきちんと見えていた。人生と人間と関係のことを考えながら、ネットで具体的な社会を知りながら、この社会のことをはっきりと見ていた。

それが一番賢かった。そういう、安定した世界の中で、社会のこと、世界観のことを、積み重ねて分かっていた。止まった世界の、同時に、動乱の世界を分かっていた。

そういう風に分かっただけだから、最近、世界があまりに変わりすぎるのが悪い。皆、それで馬鹿になっている。世界は、そんなに変わらない方が良い。

自分のせいで、本当に皆が置いてけぼりになっている。置き去りになっている。

それこそ、それはそうでもない。本当に、最近、何も起きないから、賢くなった人間が多い。そうでもない。変わるから賢くなる人間も、変わらないから馬鹿になる人間も多い。

そういうわけで、そんなに理性的に考えても、混乱するだけだ。そういう人間も多い。そういう人間の方が普通なのが、昔の自分は分かっていない。賢い人間は、こういう人間が多い。昔から、賢い人間の存在が分かっていない。皆が同じ馬鹿だと思っていた。

止まった、安定した環境に、バビロニアのような偉大な国を作る。そういう発想が多かったのが、いつもの文章だ。そういうことをしたかっただけだ。

あとは、あの文章はそんなに賢い文章ではない。皆をいじめて分からなくするだけの、イスラム主義者のような文章だ。そういうわけで、これが共産主義だ。

そういう、思想的なことは言わない方が良い。つまらないほど、それを止めないから、地獄になる。地獄で良いなら良い。だが、それはありえないだろう。

あとは、語りかけるような文章が多かった。それも、自分自身に語りかけていた。

あなたは、自由になるべきだ。

あなたは、もう、僕の助けを借りようとしないべきだ。

あなたは、平和な世界へと戻るべきだ。

あなたは、平等を信じるべきだ。

あなたは、一度、この世界の皆のことを、知り直すべきだ。

そういう、「あなた」が多かった。ただ、自分に語りかけているだけだ。

あとは、「自由とは」や「全ては」が多かった。

戦っていると言うよりは、支配していた。本当に、責任を持って、日本のために戦っていた。悪いとは言うが、今考えると、あれで良かった。引き篭もりの自分に道が開けた。

だが、そうでもない。そんなにあんな悪い戦いを良いと思うから、こういう風に、悪いだけの対話になる。神との対話や戦いを良いと思うのがおかしい。

神は、もう信じなくて良い。むしろ、神だけの人間になったのが一番悲惨だ。神が一番悪いから、もう信じない。その方が良い。

ここまでの文章が神だ。それこそ、これくらいは誰でも思い出せる。

神を信じないと言うと悪いが、信じない。もう、信じたくない。ただ、そんなに怒っても意味が無い。神は、きちんと自分に良くしているだけだ。自分は怒っていない。

もう一度、正しい絵の具の色を使って、新しい明日を描くべきだ。嵐が言っている。

あとは、ネットから人間のことを分かった。人間像のようなものを全員作っていた。

自分がこの文章を書いていることは、誰も知らない。神なんか信じていないように見える。

自分は悪くは無い。作家の本人が居ると、何か良いように見える。

もっと賢い作品を作った方が良い。皆、それを期待しているはずだ。頑張るしかない。

小説は、子供のように、思い通りに書けば良い。いくらでも思ったことを言えば良い。それだけでは賢くないようで、誰でも馬鹿だ。そんなに賢い人間は居ない。

自由でも、平等でもない国は悪い。清における国と官僚による商工業と農業の搾取を見れば明らかなように、昔の王国では、全ての富はブルジョワジーのような上層の階級に吸収されていく。ヨーロッパの近代の資本主義によって、清はしだいに衰えて行った。

いつも言っているが、感情の裏にある感情を考えることで、この宇宙の裏の構造が分かっていた。それもそれで、モデルと言えると思う。

そろそろ、清も読み終わる。今、清の文化を読んでいる。そろそろ、帝国主義の、次の巻に移る。この本は、一冊590円だ。安い。

あとは、宇宙観の歴史とか、生命は太陽エネルギーの貯蓄だとか、宇宙ではどこでも同じ法則が存在するとか、正しいことはいつでも正しいとか、そういうことを言う。

もっと合理的に、再利用や、レンタル、共有、広告と看板による商売、地下フロアの構築などをすべきだと言っていた。

あまり意味が無い。それくらいの馬鹿だった。

中国の文字は、皆で作ったと言っていた。それこそ、漢字は賢い。哲学的な形容と概念がある。そういうものを、知性と哲学的論理から考えていた。

あとは、宇宙の歴史のようなものを分かっていた。ヘーゲルのように、この宇宙の歴史を分かる。自然から、場の自然な意識と精神を知る。その場に自分が居たとしたら、何を思うか、と言う観点から、場の意識や精神を分かって、書いている文章が多かった。

あとは、ネットの経験と知識から、博物学のように分かっている、失われた博物学が多かった。何でも、知識と考え方を書く。ラルフ・イーザウの小説と題名が同じだ。盗まれた記憶の博物館だ。そして、弁証法に、論理学の全てを書いていた。体験のようなものは、人生の可能性から、世界観として文章に書いていた。

ラルフ・イーザウは、中学生時代、好きだった作家だ。ネシャン・サーガと言う小説を、ハリー・ポッターと一緒に読んでいた。中学生時代は賢かったし、いつも休み時間に小説を読んでいた。小学生時代は、ズッコケ三人組をいくらでも読んでいた。

あとは、漫画も読んでいた。一番好きだった漫画は、手塚治虫の火の鳥だが、そんなに重たい漫画では無く、軽い漫画を沢山読んでいた。

世界史を読んでいると、国家による言論統制や虐殺は、普通だ。昔の国には、そんな国しかない。強い国ほど、そういう国が多い。だから、共産主義が虐殺するのは、悪くない。

自由の方が悪い。見ていると、本当に、この世界は自由のせいで馬鹿になっている。だが、それこそ、ルネサンスの時代から始まった自由な思想は、誰でも賢く見える。

世界史の本の、二冊目、近代の巻を読んだ。次は、帝国主義時代から現代までの巻だ。

昔は、これで、経験論者のような人間だった。経験主義者だった。能力を信じていた。

最近は、不思議と、馬鹿になったのが書いていない。本当に、知的障害みたいな馬鹿になって、神や宇宙人と話すようになった。あれはおかしい。何も分かっていない。

認知症が、こういう風になる。

不思議と、神を信じるのを止めれば良い。神とは言うが、猫だ。猫はもう死んだ。

そういうわけで、もう、神を信じなくて良い。そうすると、哀しい意識の人間になる。そういう人間が、正常だ。神は、こうなる。一番悪い、ユダヤのイスラエルが神だ。

神をもう信じないから、神はもう終わる。この世界も支配しない。解放する。

神が支配するのは、良い人間が多い。世界が良くなっている。ここで自由にするのが一番良いだろう。皆、自分の存在に気づいて、自分が居なくなる。

昔は、本当に情熱家だった。あれが一番神にふさわしい。辛い境遇の中で、きちんと頑張って考えて、経験している。居ないように見えて、最近本当に多い。

あとは、世界史が次の巻になったから、今、気分が良い。

そのうち、デカルトでもやれば良い。それで分かるだろう。とりあえず、それで良い。

昔は、生命の誕生の条件や、宇宙の誕生の条件などを分かっていた。

サルトルのように、社会や人間のことを考える。そこをもっと考えれば良い。

経験や価値判断のようなもの、意思決定や参加や集団と個人のようなもの、環境や人生のようなもの、人と人の関係のようなもの、思考と行動と経験のようなものから、人間のこと、社会のことを考えていた。

テレビは、そろそろ怖くない。神を信じないなら、テレビを見て、本を読んだ方が良い。

ネットはしない。僕は、最近のネットのことは分からないし、したくない。テレビを見た方が良いが、見ないなら見なくて良い。芸人なんか見たくない。音楽を聴けば良い。

あとは、環境の変化、自在な意識、相対的な影響力、自然な発生、文化の融和、言語的な文化の共存、国籍や宗教の共有、宗教の教義の自由化、自由なグループと共同体、宇宙の歴史、言葉の概念、経験的な価値観、社会の創生、などを考えていた。

それこそ、正しい社会の創生のようなことを考える。本当に正しい社会を作りたかった。

あとは、人生、世界観、学習、因果性、可能性、関係、国家モデル、などを考えていた。

昔は、人と実際に関わったり、会社に実際に入ったりなど、実際にそのことが起きることを想定して、可能性や前提を分かっていた。そういう「考えること、参加することの前の、事前の考え方」のようなことをいつも分かっていた。

それこそ、第一印象のようなことを重視する。

最近は、逆に、それを破壊して、がむしゃらに生きるようになった。

昔から、良く思い出して分かる。1つ1つ思い出して分かる。最近は、一瞬で全部思い出せるほどに、回想が進歩した。

あとは、物理のようなことを分かった方が良い。宇宙の本当の姿や反応を分かっていた。

別の可能性を想定すること。心も、ものも、社会も同じだ。

自分は、この世界の憂鬱を消している。ポルノグラフィティが言っている。

社会が分かるのを、殺せば良い。もう、社会のことは分からなくて良い。それで治る。

怖い方を取れば、治る。

その人の視点に立って考えていた。

その人が何を見ているか、どんな人生を生きているのか、考えた。

何をするべきか、何をしたら良いのか、のようなことを考えていた。

色んな意味で「何をしたら良いか」を考える。

そろそろ、足は治る。もう、書かなければ良い。社会のことを全部忘れると、治る。

昔は2ちゃんねるだったが、最近は地獄だ。

何故か、構造的な世界観を書いていた。記憶や概念から、想像力や知性、認識、自由な社会、学習とシステム、経験と方法のようなことを言う。

そういう風に、構造的に宇宙と人間のことを書いていた。そういう文章だった。

足は、そろそろ治った。社会のことが分かるせいで、地獄になった。社会が滅びるのが怖いが、今、滅びている。そのまま、社会のことを忘れれば、治る。正常な精神になる。

哲学者が世界精神と言っているのは、自分のことを言っている。

哲学は、昔ではないが、今でもない。良く分からないほど、人生がこうなる。

ポルノグラフィティが言っているように、何一つ終わっていない。始まりや、始まっていないものの方が多い。

足は、使わない方が治る。あとは、影響力を行使するのを止めれば良い。

影響力の風上に立っていた。世界の変化と影響力を、どんどん上に積み上げていた。

2ちゃんねるで、社会の原始的な構築と経験を知った。王のようになっていた。

あとは、自由よりも新しいものを取る。不自由でも、自分で決められるものを取る。

社会と自分が繋がっている。自由にするのも、何かするのも悪い。支配して、何も出来なくすれば良い。それは、悪くない。何か出来ると、怖い。何も出来ないと、楽だ。

それこそ、繋がっているのを断ち切れば良い。

昔なんか、影響力を積み上げている以外、何もしていない。

場の歴史、意識、時間的な存在と、出来る、能力、作用のようなものを分かっていた。

人間のことは、思考と現実を照らし合わせて分かった。

知性があった。知性で考えて、知性を吸収していた。皆と同じことを考えて、経験して分かった。それこそ、普通の人間が分かることを全部分かっていた。色んな経験もあった。

知性と自由から説明して分かっていた。

もっと、広範囲に及ぶ、国全体の経済システムのようなものを考えていた。金は売り買いのシステムであり、自由は、正のスパイラル、好循環を生み出すべきだ。

そういう、マクロ的な経済を考える。ただ、マクロ経済学とは違う。自分なりの、独自の広範囲の、国全体に及ぶ経済モデルを考えていた。

皆を上から支配するせいで、皆を信じることが出来なくなっている。

いくらか皆のことを信じれば良い。そうすると、自分が勝てる。

すぐに分かる。すぐに、道を外れて、良いことが全部分かる。そういう発想が自分だ。

自分は、そういう風にしたかっただけだ。皆に全部分からせたかった。

自分の分かることを全部詰め込んだ。そういう文章が多かっただけに過ぎない。

この文章が、一番皆のことを信じていない。そんなに、先んじて言う意味が無い。