日記に戻る | 2016年1月の日記に戻る

=2016-01-17=

言葉にならない瞬間を大切にせよ。

考えているだけではなく、行動すべきだ。実践すべきだ。

だが、行動する前には、良く判断し、熟慮することが必要だ。

社会は、確かに変えられると、信じること。教育を自由にすべきだと信じていた。

社会や人生の可能性を全て創っていた。

何かが何かに必然的になるのを考えていた。

進化論のような体験をした。虫が女になって、神になった。

理性のような部分を書いていない。

ものが場や物質であるのを覚えれば分かる。何も覚えないから分からないだけだ。

分かることを全て覚えれば良い。

ものは、位置と質料と関係がある。

場とものの関係を考えること。

植物は、何なのか誰にも分からない。何なのか分からないが、生えるものだ。

個体だけではなく、液体や気体にも、速度や質量がある。

社会は、生産者と消費者の関係であり、自然な助け合いと可能性である。

もっと、理性的に考えれば良い。いつも、理性的に考えた内容を書いていた。

実験は、経験から分かる、人間の英知だ。

未知のものを、知性から考えなさい。

感覚を信じていると、人生や体験のことが実感で分かる。

もう、皆、馬鹿が治る。分からない人間が多い。当たり前のことを、全部覚えれば良い。

光には、波長がある。

ものは、結合と分離であり、部分化と統合である。

社会は、包括と頂点であり、昇進と指導者である。

そういう、考え方の理性のようなことを言う。

もっと理性的なことを考えれば分かる。

環境や組織による可能性のことを言っていた。

不思議と、怖い。皆がもう馬鹿になる。本当にこちらの認知症になる。

皆、死んで行く。この世界は終わりだ。

ただ、怖くない。そんなものは当たらない。ただ、終わった世界みたいになる。

あとは、論理的な四行のような文章を書いていた。いつも文章を四行で書いていた。

経緯や工夫のようなことを言う。全ての経緯と理解の本質と前提条件を書いていた。

もう、怖くない。怖い部分が死んだ。もう、認知症が治った。

あとは、人生のような文章を書いている。困難と地獄は、戦って克服すれば、勇敢さと栄光に変わる。そして、経緯と本質から人生を考えていた。

あとは、矛盾や論理学のようなものを全部書いて分かっていた。

全ての矛盾、全ての論理のようなものを分かる。

それから、科学的に宇宙や生命のことを考えていた。

宇宙の誕生、生命の誕生、人類の誕生などを、科学的に考えて分かっていた。

あとは、そんなに色んな本は読まなくて良い。おとなの教養、聖書の言葉、世界史など、色んな本を読んでいるが、これ以上増やさない方が良い。

英語は出来ないかもしれない。英会話教室の回数を増やしたが、出来るわけがない。

誰でもアメリカに行かないと出来ない。

あとは、テレビが怖い。テレビは本当に、見られない。見ていると、恐怖の心になる。何かが怖いのがテレビだ。父親や母親がテレビを見ていると、自分の部屋に逃げてしまう。

本当におかしなテレビ恐怖症になった。仕方ない。色々と、過去の経験から怖くなった。

全ての結論、全ての概念、全ての本質、全ての考え方を言う。

あとは、環境や人生の段階的なこと、基盤的なことを言う。環境に参加せよと言う。

そして、人生のようなことを全部考える。本当にそれくらいの文章だった。

精神分析をして、神や色んな国と話していた。

そろそろ、もう終わりにする。最初から何も賢くないのが分かっているから、つまらない。

もっと、色んな本を読んだ方が良い。経験もした方が良い。

最近、自分が何を分かっているのか分かっていない。そこを心理学的に考えると分かる。

もっとまともな人間になりたい。

もっと、昔無かったことを書けば良い。

深層意識から、抑圧された記憶を考える。そうすると、すぐに治る。

世界全体の意識、人間全体の意識のようなものがある。神は、そこに存在する、愛である。そういうわけで、神を王や支配者だと言うが、もっと身近なところに神は存在する。

だが、神は大いなる存在であり、人間が説明することは出来ない。

その神が、色んな罪を犯すな、悪いことをするなと言っている。神が何なのかは誰にも分からない。だが、神はこういうことをする。悪いものを懲らしめる。神は恐ろしい。

神は大洋のようなもので、人間は波のようなものだ。

自分が生まれてくる前のことも、きちんとある。存在している。自分は生まれていなくても、世界は確かにきちんとあった。自分が最後まで生きて、死んで、未来になっても、その未来は確かにある。そこを考えると、良く分かる。そういう風に考えれば良い。

自分のことをそんなに中心と考えることなく、世界の一部として考えること。その方が、真実が分かった方が、自由になれる。自由とは、そういう、思い込みを無くすことで得られる、真理の境地である。そういうところが分かる人間が多い。

あとは、アウグスティヌスと言う昔の哲学者が言っているが、悪の起源は、善の欠如であると考えること。光の欠如が闇だと考える。もっと悪を考えれば分かる。何が悪なのか。どうして悪が生まれるのか。悪や不安をどうすれば善や安心へと変えられるのか。

あとは、心理学的に経験を考えれば分かる。何を悪だと思っているのかは、皆が悪だと思うものが悪だ、と言うことになる。その悪は、どこから生まれるのか?

同じように、善についても同じことが言える。皆が善だと思っているものが善だ。その善はどこから生まれるのか?

そういうところから、相対的な価値観や、宗教における価値観のようなものを考えられる。

賢くは無いが、そういう風に考えれば良い。むしろ、まだ賢くなった。

人間の生きる目的とは、善をすることなのであろうか?もしそうだとすれば、善と決めるのは何なのか?誰なのか?それを神と言うのなら、何故神は悪くて、恐ろしいのか?

そこで言えるのは、悪いものを処罰する神は、恐ろしくて、悪くした方が良い。

それは、子供のような論理だ。もっと、きちんと宗教や善悪のことを考えたい。

あとは、経験から善悪のことを考えていた。

既存の考え方を止めて、何が本当にその人や社会のためになるのか、を考えること。

そこでは、神などの類のものではなく、自由や哲学や民主主義が考えられる。

功利主義の道徳と、キリスト教主義の道徳は違う。だが、そこには、共通点もある。聖書が一番、神によるものではあるが、実践的な利益と価値と知恵の道徳を言っている。

もっと聖書を読んだ方が良い。それが、哲学を理解するための早道になる。

そういう、善の功利主義は、普通、チャンスや可能性を考える。

それぞれの価値観が多元的にある中で、何が何になるのか、確かにそれはその方法でどう出来るのか、などを信じて分かる。

何故か、英語はそういう言語だ。アメリカは、そういう国になっている。確かにその方法が良いなら、それはその方法で正しい。方法や功利的に考える哲学がアメリカに多い。

昔は、道徳や善悪は、経験的に裏付けされた、知性であると考えていた。知性になるものが正しい。知性とは、何が出来て、何をどうすることが出来るのかを知ることだ。そういう、知性になるものは、悪のように見えるものであっても、吸収すれば知性が高まる。知性の高い人間には、賢いことや善のことが出来る。昔は、そういう風に善悪を考えていた。

知性を善だと言うと、そんなにおかしくない。古代ギリシャの哲学者が、そういう風に考える。エピクロス派などは、快楽を善であると言っている。その言っている意味は、良く分かるが、単純な視野の狭い考え方をしている。広範囲まで視野を広げると、むしろ、知性や視野を広げること自体が善だと思えてくる。そういう発想は、おかしくは無い。

だが、悪魔的な自由を善だと思うのはおかしい。昔は、そこが一番間違っている。普通、善は、神の教えを善だと言う。それも、キリストの教えと、ユダヤ人の神の教えを善だと言う。それは、当たり前だ。善悪は、絶対的なものだ。相対主義は賢いが、間違っている。

功利主義は、普通、こういう馬鹿が言う。ヘーゲルも言っている。理神論と功利主義と唯物論だったか、そういう対比をヘーゲルが言っていた。功利主義的に考えると、この社会と人生のことが良く分かる。茶碗を作るのは、明らかに価値だ。それが出来るのが能力だ。白人でも黒人でも、誰が作ってもあまり変わらない。フリードマンが似たことを言う。

これなら、ヘーゲルやマルクスと良く似ているが、昔はもっとカントに似ていた。

前提条件、三段論法、定量的な本質、「どうすれば」や「何故」のような考え方を言う。

もっと、カントを純粋にやった方が良い。それで、世界史はフランスをやれば良い。

ヘーゲルは、今見るとありえない。ありえない思想家に見える。

フランス史とカントだけをやって、聖書を読んでいると、本当に宇宙の全てが分かる。

ただ、自分はもうそこまで出来ない。もう、それくらいをする気力は無い。

それもそれでおかしい。何もしていないだけだ。

むしろ、カントなんか、しない方が辛いだろう。何も分からないまま何もしないのが一番辛い。それは、何故ならおかしい。誰でも学校と仕事を頑張っている。

昔は、人生経験があった。人生経験と言うよりは、ネットの馬鹿な経験だ。

最近は、ゴミのような文章をいくらでも作って、ゴミから宝を作っていた。

総じて見ると、それしかしていない。ゴミから可能性を作って、具体的なものを全部作って、神を作って、宝を作った。それだけの人間だった。

そろそろ怖い。そろそろ、この文章を書くより、何かした方が良い。

ネットは見ない方が良い。そうは言うが、何もしないのもおかしい。

カント、ヘーゲル、フランス史をすれば良い。ドイツ史や日本史もすれば良い。

だが、それは出来ない。やりようがないどころか、もうそういうものが全部終わった。

読んでいる本が多すぎる。一冊に絞った方が良い。そういうわけで、おとなの教養や聖書の言葉を読みたいところだが、世界史の本を読むことにする。そうした方が良い。

今、おとなの教養を見ていて、ハッブルのところを読んだ。ハッブルは、巨大な望遠鏡を使って、宇宙が膨張しているのを発見した。ドップラー効果から分かった。

良く知らないから、間違っているかもしれない。

池上彰が言うように、宗教と科学は、そんなに対比されるようなものではなく、良く似たところがある。そんなに宗教と科学は離れていない。似たようなものだ。

昔から、論理学のモデルを作る。論理学を経験から作っていた。日本語やフランス語のようなものを、一から生み出していた。

そして、良く分かるものを分かる。分からないものは分からない。

良く分かる、とは、悟ることに繋がる。既に分かっているものを、もっと良く分かる。そこから、未知なる経験に対する知性が生まれる。

そして、精神や知性を作ることで、概念や理由の段階、宇宙的な存在の全体像が分かる。

そういう風に考える、ヘーゲルのような哲学者だった。

カントは出来ない。見たくない。もっと、哲学ではないことを知りたい。

世界史を読んでいる時点で、考える意味が無い。世界史をきちんと読めば良い。

むしろ、自分の経験から言って、三冊ぐらいは読める。おとなの教養と聖書は、並行して読めば良い。それくらいは読める人間が多い。

あとは、自分の書いた文章を読めば良いのが分かっていない。もう全部既に分かっている。

昔から、これくらいを2ちゃんねると引き篭もりの経験で分かる。

そういうわけで、自分は本当に分かっている。何故か、誰でも出来る。

皆、これになれば良い。むしろ、最近本当にそういう風にネットの廃人が増えている。

もっと、これで無いものになった方が良い。その方が良いと思う。

そういうわけで、皆、これで無いものになれ。

それこそ、この文章の内容を、もう分からなくて良い。それぞれが好きなようにすれば良い。分かりたいものは分かれば良いように見えて、それも悪い。この文章は要らない。

あとは、人生の経緯と道のようなものを書いていた。

抽象的な体験、法則、予測、人生、知の発展と深まりから、平和で愛のある社会やシステムが、どのように作り出すことが出来るのか、何が他に出来るのか、を知った。

宗教から愛を知り、科学から宇宙の真理を知り、創造性から多様性の理想を知った。

そういう風に、色んな経緯のことを書いていた。

法則と知の発展から、俯瞰的な高い立場での可能性を知った。

そういうことを言う。不思議と、そういう、真理のような経験と道を全部言っていた。

経験による認識と心の法則や、弁証法的な論理学を言う。

何が正しいか、その意味が何なのかを考えるために、その逆のもの、対比させるべきものを考えて、その対象の融和的、総合的な意味を考える。それが弁証法だ。

父親がたまに言っている。昔から、そういうものを普遍的かつ個別的に考える。

それ以上は、理解が難しくなる。哲学は、普通、そういうものが分かるだけだ。

ヘーゲルとフランスの文学や歴史と聖書をすれば良い。自分は、そこらへんと同じだ。

だが、むしろ、日本が好きなら日本史の方が良い。それから、仏典も結構同じだ。

見ていると、マルクスとも同じだ。そこらへんと同じだから、それらをすれば良い。

自分は、神の言葉を聞いている。何故か、神の言葉が本当に分かっている。

自分は、神の言うことを聞いて、何を言おうとしているのか、何が正しくて、どう間違っているのか、全部分かっている。本当に、心の中で全部分かって神を聞いている。

おかしいから、それを止めた方が良い。それで、神が言うのが治る。

むしろ、フランスやヘーゲル以外の、他のものになれば良い。そこが分かっていない。もっとおかしな国の、おかしな人物になれば良い。ただ、アメリカにはなりたくない。ヨーロッパももうこりごりだ。イスラムは辛いだけだ。そうすると、インドや中国が良い。

そういうわけで、孔子やブッダの日本や中国にすれば良い。本当にそれが一番良い。

最近、皆が賢くなっているのは、学校とこの文章の内容で誰でも分かるからだ。

学校と神が好きな馬鹿が、そういう風にどこにも多い。日本人が皆、楽になった。

それこそ、この文章は、悪巧みや思い上がりが無くなる、ありえない文章だ。

支配して、何も出来なくさせるから、そうなる。悪い人間には意味が無い。

もっと学校に行った方が良い。哲学や歴史は、大学で誰でも分かる。放送大学では、哲学、歴史、文学が全部出来る。馬鹿向けに教えているから、放送大学にした方が良い。

自分には、この世界を支配して、何も出来なくさせる。唯一、自分と同じことが出来る。

そういうところを、真面目にやっている、ありえない王が自分だ。

もっと色んなことを自由にさせた方が良い。むしろ、皆の奥に眠っている能力、潜在的な能力を信じてやった方が良い。皆、本当に何も出来なくなって、賢くなった。もっと、出来るようにした方が良い。皆も、やれば出来る。これくらいをやれば良い。

あとは、放送大学だと、フランスやヘーゲルにこだわらなくても、哲学や歴史が全分野出来る。そこが良い。それをしたかっただけだ。

ただ、自分はそこまでの馬鹿だから、大学は出来ないだろう。何も出来ていない。

もっと皆が出来るのを信じた方が良い。昔から、そういう革命家の救世主だった。自由だ。

放送大学は、自由だから、文学をせずに経済をしたり出来る。

経済はした方が良いかもしれない。昔の自分は、2ちゃんねると言うが、経済のことが分かってこの世界のことを分かっていた。経済学をすれば分かるのが、人間だ。

それこそ、心理学も、やりたいなら出来る。

むしろ、哲学の方が要らない。経済と歴史と文学だけをやれば良い。

ただ、放送大学は、本当は出来ないのが自分だ。

それなら、しなくて良い。明らかに、本を沢山読めば良い。その方が、気が楽だ。

子供の頃に賢かったのは、ピアノとゲームが良かった。物分りの良い、数学も社会も全部出来る人間だった。父親が博物館の学芸員で、母親が教師だったせいで、中学校ではオールAを取っていた。だが、学校は辛かった。不登校になった。父親が、自分の人生に似ていると良く言っている。父親も、会社を出社拒否になったことがあるらしい。そういうわけで、自分はまともに引き篭もりになった。それで、考える時間と余裕と手段に恵まれた。

そういうわけで、むしろ、情報工学でもすれば良い。

何をして良いのか、本当に良く分からない。考えても分からない。むしろ、経済学は忘れた方が良い。真面目に政治経済なんか、出来るように見えない。池上彰が出来る。やっても、池上彰になるだけだ。

それに、昔は、数学や物理が出来るせいで、哲学が分かっていた。そういうわけで、数学や物理もすれば良い。それこそ、おかしい。そんなにしても、何も分からない。

要は、小学校や中学校の基礎を思い出せば良い。そうすると、大学なんか要らない。きちんとそれで分かる。もっと子供の頃に習った科学の考え方を思い出せば良い。

子供と思わずに、物理や数学の基礎と思えば分かる。分からないと分からない。

経済とは言うが、会社組織、政治制度、自由な関係、などが分かっただけだ。

そういうものは、哲学ですれば良い。心理学も同じだ。哲学できちんと考える。

むしろ、歴史が要らない。歴史なんか、しなくて良い。

哲学、宗教、経済、文学ぐらいをすれば良い。それは、悪くない。きちんと哲学者になる。

だが、哲学はもう、充分だろう。もう、これ以上哲学なんか、する意味が無い。

もっとネットと学校のことを思い出せば良い。経済学と情報は、もう終わっただけだ。

これ以上、経済学なんか、する意味が無い。これ以上しなくて良い。情報もしない。

むしろ、哲学だけをすれば良い。その方が良い。歴史なんか、出来るわけがない。見ていると、放送大学の歴史は、放送大学の中で一番難しい。

哲学は、逆に、普通だ。何故か、哲学のことを平易なことに置き換えて説明している。

哲学も、歴史も、どうでも良い。本当に今興味のある学問をすれば良い。もっと違う方が良い。明らかに、今ピアノや剣道なんかしていないが、自分にとって色々と価値があった。色んなことをした方が楽しい。それこそ、オープンソースは賢かった。

むしろ、数学をした方が良い。数学的なことが何も分かっていない。数学が出来ると、他のことが色々と出来る。数学からやると、色んなことが全部出来る人間が多い。

自分は、高校数学を知らない代り、コンピュータのことを知っている。

自分が見ると、高校数学なんかしなくても出来る。自分は、一番そこが分かる。

大学数学は難しいから、出来るわけが無いとも言える。むしろ、数学は、本当に高校でしか出来ないから、しなくて良い。

見ていると、放送大学の理科は難しい。簡単にしていない。本当に分かっている人間向けに、難しく話している。理解すら出来ない。止めた方が良い。

不思議と、数学は本当に高校数学をしない方が出来る。高校数学をすると、本来の数学が分からなくなる。何故か、高校はそういうところが悪い。行かない方が幸せだ。

あとは、この文章のことを忘れて、ネットのことも忘れて、純粋にこの世界のことを知った方が良い。色んなことを体験し、出会う中で、世界に対する自分の「経験値」のような知性が高まって行く。そういう、経験値が分かる人間が、最近一番多い。そういう風に分かれば良い。むしろ、他人に対して何もしないのがおかしい。

昔は、狂った場の意識で分かっていた。あれは、何も分かっていないように見えて、分かっている。哲学は、そういう人間が出来る。そういう人間になるから、哲学はしない方が良い。本当に、2ちゃんねるの狂った人間が出来るのが、哲学だ。

そういうわけで、もう何もしなくて良い。真面目に本を読んだ方が良い。放送大学は、馬鹿と言うことにすれば良い。放送大学なんか、本当に一番馬鹿だ。

放送大学は、英語も意味が無い。全くおかしな発想の英語を教えている。経済学は、子供の小学校のような、馬鹿な内容しか教えていない。心理学は、唯一賢い分野だ。きちんと心理学者になる人に向けた、専門学校のような内容を教えている。

これなら、明らかに、放送大学で良い。

放送大学は、キャンパスライフが無い。逆に、テレビのせいで、教授が楽だ。

むしろ、こんなに良い大学は無い。色んな分野の単位を自由に学べるし、グランドスラムまで出来る。グランドスラムとは、全分野、全専攻をする、と言う専攻だ。

それこそ、いつでも好きな時にマイペースで好きなだけ出来る。本当に自由な大学だ。

普通の大学に入りたいなら、受験をするしかない。放送大学は、馬鹿な代り、受験をしなくても入れる。そこが悪いとは言うが、誰が見ても良い。受験なんか、しない方が良い。

昔考えた経験のせいで、ドイツ語が出来る。最近は、そういう風に馬鹿だ。

むしろ、放送大学には、フランス史が無い。代りに、ヨーロッパ史と言う歴史がある。

放送大学のせいで、大学や学校が分かる。良い人生になるから、大学に行った方が良い。

最初から正しいことを言っている。それを止めた方が良い。

本を見ていると、数学は本当に出来ない。本当に、したくない。

パソコンも同じだ。したくない。

したいのは、歴史と哲学と経済だが、それらもあまりしたくない。

そういうものだ。大学なんか、しない方が良い。

正直言って、哲学はもう良い。もう十分だと思う。

そういうところを信じないのが悪い。信じれば終わりなのが分かっていない。

歴史と経済だけをすれば良い。それは、大学より、本を読んだ方が良い。

放送大学の歴史は、理解出来ない。普通の本なら分かる。そうした方が良い。

ただ、本当にやりたいのは、哲学だけだ。だから、哲学の本を読んですれば良い。

あとは、音楽を聴きたい。キマグレンの次は、ゆずが良い。ゆずは、昔から好きなのに、あまり聴いていない。キマグレンと一緒に歌っているせいで、その存在に気付いた。

昔は、馬鹿になって分かっていた。

自由から、社会の道理が分かった。手段や可能性など、社会や自由に必要なものは何なのか分かっていた。何をどうすれば、何が出来るか。それをするために、どうすべきか。

あとは、完全に物理的に考えれば分かる。予測したり、当てたりしながら、ものとものの可能性とプロセスと作用を考える。物理的に考えた方が良い。

どんな社会を作るべきか、など、全部分かっていた。自由な自分の数学の1つだった。

自由から社会の道理が分かっていた。要は、皆が出来るようにして、分かるようにして、可能性豊かな社会にしたかった。何をどのように経験すれば分かるか、どう考えれば分かるか、人生に必要なもの、社会に必要なものは何か、考えていた。

自由なそれをするために、何が必要か。そういうものが分かる、理性的な人間だった。

あとは、人間と経験の可能性が全部分かっていた。ネットで分かった。

同時に、物理のような関係を考える。それくらいの人間だった。

善悪が経験で分かった。自由な知性のある哲学的理性が善である、としていた。

分かることが善だ。自由に出来て、皆も出来るようにするのが善だ。そういう人間だった。

最近も、分かるために社会に何が必要か、どんな社会にすべきかを、いつも考えていた。

社会の発想を成り立たせるのが得意だった。

経済も出来ない。見るからに、高校の政治経済の参考書は難しい。哲学と歴史だけをする。

場や存在は、いつもそこにある。物理的に離れていても、皆繋がっている。

自分にとって良いことは、他人にとっても良い。

皆のことを、自分と同じだと考えること。こんな人間しか居ない。

もっと色んなことを考えれば良い。昔は、本当に色んなことを日本語で考えていた。

英語をするよりも、日本語で考えた方が良い。当たり前だ。

抽象的な言葉を作りながら、記憶と経験を具体的に考えていた。

最近、基本の考え方が分かっていない。

小学校で習った論理的思考の方法を思い出すしかない。

普通、算数と理科で身につく。算数の文章題の計算をすると、良く分かる。

ただ、いつも分かっていたせいで、分かっても意味が無いのが、論理的な思考だ。

ラファエルに数学は分からない。

ガブリエルとミカエルがおかしいぐらい全部分かっている。

今さら、数学をする意味が無い。それもおかしい。それでは生きる意味が無い。

数学的思考なんか、いつもきちんと出来ている。出来ているようにしか見えない。

要は、この文章が推論的に全部分かっているせいで、推論が出来なくなった。

最近は、国の構造を考えて、弱者を助けたい。何故か、良い人間になった。

社会所有とは言うが、小作人が地主や領主の土地を借りて農業をするのは、昔から普通だ。

ソ連は、そういう風にして、皆を平等にしたいだけで、弱者のことなんか、何も考えていない。まさに、全員奴隷だ。

ただ、奴隷には見えない。奴隷が嫌いだ。平等な人間性のある、労働者にしたい。

ソ連は、何も悪くない。ただ、弱者のことなんか考えていない。

弱者が好きなら、ヨーロッパのキリスト教が良い。だが、植民地の奴隷なんか、考えない。

そういうわけで、自分はイタリア人のような発想をしている。

ただ、国単位でまるごと考えるのがおかしい。キリスト教や聖書は、王のことなんか嫌いだし、王は、聖職者や教会のことなんか嫌いだから、弾圧する。

そういうわけで、皆、キリスト教が良いと言う。聖書が一番弱者を救ってくれる。

聖書は、愛とは言うが、平和ではない。キリストも、確か、自分は剣をもたらすために来た、と言っていた。戦うしかない人間も多いから、キリスト教は平和ではない。

皆、自分を誇りなさい。自分を信じなさい。自分のことを好きになりなさい。

そのためには、楽より地獄の方が良い。栄光を手に出来る。楽では無くても、良い道は多い。人知れず辛い道を選ぶと、その道の先には必ず一番良いことがある。