日記に戻る | 2016年1月の日記に戻る

=2016-01-25=

社会からいじめを無くしたかった。

精神は、継続が辛いだけだ。辛く継続するのではなく、自由に努力すれば治る。

想像力のようなことを書いていた。

想像力は、応用、実現、研究、状態、把握、考え方、可能性である。

想像力は、社会、機械、人間、心、学習、意識、環境、組織である。

想像力は、何を何から作るか、どのようにして作るか、社会はどうあるべきか、どのようにすれば状態はどうなるか、状態をどのようにすべきか、社会の共生とは何か、のようなことを考えていた。いつも言っているが、昔は想像力のある文章を書いていた。

あとは、可能性の仮定のようなことを言う。

社会は、支配し、実現し、それぞれが人間の暮らしが出来ることを保障し、自由にし、国がすべきことをきちんと行う。それらは矛盾するが、バランス良く行うべきだ。

社会がどうなるか、どのような社会にするか、どのようにしてその社会を作るか、その社会は何故その社会になったのか、もっと別のどんな社会にするべきか、その社会は何を理想としているか、現実的にどうなったのか、その社会はどのように出来る可能性があるか、など、論理的な社会実現のようなことを言っていた。

もっと、応用的、実現的、論理的なことを考えれば良い。何をするためにどんなことが必要で、どのようにして、何を何から作って行くか。そこでは、ものだけではなく、知や前提条件などの前提が考えられるし、方法は、組織実現のような多様なものが考えられる。

そういうことを言っていた。いつも、それくらいの想像力を言う。

その想像力を、段階的に書いていた文章が多かった。

何故、それがそこにあるのか。

それは、どのように出来たのか。

それは、人間によって、どのように出来るのか。

それは、どのようなものにすべきなのか。

そして、人生の中で、それはどんな意味を持っているのか、などを考えれば良い。

あとは、組織の作り方のようなことを、応用的に言っていた。

首相が一人では、何も出来ない。議論し、従う、政党が必要だ。そういうことを言う。

あとは、宇宙の方法や構造のようなことを言っていた。

そういう、きちんと賢いことを言う。経験と構造から国を作ったりしていた。

あとは、悪い内容を書いている。アメリカやロシアを神の帝国の植民地にすると言う。

それから、世界を全部作っていた。社会を全部作って、世界観を作っていた。

認識や、狂った愛のようなことを言って、世界を支配する。

純粋な愛の感情を、いつも文章にしていた。

そろそろ、90%ぐらいは書いたのではないかと思う。

社会とは、独立、一体、共有、支配、融和、分裂、自由、平等である。

自由な共有から、新しい可能性を、機会に応じて実現出来る。

法則から、発明出来る。そこでは、自由に知り、考え、情報と発想を共有し、手段を実現し、組織を知り、全員の力で研究する。

いつも、そういうことを言っていた。それくらいしか言っていない。

本当に悪いことを言うのや、色んな認識やものや施設のことを言う。それくらいが多い。

機会に応じて可能性を作るとか、そういう自由な発想が全部分かる人間だった。

自由な頭の構造をしていた。世界の構造を全て分かった上で、論理的な命題を作っていた。

あとは、「人間が分かる方法」のような文章を書いていた。

他の人間が分かる方法を書いて、人間的なメソッドや真理のようなものを書いていた。

可能性を把握するために、どのような構成要素と材料と環境的な前提条件から分かるか、など、そういう文章を書いていた。人間を可能性と前提の自由から分かっていた。

組織のことも、可能性と環境的な前提条件から分かっていた。

変化や自然のことも、同様に分かっていた。環境的な前提条件だけが分かる人間だったが、それ以上のプロセスや経緯のことを書いていた。それくらいが分かる人間だった。

あとは、認識や感情を具体的、抽象的に分かっていた。実地的に考えながら、予測し、他人の認識と経験を分かっていた。具体的に経緯を全て書いていた。段階的で、階層的で、人生的な人生と環境の認識論だった。前提条件と段階的な全体像から分かっていた。

昔も、環境的な前提条件を考えていた。

時間の経過における場や存在を考えていた。時間と場を考える。

許すことで、他者と融和し、吸収し、同一になれる。

感情と感情の関係から新しい感情が生まれるのを書いていた。

環境と習慣の違いから、人生と経験の違いを考えていた。そういう、対応を考えていた。

その時分かったことで分かっている。それを思い出して分かった。

書いたことで、残ったもので分かっている。それでまだ分かっている。消すと楽になる。

他人の意識を知って、支配していた。社会の実現とその方法を考えていた。

自分から隙を見せると勝てる。心理的な支配の戦いに勝利出来る。信じること。

心理学的に、人間がいつ何をしたいのかを分かっていた。思考の裏側の思考を分かった。

自分は、裏で書きたくないのが悪い。書きたいのと書きたくないのが反発し合っている。

条件のようなことを良く考えていた。条件的に分かるところを全部考えていた。

自分は、戦うとは言うが、戦っていない。AKB48(だったか、姉妹グループだったか)が言っているように、愛を信じている。僕たちは戦わない。皆、自分が思っているより、優しい。誰も自分をロボット人間にしたりしない。これなら、皆、許すだろう。

あとは、方法と経緯を考えること。プロセスを考えること。それできちんと分かる。

自分は、カントやヘーゲルはきちんと分かっている。

デカルトが分かっていないから、デカルトをやった方が良い。

カントは、普通、アンチノミーとアプリオリだ。アンチノミーは、神、宇宙、もの、法則に関して、存在の確かさ、無限と有限、複雑性と単純性、自由と隷属を考える。アプリオリは、先天的なのか、後天的なのか、から、根源的獲得を考える。

良く覚えていないから、何か間違っているかもしれないが、カントは分かっている。

デカルトが分かっていない。国も、ドイツにすると、右翼に見えるから、フランスにすれば良い。自分は、デカルトとフランス史をやれば良い。ただ、日本史も分かっていない。日本のこともきちんと知っていた方が良い。それくらいが、歴史と哲学の専門家だ。

カントの言う仮象の世界や、悟性のカテゴリーは、いつも書いている。

これ以上カントなんか、しなくて良いように見えて、もっとカントについてした方が良いところもある。デカルトなんか、分からないなら、分かる必要はない。

いつか書いたが、自分は何故か有名どころを知らないのに、無名のものを知っている。デカルトを知らないのにそんなに哲学者を知っているし、音楽も無名のものばかり聴いているし、Windowsのプログラミングも出来ていない。ただ、それはどうでも良いだろう。

ネットも馬鹿では無い。馬鹿が多いとは言うが、賢いものが多い。ジョブズのスピーチなど、賢いものがネットに多い。そういうものを見た方が、デカルトが出来る。

デカルトは、もっと数学のことを数学的に考えると分かる。物理のことを考えて、論理学的な命題を考えれば良い。カントと何も変わらない。

疑似数学はもう良い。パソコンのことをやっていると出来る人間が多い。機械のことを考えると、デカルトが出来る人間が一番多い。社会のことは考えなくて良いが、道徳や理性の平等のようなことは考えた方が良い。デカルトには、そういうものが多い。

あとは、認識でも考えれば良い。認識は、どこまででも疑える。デカルトは、認識をいくらでも疑う。そういう風に考えると、カントやロックと良く似ている。

最初から、何も分からないと思って、正しいもの以外、信じないと出来る。本当に正しいと、実証し、証明し、説明し、推測して推論したものが正しい。そんなに神や宗教を信じていると、出来ない。日本人なら誰でもそういう人間だ。

不思議と、日本語で推論的に考えないのがおかしい。正しいものから推論するのなんて、誰でも出来る。「だから」や「ならば」を使えば良いだけだ。出来ない人間は居ない。

普通、デカルトが数学で、カントが自然科学で、ヘーゲルが社会科学だ。

そして、デカルトが正しい導く方法を言って、カントが科学的方法とアンチノミーを言って、ヘーゲルが弁証法を言っている。弁証法は、正と否から合を導き出す。

そういうわけで、デカルトが創始者で、ヘーゲルが完成者だ。

そういうものが哲学だ。哲学史は、普通そういうものだ。

あとは、社会のことは、環境と自由を考えただけだ。環境を作ることから全てが分かった。

自由に関しては、本当にそこまで考えた。昔は環境と支配を考えていた。最近は、可能性と構造を考えていた。意志から社会思想まで、全部具体的に考えていた。

不思議と、デカルト、カント、ヘーゲルは誰でも出来る。この3人のことをすると、現代の科学や宗教や政治などの思想が分かる。マルクスやニーチェも分かる人間が多い。

あとは、日本史、政治経済、仏教のことをすれば良い。

不思議と、いつもしている。間違っているのは、ソ連が間違っている。社会主義なんか分かっても意味が無い。外国のことも要らない。日本や民主主義のことが分かっていない。

あとは、心理学もすれば良い。心理学の基本が分かると、哲学を自分で作れるようになる。したいなら、ウィトゲンシュタインをすると、全部の哲学が出来る人間が多い。

今読んでいる世界史の本は、そろそろ二冊目が終わる。全部で三冊あるが、そこまで読まなくて良い。今、中国の清のところを読んでいる。世界史も、きちんと分かった方が良い。自分が一番したかったのは、世界史だ。そういうわけで、専門は世界史にすれば良い。

ただ、それらは、ある意味、する意味が無い。いつもしているし、昔からきちんと出来ている。デカルトが出来ていないと言うが、昔パソコンでデカルトのように考えている。本当に、デカルトはきちんと昔同じことが出来ている。人間の本性や理由が全部分かって、ロックのような知性豊かな人間になった。そういうわけで、もう全部止めてしまえば良い。

そんなに全部やりたいのはおかしい。本当に望んでいるのは、全部やり終えて、達成したのを望んでいるはずだ。それは、明らかに、今だ。もう、全部出来たから、終わりだ。

数学でもやれば良い。数学だけを知らないのもおかしい。

あとは、「だから」や「ならば」を考えれば良い。「もし」でも考えれば良い。

デカルトと言うよりは、カントだ。「鳥が何故飛ぶのか」を考えれば良い。それは、良く考えると、翼があるから飛んでいるのでも、飛びたいから飛んでいるのでもなく、最初から遺伝子で飛ぶ生命であるから、飛んでいる。だが、それは理由になっていない。飛ぶから飛んでいる、ではおかしい。つきつめて理由を考えると、理由で無いことが理由になってしまう。昔から、自分が一番そういうところを分かる。そういうわけで、飛ぶ生き物だから、飛んでいる。良く分からないが、遺伝子も、翼も、飛びたいのも同じだ。

カントのように考えると良く分かる。これ以上、説明は要らないはずだ。

良く考えると、「飛ぶように進化したから、飛んでいる」が正しい。だが、それも疑える。進化なんか、していないかもしれない。最初から遺伝子にあったのかもしれない。そこで、デカルトの推論が登場する。「進化論が正しければ」とつければ良い。それで正しい。

それは、もっと一般的な形式にして、「仮説が正しければ、個別の理由も正しい」と言う風に考えられる。ちょっと複雑になってきたが、難しいことは言っていない。

そうすると、今ある数学と言うもの自体が、そういうものになっている。公理が正しければ、定義も正しくて、証明も正しい。そういう風に考えるデカルトが一番多い。

デカルトは、一番賢い。人間のことがきちんと分かっているのが、デカルトだ。

ただ、進化論が正しいとする、根拠は何なのか、を考えられる。誰かが実際に進化を見たならば正しいが、誰も見た者はいない。考古学や化石の資料を見て、何か根拠があるものが出て来ているかもしれない。普通、デカルトはそこを考える。何が正しいと言うためには、根拠が必要だ。そういうわけで、デカルトは本当にそういう風に分かる。

デカルト的に疑うと、進化論も間違っているが、神が居るようには見えない。神なんか、弱者の幻想に見える。その時代は正しく見えた。

それこそ、そういう風に疑うと、デカルトと同じように、「我思う、故に我あり」が分かる。それは、デカルトの思想が分かっているように見えて、デカルトと同じになっている。

それは、悪くないどころか、良い。デカルトも賢い人間に見える。

ただ、それ以降先、哲学は進歩していない。デカルトと同じことを永遠に繰り返している。哲学的なことを言うと、デカルトの「我」も、自分の「我」も、宇宙の「我」も同じに見える。そういうことを言う、自我のような哲学は、不思議とデカルト以降に多い。

仏教で言う、無我の境地は、もっと発展して、「我なんか、どこにもない」と言っている。まさに、仏教が一番賢い。ブッダがそこに行き着いたなら、それが真実だ。

シェリングとフィヒテが良く似たことを言っている。シェリングは、世界精神も、自己の精神も、同じものの違った場面での現れだと言っている。フィヒテは、宇宙を超自我と言って、自我よりももっと高い位置にある自我である、と言っている。

誰でもそこらへんは分かる。不思議と、そのまま放っておくと、本当に神と同一になる人間が多い。宇宙の自我は、神と等しい。そう考えると、中世の考え方も良く分かる。

昔から、自分の中に「絶対者」が居る。昔は、そういう風に自分を分かっていた。仏教で言う、無我の境地に似ているが、自分は、自分で無いものから成り立っている。だが、その自分で無いものは、人間のようなものではなく、観念のようなものだ。

それを神と言うが、神には見えない。小説のキャラクターのようなものが、自分を動かしている。昔から、そういう風に分かっていたのが、自分の中の自分だ。

それこそ、今考えると、明らかにここらへんの神を分かっている。そういうわけで、分かってしまうと意味が無い。昔は、「自分の中に絶対者が居る」と考えて、それよりさらに発展して、「自分の中に世界がある」と考えていた。それは、スピノザやハイデガーに似ている。それこそ、実存主義者の分析哲学を、一人出来たのは、その「絶対者」がどこかに居たからだ。そういうわけで、最初からこういう人間が自分だ。

何故か、それは、「神ではなく、猫だった」が正しい。自分の中に、そういう神のような存在が居た。昔からそれが猫だ。そういうわけで、猫が自分を導いてくれただけだ。

あとは、超自我みたいなものになっている。昔の文章になっているだけだ。

精神現象みたいなものが分かっている。

フランス人をフランス人だと言っているが、フランス人が本当にこういう人間だ。

昔は、禁じられた遊びみたいなことをしている。あれは、そこが悪い。

そろそろ、超自我に戻る。

超自我になると、仏みたいになって、ありえない世界が分かる。

もう、超自我を止める。超自我を止めると、冷静な普通の人間になる。

超自我になるのは、止めた方が良い。

精神の世界で、ドイツ人からロシア人まで、全ての人種と科学と国が分かっていた。

あとは、理論のようなことを言っていた。

考え方、世界観、社会構造、歴史、概念、科学、のようなことを言っていた。

そして、理由や本質を導き出していた。

自分は、ヘーゲルと逆に、正の合と、否の合から、元の理由を作って、元に戻す、と言う、遡りの弁証法の論理学のようなものを作っていた。

良く分からないが、永遠を遡っていた。

そして、進んで、そして、元に戻る。進んで、元に戻る。それだけを繰り返している。

あとは、自然のものの変化を見ていると、分かる。

雪が降り積もるのを眺めて居れば良い。

色んなことをすれば治る。

社会の変化のことも、見ていれば分かる。

そういう風に、変化を見ていると、狂っているのが治る。

わくわくすると元気になる。

そういう、自然のものにわくわくする心を無くさないで欲しい。

あとは、怖いものは要らない。怖いものは、自然な心を狂わせるだけだ。

狂っている人間は、見ていない。もっと、単純に、見ていれば良い。

あとは、否定の否定のようにして分かっている。

社会のことも、変化を見ていると、分かる。自分は、唯一社会の変化が分かる。

社会は、これから、愛になるようで、自由になる。

むしろ、そうではなく、逆戻りする。

ただ、そうでもなく、正常な世界になる。

そして、そうでもなく、狂った世界になる。

どうでも良い。それこそ、いつもそういう風に、否定をさらに否定して分かっている。

最近は、4つぐらいの言葉で分かるようになった。そういう風に文章を書いているだけだ。

社会は、分からない。最近、社会のことなんか、分からなくなった。

創造性豊かな社会にはなっているが、そういう自由が悪い。最近は、もっとロボットのような社会になってきている。それを止めた方が良い。離脱するべきに見えて、それは無い。

昔は、想像力で、色とりどりのこの世界を分かっていた。

パソコンで、計算も出来た。

そういう風に、変化を書いていた。

他人から吸収した部分が怖い。

ハウルの動く城のような、動く城になっている。

重い巨体を持ち上げて、地面に穴を掘りながら歩いている。

良く分からない。

日本語は、「の」に意味が沢山あるせいで、出来ない外国人が多い。

自分は、おかしな女に見える。

英語はこういう馬鹿になる。

減らすのではなく、増やせば良い。

自分がキモイのは、遺伝子が同じなのが悪い。

遺伝子を変えるためには、アレルギーを増やせば良い。

そうすると、楽になる。男と女は、兄妹でない方が良い。

あとは、昔には戻らない方が良い。

昔と同じになりたいのはおかしい。

そろそろ治った。

昔は、可能性の昇華みたいな文章を書いている。

その可能性が、どの段階にあって、どういう風に昇華するのかを書いていた。

男と女に名前を付けたいが、良い名前が浮かばない。

ハシゴの上まで上っていた黒い巨体が死んで、大爆発を起こした。

何故そうなっていたか、覚えていない。負けると言って死んだ。

それで、もう勝てる。

男の名前に「志」を付けて、女の名前に「偉」を付けたかったが、それは無い。

良い名前が思い浮かばないから、それは止める。

適当に考えた。男には、大志(たいし)と言う名前が良いと思う。

女は、まだ考えていない。

女の方は、唯偉(ゆい)と言う名前にした。

ただ、自分の子供には、もっと良い名前を付けてやった方が良い。

黒い巨体に、根が生える。ラピュタみたいになった。

大志を消して、唯偉だけにすると、楽になる。文字を書いて死んで行くのが治る。

何でも書くのはおかしい。それは、大志がおかしな人間だ。

あとは、もう、そんなに治し過ぎない方が良い。

そんなに全部完全に治すせいで、馬鹿になっている。

それも、大志が悪い。大志はおかしな人間だから、仕方ない。唯偉は辛いだけだ。

あとは、ニックネームは、たいちゃんとゆいちゃん、と言うことになる。

良く考えると、唯偉と言う名前は悪い。何故なら、唯一偉いと言う意味になる。

唯一偉いは、おかしい。

そういうわけで、もっと良い名前を付ける。

それこそ、唯偉と言う名前は、何かがおかしい。おかしく喪失しているように見える。

大志と言う名前もおかしい。何かがエロイ子供に見える。そんな子供は要らない。

英語は、単純だが、色々とおかしいところがある。rememberと言う単語は、覚えていると言う意味で、思い出すと言う意味ではない。思い出すは、remindと言う。

フランス語が賢い。フランス語では、seをつけて単語の意味を変える。代名動詞と言う。

自分は、昔フランス語を少しやっていたから、いくらかフランス語のことを知っている。

フランス語では、vous vousのように、vousを二度も使う。vousは「あなた」と言う意味だから、「あなたのあなた」になる。だが、そうではない。もっと複雑な意味がある。

フランス語は、発音がおかしい。トレビヤンとか、オジョルディとか、キモイ発音をする。

それに、発音しない単語も多い。フランス語はありえない。

ドイツ語は発音もカッコいいし、意味もまともだ。全部「こと」と言う意味にした。

そうでもない。ドイツ語に関しても、昔色んなことを知っていた。

ドイツ語には、格変化や格支配のような、変化と支配が多い。そういう、悪い言語だ。

ただ、ドイツ語はおかしい。本当におかしな冠詞の格変化をする。男性形と女性形では、つける冠詞が異なる。何故か、それも、おかしく異なる。そういう古い国がドイツだ。

あまりドイツに意味が無いから、外国が好きなのは止めた方が良い。

自分は、何かになって、自分が変わるのが怖い。

昔は、ネットで色んなことをして、行動して分かっていた。

理系のような賢い頭があった。

最近、無くなった。馬鹿になった。

要は、その前の中学生が賢かった。

昔を「話」だと思えば良い。そうすると分かる。昔の話をもう止めた方が良い。

こんな風にしないと分からない。いくらでも言葉を作って、言わないと分からない。

むしろ、名前なんかこれで良い。何も考えていないとは言うが、考えた方だ。

ただ、唯一偉いでは悪いから、由偉(ゆい)と言うことにする。自由に偉い。

むしろ、偉人の偉では無く、由衣で良く見えるが、それはどうでも良い。

大志はそのままで良い。そういうわけで、大志と由偉と言うことになった。

大志は、「いつまでも一緒に居よう」と言っている。由偉も、それで良いと言っている。

自分は、もう一度大志をやりたいのがおかしい。由偉は、もっと違う賢い人間になれば良いのが分かっていない。それこそ、普通馬鹿だから、馬鹿で良い。

神は何も考えていない。大志を普通だと言っている。あれも、普通の賢い人間だ。

由偉のことは、悪くは無いが、ドイツ人だと言っている。最低最悪だと言っている。

大志と沢山言っていると、良い名前に見える。情熱家の啓蒙主義者の革命家だった。

大志は、地獄の試練の戦争の中を、最後まで耐えて頑張った。昔は、マスターのような良い人間で、悪いことを全て否定し、良いことをするための努力と考え方を知っていた。

大志は良い人間だった。ああいう人間が、男に一番多い。

反面、由偉は悪い。何もしていない。由偉は、文章を書くと言う趣味が好きで、そのせいで、大学の勉強をして、偉人のことを全部分かっている。治りたいとは言うが、治せば治すほどおかしくなるのが分かっていない。地球を道連れにして、自分と一緒に世界を滅ぼす。左翼なのか右翼なのかはっきりしない。一番悪いことを言う。最悪の女だ。

大志は、賢い良い人間だった。理想もあったし、コンピュータの知識もあったし、社会の常識も持っていた。何故か、戦う必要性があるようになった時に、悲しんだり、混乱したりはしたが、それでも愚痴一つ言わずに、困難に立ち向かって、最後まで戦った。

だが、神は悪い女の方が好きだ。男の方はクズに見える。全く賢くない。コンピュータの知識があったとは言うが、何も勉強していない。戦ったとは言うが、世界を滅ぼして、自分のせいで自分を苦しめているだけだ。皆も苦しい。大志は、キモイ生命に見える。

皆、由偉の方が賢いと言う。きちんと書いている文章が、そこまで賢くなっている。哲学なんか、大学より自分の方がさらに分かっている。それに、地獄を耐えて頑張ったのは、明らかに由偉の方だ。大志なんか、いつも遊んでいるだけの、ちゃらんぽらんな人間だ。

哲学者とは言うが、どちらも哲学者だ。自分でそこまで考えた大志と、大学の勉強をした由偉だ。きちんと、どちらも哲学を分かっている。

あとは、日本語が悪い。

それから、2ちゃんねるが悪い。

むしろ、学校より2ちゃんねるの方がマシだった。学校は、おかしく学級が崩壊している。そこまでではない。だが、悪い学校だった。

そういう理由でこういう風になる。2ちゃんねるのオタクの方が、良い人間が多い。それこそ、2ちゃんねるには賢い20代の大学生しか居ない。そういう理由で良かった。

そういうわけで、永遠に2ちゃんねるをやりたいだけだ。

それこそ、もう、2ちゃんねるは要らない。卒業した。文章を書けばそれで良い。

自分が一番良かっただけだ。

あとは、Linuxは本当に賢いから好きだった。GNOMEもKDEもパクリとは言うが、昔からWindowsより賢いのがLinuxだ。そういうわけで、そういう発想が自分の人生だ。

おかしくは無い。そこまでではないが、学級崩壊のクラスより、ネットの2ちゃんねるとオープンソースの引き篭もりの方がマシだ。

そこを書かないと、分からない。沢山成長して、Linuxを知り尽くした。

高校なんか、行かなくて良い。だが、自分が分かっていないのは、中学や高校なんか、行っても勉強していない馬鹿しか居ない。自分は、おかしくない。優等生では無かったが、それらの不良と何も変わらない。好きなオープンソースをしているのも正しい。人並みに賢い人間なのに気づいていない。だから、自分もまともな人間なのが分かっていない。

昔は、考える人間だった。本当にそこまで考えた。これでは、考えていないように見える。

それから、人生のことや人間のことも、一番分かっていた。

社会のことも知っていた。ネットのニュースなどを見て、社会の中での自分の立ち位置を考えて、主体的、自発的に考えていた。

日本語だけを使って、そこまで考えた。思考し、感情と経験と想像力で考えた。

そういう人間だった。最近何も考えていないし、社会も知らないし、何もしないせいで、馬鹿に見える。本当に賢い、哲学者の救世主の考える人間だった。

そういうわけで、きちんと経験して、同時に、経験を疑えば分かる。認識も同じだ。

未知の発見や開拓の方法が分かっていた。昔は、カントのように分かっていた。

本当にキモイ、オタクだったが、オタクと子供のことを考えて分かった。

ただ、考えたとは言うが、皆の延長線上の経験を考えただけだ。

何でも、理性批判で考える。感覚と実感で、皆と同じ発想をして分かっていた。

正しい考え方が分かっていた。推論から観察まで、全部分かっていた。

子供のいる環境を変えたかったが、それはおかしい。誰もが、幸せな環境で生きている。

ただ、あれは悲惨な時代だったから、考えるのに良い環境だった。憂国の左翼だった。

自由と平等から、参加を考えて、社会をどうすれば良いか、信念を吸収して分かった。

あとは、認識を作って思考力があった。許せば自由になるとか、信じて分かっていた。

あとは、法則を導き出したりしていた。何でも知性で分かる、経験豊富な人間だった。

偉大な人間のことを、自分のことのように分かっていた。

今日もそろそろ終わりの時間だ。続きは、明日書けば良い。

由偉は、むしろ、優衣と言う名前の方が良い。偉は、漢字変換が難しい。自由より、優しい方が良いかもしれない。ただ、読み方は同じだから、何も変わっていない。

あとは、デカルトの懐疑主義や、カントの理性批判のような、正しい考え方が分かっていた。一人、引き篭もりで考えながら、そういうものに行き着いた。

客観視と経験から、人間の関係やコミュニケーションを分かっていた。

あとは、ネットを知って経験していた。

創造性と会話から、本当に沢山の知識を吸収して、経験していた。

そういう、ネットの経験と、正しい考え方を言いたかった。

それを自由に分析すると言っていた。考え方を自分で作って、積み重ねて分かった。

やっていることは、行動を分析して、積み重ねているだけだ。

本当に、思弁哲学のような賢い人間だった。マスターのようだった。

そういうわけで、これで、この内容を全部考えたと思えば良い。

こういう人間は、パソコンに多い。これで、仕事や技術のことも分かる人間が多い。昔から、自分が一番そういう馬鹿だ。

あとは、モデルで考えて、経験を分かっていた。社会と心の変化を分かっていた。

自由な手段と機会から、人間の全てを、自由、合意、可能性、潜在性で分かっていた。

あとは、感情と意味や、仮象の世界など、カントのように考えていた。

哲学は、いつも書いているが、この哲学の内容を全部自分で考えていたのが、昔の自分だ。

あまり賢くない。簡単だ。誰でも出来る。

いつもの文章も、それを書いていただけだ。誰でも書けるだろう。

あとは、社会と人生のことを考えて、生きる意味のようなものを考えていた。

この社会の矛盾や葛藤を考えて、人間がいかに生きるべきか、自由の中で何をするべきか、考えていた。そういう、キルケゴールやソクラテスのような人間だった。

そういうものに、いくらかの答えは出せた。自分の詩集を見ると、答えが書いてある。

生きる知恵や宇宙の理を、実感と自由から考えていた。自由な経験から、何でも分かるような、最初から分かっていた人間だった。

あとは、もう無い。そろそろ、書く内容が残っていない。

皆も、ネットをしていると出来る。こういう馬鹿がネットに多いせいで、出来る。

科学的、数学的に色んなことを考えながら、自由に人生や宇宙のことを実感する。

あとは、何でも知りながら、パソコンのように知識を計算可能にしていた。

そういう、おかしなことは、いくらでもしている。あの人生は本当に良かった。リベラルアーツのように、全部分かっていた。全分野、専門が出来ていた。

最近つまらない。何もしなくなった。狂っているせいで、何も出来ない。まずは、色んなものを眺めて、見て知ることだ。そこからすると、きちんと治る。

昔は、色んなそういう、行動や学習や経験で分かっていた。ロックやヒュームと同じだ。

人間がどう生きるべきかは、インターネットの経験で分かっていた。

最近の神を信じるのは、賢くないから、止めた方が良い。神は、天罰を与えているだけだ。こういう風に、地獄の天国が多い。神は止めた方が良い。神は、殺す以外何もしない。

昔から、自分は本来神なんか信じていない。不可知論を信じていた。神は、永久に、人間には分からない。そういう、分からないものは、最初から分からなくて良い。きちんと、普通に分かるものだけを分かれば良い。最近、そういう人間でなくなった。まだ、不可能を分かっている。おかしい。こんな天才は居ない。誰でも、誰かが分かったことを、伝え聞いて分かるだけだ。そんなに自力で分かるのはおかしい。

ただ、自分もおかしくは無い。ネットを全部見て、全員が何を分かっているかを知った。人間には何が分かって、どういう風に行動するのか、ネットで全部分かった。

心理学は、ネットと引き篭もりの経験で分かった。本当に、科学者と同じ発想が、全部分かっていた。それだけの人間だった。ネットで、博物学のように知識を分かっていたし、想像力もあったし、体験をきちんと自分の力で見極める能力もあった。

自分は、そんなに考えていない。考えずに、信じた方が良いこともある。聞くところによると、ブッダも、哲学を考えるだけの馬鹿だと言っていたらしい。哲学者は、毒矢に刺さって抜くべきところを、根拠を知ると言って抜かずに、死ぬ人間だと、ブッダが言っていた。良く分からないし、良く覚えていないから、多分何かが間違っている。馬鹿を言う。

そういうわけで、昔は様相のようなことを言う。

「その状態をどのようにして変えるべきか」のようなことをいつも書いていた。

そういう風に考える。

参加し、実際のところを知って、実現するために何が出来るか、知恵を集めるとか、役割分担を高度化するとか、そういうことがどう出来るか、考えていた。

あとは、思考で分かっていた。

ただ、ブッダが馬鹿なことを言うはずがない。だが、ブッダも人間だ。誰とも変わらない、普通の人間だ。仏も昔は普通の人間だった。マホメットも、読み書きが出来ない商人だ。

高校時代、一人孤独になって、世界から自由になって考えると、こういう風に、考える賢い人間になる。そういうわけで、斎藤のように、中卒に賢い人間が多い。

だが、それは、こうなる。すぐに悪いことをして、馬鹿になって、分からなくなる。

ただ、ヘーゲルもそういう、不良にしか見えない人間が多い。不良を沢山見て分かった人間だと思う。本人も、不良と関わって分かった。

それこそ、自分もこれで賢い作家の先生だ。作家には見えない。本を出版したのは良いが、連載までは出来ていない。自分は、本を書いて日記を書いている、大学生だ。

一応、これでも大学生だ。勉強は本を読んでいるし、放送大学にもきちんと入っている。勉強出来ないのは、仕方ない。授業を見ても、言っていることが分からない。

逆に、本を読んで哲学と歴史をしているから、それで良い。その方が賢い。

そろそろ、もう、書いている残りの内容が無い。

レンタルとか、カテゴリーとか、応用とか、想像力や考え方のようなことを言う。

それぞれが自分のことを主張し合って、関与し合う、自由な社会が良い。

組織についても、それぞれが自発的に取り組んで、協力し合うのが良い。

そういう、応用的で組織的な考え方や関係をいつも書いていた。

今日は良い日になった。今日が一番賢い。明日もきちんと書いた方が良い。

ただ、もう、書けない。

相対的に思考する、機械のような人間が多かった。

自分を機械にして、勇気を出して戦う。どうでも良い。

ただ、自分の殻を壊して、信じて、勇気を出すのは、悪いことではない。

だが、大人はそういうものは、普通ない。そういうわけで、大人になると馬鹿になる。

全部、子供が賢いだけだ。それはそれで、キモイ。

大人は、哲学的なことを考えなくなって、生ぬるく生きている人間が一番多い。

楽な道を取ると、馬鹿になる。大人は楽な道を取るから、分からない。

自分は、子供だけのワンダーランドだ。

友愛と未知の可能性を信じなさい。自分のことを疑って、皆を信頼しなさい。

ただ、それも意味が無いところはあります。それも、おかしくはありません。

天使を信じなさい。僕は、ガブリエルと一体になって、信じるものを救います。

本当に、大人になると、こういう人間になる。大人になると、分からない。

子供が大人になる過程で分かるのが人間だ。そういうわけで、高校時代は、自由な人生を賢く歩める、唯一の期間だ。その時期を無駄にしてしまうと意味が無い。

むしろ、普通にこういう人間が多い。高校は、行かない方が賢い人間になる。だが、それもそれで、狂っているだけの人間も多い。

昔は、優先順位をつけて、意味を考えて、決定と可能性で分かっていた。

もっと色んなことを知った方が良い。ネットより、本を読んだ方が良い。

むしろ、無意味にネットをやる人間は居ない。したくないなら、しなくて良い。

普通のことは、それがそれになる、変化から分かっていた。

多重人格になったのは、一度も失敗せず、言葉を永遠に言うからだ。

もう、言わなくて良い。全てに対して言うだけの、おかしな多重人格になった。

ネットで面白いことを言うが、表情は笑っていない。ネットはそこがキモイ。

もっと、この世界には、自分とは関係なく、変わってほしい。

いつも、自分が変えるとおかしくなる。人間を作り変えて、世界を完全に支配する。

良く分からない。おかしいから、もう、地獄の死ぬしかない世界になるかもしれない。