いじめの世界観です。
実際のところ、僕がいじめられていたと言っているのは、みんなに笑いものにされていたということです。
僕は、ひとりだけおかしな人間だったため、何をしても何を言っても笑いの対象になり、嘲笑されていただけです。
ほかの人間がみんなで僕のことを面白がり、僕が何をやっても笑いものにしてくる、僕はそのようにいじめられていました。
結局、僕はひとり個性があり、ユニークな存在だったのですが、自分でもその個性が嫌いだったため、自分からどんどん辛くなっていきました。
当時はそれが酷く辛かったですが、今考えると、僕はいじめられてはいなかったと言えるのかもしれません。
実際、僕がおかしくなった原因はすべて中学校にあります。
中学校で、僕は世間知らずであるということをいいことに、少しでも天然めいた発言や行動をすると、それだけですぐにからかわれ、いじられ、馬鹿扱いされ、普通の人間ではないかのように見下されてきました。
これで辛かったのは、むしろ、いじめそのものではありません。僕は小学校の頃、自分のことをたくさんの友達の居る、みんなと仲良くなりやすい、賢くて明るい子供だと自己評価してきたのに、この自己評価が「単なるいじられキャラ」になってしまい、その自己評価が固定化された中で生きることが耐えられなかったのです。
僕は、単にいじめられるだけの経験をしてきたのではなく、他人のことを無視していじめていた経験もあります。これは「誰かにいじめられるなら自分はほかの誰かをいじめる」という心理状態です。そしてそれすら、悪い友人に騙されていただけにすぎません。
ここから、僕はすべてがおかしくなりました。自分自身のことがどうでもよくなり、学校に行かなくなって不登校の引きこもりになり、服も着替えず、風呂にも入らず、歯磨きもせず、昼夜逆転した中で、いつまでもインターネットのアニメ画像を見ていた僕は、まさに「この世界の中でもっとも気持ちの悪い人間」でした。
しかしながら、そのような経験の中で、インターネットは僕を救ってくれました。インターネットには、僕のことを平等に受け入れる人間が多く、また、インターネットの中だけでは、自分の自己評価を気にする必要はなく、インスタントなその場その場の環境で、自分は自分の望むような自分になって人々と接することができました。
ですが、これは必ずしもいいとは言えません。なぜなら、僕はWikiを大学の知識なしに編集しようとしたため、Wikiを劣悪なものにしかできず、長い間それを後悔し続けました。そして、その結果、僕は日本という国家を救うために、革命家として立ち上がりました。
ですが、その戦いもまた、許されるものではありませんでした。僕は日本のマスコミとアメリカの全国民を徹底的に支配し、最悪の支配をしました。完全に、自分勝手にこの世界を完璧に作り変えたのです。
ただし、これは必ずしも悪いことではありません。何もできなかった引きこもりの自分が、王という立場を与えられて、僕は自分のやりたいことや考えたいことすべてを書きました。持ち得る最大限の力を使って、この世界の王として、絶対にしなければならない試練を乗り越え、第一線で戦い続けたのです。
そう、これが僕の「いじめの経験」です。このようないじめのない、自由で平和な国家のために僕はよく考えました。子供たちには、平等に受け入れられるコミュニティを与えるべきだと思います。子供たちがいじめをしないようにするためには、道徳心だけの問題ではありません。自分がありたい自分であることを認められるということ、すなわち「自分のアイデンティティを尊重されるような社会を築く方法を子供たちに体験的に教えること」こそがいじめ問題を解決します。子供がいじめをする理由は、すべての社会の悪が子供に押し付けられていながら、その中で正しい社会を築く方法を子供たちは知らないからであり、そのために子供たちはスクールカーストでしか人間関係を構築できず、自分のアイデンティティを守ることができないのです。必要なのは子供たちに正しい社会を築く方法を教えることです。それは、いくら授業で道徳を教えても分かりません。体験的に「こうすればよい社会環境を作ることができる」という経験を、子供たちに実際にさせなければならないのです。
学校という環境は特殊な環境で、特に公立の中学校などでは、際立って悲惨な環境が多いです。
僕が経験したことから言えば、悪いクラスは本当に悪く、教師よりも子供の方が多いことを良いことに、教師の話を無視し、自分たちだけで遊び、教えられたことを聞かずに反抗します。
いじめもなくなりません。
本当のことを言うと、僕はいじめられたというより、スクールカーストで階層が下になったと言った方が正しいでしょう。友達は居たし、からかわれることが多かったのは、悪いクラスの中でひとり真面目に代議員をやっていたことや、試験で良い点を取っていたこと、ほかには、引っ込み思案で自己主張ができなかったなどの原因が僕の側にあっただけで、いじめではなかったと今の僕は思います。
ですが、僕が見ている範囲でおいて、いじめはたくさんありました。僕が加担したかのようになったこともあります。当時は時代が荒んでいて、友達同士でいじめのようなことをすることもあり、僕は今でも、当時の友人に対して申し訳ないと思っています。
いじめがなぜなくならないか、というよりも、いじめの実態を知るべきだと思います。子供たちは、ふざけているだけです。その子供たちをきちんと統率・指導することのできない、教師にも問題があると思います。国は教師にたくさんのやるべきことを押し付けるため、教師にもできることには限界があります。大人は自分の子供時代を顧みて、いじめに対して肯定的になる人間もいます。今、学校にはいじめとスクールカーストしかありません。子供たちは、そんな方法でしか、他の子供たちとコミュニケーションをとることができなくなってきています。社会そのものが未熟になってきているのです。
僕のような引っ込み思案のいじめられっ子は、2ちゃんねるに活路を見出す子供が多いですが、これを何とかしなければいけません。そのまま引き篭もりや不登校の問題につながり、自分の将来の人生を台無しにしてしまうからです。
僕の経験からするに、不登校や引き篭もりを経験した子供は、自ら人間の人生に必要な経験をして、それが終われば自然に学校のようなコミュニティに、自ら戻っていくと考える。
虚無や喪失を経験した人間を強制的に戻そうとしても、子供はもっと自分の殻に閉じこもって、上手くいかなくなる。
不登校の少年に必要なのは、学校では経験できない「人間としての魂の体験」である。その魂の体験が最後まで終われば、不登校の少年は、自ら現実社会へと戻っていく。本当に現実社会に二度と戻りたくない人間など、いないからである。
いじめを無くすのは難しいですが、良く考えると、対策することができます。それは、いじめとは、「一番悪いことをしたいという、教師や友人に対するおふざけ」にすぎないからです。
いじめは、時代を負うとともに陰湿になり、凶悪化しています。「自殺の練習をさせる」とか、そこまで悪いものになってきています。
このいじめがなぜ起きるのか。それは、教師の教える学校の科目が分からず、自分の自由に生きることのできない学校に対して、反抗したい、つまり「ふざけたい」からです。
そういうわけで、いじめを無くすためには、僕は3つの対策があると思います。
1.子供を真面目に勉強させること。
2.子供に対して、勉強する科目の「学ぶ意味」をきちんと説明し、きちんと分かった上で科目を学べるようにすること。
3.子供に対して、学校のがんじがらめのカリキュラムに当てはめるのではなく、自由な時間を与えること。
最後の、「自由を与える」というのは、いじめに対して逆効果ではないかと言われるかもしれません。ですが、これは効果的です。子供たちは、「学校に束縛されたくない」から、教師に反抗しているからです。自由を与えれば、自分の好きなことをやるようになって、反抗心そのものを取り除くことができます。
自由の良い点と言うのは確かにある。それは、「自分の経験から分かる」ということ。自分で経験し、自分だけで分かったことを自分なりに分かることができる。これは、子供の教育上、とても良いことで、学校のカリキュラムにも、「自分の体験から分かる」ということを取り入れてほしい。そもそも、ゆとり教育とは、こうしたことを目指している。だが、役所が勘違いをしたせいで、「学校の授業内容を減らし、思考の機会も減らす」といったようになった。本当は、ただ何もしない時間を与えて遊ばせればいい、というものではない。自分なりの体験ができるように、「コミュニティ形成の場」を作らなければいけないのである。
中学校や高校で不登校になったからといって、青春や人生、そして学習を諦める必要はありません。なぜなら、僕も通っていたように、不登校専門の学校があるからです。
僕は、姫路から少し離れた地域にある、ある高校に通っていました。これは、不登校や引き篭もりを経験した子供たちだけの、専門の学校です。
僕はこの学校にたまに行っていました。そして、この学校を設立した人の神経内科の診療所に通っていました。
本当のことを言えば、僕は学校の勉強に不信感があったため、この学校にはあまり行きませんでした。ですが、何十回か、父親と一緒に通ったことがあります。そして、生徒の人々は「いい学校だ」と口ぐちに言います。
引き篭もりで悩んでいる子供たちは、こうした専門の学校に通うのも手です。僕は今になって、もっとこの学校に通っていれば良かったと思います。それは、僕はインターネットの依存症になり、何も学ばずに青春を過ごしたため、何も分からない馬鹿な大人になったからです。大きな後悔はしていませんが、その方が良かっただろうと思います。
いじめが起きるのは、そもそも子供だけの問題ではありません。僕は、大人の保守勢力、特に自民党、テレビ、そしてマイクロソフトが悪いと思います。
彼らは、共産党やLinuxのような、革新勢力、良く言えば平等でみんなを思いやる勢力をいじめます。
それら西側の資本主義勢力が、どうにかして倒れなければ、子供のいじめは無くならないでしょう。子供は、マイクロソフトがLinuxをいじめるのを真似しているだけです。
後日注記:僕はテレビが大嫌いです。僕が戦っていた敵はテレビであり、世界と戦う革命家が目指していたのはテレビを変えることです。今の日本のテレビやマスコミは本当におかしいです。みんなでお笑い芸人をいじめ、人々に「いじめを推奨している」かのような番組を作っています。僕はYouTubeの方が好きです。テレビはそのうち、必ず消滅するでしょう。
実際のところ、僕が僕の中学校が嫌いだったのは、安心と自分らしさと楽しさがなかったからである。
まず、僕の中学校には、「安心してその場にいられる」ということがなかった。たとえば、ネットには綾波レイの画像があふれているが、僕はレイプとまではいかないながらも、誇張すればあんな感じ、「自分が安心して生きられる場所」というのが無かった。(後日注記:モグダンなどのエロ同人のこと。校内レイプの画像がでてくるため18歳未満は検索しないように。)
本当のことを言えば、いじめられていたわけでも、友人がまったくいなかったわけでもない。ただ、小学校ではみんなが平等に愛されていたのに、中学校では僕は疎外されていた。「自分が自分らしく安心して生きられる場所」というのが無かった。
自分らしさを失ったというのはもうひとつあって、僕は小学校のような自分らしく生きられる自分の個性を失った。引っ込み思案になって、人々と一緒に絡んだり、つるんだり、といったことができなくなった。
また、楽しさが無かった。小学校には、一緒にバスケットボールやテレビゲームをする楽しさがあった。中学校は、勉強と修練ばかりで、何一つ面白くなかった。
中学校の全てが間違っていたわけでもない。僕は、クラスで一番、もしかすると学校で一番ぐらい、勉強ができていた。試験はほとんど80~90点で、オールA。美術でも音楽でもAをとっていた。だが、それは並外れた努力の証だった。今までクラス一の優等生としてしっかりノートを取って勉強した内容を、何度も反復して、赤シートと緑ペンを使って覚えまくった。シートを外さなくても自分の中で暗記できることを目指して、忘れたところは入念に、何度も教科書をノートに書き写す。まるで受験勉強のような内容を、中学生で既にやっていた。完璧に覚えていたため、試験にどの単語がもし出たとしても、必ずそれを言い当てられるように、丸暗記した。
そんな僕が、中学校3年になって思ったのは、「何の意味も無い」ということ。学校、という場所に、何の意味も無かった。僕は、学校に行きたくなくなった。剣道部で初段の昇段試験に落ちたぐらいから、僕は学校という場所が大嫌いになって、家で引き篭もるようになる。絶望の中で昼夜逆転の風呂に入らないパソコンだけの生活をした。だが、そんな僕でも、愛することのできたものがあった。それが、Linuxである。そう、僕はLinuxの勉強だけを、家で、インターネットの全てを知るような気持ちで行った。
実際のところ、僕はむしろまともだった。家族とも友人とも別れたが、それでも僕は青春を謳歌する人生を、ひとり自分の部屋の中でやったのである。インターネットのさまざまな人の声を聞きながら、どんなに劣悪な環境でも、僕はLinuxのことは、どんなに情報がなくても、石にかじりついてもやる覚悟だったのである。
ただ、本当のことを言えば、何もしないだけの日々が続いていき、Wikiを見ても何一つ分からない中で、Delphiの無料版でOpen Janeをコンパイルして、Gentoo Linuxのハンドブックと戦って、あとは、ネットのさまざまなことを知って、議論して、検索して、そんなことしかしていない。何も作れなかったが、そうした日々が良かった。僕は誰とも違う、子供なのに最高の理性を持った大人になった。自分の心と過去の記憶から、この世界の全てを「まるで博物館のように」創った。そう、それらは無駄では無く、必要だった。そうした日々がなければ、今の僕は無いだろう。本当のダイアモンドは、最後に救った僕の「夏の愛」を、危険な香りとともに「まるで幻想のように蘇らせる」という、この黒魔術の文章を生んだ。本当は、ただ、この世界の全員を愛したかった。そう、僕はタリバンのドイツをやった。この世界を独りで支配して、全てを終わりにした。
後日注記:これでは校内レイプをされたかのように読めてしまいますが、僕はレイプをされたことはありません。男にも女にも、強姦や強制的なセックスをさせられたことはありません。ただし、何人かにセックスの話を聞いて勃起した男性器を触られたりするなどのことはありました。また、いつも自分の居場所がなくて、クラスメイトからは常にいじられ、嘲笑されていました。単に、スクールカーストにおいて低い状況にあり、小学生からの友人にもそっけない態度を取られていました。常に、自分の挙動に執拗に反応され、自分がそうされたくないのに面白がられる、という程度のいじめでした。肉体的なことも、精神的な執拗ないやがらせもされたことはなく、教育委員会が判断するには「いじめではない」ことになるでしょう。親友も何人か居ましたし、ネットゲームをともにする仲間も、剣道部の仲間も居て、剣道部の先輩には良くしてもらいましたし、秀才だったためテスト勉強も出来ていました。それでも、僕は剣道部の昇段試験に落ちたことなどをきっかけに剣道部に行かなくなり、Linuxなどに触れるうちに学校そのものが嫌いになって不登校になりました。テスト勉強を維持するのは苦痛であり、もっと自由にパソコンやIT技術のことをする時間が欲しくて、ネットゲームをやめたぐらいから、僕は家に引き篭もるようになりました。その代り、パソコン技術のことに詳しくなり、自分ひとりの力で自立的に行動する習慣がつきました。
後日注記:実際のところ、問題は学校の環境と、自分の風貌にありました。まず、クラスそのものが荒れ放題のクラスで、教師の言うことを全く聞かず、厳しい先生の時だけ静かな態度で授業を受け、弱い先生では全く真面目に先生の話を聞かず、たとえば先生の間で尊敬されていた賢い音楽の先生を泣かしたりする場面もありました。僕はそうした中、代議員として「姿勢、礼」のようにクラスを指導し、また積極的に手を挙げて答えを言うなど真面目に勉強していたため、からかわれやすかったのです。実際のところ、からかわれていると思っているのは自分の方で、みんなの間ではたまに「かっこいい」と言われていました。また、僕の風貌にも問題がありました。僕は男なのに引っ込み思案で友達の居ない女子のような「前髪ぱっつん」の髪型をしていて、長髪でぼさぼさでおとなしい醜い子供のような髪型をしていたため、その風貌は良く言えばバンプの藤くん、悪く言えばふかわりょうのようでした。そういうわけで、彼らの行為は行き過ぎたところはあったかもしれませんが、いじめではありませんでした。それでも、思春期の僕には耐えがたいハラスメントだったのだと思います。僕も、引っ込み思案の自分を変えたくて、小学生時代のように自分らしく積極的にふるまって、対等な友達になりたいと思っていましたが、当時の僕にそれはできませんでした。いつも「小学生時代に戻りたい」とか、「小学生時代のあの子はどうしているんだろう」といった会話を、登下校を一緒にする友達と日常的に話していました。なぜなら、この中学校は公立の中学校ですが、環境が悪かったためか、小学生時代の多くの友達は、私立の中学校など別の中学校を選んでいて、中学校の最初のクラスには、小学生時代の友達はほとんど居ませんでした。そして、僕は必ずしもいじめられる側に立っていただけではなく、剣道部のサバゲー仲間にそそのかされて、小学生時代は僕の家で一緒にテレビゲームをするなど仲の良かった友達を完全無視するなどのいじめをしていました。また、下駄箱にある靴を隠したり、時には自分も靴を隠されたりするなど、「いじめられたりいじめたりすることが当たり前」でした。そして、僕はそうしたクラスメイトや剣道部の全てが嫌いになって、「自分で独自に勉強したい」と思うようになりました。僕は親が博物館の学芸員と教師だったこともあり、レベルの低かった周りの友達に「強制的に合わせられる」のが嫌いでした。その結果、僕は中学三年生の始業式の時に、この中学校に行く気力を失い、家にこもって不登校になりました。ですが、僕は単に不登校になっただけではなく、「パソコンやプログラミングのことを勉強するために学校に行かなくなった」という「強い意志と夢」がありました。このことだけは守りたいと思って、僕はインターネットの猫でも分かるプログラミングのようなサイトを見て、独自に勉強し、「フリーソフトを作りたい」とか、「LinuxのWebブラウザを作りたい」と思って、インターネットを見ながら勉強をしました。結果、何もできませんでしたが、僕はけっこうパソコンのことには詳しいと思います。姉がプログラマであることもあって、僕の今居る環境というのは中学生の頃よりもはるかに恵まれています。今、幸福であればそれで良いと思います。橋から飛び降りて自殺未遂のようなこともしましたが、結果手術の末足の関節に障害は残ったものの、この足の傷は今までの自分の人生の全てを語り、そして未来の自分の人生に「今幸せである」ということを遺してくれています。大好きだった持久走や駅伝はできなくなりましたが、僕は今でもLinuxとプログラミングの勉強をし続けています。
僕は、人間がいじめをするのは、心の自由がないからだと思います。
社会的な手助けや善悪や愛や平等の問題ではなく、「心の自由」、それも幻想や妄想ではない現実に根差した「自由」がないのです。
自由がないから、他者を攻撃する。他者を攻撃するから、いじめが増える。それでさらに自由がなくなっていく。
必要なのは「精神的な自由」です。それがあれば、いじめは必ず無くなります。
自分の問題を見なくても良くなった時、はじめて人間は他人の問題を考えられます。
精神的な余裕と心の自由を与えることで、僕はいじめだけではなく、全ての抑圧を解決できると思います。
また、特に中学生に多いこととして、「学校しか世界を知らない人間が悪い人間になる」というのがあります。
学校しか、世界や環境を知らない人間だけが、狂って人々をいじめるようになるのです。
必要なのは、思いやりや道徳教育だけではありません。学校以外の、職場でもインターネットでも良いから、別の世界があることを教えることです。不自由で善を強要されると、当たり前に反発して悪をします。自分が学校でいじめられているのが分からない人間が、他の人間をいじめるようになります。「自分の苦しみを他者にも与える」ようになるのです。
そう、学校以外の世界をもっと良い世界にし、その上でそうした世界に子供たちを連れていくことで、いじめ問題は解決するでしょう。
2020-01-04より。
僕は、この世界を「自由」にすると同時に、エントロピーの低い「整然とした社会」にする。つまり、僕はこの世界を、それぞれの構成員が自由にコントロールできる「自由な共同体」にすると同時に、その共同体の人々が作る環境や社会に干渉し、「このようなルールと規範に基づいて社会を構築しなさい」ということを提示する。
たとえば、大日本帝国憲法において、天皇はどんなことでもすることができたが、その中においてもなお、天皇が「このようにあるべき」だとか、「このような典範に則って天皇は行動しなければならない」という「決められた行動様式」が決まっていた。
僕は、自由な共同体にし、技術を発展させるだけではなく、そうした共同体と科学技術において、「このように行動すべきである」というルールと規範を決める。
たとえば、学校において、どんないじめもしてはならない。いじめには程度のレベルがあり、最初の段階は無視したり悪口を言ったりすること、次の段階はものを隠したり暴力をふるったりすること、その次の段階は人前で恥をかかせたり強引に性的な暴行やハラスメントを行うこと、最後の段階はそれらよりも過激かつ強大なあらゆる自尊心と人間性の破壊行為を行うことであり、特に1~2の段階は注意をしたりすることで済まされるが、3~4の段階になると処罰をして良いことにする。
そのように、ただ自由な社会や自由な共同体にするだけではなく、「その中で人々がどのように行動すべきか」ということを決める。これは経済社会についても同様で、最初の段階はブラックな労働をさせたり会社として不正を行うこと、次の段階は個人に対して盗難や性的暴行など「人間性の破壊行為」を行うこと、その次の段階は社会全体、地球の自然環境において人々に不利益を与えること、最後の段階は殺人や強盗など「凶悪犯罪を行うこと」である。1~2の段階では、法律上の処罰で済むが、3~4の段階では社会全体でルールを定めて禁止し、違反したら逮捕するようにしなければならない。
これでは、「単純な法律やルールに過ぎない」と思われるかもしれないが、僕が言いたいのは、単に自由にするだけではなく、その自由な権力の中で「こうすべきである」という規範、すなわち「共同体の憲法」を定めることである。こうしたルールに基づいて、共同体はさまざまな自由な自治活動を行うことができるようにする。その結果、「整然とした社会規範における、多様な共同体と自由な社会」が築かれるのである。
最後に、僕はこの世界を正常な世界にする。
そもそも、アメリカやソ連のような社会は必要ない。アメリカはエントロピーが高すぎてカオスのようになりつつあり、ソ連は誰も生きられない破綻した経済になった。
僕は、この国を民主主義のままで普通の保守的なドイツにする。
今から、この世界の全てが正常になる。まず、いじめは上記の僕の「レベル分けいじめ評価」によって、凶悪ないじめだけが無くなり、程度の低いいじめでも注意されるようになる。同時に、今から僕は過度なIT社会と自動車社会を改める。まず、「ITの発展は促すが、ITが無くても社会が成り立つように、同時にアナログな手段があるようにする」ことで、社会はIT以外の未来も選択できるようにする。同時に、いじめ評価3以上の、過激なエロ表現、たとえば、中高生が集団でひとりの少女を公開レイプしているような画像は無くなる。他にも、トイレでひとりの女を複数の男子が「肉便器」のように犯している画像も無くなり、妹や姉と兄や弟がセックスをするなどの過激な表現は全て消え去る。ただし、全てのエロ表現は摘発されない。そのため、普通のセックスのような表現はあって良い。その際に性器に修正線を入れたりぼかす必要も無く、また子供がそうしたものを見てはならないという「暗黙の了解でどうでもよくなっている法律」は無くす。そのため、中高生がそうした画像を見ても許されるようにする。中高生に異性を意識させ、積極的にセックスをさせることで、少子化対策に繋がる。そもそも普通に恋人とセックスしているのに、18歳未満はそうした表現を見てはならないとする方がおかしい。
同時に、自動車について言えば、今の技術で既に電気自動車は実現できるのだから、ガソリンや化石燃料を使わないようにする。そして、家屋には屋根だけではなく、側面の壁にもソーラーパネルをつける。そして、火力発電を改め、全て自然エネルギーだけを使った上で、化石燃料を一切燃やさない電気自動車を実現する。
これらの取り組みにより、日本はもっとも楽で過ごしやすい世界になる。世界はここに完成する。救世主はこの世界全てを愛している。そう、これがドイツの目指した最高の帝国である。
また、著作権という考え方は無くなる。今の時代、コピーし放題のこの世界においては、コピーを禁止することそのものが現実的でない。コピーを許した上で、何らかの手段でそうした産業が成り立つようにする。たとえば、国家的な学校制度を作って、デザイナーや作家は特別な学校の教授になれるようにする。その教授職によって、デザイナーや作家は給与を得られ、生活できるようにする。そして、その成果自体はいくらでもコピーできるようにし、「どんな人間にとっても、全てのコンテンツを自由に利用できる社会」を実現する。
また、僕は自由を改め、この世界を「完全に平等な社会」にする。言ってしまえば、僕と同じで良いのである。僕の人生にあったことの中で、良かったことを許し、悪かったことを禁止する。僕ができたことを人々もできるようにし、僕がそうであってほしかったことを実現し、僕の人生をそのままみんなの人生にし、僕の与えられたものを与え、僕と全く同じことができる社会にする。ここに、正しい「平等な社会」が成り立つ。全ては僕と同じで、全ては僕以上でも以下でもない。全て、同じ。全部、僕である。
僕は確かに高い橋から飛び降りて自殺未遂をしましたが、この理由は僕の受けたいじめではありません。
僕は、この世界を救うためにひとり日本社会の頂点に立ち、マスコミを支配することで自らの意見が人々に伝達するようにし、自らが「支配者」となった上で、この世界に希望を取り戻すための戦いをしました。
その戦いは壮絶極まりのないものであり、僕はそのために自分の人生すべてを犠牲にしました。
ですが、いったん始まった戦いは簡単には終わりません。神と対話することで、僕はさらにおかしくなって、死が近づくと恐怖が高くなっていき、最後に僕は高い橋から飛び降りました。
ですが、後悔はありませんでした。僕は自分のできるすべてのことをやった上で、人生にピリオドをつけたかっただけにすぎません。
幸い、僕は足を怪我するだけで、入院した病院で手術を受け、リハビリをこなすことで歩けるように回復しました。足の関節が曲がりにくくなる後遺症を患いましたが、足を引きずって歩いたりするほど辛くはありません。僕は新しい人生を生きています。この人生は希望あふれる詩人の人生であり、この「文章を書く」という行為が僕を救ってくれました。
自分の書いた「シルフの秘密の場所」2022/06/10より。
僕は、学校でいじめられている子供たちのために、ネット上のいじめられっ子の同盟として、「いじめられっ子救援隊」を作るべきだと考える。
学校で、多数派にいじめられて従順に従うしかなくなっている子供たちに対して、同じようにいじめられていた経験のある多くの大人が、そうした子供たちを支援するネットの同盟である。
この同盟は正義の同盟だが、いじめられている子供たちの絶対的な味方であり、いじめられっ子のために全力で支援を行う。
実際のところ、いじめをなくすために必要なのは、「友達と仲良くしなさい」と教えることではありません。
友達は、仲が悪くなっていじめているから、友達と仲良くすればいじめは解決すると考えるのは間違いです。
なぜなら、仲のよい友達になんにでも従わなければならないような「同調圧力」こそがいじめを作り出しているからです。
友達と仲良くするということは、子供にとっては、自分の友達の言うことになんにでも従うということです。
そして、そのような「友達関係」を強固に守るために、「少しぐらい誰かをみんなでいじめても、それに従う人間だけを受け入れ、従わない人間は排除する」とするのです。
すなわち、いじめられっ子がおかしな人間だとか、多少狂っているとかいうのは、確かに「気持ちの悪い人間と付き合うとストレスが溜まる」ということは言えますが、それは感覚的なものにすぎず、子供たちの社会では、「いじめという行為を友達に強制すること」で、自らの「カースト的地位」を保とうとするのです。
なので、仲良くしなさいと教えることは逆効果です。友達と仲良くしたいから、子供たちはリーダー格の意見をすべて受け入れて、みんなでいじめをするようになるのです。
必要なのは、「悪い友達と仲良くなどするな」と教えることです。悪い友達と仲良くする必要などありません。無用な友人関係は切り捨ててしまい、自分の本当に信頼できる友人とだけ友人になればいいのです。いじめはそれで解決します。
僕は、このようないじめの心理について、「いじめをすることでしか社会秩序を保つ方法がない」という言い方をします。今の子供たちは、どんどんコミュニケーションそのものができなくなっており、正しい友人関係を築くという方法そのものを知りません。なので、いじめをすることでしか、自分がコミュニティの中で地位を確立するためにできることを知りません。結果、多少おかしいだけの子供をみんなでからかうようないじめに発展します。
解決方法は、「いじめをすることなく社会秩序を形成する方法を教えること」です。これはすなわち、「子供に正しいコミュニケーション力を与えるように教える」ということです。大人ですら、コミュニケーション力を十分に持たない現代では、これはとても難しいです。ですが、子供たちを学校という特殊な環境に隔離し、何も教えることなく適当にコミュニケーションしろと強制しているのは大人です。すべて、大人たちが悪いのです。
後日注記:僕に対するいじめは、少しタイプの異なるものでした。僕はおかしな人間であるということだけでクラスメイトから笑いものにされ、僕をいじめることはクラスの恒例行事となり、一種の娯楽のようでした。僕はそのようなクラスを二年間ほど経験し、三年生になってやっと解放されたという時、中学校のすべてに絶望して不登校になりました。悪いのはすべてテレビです。テレビでお笑い芸人を笑いものにするのと同様、僕はクラス中からの笑いものでした。だから、僕はテレビに対して革命の復讐戦争をしなければならなかったのです。
後日注記:「友達」とか「仲良く」という言葉は、いじめっ子が使う言葉です。いじめっ子が、いじめられっ子をいじめておきながら、従順に歯向かうことなく従うのを「友達」とか「仲良く」と言うのです。ですが、いじめられっ子は、いつまでも歯向かうことなく従順に従っていたのではいけません。一度くらいは勇気を出して、立ち向かわなければなりません。
はっきり言って、僕はいじめられること自体、そんなに怖くありませんでした。
いじめられても僕は優等生のように中学校で真面目に勉強することを変えませんでしたが、その理由は、いじめられることがまったくどうでもよかったからです。
辛かったというよりも、僕は付き合うのが面倒くさかったのです。
いじめてくる人間は大嫌いでした。それは怖かったからではありません。面倒くさい付き合いをしたくなかっただけです。
どんなに自分が孤立しても僕は辛くなかったです。勉強をしていたのは、むしろ、ほかにすることがなかったからです。友達との友人関係がなく、つまらないからひとり真面目に勉強をしていただけです。
また、むしろ、仲良くしてくる友達も居ました。その友達も、何か、僕と付き合いたいと思わずに付き合ってきているような感じや雰囲気があって、はっきり言って学校で付き合うすべての人間が嫌いでした。自分とは誰も仲良くしないと分かっていましたが、それは辛かったというわけではありません。失望ではあったにせよ、自分自身の生き方を否定するということに直接的には繋がりませんでした。
ですが、本当は、辛かったと言えば、辛かったです。ですが、むしろ僕は孤独であるということに、ある意味での「価値」を感じていました。そう、僕は孤独であり、誰とも付き合わないということは、そんなに悪いことではないと知っていました。
このような結果、中学校を不登校になり、引きこもり生活になっても、僕はまったく辛くありませんでした。ひとりで生きる孤独な自由こそ、僕の望んでいたものでした。
当時は、インターネットが必要でした。インターネットがなければ、僕は世界との一切の繋がりを持つことがなくなっていたでしょう。ですが、インターネットの世界を十分に知り、世界すべての真理を哲学的な経験と理性から知った今の僕には、インターネットすら必要ではありません。僕はこの「文章を書く」という趣味で生きていくことができます。そう、まさに、今の自分の「文章を書く」という仕事のために、すべてがあったと言えるでしょう。
はっきり言って、僕が中学校で辛かったのは、いじめではなく、「自分が自分らしくいつもの自分で居られない」ということです。
小学生の頃の自分のような明るくはきはきとした、みんなと仲良くできる自分ではなく、ひとり孤立して浮いた状態で、人々から「天然」と言われることが、いじめよりも辛かったです。
本当に自分らしく居られるような居場所が、中学校にあれば、僕は不登校の引きこもりにはならなかったかもしれません。
ですが、今の自分が考えるに、このような人生を選んで正解だったと思います。自分の人生には、地上と宇宙のすべてがあり、ブッダやヘーゲルのような哲学的観念論の悟りの人生がすべてあったからです。
まったく、僕の人生は間違いではありませんでした。ですが、僕は今でも、「本当の自分らしく生きられるような自分」を封印し続けています。本来の自分自身というものを、心の奥底に隠したうえで、心を閉ざしたまま、今でも生きているのです。
そして、その心の壁を唯一取り除くことのできる手段が、この文章を書くことです。この文章を書いている間、僕は唯一、本来の自分自身に戻った時間を過ごすことができます。どこにも居場所がないならば、僕はこの文章を書くことで、自ら居場所を作り出すのです。
ただし、いじめの問題とは、そのような「おふざけ」だけではなく、人間の持つ本能に、「共同体から排除された人間とは付き合いたくない」ということを訴えかけてくる、ということではないでしょうか。
言いたくはありませんが、いじめられた子供と、積極的に付き合いたいと思う子供は少ないです。自分がいじめられるかもしれないというリスク以前に、「排除された人間とは付き合わない」という、人間の本能的なところに問題があるのかもしれません。
人間には、「強い王に従う」という本能があります。強い王に従えば、自らも強い勢力になって勝ち上がることができるからです。
それと同じように、人間には、「排除されたものとは付き合わない」という本能があるのです。そのため、共同体から排除され、みんなからのけ者にされた人間とは、周りのものは誰も付き合おうとしません。
結局、歴史における「村の治安を維持する方法」は、それしかなかったのです。だから、いじめられた子供たちは、誰からも愛されることなく、ひとり、自分の自由に人生を生きるべきです。これが、悲しい現実であると言えるでしょう。
このように、共同体から排除されてしまった人間たちを救ってくれる人は、世間には非常に少ないかもしれません。ですが、僕は知っています。それは、神という存在は、そのような共同体から排除された人間たちに対しても優しい、ということです。
僕は神を信じています。ですので、僕は決して、共同体から排除された人間たちを見捨てません。僕だけは、そのような人間のことを愛します。これは「神を信じるものの務め」です。僕だけは、いじめられた子供たちに寄り添い、彼らを支え、助けていきます。そのように生きるために、僕は中学校でいじめられたのだと言えます。
このように、中学校でいじめられ、不登校の引きこもりになった僕ですが、それは必ずしも不幸なだけの経験ではありませんでした。
なぜなら、「敗北」という良い経験ができたからです。
先日、僕はネットの写真・動画SNSのInstagram(インスタ)からBAN(永久凍結)されましたが、これもそうした不登校の時代に経験したことと同じで、僕にとって「敗北を一度経験する」という、良い経験になりました。
インスタからBANされたことで、僕はもう半永久的にインスタは見れなくなりました。これはインスタの普及度合いから考えると、どうでもいいことではありません。それでも、これは「敗北を経験する」という意味で、良い体験だったのです。
この「敗北」という経験は、人間を賢くします。宇宙における悟りや真理の道を、「敗北」という経験は、生きることを可能にしてくれます。
昔の、不登校になるという経験は、「学校と違う道を生きるちょうどいいタイミング」でしたが、今のインスタをBANされるという経験は、「ネットをやめるちょうどいいタイミング」になりました。
人生で一度や二度、このような敗北の経験をすることは悪いことではありません。敗北の経験をすることで、この世界のほかの誰も容易には経験できない「自由な真理への道」を歩むことができます。この「敗北の経験」こそが、人生における「本当の成功」を与えてくれるのです。
2022.12.10
このほか、いじめの解決策として、2024-01-20、2024-01-21、2024-02-13、2024-02-18、2024-04-10、2024-06-27、2024-07-20、2024-07-22、2024-07-24の日記に、関連する内容があります。
また、過去の内容として、2020-01-03に関連する内容があります。
僕の作った小説の中で、ミカエルという大天使が登場します。
ミカエルを語る上では、もうひとりの大天使であるガブリエルの生涯を書かなければいけません。ミカエルは、ガブリエルが自殺に追い込まれたのに対する復讐を、この世界にする天使だからです。
ガブリエルは、幼い頃からみんなと違う人間であり、人々と打ち解けることがなく、みんなからいじめられて生きてきました。
それでも、ガブリエルは、この世界からいじめをなくす方法を考えるために、ひとり、学校に通わず、不登校の少年になることを選びました。
不登校になったガブリエルは、インターネットでさまざまな人々と交わり、経験する中で、この世界からいじめをなくす方法を、いじめられている多くの子供たちの声を聞くことで、本当に真剣に考えました。
その結果、ガブリエルは、この世界を救うことができるぐらい、ほかの誰とも違う「天才」になりました。
そして、ガブリエルは、本当にこの世界を救います。
まず、ガブリエルは、インターネット上で、「本当に日本に必要なのは、戦争でもなければ独裁でもなく、今ここにある可能性を信じて、今すぐにでもこの世界を救うことは可能なのだという、本当の希望があり、その希望は実現可能なのだということを信じること」ということを述べました。
このガブリエルの痛烈な訴えが、この世界を変えるに至ります。この世界は、ガブリエルが精力的にインターネットで発言したことで、インターネットの力で変わります。
ですが、この世界を変え、世界に希望と救済をもたらすガブリエルの活動は、すべて匿名によるものであり、世界が変わったにしても、そこにはガブリエルの姿はありませんでした。
そんな中、そのような変化する世界の中で、マスコミがガブリエルのことを利用しようと企みます。
「このままでは、自分自身が利用されて、世界は悪い方向に向かってしまう」と気付いたガブリエルは、そのガブリエルによって救われた世界を自ら破壊してでも、この世界に堂々と登場します。
その結果、ガブリエルの姿は現れましたが、そこに危機感を抱いたのが、マスコミです。
マスコミは、このままでは日本がガブリエルに支配されてしまうと考え、ガブリエルのことを排除しようとします。
ですが、そのようなマスコミの手のひら返しに対して、簡単に負けるようなガブリエルではありません。どんなにマスコミからいじめられても、反撃をせず、逆に自らいじめられるように仕向けたガブリエルは、この世界の頂点で、この世界に対して「自らの信じる世界を救うための自由な理想と正しい信条」を訴えます。
そして、すべての責任を、ガブリエルはたったひとりで背負います。マスコミは、なんの責任も取ろうとせず、自らの責任が大きくならないようにつとめますが、ガブリエルは違います。この世界の新しい「王」として登場したガブリエルは、絶対にこの世界を滅ぼしてはいけないという重責を、たったひとりで背負い、そのために最大限の努力をして、この世界が「本当に救われた世界になるため」に、何年もの間マスコミと戦い続け、この世界に対する「愛の信念」を述べ続けるのです。
そのようなガブリエルですが、その努力は素晴らしいものであったとしても、ガブリエルだけが異常なほど頑張っているだけにすぎず、プレッシャーはガブリエルに対して絶望を与えます。
そう、世界に現れて4年が経った段階で、ガブリエルは橋から飛び降り、自殺を選びます。
その時点で、ガブリエルの支配は終わり、マスコミとの戦いも終わります。
ですが、このような、マスコミあるいは日本全体によっていじめられながらも世界のために戦い続け、最後に死ぬまで世界を愛し続けたガブリエルを、愛していた存在がひとり居ます。
それは、ガブリエルの最愛の恋人である、ミカエルです。
ミカエルは、この世界に、ガブリエルが死んだことに対する復讐をします。
ミカエルは、この世界を許すことができません。死んだガブリエルは、本当の天才でした。本当は、ガブリエルは、そのようなマスコミに対する革命戦争を起こさなくても、もっと素晴らしいことができる、なんでもできる最高の賢い人間でした。
ミカエルは、最愛の天才であるガブリエルが死んだことを、受け入れることができません。
ミカエルは、ガブリエルを殺したこの世界に、復讐します。
ミカエルは、世界を滅ぼしたいわけでも、救いたいわけでもありません。単に、ガブリエルが感じたすべての苦しみを、この世界の全員に感じてほしいのです。同時に、ミカエルが感じた悲しみや苦しみも、この世界の全員に感じさせます。
ミカエルの言い分は、それだけです。ガブリエルを愛するミカエルは、絶対にガブリエルに死んでほしくありませんでした。ガブリエルとともに、世界における楽園の構築のために、永遠にともに生きていたかったのです。
ですが、ガブリエルは死にました。この世界のすべての不幸と苦しみを、すべてひとりで背負って、地獄の中をガブリエルは、誰にも、ミカエルにすら相談せず、最後までたったひとりで戦い続けたのです。
ミカエルは、この世界が絶対に許せないのです。
ミカエルには、この世界を救うことはできません。ガブリエルがどれほど天才だったかを知っているミカエルは、ガブリエルと同じようにこの世界を救うことはできません。
それでも、最愛のガブリエルがいくらか浮かばれるために、ミカエルはこの世界に、自分の感じた苦しみ、そしてガブリエルの感じた「壮絶な地獄」を与えます。
ガブリエルがどれほど素晴らしい人間だったか、それを考えるだけで、ミカエルは居ても立ってもいられません。この世界に対するミカエルの復讐は、絶対に終わることはないのです。
2023.01.12
教育・心理については、教育やドイツの教育や心の病気も参照のこと。
いじめのない社会については、労働地域党(3.格差と差別のない世界)や労働地域党(4.地域コミュニティの復活)も参照のこと。
SNSにおけるいじめや依存などの問題については、SNSやX(旧ツイッター)やFacebookも参照のこと。
不良・引きこもりも参照のこと。