教育の世界観(2.戯言)です。
僕が学校教育についてつまらないと思う点は、自分で考えることをやめてしまうということです。
特に中学高校のような学校では、教科書に最初から答えが書いてあり、その答えを覚えて試験で記述するだけです。授業では、最初から答えが分かっているようなことを教えます。
これは、確かに、先人の知恵や知識を効率的に知るという上では、合理的な教育方法かもしれません。
ですが、子供たちは考えなくても答えが分かってしまうため、自分から考えて答えを見つけ出すということをやめてしまいます。
たとえば、将棋の指し方を考える上で、最初からAIによる最善手を見てしまうと、確かに何が最善手かは一瞬で分かりますが、自分で最善手はどこなのかを考えることをやめてしまうでしょう。
学校も同じです。自ら考えなくても、最初から教科書に答えが書いてあるせいで、教科書を覚えるだけになってしまい、自分で考えて答えを導かなくなってしまうのです。
なので、僕が中学・高校の教師に望むことは、「自分で考えるような教育をさせること」です。
子供たちが、自らの頭を使って、想像力とたくさんの実例から、自分で原理原則を導いていくようにしなければ、真の教育であるとは言えません。
古代ギリシャや古代ローマの数学者や科学者たちは、自分の力で図形や数から公式を導き、自分で考えて実験・観察・証明をしてきました。それが、今の科学における「定説」となっています。そのような定説は、教科書を覚えるだけでは得られません。自分の力で考えてはじめて定説を導き出すことができるのです。これこそ、「科学者」です。
ですが、本当は、何も前提知識なく、いきなり定説を考えろというのにも無理があります。ニュートンは「巨人の肩に乗る」という表現をしました。自らは自分が巨人のように巨大な科学者だから高い視点からものを見れるのではなく、たくさんの先人すなわち巨人たちの肩に乗っているから、自分は高い視点からものを見れるのだ、ということです。
なので、前提となる「基礎知識」を教えることは確かに必要です。基礎がなければ応用を考えることはできません。ですが、基礎知識をロボットのように覚え込ませても、それは自分で何も考えず、単にこの世界の先人の考え得た知識を何も考えずに吸収しているだけです。教科書に載っている答えがなければ答えが分からないなら、それは答えが分かったと言えるのでしょうか。
たとえば、算数や数学において、分数のような「有理数」や、平方根のような「無理数」の概念を、小中学生は学んでいますが、単に教えられて学んでいるだけで、自分でその意味や考え方を理解していないために、これらの考え方の習得に時間がかかる子供が居ます。分数はまだ理解できても、平方根は感覚的に分かりづらいという子供たちは多いでしょう。これは、自分で考えて理解できていないからです。単に教えられるままに、答えだけを覚えて理解しようとするから、分数や平方根のような「考える必要のある概念」を理解することができないのです。
子供たちは、最初から頭が馬鹿だから理解できないのではありません。古代の数学者と同じように、自分できちんと考えることができれば、どの子供たちであっても分数や平方根を理解できるのです。ですから、子供たちから「自分で考える力」を奪わないでください。今の教育は、子供たちから自分で考える力を奪っている側面があると僕は思います。今の学校は、教科書を見ればすぐに答えが書いてあるために、「自分で考えることをやめてしまう」のです。
子供たちは、小中学校では賢いのに、なぜ、高校で馬鹿になってしまうのか。
高校の物理の参考書を見ていて僕が思うのは、「難しいのに無意味」ということです。
高校の内容は、とても高レベルで難しいです。大人でも簡単には解けないような問題を、さまざまな複雑な方法や広い知識を覚えて、大量にたくさん解いていきます。
ですが、そのような高校の内容を学ぶためには高い知性が必要であるのに、そのような問題を解く学習をしたとしても、まったく意味がないのです。
覚えなければならない知識が広く、習得しなければならない方法やルールがたくさんあるために、簡単に問題を解くことはできず、教科書の内容を理解するだけでとても多くの時間と労力が必要です。
ですが、そのように頑張って問題を解いたところで、それによって自分にとってはなんの利益もなく、「無意味」なのです。
確かに受験に受かるためには、無意味だとかそんなことは言ってられません。そのために、大学に入ることができればそれでいいかのような、「実益重視」の勉強になってしまいます。だから、科学や歴史を学ぶと言っておいて、実際には科学や歴史のことなど最初からなんにも学ばず、ただ言葉や決まりの覚え方だけを詰め込んでいるような「中身のなんにもないスッカラカンの教育方法」がまかり通ってしまうのです。
結局、本当にそれでいいのか、ということすらわたしたちは考えていません。高校の教育とはそういうもので、大学に入ってから本当の賢い教育を行うのだと勘違いしています。
ですが、そのような大学に騙されて、高校の賢い青春の時代を無駄にし、大学では中学校レベルの高校よりも馬鹿な内容を学んで、金と労力と時間を無駄にし、人生を間違った方向に向かわせるようになってしまっているのです。
それでも、「自分はとても難しい勉強をして大学に入った」というプライドがあるため、問題は自分のせいではなく、大学や社会のせいであり、「低学歴よりも(なんの根拠もないが)自分は賢いのだ」という、高学歴の傲慢さを生み出してしまうのです。
はっきり言って、日本のそうした高等教育は間違っています。わたしたちは社会全体に騙されており、洗脳されているのです。
2023.05.04
ここまで、散々日本の教育を否定してきましたが、それでも肯定できるものがあります。
それは、「少年少女には夢がある」ということです。
夢を信じて努力することで、日本の中高生は、大人からは考えられないような、あり得ないほど巨大な努力を行うことができます。
大人たちは、どうしてもコストパフォーマンスや損得を考えてしまい、「できそうもないことは最初からしない」とか、「見合った成果が得られそうになければ努力しない」と考えてしまいます。
ですが、中高生のような少年少女は、そうではありません。
たとえそれが非現実的な努力であっても、少年少女たちはその努力を怠りません。「誰よりも努力しなければナンバーワンになることはできない」ということを、少年少女たちは知っているからです。
そのような、「夢を目指した結果どこまでも壁を乗り越えていく」という体験は、大人にはできません。大人でそれをやると、逆に完全に狂った人間になってしまうからです。
なので、まともな少年少女たちは、夢を追い続けるべきです。中学高校は、夢を目指す子供たちのためを考えた学校であってほしいと思います。
2023.05.04
学校の勉強が、なぜつまらないのか。その原因は文部科学省の役人の考え方にあると思います。
学校の教育で教える内容は、文部科学省の役人が決めています。役人は、教科書を教科書会社に作らせ、学習指導要領の通りに教師が勉強科目の内容を教えるようにしています。
ですが、役人には教育のセンスがありません。役人が考えている結果、日本の学校教育で教えられる内容は、非常につまらない内容になってしまっています。
また、役人が支配して決めているのは、学校教育だけではありません。言ってしまえば、日本で使われている「文書」のほとんどは、役人の文書の類であり、役人の決める延長線上にあると言えます。
このような役人は、日本のすべてを決めています。いわば、「日本で文書として分かることはすべて役人」であり、学校の教育を受けた結果分かることは、「役人はこの日本という国のことを良く分かっている」ということだけです。
ですが、それは「役人が正しい」ということは意味していません。宇宙から見れば、役人の考え方は全部嘘です。宇宙において本当に正しいのは、宗教や神の教えなのです。
実際、学校教育で大切な「身につけるべきこと」は、本当は科学の勉強ではありません。
科学の勉強よりも大切なことは、礼儀を守り、節度を持って、約束事を破らずに生きることです。
礼儀と節度は、生きる上での基本です。礼儀と節度がきちんとしている人間は、どんなことであってもきちんとできます。きちんと「生きるために必要な力」がつきます。
同時に、もうひとつ大切なのは、「強い意志」を持つことです。
強い意志を持って、諦めず、達成する最後まで意志を貫いて、継続して努力し続けることこそ、人生でもっとも大切な「学ぶべきこと」だと思います。
最近は、インターネットやSNS・ツイッターなどで、「軽くて緩いコミュニケーション」が増えていますが、コミュニケーションの形態が柔軟になったことはいいことだけではありません。人々は「礼儀」や「節度」を忘れ、「いいかげんに生きてもいいのだ」という自由を信じるようになってきています。
ですが、本来の日本人の精神というのは、礼儀を守り、節度を持ち、約束事を破らないという「礼節」にあったように思います。
礼儀と節度を今一度思い出すことで、わたしたちが忘れてしまった「倫理観」を思い出すことができます。
同時に、強い意志を持つことで、精神のおかしな病気が治ります。精神的な「子供に戻ってしまう」という病気は、意志を強く持とうとしないことに起因しています。
意志を強く持つことで、精神が治って正常な大人になります。同時に、どんなに苦しくても達成するまで「我慢する」という経験が、精神を良くし、賢い知性をつけることへと繋がります。
要するに、「ルールを守って我慢しろ」ということです。これに「礼儀」「節度」そして「強い意志」を加えましょう。これこそが、今こそ思い出すべき、日本人の理想の精神性だと思います。
知性をつけるための方法は、なんらかの達成したい目的があった時に、その目的を満たすための条件に基づいて、何をすれば正しいのか、何をすれば間違っているのかを考え、そこから法則性を見出すことです。
まず、「何をすれば正しいのか」「何をすれば間違っているのか」を考えましょう。
ですが、ここで「何をもって正しいとするのか」という判断基準を設定する必要があります。
この「正しい」とは、何かの達成したい目的を達成できるかどうか、ということです。これを「命題」と言います。
そして、この命題について、「正しい」「間違っている」を考えることで、それを「法則化」するような説明が見えてきます。この法則が「知性」です。
このように考えることで、さまざまなことについて、自ら数学的に考えることができます。そう、既にあなたは「哲学者」となっているのです。
このような方法で、確かな知性をつけることはできます。ですが、常に知性が必要とは限りません。
知性がないほうが知性がある、ということは、数学的証明からも言える真理です。
たとえば、善とは何か。それは多くの人が善だと信じていることです。
また、価値とは何か。それは多くの人が価値があると思うことです。
そして、どのような社会を築くべきか。それは、それぞれの集団が社会を築くべきであり、そこでは、その集団が正義や善だと考える方法に従って社会秩序を形成すべきです。
そして、そのような社会をどのように築くべきか。それは、それぞれの価値観に基づいて、それぞれのアイデンティティを実現することができるように、それぞれの自由な合意によって築くべきです。
このような考え方には、知性はありません。単に、それぞれは違うから答えは相対的に異なると言っているだけです。
ですが、このような知性のない考え方は、一般的かつ普遍的なものです。なぜなら、数学的証明とはそのような考え方だからです。
数学的証明は、当たり前のことを推論して考えます。そこに知性はありません。知性がなくても、どのようにすれば正しいのかということを、ロジックで考えることはできます。当然であると考える「それぞれは相対的に異なる」という原理から、すべて同じように考えればよいからです。
しかしながら、そのような考え方にはまったく知性はなく、単に「考えているのをやめているだけ」であると言えます。
では、真に知性ある考え方とはなんでしょうか。
それは、「何が善であるか」ということを、「神」から考えることです。
何が善であるか、ということを同じように知性なく考えれば、「それぞれが善だと思うこと」や「多くの人が善だと信じていること」になるでしょう。
ですが、神、キリストが、聖書において、既に「善とは何か」という答えを出しています。この「キリストこそが善である」という考え方は、本当は数学よりも知性があります。
数学では、数量的なことや、相対的に異なることの比較しかできません。「理屈において何が正しいのか」は分かりますが、「実際に何をするべきなのか」を知ることはできません。
実際に何をするべきなのかを考えるためには、キリストによる聖書の教えが必要です。
そう、本当は数学以上に、キリスト教には知性があるのです。
僕は、中学生時代、成績表がオールAでした。その理由は、授業を真面目に聞きながら、ノートを取り、そのノートを試験前に暗記して、試験対策をし、試験で90点ぐらいの成績をどの科目でも取っていたからです。
ですが、僕は中学三年で不登校になりました。いじめや剣道部の昇段試験に落ちたこともありますが、何よりも僕は、そのような試験勉強に「無意味さ」しか感じられませんでした。
教科書やノートの内容を暗記して、それをテストで答えるということの、どこに意味があるというのでしょうか。
それはまるで、「無意味なことを頑張りなさい」と教師が教え、子供たちはその無意味なことをしないべきであるにもかかわらず、無条件で無意味な勉強をすることのほうが、無意味なことをしないということよりも賢いのだ、と教え込んでいるようです。
学校のせいで、子供たちは、「無意味なことはしないべき」であるということが分からず、「無意味なことであってもするべきであるとされていることは最大限努力してするべき」であると勘違いしてしまいます。
これは、単に無意味なだけではなく、その子供の人生を狂わせるという意味において、絶対に一番悪いことだと思います。
同時に、どんなに無意味に見えても、最大限、絶対に失敗しないように、自分の気になったところや不安な点はすべて対策をせよと教え、それを守らないという選択を一切与えないのが、学校のおかしな勉強しろという教育方針だと思います。
まるで、「勉強しろという強迫観念」を持っているかのように、学校はそのような「無意味な暗記に基づく無意味な科目の学習」をさせるのです。
僕は、科学が大嫌いです。その理由は、科学を学ぶということは無意味なことを学ばせるということだからです。学校の数学の計算に、どこに意味があるというのでしょう。掛け算や割り算ならばまだしも、二次関数や三角関数や微積分を覚える意味がどこにあるのか僕には分かりません。学校は無意味なことを教え、そして「試験に受かるものだけが大学に行ける」という無意味な「受験勉強主義」を教え付けます。その結果大学に入ったとしても、大学は中学校で教えているのと同じように教えているだけです。はっきりいって、子供たちはみんな学校に騙されているのです。
学校は、本当はそれだけではありません。学校の教える論理的な知性は、人間の本来持っている自然な知性を奪っていきます。数学的に考えることは何も賢くありません。数学を学べば学ぶほど、本来自分の持っていた「普通のことが分かる知性」を失ってしまいます。その結果、大学の勉強をすべてし終えたとしても、何も分かることなく、「新しい当たり前の知識」が増えただけで、逆に普通の分かることすべてを分からなくなり、「知性のすべてを失った馬鹿な大人」になってしまうのです。
ただし、学校教育の中で経験する、「研究」という活動は間違っていません。自ら調査研究することはいいことです。高校などの高等教育の問題は、そのような十分な調査研究があれば分かるようなことを、十分な調査研究なく、授業と教科書だけで教えていることです。高校の科目は、十分な調査研究をすれば、どの科目も普通の人間であれば分かることですが、高校生はそのような調査研究をすることなく授業だけを聞いて、理解することができず、難しいと感じ、結果「暗記だけの勉強」に終始してしまいます。本当は、よりきちんとした調査研究をすれば、どのような子供であっても理科や社会の内容は理解できるはずです。そのような「勉強を行うための正しい方法」すら、学校での集団教育は理解できていないと言えるでしょう。
僕は、中学を不登校になった関係で、まともに高校には通いませんでした。
父親は僕を、不登校を経験した子供たちの集まる、専門の学校に入れてくれましたが、僕はこの学校に馴染めず、あまり通いませんでした。
馴染めなかった理由は、僕は不登校の子供でありながら、普通の不登校の子供とは少し違うような、「科学者的な引きこもり」だったからかもしれません。
何度も父親はこの学校に僕を連れて行ってくれましたが、僕はどうしてもこの学校を好きになれませんでした。
ですが、今考えると、この学校にもっと通っていればよかったのかもしれません。
その理由は、僕にはあまりに「本当の友達」と言えるような友達が居ないからです。
この高校のよい点は、自分と同じ境遇の子供たちと友達になれるということであり、実際、何度かこの高校に行った感触では、みんなは非常に親密な関係を築いていて、「みんな本当の仲間だ」と言えるような、そうした友達関係がありました。
僕は、高校にあまり行かなかったせいで、そのような「本当の友達」であると言えるような友達関係がありません。
今、僕が通っている作業所では、僕と同僚の方が一緒に作業をしていて、仲間のようなフレンドリーでアットホームな関係は一応ありますが、それでも、大人になってからそのような「本当の友達」であると言える関係を築くことは難しく、あくまで「同僚」といった立場で人々と接しています。
本当のことを言えば、僕は自ら孤独になり、社会から孤立することは、自分の望みではありませんでした。もう少し、親への反発や自由を渇望する感情を抑えて、高校に通っていればよかったのかもしれません。友人関係のまったくない34歳になって、そのようなことを思います。
以前より、僕は自分の経験から、「学校の勉強などしなくていい」と言ってきた。
学校に行くことで、生まれ持って分かっていた知性を奪われ、子供は賢くなるどころか馬鹿になってしまう。
だから、学校の勉強などせずに、自由に生きたほうがいいと、僕はかつてから主張してきた。
だが、自由を与えたところで、社会経験を何も知らない子供たちは、弱いものいじめしかできない。自由は、いじめへと直結してしまう。
だから、自由をなくすことは悪いことではない。
だが、自由をなくしてしまうと、子供たちは間違った教育を受けることを強制され、勉強を強いられてしまう。
だから、間違った教育を受けさせるべきではない。
だが、結局のところ、自由をなくすのであれば、「教育を強制的に受けさせる」という点は間違っていない。
間違っているのは、受けさせれる教育内容が「間違った教育」であるということだ。
すなわち、「間違った教育」ではなく、「正しい教育」を受けさせればいいのである。
子供たちには、間違った教育を受けさせるべきではないが、教育を受けさせないべきでもないし、自由にするべきでもない。
正しくは、不自由を受け入れた上で、正しい教育を受けさせてやることである。
よって、わたしたちは、正しい教育を子供たちに受けさせるために、「正しい教育とは何か」ということを考えなければならない。
子供たちを、学校という場所で強制的に勉強させるようにするからには、それだけの「正しい教育」を受けさせなければならない。
そして、残念ながら、今、学校教育が行っている、知識を詰め込んで、教科書を覚えさせて、試験を受けさせて、点数を競い合わせるような教育は、まず、第一に間違っていると言わざるを得ない。
子供たちは、すぐに忘れる教科書のキーワードと用語を強制的に覚え込まさせられることで、本来生まれ持っていた知性を失い、頭が馬鹿になってしまっている。
そのような間違った教育ではなく、本当の意味での正しい教育を、子供たちに与えなければならない。
だが、自由は間違っている。自由にすると、子供たちは何もできなくなる。社会に反抗するか、弱いものいじめをするか、どちらかになってしまう。
だから、子供たちから自由を奪うことは間違っていない。だが、間違った教育ではなく、正しい教育を受けさせてやるべきだ。
僕は、そのような「正しい教育」を追究し、探すために、このホームページを書いているのである。
そう、「正しい教育とは何か」という命題を、最後まで考え続けるべきである。
2023.02.09
僕は、はっきり言って、試験勉強が大嫌いです。
ですが、実際のところ、この世界は試験勉強であふれています。
試験勉強とは、「そのことがきちんと分かっているかどうかを問題の解答で確かめる」ということです。
ですが、試験勉強の目的自体は、「その子供がきちんと分かっているかどうかを確かめる」ということであり、そのために問題の解き方を考えるのだ、としても、実際の試験勉強は、「試験対策のために勉強をして、その時だけ覚え込む」ということになってしまっています。
結局、試験が終わってしまえば、その覚えたことは完全に忘れ去ってしまうのです。
僕は、このような、「試験が終われば忘れ去るだけの記憶力のテスト」は、間違っていると思います。
ですが、試験勉強は、この世界のどのような場所であっても存在します。
たとえば、資格試験であったり、大学に入るための入学試験であったり、英会話教室のレベルアップであったり、就職のための試験であったり、さまざまなところに「試験」が存在します。
ですが、忘れてはならないのは、「試験に受かるだけが勉強ではない」と考えることです。
勉強や教育の目的は、試験に受かることだけではありません。知らないことを知るということ、大人としての常識的な教養をつけるということは、決して試験に受かるということだけではないはずです。
試験勉強を否定した上で、自ら経験したことからこの世界を本質的に考えれば、「哲学者」になることすらできるでしょう。
そう、試験勉強が世界にあふれているからこそ、「勉強は試験勉強だけではない」ということを、肝に銘じる必要があるのです。
2023.03.18
僕が中学校を不登校になった理由は、いじめとか、剣道部の昇段試験に落ちたとか、PerlやUNIXの勉強をする時間が欲しかったとか、いろいろとあることはあるが、それらは本当は重要じゃない。
僕は、中学校の試験勉強中心の勉強に違和感を覚えて、「違う」と思った。
中学高校の試験勉強では、教科書の単語やキーワードを覚えて、試験では問題の解答としてその言葉を記憶から思い出し、試験が終われば忘れてしまうような勉強をしている。
僕は、そのような中学高校の勉強が、はっきり言って「間違っている」と思った。
僕の勉強の理想とするスタイルは、そのような中学高校の勉強とは違っていた。
不登校になった僕は、家でLinuxやIT技術のことを学びながら、インターネットを見て、ひとり哲学的な思考を重ねることで、ある意味では「哲学少年」のようになった。
だが、そのような少年時代の僕のスタイルも、僕の理想とは言えなかった。
僕は、長い間、どのような勉強が理想であるか、ということが分からなかった。
だが、文章を書くようになって、自分の分かったことや考えたことすべてを書き記すようになって、僕は「みんなとはまったく異なる正しい勉強のスタイル」を身につけることに成功した。
さまざまな本を読みながら、自分の考えたことや発見したことをホームページに記すことで、自分の分かったことがすべて残る。そのため、考えて新しいことを発想したり発見したりすることに対して、よい意味での「モチベーション」を保つことができる。
執筆作業のすべてが正しいわけではないが、問題は修正し、明らかに間違った内容をたまに書き直すことで、僕は誰よりも宇宙のすべてを知ることができた。
ここまでできた結果言えることは、中学高校で勉強しなくてよかったということだ。
中学勉強で、単語を試験のために覚える勉強をして、そのために腐った知性になって、科学そのものを嫌いにならなくて本当によかった。
僕は中学高校には行かなかったが、それでも自分なりに素晴らしい勉強をし、その成果を生み出すことができて、とても誇りに思っているし、自慢にしてもいいことだと信じている。
だから、中学高校の勉強のスタイルが自分にとって正しいと思えない人には、ぜひ、僕と同じ道を歩んでほしい。
僕と同じ道を歩むことが可能であるということは、歴代の哲学者や思想家が証明している。デカルトやカントやヘーゲルやブッダのような存在が、「僕と同じ道は僕にしか歩めないものではなく、誰であっても歩めるものである」ということをこの世界で実証している。
だから、中学高校の勉強などする必要はない。どうでもいい試験勉強のための知識偏重教育で腐るよりも、宇宙にはもっと素晴らしい世界があるということを知ってほしい。中学高校の勉強など、しなくていい。
2023.05.04
なぜ、このように、学校教育はいつまでも腐った状態を続けるのか。
それは、日本が何もできない社会だからだ。
政治家や役人のような、年を取った権力者は、自らの保身のことを考え、敵が生まれないようにするために、学校教育の抜本的改革をしようとしない。
したとしても、「日本の教育レベルを向上させる」ということばかりで、学校の教育システムや学歴社会そのものを変えようとする政治家はひとりも生まれない。
誰も社会を改革しようとしないのだから、それによって社会が改革されるはずがない。
そのため、なんの罪もない子供たちが、日本の学歴社会に騙されたまま、なんにも変わらないまま、試験勉強中心の知識偏重教育はいつまでも変わらない。
日本は、そのような、「何もできない」という社会をよく作りあげる。
たとえば、温暖化対策であっても、産業と金を儲けることを重視する日本は、産業や経済を阻害しない範囲でしかエコ政策をすることができず、自動車をなくすような根本的な解決は絶対にできない。
政治以外の側面では、野球というかつて娯楽の選択肢が少なかった時代のスポーツがいつまでも日本の中心スポーツとなってしまい、サッカーのようなスポーツはいつまでも流行らない。
結局、日本のような社会では、どんなに変えてほしいとみんなが思っていても絶対に社会は変わらない。
簡単に言えば、日本は首相が何もしないだけの実質的社会主義国であり、首相が何もしないから成功しただけで、民主主義的な改革などは生まれず、選挙などはする前から自民党が勝つことが分かっていて、実権を持っているのは政治家ではなく役人であり、役人は最悪の社会のまま何も変えようとしないだけを維持している。
そう、日本で生きるということは、最初から人生を無駄にすることに等しい。日本社会で生きるということは、最初から無意味な人生を生きるということを強制的に選ばされたということ意味しているのである。
2023.05.04