社会を作りなさい。社会を作る方法を学びなさい。
社会とは受け入れるしかないものではなく、自らの手で作るものである。
同じ環境で、同じ状況に置かれたら、人間は同じことをする。これは、「行動学的な人間と行動の同一性」だと言える。いじめっ子と同じ立場に置かれたら、誰でもいじめっ子になる。問題を解決するには、環境自体を変えなければならない。人々がいじめをするような環境や状況を与えないようにし、「社会が子供たちにいじめをさせているのだ」ということを考えないといけない。
血を治すには、血管を修復した上で血液を流すこと。同時に、不純物を肝臓で分解すること。また、疲れを取ることである。
単に物理現象を考えるだけではなく、物理現象や物理法則をどのように使うことができるか、ということを考えると良いだろう。
それがそうなる、というだけではなく、そうなるということは何ができるということを意味しているのかを考える。
それによって何が得られるか、それがそうなる理由は何か、何によってそれができるのか、それができることは、何をできるということを意味しているのか、ということを、法則と方法から考えられる。
そこから、物理学的なことや工学的なことだけではなく、社会的なことや心理的なことも見えてくる。それがそうできる、それがそのようにふるまう、ということから、その裏にある法則は何かが見えてくる。それがそうできる、ということがなぜできるのかを解明することで、別の可能性ややり方も見えてくる。「それはそうできるか、別にそうもできる」ということが分かる。
社会を自由にするためにはどのようにすれば良いのかを考えなさい。
エントロピー増大の法則により、外部から力を加えない限り、自然に放っておくと、この世界の乱雑さや不規則性、すなわちエントロピーは常に増大し、放っておいても減少することがない。エントロピーを減少させるためには、外部から何らかの力を加えなければならない。
僕は、今の日本社会は、エントロピーの増加のしすぎではないかと思う。資本主義は金によってさまざまなものを作り出せるようになり、人々はどんどん乱雑になって散らばって不規則性が増えている。インターネットはどんどんエントロピーが増加してカオスになっている。
エントロピーを減少させ、正常で整然とした社会を取り戻すためには、自然に放っておくと絶対に元に戻らない。だから、何らかの手段でエントロピーが減少するように、人間がこの世界を支配して治さなければいけない。
まさに、この世界の新しい統治者が必要である。そして、それは僕である。僕はこの世界を整然とするために、エントロピーを減少させ、正しい社会を作る。今の時代、国家や戦争など流行らない。ひとつの正しい価値観とルールの下にこの世界を支配し、単純な権力組織の下であらゆることを統合・統一してやるようにすれば、エントロピーの増加しすぎたこの社会のエントロピーを減少させることができる。
「何が何を意味しているか」ということを考えなさい。何がそうであることが、別の何かを同時に意味していることがあるからです。意味と行動を考えることで、「どのような時にどんな意味が成り立つか」ということが見えてきます。この世界における一人の「弁術家」になることができるでしょう。
昔は、自ら作った構造だけで、この世界の全てが分かった。それは経験主義的な哲学の構造だった。そして、その後は、その構造を最初から全て作り直し、文章に記述した。自分は、その時の知性で今でも分かっている。
地獄を耐えている人間は、拒絶して耐え続けるのではなく、受け入れなさい。耐えることと、受け入れることは、全く逆のことである。自分から自分を地獄にして、その地獄を耐えているから辛いのである。耐え続ける、ということは、心のどこかで拒否しているからである。本当の意味で受け入れれば、辛さも苦しさも一瞬で全て無くなる。
ある環境の中では共通認識としてみんなが当たり前だと思っていたり、狭い世界では自分もみんなもそれが普通で当然のことだと思っていたことが、環境の外に出て、もっと広い世界に旅立つと、違っていることがある。
昔の僕は、不登校を経験して、掲示板とLinuxの世界を知って、そういうことが分かった。
自分の限界を決めていたのは自分であり、人々が悩み苦しんでいるのは、自分で自分の世界を狭くしているからであり、他の世界では自分の思っていたことが違っている、ということを知ることで、もっと別の可能性と、自分の運命を自分で決められる「自己啓発」の境地に達する。
また、環境の違いというのは、絶対的なものではなく、相対的なものである。たとえば、学校でこんなことがあってへこたれていたとして、それを剣道部のみんなと出会った時、ふてぶてしい顔をしていると、「なんでこいつこんなに怒っているのだろう」と思われて、けげんな顔をされる。このように、ある環境でこんなことがあったから、それが別の環境に移って、別の環境では「自然かつ必然的に」そのようなみんなの視点で見られてしまう。
「それぞれの時間と空間は相対的であり、環境への適応と人生はそれぞれの時間軸の中にある」というのが、この「環境によって見られ方が変わる」という哲学である。
「環境」という言葉が悪いなら、新しい言葉を作ろう。自分の中の「自己内環境」というのがあったとして、この自己内環境は人それぞれ違う。人は誰もが自己内環境に従って生きているが、「現実環境」の中でさまざまな環境を移り変わったり、別の自己内環境や現実環境を持つ人々と接することで、「自己内環境に帰依する違和感と勘違い」がそこに生まれる。それが、「すれ違い」である。
そのように考えれば、この世界の全てはすっきりと理解できる。同時に、この社会がどのような視点で営みを生きているのかが分かる。全ての歴史は自然かつ必然であり、誰かが不当に支配したわけでも、強制的に導いたわけでもない。あるべきこと、あるはずだったことの全てが起きた結果、それが地球という星の歴史なのである。
また、精神の病気になった時は、辛く苦しいと思って耐えるよりも、全てのことを受け入れること。そうすれば、辛い中でも頭と心が楽になって、聡明な平穏さを取り戻せる。それで、精神病は全て治るはずだ。
そもそも、いじめがなぜ起きるのかというと、そういう自己内環境と現実環境に問題がある。自分があまりにおかしく見えるのが、本人が気づいていないからいじめられている。本当は、ただ馬鹿にされているだけで、そんなに深刻に考えなくて良い。自分の力で新しい世界に旅立てば、世界の新しい可能性も分かるし、自分でこの世界を変えられるようになるからである。
自分の知った「新しい体験」から、この世界の全てを思い出すことで分かってしまえば、この宇宙の真理はそれで終わりである。この宇宙に他に真理はひとつも存在しない。あるとしたら、「環境や束縛や限界から自由になること」と言える。「世界の限界」というものがここにあり、世界の限界を超えていくことで、この世界全ての限界を超えられる。そこにあるのは、ウィトゲンシュタインやニーチェのような「超人」の哲学である。だが、僕が思うに、そんな異常者にならない方が良い。そういう異常者ばかり分かっていると、今度は人間の「ふつう」が分からなくなる。ふつうが分からなくなった人間には、どんな言葉をかけても治らない。そういう人間は、最後までこの世界と戦うようになる。
また、昔の自分は、「自由になる」ということから分かっていた。これには、以下の意味がある。
1.まず、能力的な自由。これは教育やリベラルアーツや権力への意志に繋がる考え方で、「環境を自由自在に変えられるようになる」とか、「心理学的に人々の心の可能性を変えられる」という意味がある。
2.次に、束縛から解放される自由。支配が無くなり、社会が自由になることで、社会はそれぞれの意志によるコントロールを取り戻す。これは所有の自由や選択の自由、職業選択の自由だけではなく、世間一般、あらゆる束縛や支配から自由になって解放されることを指す。
3.最後に、環境の自由。「自らが自由にできるのであれば、反抗せず自分たちの自由に社会を築く」という「人間の本性的な自由」から、「環境が所属する人間たちによってコントロールされ、自由を許される」という意味を持っている。
4.もうひとつあるとしたら、「歴史全体の自由」である。歴史のさまざまな場面で生まれた全ての成果やプロセスは、全てが自然であると同時に、全てが「その人々が考える上では正しかった」ということであり、同時に、「もし正しくなかったとしたら、今の僕たちの生活や現代政府の政策も間違っている」、すなわち「正しいことなど何もないが、その場面や状況で正しかったことは正しい」ということである。
これらの自由から導かれる答え、それは人類愛である。「みんな全員、正しいことをやっている」中で、「人々が不安に思うのは、誰からも分かってもらえないから」であり、「誰かが分かってあげる必要がある」のであり、「誰かに愛され、真実と真理を教えてもらえれば、地球の全ての問題は矛盾なく解決する」のである。まさにインドが言うように、「真理はおのずと勝利する」。どんなに自分たちの側が劣勢になっても、真理を唱え続ければ必ず勝てる。
これ以外にも、さまざまな自由があり、その多くは「経験と能力から形作られる自我や人格の形成の問題」である。人々の分かっていないことを自分だけが分かる体験は、それ即ち「成長」と「自我の発達」を生み出す。これが「意識の変転」に繋がって、「リアリティに基づくアイデンティティの形成」となり、「自分の中に正しくアイデンティティが形成される」。この上で、「このアイデンティティは人類全ての存在にとって共通の普遍的な価値観」となり、そこから、「冷静かつ速断を避けた上での正しい考え方」が生まれ、同時に、「全てのことはリベラルな教育科目のように、自らの義務ではなく権利として、自由の中で自在にできるようになる」。そして、「社会は自らのインターネットの経験から変えられるようになる」のである。
また、さらに言えることがあったとしたら、「社会の形成の過程を見なさい」ということ。ネットでも学校でも会社でも良いから、自分の好きなことが言えて、みんなと対等な立場で参加し、意見し、議論することのできる社会を持つこと。その社会に根差した愛を知った上で、今度は自分でこの世界を変えようと努力すること。心理学的な経験や成長も、そうした「自由な体験」の中から生まれていく。全てのことを知るためには、自分で創造する必要もあるが、この世界に既にあるものから知っていくのも悪くない。ネットにはWindowsの他オープンソースなどさまざまな技術がある。
こうした人間は、最近たくさん生まれていて、多くが途中で過ちを犯して地獄になるが、僕は最後にそうした地獄を浄化する。地獄そのものを受け入れようとしなさい。そもそも、人間に正常な体験などひとつもない。全てが異常な体験に根差して生きるのが人間の性(さが)である。性には逆らえない。だから、どんなに異常な学習をしても、それを決して自分の力で治そうとしないこと。なぜなら、治すことに囚われる体験のことを、人は異常者と呼ぶからである。それで、今日のところは終わりにしておこう。
子供たちを愛するのであれば、決して自分の方が子供たちよりも賢いのだと思わないこと。子供たちは馬鹿ではない。大人はすぐに馬鹿になる。子供を大人と同じように、自分の考えや生き方を強制しないこと。子供には子供の考え方や生き方がある。だからといって、子供たちのSOSを見逃さないこと。子供たちに危険が迫っていれば、すぐに察知してそれを排除すること。そのようにしなければ、子供は賢い大人にならない。子供が成功を望むなら、成功させてやれば良いし、子供が失敗の克服や挑戦を望むならそうしてやれば良い。最初から大人が「チャレンジしなさい」と言うと、子供は反発する。そのように育てるから、子供には反抗期が生まれるのである。
ただし、もうひとつ言っておくと、子供に自主性を与えれば良いと言うのではない。くどいようだが、子供が間違った自主性を選ぼうとしている時は、それを制止してやらなければいけない。だが、子供が悪くない自主性を持っているのであれば、それを親の権限で失わさせない方が良いかもしれない。だが、そもそも、あなたの教育方針が自由であれ、平等であれ、それを僕が干渉する立場にはない。そもそも、僕は助言やアドバイスをするのが好きだが、その結果人々を支配することもあり、その支配によって整然とした社会になって、自らの夢も叶った経緯がある。子供にアドバイスや助言が必要であれば、あなたも積極的にアドバイスや助言をしなければならない。そう、それも親の責任である。それがきっと、新しい指導者を生み出し、日本を正常にしてくれる。何でもかんでも子供の言うとおりやっていれば、女の子は馬鹿な不良のギャルに、男の子はやくざのニートになってしまうだろう。
僕の人生の大きなテーマが「自主性」である。自主性をどこまで与えるか、というのは僕の長年の疑問だった。だが、絶対権力者にならない程度の指導者が良いように思う。神のようになってしまうと、逆に責任と恐怖から何もできなくなってしまう。ただし、僕は子供にどの程度の自主性を与えるか、ということで言えば、「好きなことをさせるべき」であると同時に、「辛くなってもやり続ける」ことが大切であると思う。ただし、それはひとつの大きな前提があり、それは「ある程度自分できちんと分かるぐらいの自分なりの体験」をさせることで、「自分できちんと判断できる判断力が形成される」ということが言える。そのような教育を行えば、どんなに科目が少なくても、自分なりに自分で想像力と経験を作って歩んでいける。僕はそうした発想が好きである。
また、昔の自分は、「環境の変化を許す」という発想が多かった。環境の変化を許すことで、世界が変わるようにしたかった。だが、僕はあえて言おう。「これ以上、変化する必要はない」。これ以上、この世界はもう何一つ変化しなくて良い。安定の中で、人々がこの世界を見つめ直すべきである。そのために、僕は変化を停止させ、その上で楽と余裕を与える。みんな、自由になって、自分の好きなことの方に時間的余裕を費やすことができるようになる。そして、これで僕の「終末の主催者」はほとんど終わりである。あとは、まだまだ続く。これ以降、さまざまなもっと高い世界がある。そこに行くためには、僕だけの力では不十分である。みんなが居なければ、新しい世界は成り立たない。