教育の世界観(1.基本)です。
僕は、中学生時代、不登校になるまでは優秀な生徒でした。成績表はほとんどオールAでした。
勉強と試験のコツは、まさしく「覚える」ことですが、勉強をきちんとしたいのであれば、「ノートをきちんととる」ことと、「忘れていないかどうかの入念な確認をする」ことをおすすめします。
まず、ノートをきちんととる、ということが大切です。先生の授業を聞いて、遊んでいたのではいけません。きちんと黒板に書かれたすべてのことをノートに取りましょう。もし、なんらかの理由で取れなかった時は、友達に頼むなどしてノートを写させてもらいましょう。
そして、テスト前には、書き写したノートや教科書を、白紙のノートに書き写す(地図が必要な時は白地図を使う)か、あるいは緑のマークペンで重要な単語を隠し、それを赤シートで見えないようにして言葉を覚えているかどうかを確かめる「言葉クイズ」が有効です。
言ってしまえば、中学校の授業というのは、数学を除けば、「覚えているかどうかを試すクイズ」であり、「きちんと覚えていることが確かであればどんな問題に対しても答える」ことができます。
ですので、テスト範囲を何度もチェックして、きちんと覚えているかどうかを確認するのです。忘れている点だけを覚え直せば、すべて簡単に覚えられます。これが、万能の試験対策です。
ですが、数学などの実技試験については、この限りではありません。数学は「覚えているかどうかの記憶」だけではなく、「きちんと正解を導き出せるかどうかの技」が必要です。
しかしながら、中学校ぐらいのレベルであれば、教科書の内容をきちんと理解し、覚えていれば、誰でも解くことができます。まったく分からないのであれば話は別ですが、僕のようなテレビゲーム世代のゲームオタクは、因数分解のような「思考力が必要な演習」は、ゲームと同じように解けます。すなわち、「ルール」を知っていれば、そのルール通りに考えて、パズルのように「考えるべき部分だけを考える」ようにすれば解けます。そのために必要なのは、日頃の授業で「よく理解していること」です。きちんと日頃の授業で中学校の数学を理解していれば、それ以上はありません。
僕は、不登校になったため高校には通っていませんが、チャート式の参考書を使って高校数学の内容は解いたことがあります。すべての高校数学の内容を勉強はしませんでしたが、基本的なものについては、中学数学の知性だけで、高校数学についても解くことができるでしょう。公式をたくさん覚えるのは、そんなに難しいことではないと思います。
僕は、よく歴史を知らないので、間違ったことを言っているかもしれませんが、今のような「受験競争」「学歴社会」は、ある意味で初代総理大臣伊藤博文の影響があると思います。
江戸時代以前、日本は封建社会でした。親の仕事を継ぐのが当たり前であり、士族でなければ政治や政府の公務に関わったりすることはできませんでした。
しかしながら、明治維新で文明開化した日本は平等になりました。初代総理大臣伊藤博文は、「勉強をして試験を受ければ、どんな身分にもかかわらず、平民であっても公務員になれる」ようにしたのです。(官吏制度と呼ばれます。)
このような政治体制は、日本にだけ見られるものではありません。中国では、試験制度によって官僚になることができることができる制度が古くからありました。
そのようなさまざまな政治の「平等政策」により、身分は平等になりました。これは良いことです。
しかしながら、歴史を知らない僕が勝手に思うことですが、そのような「試験の平等」が、今の義務教育を必ず受けさせなければならず、高校で受験勉強をし、大学に入らなければ良い仕事に就くことのできない「学歴社会」を生み出したような気がするのです。
僕は、学歴社会よりももっと優れた、試験や勉強だけではない「もっといい方法による人の比べ方・計り方」をしなければならないと思います。僕が中学校三年で不登校になったのも、そのような「学歴社会への反発」があったからです。僕は、学校の試験やテストはできる方でした。それでも、友達の少なかった僕はネットゲームにはまり込み、学校の試験に意義を見失いました。学校の試験は「覚えるだけ」です。社会秩序を形成する上で、まったく、正しい人の計り方ではないと思います。
日本史(帝国の時代)も参照のこと。
僕が思う正しい教育とは、暗記や試験を中心とする、「あるものを網羅的に全部覚えて忘れる教育」ではありません。
たとえば、一流の教授によって教わった説明で分かった学生が、その授業で人生が代わり、一生涯その説明の内容を忘れることがないように、僕はきちんとした説明をすれば、子供は暗記や試験勉強をしなくても、その教育の内容を一生涯忘れないであろうと考えます。
たとえば、ロシアにおける地理的な農業の分布図など、覚えてなんの意味があるでしょうか。イギリスにおける大都市の名前などを、いつまでも覚えていることを目指したところで、それが実を結ぶとは考えられません。
そうではなく、一生涯において忘れない学問の内容とは、「理論と考え方に裏付けられ、概念と本質を貫くような、きちんとそれが分かる前提の知識を教えること」ではないでしょうか。
たとえば、Linuxカーネルの開発者であるリーナス・トーバルズは、MINIX本(オペレーティングシステム 設計と理論およびMINIXによる実装)と呼ばれるOSカーネルの理論と実装の本を読んで学習し、その内容に基づいて一流のカーネル(の土台となったもの)を開発することに成功しました。
僕は、そのように、きちんとした一流の理論とその説明を教えれば、子供は暗記や試験をしなくても、その内容を忘れることはないと考えます。
また、僕は数学が嫌いです。数学は、当然かつ当たり前のことを詰め込むせいで、瞬時にその当然の正しいことを考えるようになり、「同じこと」しか分からなくなって、それ以外のさまざまな未知なる可能性を検討せず、選択肢から排除するようになります。
理想の教育とは、そのような「正しいこと以外を排除する」ものではあってはなりません。逆です。「間違っているかもしれないことであっても、簡単に答えを速断(すぐに答えを出すこと)せず、自らの力で考えることで、正しいか間違っているかを検討する勇気を持つ」ものでなければならないのです。
僕は、今の学校教育の矛盾を、「軍国教育の中で平和教育をやっている」という矛盾、「戦国時代から続く戦いの遺伝子を持つ子供たちに壁を作らず平等に仲良くやれと強制する」という矛盾、そして「自由を平和であると教わるせいで、自分たちの学校環境において自由な勢力争いをする」という矛盾、その結果、「良い学校だけではなく悪い学校が生まれ、悪い学校が標準となっていく」という矛盾にあると考えます。
このような矛盾の結果、子供たちは平和であると騙されて画一的な工場的システムに基づく教育を受け、自らの「遺伝子」と学校が求める「理想の生徒像」の矛盾に戸惑い、悪の学校がどの学校でも標準となって、勢力争いの中でいじめや壁を作ることによって不幸な学校生活を生きています。
僕は、そうした学校教育を改善するために、より思想的なことを教えるべきだと考えます。すなわち、古代ギリシャ、古代ローマ、インド、中国、イスラエル、ドイツといった、この世界に存在する各種の思想や文化を教えることで、科学教育、特に「数学」というこの世界の「諸悪の根源」ではない教育を行うことができると考えます。
これらを実現する方法は、民主主義を信じないことです。民主主義は間違った教育のモデルです。正しいのは皇帝による帝国主義です。ですが、軍国教育は正しくありません。「日本の兵隊の精神は素晴らしいのだからあなたがたも戦って国のために死になさい」という考え方は、「もう片方の反対側の極」であり、これも間違っています。正しいのは、「この世界においてひとり、王として生きるにはどのようなことを学ぶべきか」という教育です。今の学校教育は、研究者や労働者、すなわち「奴隷」となるための教育です。これは間違っています。「ひとり、この世界で王になるための正しい教育」、これこそが正しい教育思想であるとわたしは考えます。
主に、幼稚園、小学校、中学校、高等学校、そして大学・大学院とありますが、専門学校のような特殊な学校もあります。
結婚・子育ても参照のこと。
自分の書いた「エリカの技術・芸術日記」2021/10/02より。
学校は間違っていない。学校は普通の人間のためによく出来ている。
数学や理科の得意な頭のいい子供は、定期試験と受験をして頭のよさを競い、自分の解決したい問題から選んだ大学の学部で専攻を学べばいいようになっている。
勉強に興味はないが、美術や音楽の科目が得意で、芸術活動が好きな子供は、文化系の部活に入って、学びたいことややりたいことができるようになっている。
勉強も芸術もできないが、運動神経のある子供は、自分の好きなスポーツを選んで、体育会系の部活で大会で勝つために練習をし続ければ、楽しい。
そして、大人としての一般的な教養や生活スキルを習得するために、授業を受けることができる。この世界において「知りたい」という子供の好奇心を満たすために、学校の先生と呼ばれる職業がある。
このように、学校制度は良く出来ている。「頭のいい子供」「芸術性のある子供」「スポーツがしたい子供」がきちんとそれぞれの望みを叶えながら、「知りたい」とか「生活に必要な常識やスキル」を得られる。これが日本の学校制度である。
日本の大学では、専門や専攻を決めて勉強するやり方を取ることが多いが、少しずつ「リベラルアーツ」という考え方がアメリカなどの大学の影響で広まり始めている。
リベラルアーツとは、「知によって自由になる」という意味で、要するに総合的な教養学部だと思えば良い。高校のように、さまざまな分野の専門科目を横断的に学ぶ。
本当は日本の大学でも、1・2年生の授業は教養学部としてたくさんの分野を総合的に学ぶ学生はたくさん居る。3・4年生になった段階で、専門的な分野を学習する学生が多い。
そうした教養学部のことを海外ではリベラルアーツと呼ぶ。日本の大学でも、これまでの「専門バカ」のような教育だけではなく、リベラルアーツによって、「専門や職種が変わったり、プログラマのように時代とともに変わっていく中における、変わらない普遍的な教養」を教えることを目指している。たとえば、MITでは一見エンジニアとは関係ないような音楽やピアノの授業を受けさせたりする。その方が、長期的に見てIT企業の職種に役に立つという考え方である。日本の大学では、こうした考え方はまだまだ少ない。
近年、大学教育ではリベラルアーツということがよく言われる。これは、知識や知性を「経験的な力」であるとし、知ることや知識を与えることで、「リベラルな知識・教養・芸術」として「自由」になる、という、まさに「知は力だ」とする考え方である。イギリス経験論の哲学者ベーコンは「知は力だ」と言ったが、それと重なる考え方である。リベラルアーツでは、高校や大学の教養学部のように、広くさまざまな領域の基礎的な知識を本活的に学ぶ。
だが、僕は、こうしたリベラルアーツに対して、「準備段階」が必要だと思う。
それは、たとえば、知らない方が幸せであるということは確かにあって、この世界における知識の領域というのは多いように見えて少なく、知れば知るほど、知るまでの純粋な考え方や知性を失ってしまうからである。
そして、子供たちの準備段階として必要なのは、多くの場合「新しい世界を知ること」であり、「友人たちと絆を培うこと」でもあるが、僕はそれに加えて、「オープン」が大切だと思う。人々を自由に受け入れ、感受性で受容し、参加を許し、自由な行動や活動を許すことで、人々は「社会においてどんなことができるのか」ということを、「実地的に知る」ことができる。
また、楽しい活動をすれば良い、というだけではなく、「思考や思索から成長して、自分の力の範囲を拡大していくこと」から生まれる、「思考と力」という発想が必要だと思う。そして、これを突き詰めることで、ヘーゲルが精神現象学の中で論じたような、「人の正常な発達過程」というものが分かる。
僕の言いたいことは、そうした「自分の経験から来るリベラルアーツが大切」だということ。これを身に着けるためには、社会の変化の実際と機会やチャンスでどのように社会を変えられるのか、という、新しい「自分だけの自由な社会変革論」という発想が必要ではないかと思う。子供は、「それがそうなって、そうなればどうなるか」という「作用の連鎖」を考える人間が多いが、これをもっと実地的に原理を解明し、応用していくことで、子供は自然にこの世界の環境の可能性を知る。そこでは、何がどうなるかから、応用的にどのようにすればどのようにできるのかが分かり、真理のモデルが次から次へと分かっていき、自分の力は自分の環境から世界全体へと拡大していく。サルトルの言うように、自由は保留され、客体化され、集団化していく。これこそ、本当の「知の力」であり、本当のリベラルアーツである。
そう、必要なのは、「社会に出たら何ができるのか」ということを教えること。そのためには、ありのままのこの世界をオープンに見せて、その上で考えるための材料となるさまざまな素材を与えれば良い。そして、その上でリベラルな知識を与えることで、人間は全てを自分の居場所から知ることができる。あるいは、本当は辛い戦いのようなことをさせても良い。それで、分かることもたくさんある。だが、それは学校というよりも、もっと別の、政府や宗教のやるべきことである。大学ではできないそうした「勇敢な戦い」をすると、人間は未知なる多くのことが分かるようになる。
人はそんなに簡単に分かりあえるものではない。自分の分かったことを全て書き出しても、相手には50%も伝わらない。だから、最終的には、自分で生きた結果を自分で反省し、自分だけが考え続けるしかない。大人にはそういう人間が多い。だから、大人は、学校を失っても、一度再起不能になっても、何度でも立ち上がれる。別れの哀しみを知っているから、自分のチャンスとリスクを信じられる。そうした大人こそ、育てるべき人材である。
僕は、今の時代、必ずしも学校は必要なくなってきているのではないかと思います。その理由は、「インターネットがあるから」です。
わざわざ学校で20年もかけて強制的に学ばなくても、インターネットを使うことで、自由に自分の知りたいことだけ、知ることができるのです。
確かに、知的格差の問題はあるかもしれません。インターネットを見る子供と見ない子供で、教育格差が生まれるでしょう。
ですが、今の学校というのは、試験勉強とテスト、そして受験教育で、子供も教育者も疲弊しています。インターネットを上手く取り入れることで、彼らを自由にできないでしょうか。
「ゆとり世代」という言葉が言われて久しいですが、ゆとり教育のそもそもの目的は、「自由に思索する時間」を子供たちが得られるようにすることであり、これは自由なインターネットと親和性が高いと思います。
僕は、文部科学省の直轄で「IT教育庁」を作って、インターネット上に「日本ペディア」を作ってはどうかと思います。
Wikipediaと同種のサービスですが、IT教育庁の管理の下に、パブリックドメインで、大学の知識を「子供たちにも分かりやすいように」段階的に掲載します。これが、小中学校の代わりを務めます。
また、日本ペディアはパブリックドメインでコンテンツを公開します。これにより、日本のインターネットユーザーは、自分のホームページやブログに日本ペディアの情報を転載することができます。
Wikiも参照のこと。
僕は、ゆとり教育という日本の過去の教育政策は間違っていたと思います。特に、「円周率の3.14を3にしろ」はありえないだけです。
ですが、僕は大人がゆとり教育を批判するのは、その裏に右傾化と軍靴の足音が聞こえるような気がしてなりません。
確かに、行き過ぎた平等は間違っています。たとえば、「運動会の徒競走、みんなで並んでゴールイン」などは最たる左翼の間違いです。
ですが、学校教育の知識偏重が間違っている、ということは僕は正しいと思うのです。
そして、どんなに辛くても、覚えて、勉強して、正しい答えを考えなさい、という「工場的な教育」は、完全に軍国教育へと繋がっていく、間違いだと思います。
ただし、僕は辛く苦しい教育全てを否定するわけではありません。子供に辛い体験を乗り越えられるような教育を行うことは、子供の成長に繋がります。
ですが、僕は「子供の自由」を尊重したいのです。自分の意志で、学び、知り、研究し、自分の力で考え、そして自然に「出立」して、自分の力でこの世界を支配できる王のような、そういう人間を排出しなければいけません。
ただし、今の教育のレベルは、以前よりはるかに低くなっています。以前では、大学では入った段階でドイツ語やフランス語を理解できるのは当たり前で、大学に入ればすぐにドイツ語の講義を聞いていました。そんなに昔の話ではなく、戦前の普通の大学がそうでした。ドイツ語が分からない人間は、自分の力で、講義とは別に自分で学びました。昔の戦前の大学を出た人間は、そうした高い教育を受けていたのです。今の大学では、大学に入ってすら、「can」や「will」などの基本の単語を学んでいるのです。そうでなければ、大学の教育ができなくなっているのです。
よって、ゆとり教育は間違っています。ですが、自分なりに自分の力で学ぶ、という「教育の自由」を、僕は失ってほしくありません。戦中の軍国教育では、学校は学ぶ場所ではなく、竹やりを持って戦う練習をする場所になっていました。大学では兵器を作っていました。そんな世界では、自由に学ぶことはできません。
僕は、学校が嫌いです。それは、学校は子供をロボットにしているだけではなく、退化させているからです。
学校は、子供に知識を詰め込み、数学などの問題を解かせますが、これによって子供は賢くなりません。
このような「訓練式の教育」は、子供の純粋な知性を奪い、退化させているのです。
僕は、もし、自分が学校教育を行うのであれば、今のような試験勉強によるテスト型の訓練式教育はしません。
僕は、子供に自由な教育を与えたいと思います。子供の自由な時間や学びの機会を奪うことなく、子供が自ら主体的に学ぶような教育が必要だと思います。
また、僕はパソコンやインターネット、テレビゲームなどが嫌いです。こうしたIT技術は、子供も大人も全員をどんどん退化させています。
このような退化に打ち勝つためには、自らが退化しているのだときちんと認識することです。自らが退化しているのだと認識すれば、退化は治るからです。
僕は、親が教師だったこともあって、教師の仕事がハードワークであったことを良く知っています。
プリント作成やテストの採点のような仕事は、学校でやることが多すぎで、学校に居る時間帯にはできません。家に持ち帰って残業をする、いわゆる「持ち帰り残業」を僕は家で良く目にしてきました。
教育というのは大変で、不登校の児童や障害者の児童も見なければいけませんし、子供がきちんと学習できないならできるように考えて指導しなければなりません。
その結果、いじめのような問題は見過ごされたりし、総合や英語やプログラミングのような特殊な授業には力を入れられない結果になるのです。
僕は、一度、日本の教育制度というのを改める必要があると思います。何を本当に教えるべきなのか、教師はどんなことをすべきなのか、本当に考えなければいけない時期になっているのではないかと思います。
僕が子供の頃を思い出すと、教師の母親の仕事をよく手伝っていました。
たとえば、教室に張る画材や教材を、はさみやのりで一緒に作ったり、運動会で踊る踊りの振り付けを一緒に覚えたりしていました。
母親は小学一年生を担当することが多く、小学校に入る前から小学校の仕事を手伝っていたので、小学校に入る前から小学校で習うことを知っていました。
また、当時はWindowsが登場したぐらいの年で、母親よりも自分の方がワードやエクセルの使い方を知っていたので、一緒に子供に配るプリントや通信のようなものを作ったり、使い方を教えてあげたりしていました。
また、母親はとても多くの仕事をこなしていたので、日常のように家で採点や丸つけの仕事をやっていて、僕も、成績の確認のようなことを手伝っていました。
あとは、僕は子供の頃からピアノや書道や英会話などの習い事をしていました。そのため、同級生の中でも物分りが良かったです。
スポーツも嫌いではなく、友達とは休憩時間によくバスケットボールやサッカーをしていました。体力があり、走ることが好きだったため、持久走を好み、駅伝の大会にも出ました。
あとは、姉がゲームが好きだったこともあり、僕はテレビゲームやミニ四駆をよくやっていました。特にミニ四駆は大好きで、ピアノの先生が家庭教師で家に来る日も、ほとんどミニ四駆づくりばかりをやっていて、先生から「本当に好きなんだね」などと言われました。
テレビゲームは、自分がひとりで遊ぶのではなく、姉や友達と一緒にプレイするのが好きでした。自分の家にたくさんの友達を招いて「ホスト」することが大好きでした。ただ、同時に、自分の力で攻略できるゲームが好きで、ほとんどのゲームをクリアしていました。
ですが、中学校以降、ネットゲームにのめりこんだり、あるいは試験勉強と剣道部の両立がとても辛くなったり、友人関係がこじれたりして、中学校は不登校になり、せっかく入った高校にもなじめずに行かなくなりました。その代り、インターネットでLinuxやプログラミングのことを独学でやっていました。そのため、このホームページに書いた内容を普通に知っていました。このホームページは、プログラマの姉から教えてもらった情報はほとんどありません。全て、自分の知っている知識と経験です。
ひきこもりになったり、長い間おかしな文章を書き続けたこともあり、父親と母親にはたくさんの迷惑をかけましたが、僕は親のことが大好きです。ひきこもりになった僕のことを信じて見守ってくれた両親には感謝しています。さまざまなことがあり、親の方も色んなことを抱えていますが、僕に迷惑をかけるようなことがあっても僕は彼らのことを支えていきたいと思います。
あとは、昔は漫画を読むことが好きだった。特に、ジャンプを読んでいる人が多い中で、僕だけはガンガンを読んでいた。他には、適当に友達と一緒に遊ぶのが好きだった。川のような場所や山や林のような場所を見つけては、秘密基地を作っていた。アクティブでありながらオタク、それが僕の子供時代だった。
歴史に詳しい父親の話を参考にしています。
明治以前の日本では、学校というものがなかったため、子供は寺子屋でそろばんによる算術や文字を学びました。
江戸時代において、知識人と呼ばれる人は武士あるいは寺のお坊さんでした。このうち、武士は「自分たちは偉いのだ」と威張るだけで、教育は行いません。子供たちに文字の読み書きやそろばんを教えるのは、寺にある寺子屋でした。
ですが、どうやら、江戸時代において、日本人の識字率は高かったようです。多くの人が文字を読み、書くことができました。これは寺子屋のおかげです。
後日注記:寺子屋は、読み書きそろばんを教えてくれる、ほとんど無料の寺の教育システムとして優れたものでした。字が書けるか書けないかは昔から大きな人間の「賢さ」を決めるファクターであり、読み書きそろばんを教えてくれる寺子屋は、子供たちにとってはとてもありがたい存在だったのです。
日本のもっとも大きな間違いは、基礎研究に金を出さないことだ。
日本人は、江戸時代にペリーが黒船でやってきた時、「このままだとヨーロッパに負けてしまう」という、「ヨーロッパに対する劣等意識」、すなわちヨーロッパよりも遅れているとする考え方から、明治維新を起こして明治政府を作り、学校教育を始めた。
この明治政府のスローガンは「富国強兵」すなわち「ヨーロッパ列強に追いつけ追いこせ」であり、ヨーロッパと同等の「生産能力」を得るためをもっとも大きな目標として定め、学校では「生産力のある人間を育成するため」に教育が行われた。
そのせいで、日本の学校教育では、「すぐに経済社会にとって役に立つもの」ばかりが重視され、「すぐには役に立たない基礎研究」を重視しなかった。
また、学校教育では「国語数学理科社会」という、社会にとって実益のある科目が重視され、美術や音楽などは「心の素養のためになるもの」とするだけで、国語や数学のように重要視しなかった。
そして、今でも日本の教育はそれを引きずっている。すぐに役に立つ応用的な研究には国や企業も金を出すが、基礎研究には金を出さない。その結果、日本はたくさんのものづくりをしているように見えて、実際はアメリカやドイツで生まれたものを改良・改善し、安く製造しているだけで、「真に日本でオリジナルに作った」と言えるものが何もなくなっている。
これはIT技術についても言える。日本にはハードウェアの技術はあってもソフトウェアの技術がない。それは、「基礎の数学」の研究を大事にしなかったからである。数学の基礎ができていないから、ソフトウェアの開発ができない。技術もなければ、そうしたことができる人材も居ない。居るのは、応用的な生産能力を改良・改善するために培った、物理的なハードウェアの技術だけである。
このままいけば、日本は情報産業でアメリカやヨーロッパに比べてはるかに遅れた劣った国・社会になるだろう。
日本ではそもそも情報システム系の人材がとても少ない。アメリカのMITのように、情報技術を真にプロフェッショナルとして理解し、習得できた人材が少ない。Webデザイナーなどはたくさん存在するが、真にコンピュータ科学者と言えるような人材はとても希少であり、これが日本の「既にあるものを使うだけで、自分で一から生み出すことが出来ない」という、歪んだ技術者世界を生み出している。
だが、情報技術を学びたいと思っているIT技術の志願者は本当は多い。そのようなIT候補生に多くの必要なIT技術の専門知識を教えることは大切だ。そして、PHPやJavaだけを教えるのではなく、真に必要なコンピュータ科学の知識も教えないといけない。そのためには、日本だけでなく、アメリカや世界を見ていかなければならない。
問題なのはIT技術だけではない。たとえば、物理学や生物学などであっても、すぐに金儲けの役に立ちそうな分野には金を出すが、すぐには役に立たない分野には金を出さない。そのため、ノーベル賞科学者のような賢い研究者はたくさん居ても、その多くが日本で成功するとすぐにアメリカに転身してしまう。アメリカのほうが、はるかによい環境で基礎研究ができる。このような国を続けていると、日本には「賢い人間がまったく不在の研究環境」となってしまうだろう。
そもそも、中国史では隋唐ならびに宋代の時代に「科挙」という試験制度が行われ、詩や論文を書いたり経書の隠された文字を暗記したりすることで、国の文官を国民から選んでいました。
日本の公務員試験制度も同様の制度だと言えます。
中国の科挙制は隋の楊堅(文帝)から1,300年間に至って清末まで続き、壮大な「受験地獄」を生み出しました。
(詳しくは物語 中国の歴史―文明史的序説 (中公新書)が参考になります。)
中国史・モンゴル史も参照のこと。
2024.05.11
僕は、教育は民主主義の根幹であり、とても大切だと思います。
昔、歴史上の古代国家に、王国や帝国が多かったのは、王や皇帝が一番強かったというのもありますが、それ以上に、王や皇帝という「ひとりの人間」しか、賢い人間がいなかったからだと思います。
王国や帝国になる理由は、賢帝であれ愚帝であれ、ひとりの人間である王や皇帝しか、賢い人間がおらず、その賢い人間が自由にやることが、国の正義だったのです。
ですが、現代の民主主義国家では、教育を行う学校制度が普及しています。学校制度によって、国民はほとんどの人間が賢い教育水準を維持しています。
確かに、その中でも本当に賢い、もっとも賢い人間が王になるべきだ、とする、保守主義者の国家主義者の意見も分からないではありませんが、現代の民主主義国家では司法・立法・行政に分かれた三権分立の法治国家を行っており、その基本となる前提は「国民がみんな賢いこと」です。
なので、民主主義を成り立たせるために必要なことは、国民全員を賢くさせることです。それが正しい「啓蒙主義」です。教育と学校制度は啓蒙主義に基づく民主主義の根幹であると言えます。
また、一部の軍事主義者などは、学校を軍事的な洗脳に利用しようとします。大日本帝国でも、学校で竹やりの訓練を行うなど、学校という制度を使って、国民を天皇陛下に従うロボットになるように洗脳しようとします。あるいは、世界では右翼だけではなく、左翼の共産主義者も、教育を自らの国家に従順に従うロボットを作り出すために利用しようとします。
そのような洗脳教育の行き着く先は、敵国を憎み、相手からも憎まれるような、「憎しみの国際関係」です。そのような国家と国家の憎しみの関係を、わざわざ教育で作り出す意味がありません。そして、教育がおかしくなると、国家は戦争や人種差別へと向かって一直線に進んでいきます。なので、世界平和のために、教育だけは平等かつ民主主義的でなければならないのです。
2024.08.13
世界史(中世)も参照のこと。
結婚・子育てを参照のこと。
いじめを参照のこと。
ドイツの教育も参照のこと。
心理学(一般)や心理学(心の現象学)や心理学(人生)も参照のこと。
問題解決の技法も参照のこと。
資格試験に受かるコツについては基本情報技術者試験の世界観にあります。
Wikipedia
勉強のための動画