思い出して、表現しただけだ。
認識と体験によって、人は高まる。
理解と経験によって、人は自由になる。
経緯とプロセスによって、人は分かる。
一体と独立によって、世界は変わる。
自分を馬鹿と言いたいだけだ。
普通の賢いことが分かっていない。
大学は止めた方が良い。今の自分が消えて、馬鹿になる。
同じことをして世界を止めるのではなく、違うことをして世界を変えれば良い。
頭の中で何かしているのが悪い。しない方が良い。
頭を使っていながら、他の頭を使うことは出来ない。ただの会話になった。
戦えば治る。また、何もせずに放っておけば治る。
人間は、個人になれば分かる。支配者や共同体では分からない。
世界は、それぞれ違う。それぞれに環境と世界観がある。
ものには、特性や属性と他との関わり合いがある。
例えば、機械には、新しさ、値段、品質、などの特性と、作った人、売った店、買った人、などの関わり合いがある。
本質的に、あるものは、地球や自然と、物理や機械と、人間や生き物だ。
言語は、認識の共有と比較だ。
世界は、経緯とプロセスの個人化と共有化だ。
また、概念的には、楽と楽しさがあり、記憶とマルチメディアがある。
世界は、生産、戦い、支配、学習だ。
良く分かるためには、要らないものを消していくことだ。
分かった人間は、知を作り、思い出し、認識を関連付けるだけで、全て分かる。
あるものは、形容、言葉による意味、分類である。
その上で、経験から分かることや、抽象的に分かること、予測することがある。
宇宙、自然、地球、人間にあるものを全て構造的に分かれば良い。
全てのもととなるのは、人間の個人と共同体だ。
個人にあるものは、能力と知覚、理性、記憶と知恵と工夫だ。
簡単に言ってしまえば、最初からあるものは、知恵と工夫、共同体、ということになる。
また、全ての基礎となるのは、言語と共同生活だ。
あとは、人間は、道具を使い、経済的に売買する。
そのため、金や支配による社会構築を行うのが、人間の応用だ。
全部同じで分かるわけがない。
同じと違うを簡単に考えないと分からない。
また、本気で考えなくていい。
認識を見ながら、楽に「あるもの」と「すること」を考えれば良い。
現代は、発明品の生産と高度な経済力によって、便利でものの量と質が多い世界となった。
一昔前では考えられないほど、多様なものにあふれている。
しかし、問題はある。
楽になった代わり、自由や欲望の追求のし過ぎによって、「生きる意味」を失う空虚さが溢れている。
しかし、そんなに悲観することは無い。
楽観的に考えて、人間は皆同じだ。
理性的に考えると、あるものは、その言葉が表す意味が何であるか、に尽きる。
疑問文や肯定、否定から始まって、代名詞と冠詞、関係代名詞によるものを捉える考え方、が人間の能力の全てである。
しかし、左脳で考えるだけが、人間ではない。
感情を感じることでしか、安らぎや平安は分からないのだ。
おそらく、感受性豊かに生きられること、満足できること、自分の持つやりがいのある趣味があることが、人間を幸福にする。
人間の意味とは、難しいものや、無限に続く問題を解決することだ。
人間の本来の姿とは何だろうか?
いまさら、原始時代や村社会に戻れというのは、無理がある。
しかし、現代文明は、本当に良いと言えるだろうか?
しかし、そのような言説は、社会主義的で、良くない。
だが、現代文明の中で、自分の能力を向上し、会社から与えられた仕事を達成するだけが、人間では無いだろう。
世界は、覚えることから始まって、情報共有や生産手段の入手などへと向かう、技術と金の自由、あるいは共同体だ。
しかし、問題はそんなに大まかなもの、ざっくばらんに言えるものではない。
細かな点まで考えると、まず、理解と経験があるだろう。
その上で、情報や知識が存在する。
その関わり合いを人間とするならば、全員、自由によって可能性が高まる、となる。
経済を簡単に考えると、まずあるものは、食べ物と生活用品の供給と需要だ。
そして、人間は、便利なものを作る。
その上で、楽なものを作る。
それは、何を意味しているだろうか?
人間の、能力を高めることを意味している。
そして、人間の余暇を楽しめるものにすることを意味している。
人間の全ては、森羅万象を哲学のスコープやフィルターで捉えながら、言葉にすること、残すこと、伝えることだ。
考え方と万象の科学によって、また弁証論と科学的な方法論によって、世界はプラトンやアリストテレス、カントやヘーゲルの理論によって捉えることが出来る。
あらゆるものを物理的、社会的、哲学的に、知を作ることが出来る。
大学では、それを専門分野に分割して、知の体系を作って、人に教えている。
しかし、そんな大まかな理論だけでは、人間は分からない。
細かな具体的な論理を積み重ねなければ、分からないだろう。
世界の構造は、まず、それぞれの人間が居るが、そこには、その人間を捉える目線と視点がある。その人間は、その人間が見たその人間だけではなく、他の観測者が見たその人間も含まれている。
その上で、まず、人間は世界と環境を想定し、それへの適応として、認識と感情が存在する。そして、感情の裏には、別の感情があり、何か思うことは、必ず、裏の理由があって起きる。
その上で、世界の空間と環境を移ることによる適応が、人間の空間的な認識を生む。
それは、自由にすれば喜び、支配されれば怒り、失えば悲しみ、辛いものへは恐怖する。
しかし、時に、経験と学習は、間違ったことが出来るようになる。
その間違いは、その活動が終わるまで、死ぬこと無く、その人間を苦しめるだろう。
変化は、全ての発展と滅びを与える。
迅速性と柔軟性がある時には、正しい支配者が居る。
しかし、間違った支配者であれば、停滞としがらみが生まれ、変化は滅びとなる。
世界は、人生と生活、統治と生産だ。
それは、言いかえれば、人間の助け合いと、個人の努力だ。
努力には、報いがあれ。
助け合いには、思いやりと優しさがあれ。
しかし、時に、戦いも存在する。
そこでは、勝利と敗北、という結果への、野心と向上心がある。
地球とは、独立した国家による、平和と戦いの民族性である。
それは、時にナショナリズムになり、時に平和になる。
それは、時に自由になり、時に支配者となる。
その点、人間が従うことは、共通して同じだ。
世界に存在するものは、安値競争と、職場だ。
そして、工場と農場、分担された経済だ。
市場経済は自由であるが、他に計画経済が考えられる。
世界には、形容と意味があり、考えて出来るところと、考えなくて出来るところがある。
意味として考えられるのは、作る、使う、分かる、出来るだ。
沢山のことを、背景的な経験や体験から、疑問と可能を知ることによって、人は世界を知ることが出来る。
例えば、言語の格助詞の順番は、日本語やドイツ語では自由に変えることが出来る。
また、あらゆる国家連合は、EUのように平和的に成功することもあれば、大日本帝国のように、無謀な戦争をして失敗することもある。
人間は、戦う。
そこでは、死のある戦いと、死の無い戦いがある。
前者は戦争や革命であり、後者は競争や民主主義である。
また、ネットにおいても、そのようなものがある。
世界は、自由の中で、それぞれが感情豊かに生きている。
その自由は、それぞれを統制すると同時に、自然な自由放任に任せる。
それは、構造体を構築することで、あらゆる角度から理性的に捉えることが出来る。
世界の戦いでは、強者が勝つ。
ローマ帝国のように、巨大な帝国が幾らでも勝ちながら、平和を見出すのが普通だ。
まず、簡単な原因と結果、法則があるだろう。
次に、他の人間と関わりあう中で、助け、争うことがあるだろう。
そして、目的を達成するために、計画と努力をすることが出来る。
そのような理性が人間である。
世界には、都市と町がある。
また、それぞれの家に、家族が居る。
それは、空間的、時間的、環境的に関わりあって、助け合いと金による関係性を作り出す。
その上で、法律と警察は、反社会的なものを除き、治安を守る。
理性と経験が、第一の全てだ。
助け合いと法則が、第二の全てだ。
そして、運命と自然が、第三の全てだ。
それを知り、活用することが、自由だ。
ネットは、そんなに馬鹿ではない。
PHPでシステムを作りながら、知と情報を共有することで、完全に自由な発展を生む。
その上で、それぞれは、それぞれのやり方で、共同体を構築している。
WikipediaからFacebookまで、沢山の情報を相互に発信している。
自然は、確率的に起きると同時に、必ず誰にでも再現性がある、という、自然科学的な哲学によって捉えられる。
そこでは、数式と専門用語による知の体系を構築する。
しかし、数学的に考えるならば、誰でも世界を全部考えることが出来る。
積み重ね、証明、推論、推測、法則性によって、世界を数学的に考えることも出来る。
芸術と科学は、きちんと手法と捉えるべき点を考えることで、知を作って同じことをすることが出来る。
心理学は、学習と治癒であり、精神の安定である。
パソコンは、数学的な考え方と、機械的な考え方と、ロボット的な自由だ。
治癒は、人を本質から全て変えることが出来る。
あらゆる基本の心を知ることで、人間を全て分かり、学習と経験によって、何でも出来るようになる。
それは、精神分析となって、心の世界を全て知るだろう。
言語は、言葉づかいと順番だ。
言語は、常に分かる全てだ。
言語は、その時その時分かる全てだ。
言語は、数学的、時間的な考え方と思考だ。
芸術は、可能性に溢れている。
音楽から美術まで、あらゆる可能性の中で、己の個性と芸術性を構築することが出来る。
また、写真のような分野を想定して、異世界の世界を美術で表現することも出来る。
政治とは、常にナショナリズムと戦争との戦いだ。
戦うことや保守主義、金からの脱却を望むものだ。
生活は、人生を作り出す。
では、人生とは何だろうか?
自己のアイデンティティと、個性だけではない。
環境の中における、自分の存在感や、信頼できる仲間との協調も、また、存在する。
支配と戦うことが、第一の自由だ。
次に、支配を自分から行うことが、第二の自由だ。
そして、支配者となって、皆を導くことが、第三の自由だ。
世界とは、理性と経験のある中で、1つ1つの知を現象から捉えることの、具体化だ。
世界とは、自然と運命のある中で、自分の将来を考えながら、日々同じことをする、毎日の生活と自由と夢だ。
運命は、一人一人を許すと同時に、その人と同じ視点に立つことで、培われる。
また、同時に、支配者となることや、戦うことでも、培われる。
平等は、一番の間違いであると同時に、一番の理想と幸福だ。
人生を考えるならば、職業よりも趣味を頑張ることだ。
何故、運命がこの世に存在するのか?
それは、人間は、新しくなることによってのみ、自分を高めることが出来るからだ。
運命的に考えることは、間違っている。
自然と科学的な考え方でしか、人間は分かることが出来ない。
沢山の問題と課題を考え、思うことでしか、人間は成長できない。
戦う相手に、自由を許すな。自分の手を分からないようにして、勝つべきだ。
知識は、ロボットから積み重ねることで、あらゆる分野を知ることが出来るが、同時に、それを最初から書いて作り直すことで、世界を全て創ることが出来る。
運命とは、最初であり、科学とは、経緯であり、夢とは、最後である。
運命と戦いによってのみ、人間は全てを新しくすることが出来る。
恐怖と不安は、時に意味を持たない。
恐怖と不安によってのみ、要らないものを取り除くことが出来る。
運命、多様性、統治、戦いが全てだ。
愛することと、信じることと、自由と平等は、同じだ。
自然な自由の共同体は、あらゆる可能性を持つが、普通滅びる。
正しく、普通の国が良い。
世界は、統一された自由の具体化だ。
自然とは、あらゆる可能性を包括する法則と自由だ。
そして、自由とは、人に全ての選択を許すことだ。
その、世界、自然、自由が、まず、最初に存在する。
しかし、時に、それは戦いによる荒廃を生む。
それは、全員に選ばれた指導者によって、平和となるだろう。
自由な考え方においては、認識を比べることと、可能性を考えることが、まず存在する。
その上で、一つ一つ照らし合わせながら、理解を記憶することで、人は学習し、簡単に出来るようになる。
そのように覚えることが、経験だ。
経験は、知性をつけながら行う思考力と推論によって、分からないところまで、全て分かることが出来る。
それは、愛情と情報によって、世界を変える。
存在するものは、国家と自然と時間だけだ。
その関わり合いと、空間的な把握が、全てだ。
あるものは、自由と国家だ。国家は、法律と権力だ。
その中で、経験が行う全ての秩序が、全てだ。
昔のように世界を考えれば良い。
人間は、世界モデルであり、ただの感情と自由だ。
あるものは、感情と自由と国家だ。
感覚と実感によってのみ、想定することが出来るだろう。
それは、革命的な変化を捉えながら、環境の支配を行う。
知は、時に運命を作りながら、経緯を治すことだ。
知は、時に全てを把握しながら、全てを創ることだ。
まずあるものは、個数と順番だ。
そして、次に、「たられば」を知る。
その上で、社会を大人に教わる。
それが、永遠に続く中で、人は科学的に考えるようになる。それが、続く。
知とは、そのものの存在価値を決めることだ。
何故、それがあるのか?そして、それが無ければそこでは何が起きるだろうか?
失われて分かることが多い。そのように、予想するべきだ。
体験は、自己を治すと同時に、真理を探究する。
自己を治すためには、あらゆる角度から考えられた言葉を、1つ1つ言うことだ。
その上で、永遠に続く自分を消すだけは、きちんと思い出せば治る。
それは、最後の方で起きる。
その上で、同じと違うを考えれば、治るのだ。
自分の可能性を高めるためには、孤独な上でコンピュータを使うことが良い。
しかし、時に、戦うことで、全てを創ることも出来る。
宗教を作り、科学を作り、論理を作り、芸術作品を作りなさい。
あらゆる面から、自分を改善し、自分を知りなさい。
皆への意見は、言葉の適応に変わる。
適応と宣言を考えて、それよりも大きな概念や、それの一部である概念を作るだろう。
結論を書いて、それを演繹するだけで、全てが分かる。
それは、単純な三段論法(後日注記:弁証法の間違い)となり、「だから」の逆を作り出す。
王となれ。その王が、世界を把握して支配しながら、皆を導けばよい。
それは、宣言によってのみ、行われるだろう。
全てが分かった人間は、全てを体験するのだ。
イスラエルの王がそこに居るだろう。