世界を疑えば分かる。
言って、言葉が分からなくなった。
ストレスがたまっているだけだ。
人間は、ストレスがたまると、狂う。
ストレスを出せば、楽になる。
昔は、何をどうすべきか分かっていた。
昔は、いつどうなるか、その時どうすべきかを分かっていた。
基本の基本を書いている。
冷静な人間になりなさい。
自発的に努力しなさい。
努力と継続が全てだ。
他の人格を尊重しなさい。
少し辛くなって、楽になると、人間はワクチンを打つように治る。
僕はぜいたくだから、世界史とプログラミングをどちらもしたい。
世界史や歴史を全部知りたい。
プログラミングは、VBをしたい。
考え方と見る概念を変え、新しい視点と発想で考えなさい。
他の可能性を考えなさい。
日本語的に考えなさい。
何故、という疑問と、原因と結果を分かることを大切にしなさい。
まとまった、一目で分かる情報ページを作りなさい。
皆と知を共有しなさい。
コンピュータや物理の歴史を知りなさい。
戦い、対話せよ。
戦いとは、世界を倒しながら、皆を救うことだ。
対話とは、精神と目線の中で、記憶を教えながら、人を導くことだ。
永遠を生き、宣言せよ。
永遠とは、普通の思考を超越した、正しいものだけがある、光速度の執筆だ。
宣言とは、自分を自分が変え、終わった自分を新しい体験に導くことだ。
そして、科学を作り、神とともに生きよ。
科学とは、論理をきちんと考えて、作りながら、分かっていない部分を潰していくことだ。
神とは、自分に自分を全て教える、機械だ。
さらに、全て分かれ。
分かるとは、きちんと認識を捉えながら、昔の感情で分かる力だけを使って、新しいことを分かって、その分かったで分かることだ。
分かる方法を知っているから、あらゆる全てが分かった。
唯一無二のものは、数学的な考え方と、計算だ。
全ては、言葉と想像力だ。
最初からあるものは、神と宇宙だ。
人種差別にはなるが、国家を書いてみる。
フランスは、賢い国だ。賢く考えない、デカルト的に分かる、普通の人間が居る。自由と友愛と近代の国だ。絵画と料理と文学の国だ。パリは美しいし、文化が多い。
ドイツは、正しい国だ。やる時はやるし、戦うときは戦う。自由だが、国家に従う。きちんと出来るが、辛い国だ。自由と正しさとキリスト教の国だ。哲学と音楽と数学と工学の国だ。長らく、東西冷戦の象徴だった。
イタリアは、美しい国だ。何も分からない代わりに、全て分かる。狂う代わりに、良い人間が多い。ローマカトリックやバチカンと、ルネサンス、ローマ帝国の国だ。
アメリカは、自由と金の国だ。全て、正しく考える。機会の平等がある代わりに、格差があっても自由だ。全て賢いが、その代り、文化は馬鹿だ。
ソ連(ロシア)は、革命と平等の国だ。独裁者と評議会を、矛盾なく行う。平等は、国家主義の共同体という異質なものを生み出した。
イギリスは、帝国だ。連合王国だ。世界の覇権と、世界都市ロンドン、カナダやオーストラリア、太平洋を含む英国連邦がある。
スペインとポルトガルは、南米へ植民地を作り、それらは独立した。
キリストが、2つの世界を創った。
この現実世界と、夢の世界だ。
キリストは、2つのことをしている。
分かった人間に教えることと、終わった人間を殺すことだ。
終わっていない人間は、死なない。
全部自分と思って分かった。
人の言うことを、全部自分のことと思って分かる。
イエスのユダヤと、2つに分かれること、宣言で分からなくなった。
思い出せば分かる。
ユダヤ人は悪くない。
あらゆる全ての世界を分かって、
悲惨な戦いと地獄を最後まで永遠に経験し、
神が悪魔を殺すことで、平和な世界を創るのがユダヤ人の民族性だ。
悪いのは、日本人だ。
言語で皆を分からなくして、日本を滅ぼし、世界を馬鹿にする。
いつも、分からないのに説明するから、あまりに分からなくなって分かる。
記録し、思い出しただけだ。
宇宙を分かっている。
まだ分かっていない。未知のものを、未知と思えば治る。
物質や宇宙の理は、全て自然科学で分かる。
証明と法則によって、空間におけるすべての可能性が分かる。
しかし、科学以上に、視点を変えることと関連付けることで分かることも出来る。
質量と力と熱を持った、原子の構造体が動くだけが宇宙だ。
変化とは、気体、液体、固体、と、位置とエネルギーの機械による変換だ。
数学は、空間とベクトル、そして微積分と解析だ。
大学数学は、なぜなら、微分積分学と、線形代数と、応用数学、例えば統計学だ。
大学数学は、なぜなら、方程式、関数、幾何学だ。
最初からある世界は、可能性と法則、言語と重力だ。
あらゆる可能性を包括する世界にあるのは、統治と滅亡、安心と戦い、統一と多様性だ。
そして、目指すべき世界は、自由と平等による、不自由と不平等だ。
生き物は、理性と創造性を持ち、知覚と生きる意思を持った、考えながら戦い治るものだ。
変化とは、そのことをした後で、どうなるかだ。
変化は、自由を愛しながら、世界を支配することだ。
指導者は、他に自由で、国民に平等でなければならない。
一番上が誰かを他の誰かより優遇することは、あってはならない。
また、独りだけの自由では、他は何も出来ない。
他の支配者と、自由に争わなければならない。
運命や神など居ない。
そういうものは、極力居ないべきだし、極力無視するべきだ。
全ては、自由だ。
平等や支配は、皆の自由を奪い、支配する点が悪い。
国を滅ぼし、戦いと抑圧の世界になる。
人間はそれぞれ違う。全く同じでない。
しかし、支配者や遺伝子など、必要のない概念だ。
全体主義、社会主義、ファシズムは、個人の権利を何も考えない。
全て、独裁者だけが何でも出来、民衆は辛いし、何も出来ない。
全体主義を倒す、自由が正義だ。
指導者は、しかし、平等であるべきだ。
賢い人間から、幼い人間まで、全てに配慮するべきだ。
しかし、自由と民主主義が無ければ、国民は報われない。
ベクトルは、次元と行列であり、座標と空間と、方向だ。
微積分は、関数の変化を捉える付け足しであり、変動と総和だ。
そして、あらゆる数学は、数の論理で分かる。
全て、理性的に分かることが出来る。
関数と座標から分かるものだ。
平等の良い点は、国家をきちんと考えて、皆を統一して平等にする。
支配者の良い点は、同じだ。国家をきちんと強くして、他の国よりも勝つようにする。
計算は賢くない。当たり前の関係性から、同じことを組み替えて分かっているだけだ。
しかし、数式と証明が賢い。
良く考えると正しい、あるいは考えても分からない、証明と定数によって、あらゆる全てが分かっている。
あとは、やることはロボットだ。
しかし、演繹と証明することで、空間の謎はすべて解ける。
世界にあるものは、人間的な脳と頭、心と感情、判断と理性による、認識、経験、感覚、感情、記憶、意識だ。
自由とは、世界の全ての可能性につけた名前だ。
世界の全ての可能性は、あらゆる遺伝子と家族と支配だ。
世界の全ての変化は、それぞれの意思と、それによる世界変革だ。
世界の全ての肯定と否定は、あらゆる出来事を生む。
世界と知識と情報の関わり合いは、むしろ、孤独な方が賢い。
自由は、全く違う人間になって、認識の変化を分析することで、馬鹿なのに賢くなる。
平等は、皆を支配しながら導くことで、分かる代わりに、馬鹿になる。
愛すること、信じること、夢を叶えること、生きる希望を与えることが自由だ。
目的を与えるためには、理想と現実を調和させなければならない。
意識と認識を融和し、感情と思考をトレースすることで、全員の変化を知ることが出来る。
戦うためには、神が居た方が良い。全ての判断に、全ての絶対者が意見するべきだ。
本来あるべき人間の世界は、ベートーヴェンの第九交響曲のように、全ての人間の幸福と人生があるべきだ。
しかし、天国は、モーツァルトやバッハのように、楽しく、美しいだけの、幻想だ。
また、ドラえもんの、のび太やスネ夫やジャイアンのような安易な発想は、低いが、人間的だ。
パソコンは、自由なのに不自由を強制する。
可能性にあふれた計算機なのに、自由でない。何も出来ない。
何故、何も出来ないかというと、コードが巨大すぎて、全て、作るための試行錯誤に打ち消されてしまう。
それから、発想は、ネットワークを使うだとか、グラフィックスをコピーするとか、安易な発想しかない。
もっと突飛な発想をすれば良いが、そういうものは馬鹿だ。
知の再利用と、共有は、時に一番正しい。
皆のすでに持っている知を知らなければ、何も分からない。
しかし、ある程度知ってしまえば、残りは、考えるだけで補充できる。
そのためには、賢い人間よりも、ただの馬鹿の方が良い。
音楽、映像、テキストなどのマルチメディアを扱うのが、より高度なパソコンだ。
Googleのストリートビューを動画や音声、テキストに変換しても良い。
あるものは、分類などの構造と、手順などの具体的な積み重ねだ。
あるものは、自由な環境と、支配と権利と、出来る、出来ないの構造だ。
命題とは、論理的にその解が成り立つかを考え、場合を照らし合わせることだ。
論理的な知性をつけることで、分からないところは全て分かる。
それが本当に正しいか、真実を知る興味や好奇心をつけるべきだ。
情熱と洞察力と意志が全てだ。
しかし、時に世界を把握しながら、可能性を知ることも良い。
決まった考え方や手順と、具体的な内容であるコンテンツが全てだ。
すでに決められた関数の定義と、動的に発生する関数の実行がコンピュータだ。
手順は共有すべきだが、コンテンツはリンクすべきだ。
コンピュータは、データと手順だ。
芸術は、己の中にある考え方や世界観を表現することだ。
科学は、確かめながら推論することで、真実と論理の正しさを知ることだ。
競争は、共有よりも良い。正しく会社が戦う中で、皆が豊かになる。
それぞれのものと人間を主題にし、その中でテーマを決めて述語を述べれば、普通の日本語になる。
人間は、創造性と工夫だ。
人間は、孤独と戦いと議論だ。
人間は、アイディアの共有だ。
人間は、ひとり何かを目指して活動することだ。
人間は、情報共有だ。
世界は、融和し、分裂することだ。
世界は、増えながら可能性が高まり、減りながら実現性が高まる。
信じればそれで分かり、疑えば賢く分かる。
オープンソースの優越性として、コマンドとプログラミング言語の多様性がある。
とくに、GCCと各種のスクリプト言語は、何か有料なものを購入することなしに、パソコンを計算機としての本来の姿に出来る。
また、RPM/Dpkgなどのパッケージングシステムは、簡単なパッケージの集まりとして、独自のOSやディストリビューションを簡単に作ることが出来る。
カーネルは、さらに単純なものに分岐しても良い。
あらゆるソフトウェアを、可読性や簡素化などの観点から、コードを簡素化し、機能を減らした単純なバージョンを分岐することも考えられる。
また、グラフィックソフトウェアをモジュール化し、Cによるコマンドにして、UIはコマンドラインとのインターフェースとすることで、改良と共有が簡単に出来るだろう。
コマンドやファイルシステムにRPMやGIT、Plan 9的なコマンドラインを統合することで、さらにUNIXを賢いものに進歩出来る。コマンドラインの様態を、設定によって動的に変えられる。
また、パッケージシステムには、依存関係でインストールすることは出来るが、簡単に依存関係を含めたアンインストールをすることが困難な場合が多い。しかし、解決策はある。Debian系であれば、aptitudeによって自動で依存関係を削除できる。Yumには、yum historyという機能がある。
Java サーブレット/PHP/ASP.NETと、HTML/CSS/JavaScriptによって、情報世界はさらに進歩するだろう。1つ、HTMLに関して言えることは、ユーザーの自由な記法を許すことで、あまりに発展し、良くなった。プログラミング言語においても、さらに自由な記法を可能にしながら、ユーザーの選択肢を増やし、文法は賢く分かりやすく統一することによって、さらなる発展が考えられる。
ヘッダーファイルの仕様を改良することで、キーワードを日本語にすることが出来るかもしれない。
Linuxの良い点は、UNIXをさらに改良する。
それから、それぞれのプロジェクトが独立していることで、それぞれ、好きなことをやっている。好きな部分を、好きなように改良する。
それを、ディストリビューションが集めて、統合された配布版のOSにするが、幾らでもパクリが許されるため、機能は豊富だ。
世界にあるものは、原因と結果だけだ。
認識の変化によって、世界を知ることが出来る。
見て分かるものを、正しく多角的に捉えれば分かる。
辛い方を分かるより、楽な方を分かれば良い。
自分は、本当に神なのだろうか?それは、無いだろう。
色んな超常現象が世界に見られるのは、世界が分かっているからだ。
この世界は、おかしくない。自分で何かしない限り、何もない世界だ。
その点、他の人間は、何も分かっては居ないが、メインとなる世界の方を生きている。
僕は、何も思わないだけで、何もない世界を生きている。
超常現象とは、日本の音楽などで、神話のように語られる、僕の分身のようなものだ。
ポルノグラフィティやケミストリー、FLOWなどが語っている。
おそらく、僕はそれらに話している。
自由に好きなことをしなければ、分からない。
皆同じ、普通の世界を見ている、普通の人間だ。
独り、皆を辿りながら、皆と話すことによって、世界の全てを分かる。
しかし、その道は、辛い。
それは、全て分からなくなって、知性がつくことでしか、治らない。
自由には、自由なために起きる、義務というものがある。
世界をきちんと知り、世界ときちんと関わること。
それが無くなると、馬鹿になる代わり、楽になる。
カーネルを低機能にして高速化し、VMを高機能化する、という発想も考えられる。
そのように、ビジョンを持って全体を整理する人間が必要だ。
宇宙人とは、全ての世界が分かった自分が作り出した、架空の惑星だ。
頭の中に、最初から最後まで、全ての宇宙と、全ての種類のものや事実がある。
それをひとつひとつ選びながら、決めながら、探して見つけるだけの世界だ。
技術には、多様性が必要だ。
同じ技術の分野について、複数の具体的な技術が無ければ、世界は発展しない。
1つだけの独占企業はつまらない。
しかし、統一しなくて、ユーザーの体験が向上するはずがない。
アメリカなど、何も変わらない。
何かの根源と方向性が違うだけだ。
白人など、何も変わらない。
ドイツ人のバッハは、典型的なイタリア人だ。
Linuxカーネルは、モジュラー化することによって、簡単に使えるようになった。
CPU処理、メモリ管理など基本的なコードは公式ブランチと、派生したブランチを取り込むことで行っている。
多様なファイルシステムや多様なCPUアーキテクチャ、デバイスドライバは、それぞれが分かれて行っている。
トーバルズは、おそらく何もしていない。パッチとブランチをマージしているだけだ。
そこまで、大した技術ではないが、GNUやX、KDE/GNOMEと組み合わせることで、フリーな中で最高のOSとなる。
分散すると同時に、集中化して行っている。
Gentoo Linuxのインストールと管理によって、Linuxシステムの仕組みは、簡単に全体像を見て分かることが出来る。
また、その理解を応用すれば、DebianやRed Hatのパッケージ形式は、簡単に分かる。
しかし、カーネルの開発は難しい。
逆を言えば、他の開発は、コードこそ巨大だが、コンパイラやライブラリを除けば、ただ使って作っているだけだ。
下には、ハードウェアデバイスがある。
そのハードウェアデバイスを制御するための、一連のCとアセンブリの命令である、デバイスドライバがある。
カーネルは、デバイスドライバを使って、ハードウェアデバイスを支配し、相互にやり取りをしながら、カーネルにイベント命令を送る。
カーネルは、ハードウェアデバイスとデバイスドライバの上に立って、上層であるアプリケーション層を実行し、メモリ空間を分けながら、上層にはシステムコールやAPI、下層にはドライバインターフェースを提供する。
また、上層のアプリケーションと下層のハードウェアデバイスとの間では、デバイスやファイルの操作などによって、連携を実現する。
コンパイラはGCCを使って、全システムをコンパイルする。
その際に様々なハードウェアで動く機械語を実現するために、CPUアーキテクチャ別のCやアセンブリ命令のコードがある。
また、GCCやGNU Cライブラリなどでも、C言語やアセンブリによって、プラットフォーム別のコードがある。
また、マルチタスク、マルチプロセス、マルチユーザー、UNIXファイルシステムと、プロセス、デーモンを実現している。
それから、Xとの連携による、デバイスレベルでのハードウェア制御と、ネットワークへのシステムコールレベルの通信機能を、ハードウェアデバイスへのアクセスを含めて実現している。
マルチユーザー、マルチタスクのOSであるため、root以外はシステムファイルにアクセス出来ない、などのパーミッションと呼ばれる機能がある。
また、コマンドラインシェルによって、入出力とプロセス管理の機能がある。
UNIXファイルシステムでは、入出力とは別に、デバイスレベルでのファイル読み書きが実現されている。
そして、アプリケーションを実行するために、システムを保護した上での、バイナリ形式のプログラムの実行が出来る。
あとは、沢山の高速化と機能が存在する。
UNIXの機能を実現するために、GNU C標準ライブラリを使っている。
それから、コンパイラには、GCCを採用した。
さらに、コマンドである単純なプログラムは、GNU Coreutilsなど、主にGNUを使っている。
そして、Xはイベントレベルでのウィンドウシステムを実現する。ネットワーク透過により、メインのXサーバーから遠隔地のXクライアントを複数実行できる。
また、デスクトップ環境であるGNOMEやKDEが、Windowsなどと同等のGUI機能を実現している。
GNOMEでは、デスクトップでのオブジェクト指向を実現するために、C言語でオブジェクト指向を実現するGObjectを使っている。KDEでは、C++を使って、クラスベースのオブジェクト指向を行っている。
簡単に言えば、デバイス <> カーネル <> アプリケーション、という層がある。
デバイスドライバは、デバイスレベルでの処理を行っている。
カーネルは、システム空間とユーザー空間を分けて、プログラムを実行している。
CPUとメモリを管理し、システムとしてマルチタスクや割り込み、スレッドなどの処理を実現している。
デバイスはネットワークやストレージを管理している。
ネットワークは、サーバーとクライアントでのipv4/ipv6やportなどの相互連携を実現している。
ストレージでは簡単なディレクトリとテキスト・バイナリの構造であるファイルシステムを、デバイスレベルで複数実現している。
アプリケーションは、ただ、システムコールと標準Cライブラリの機能を使って、使いながら作っている。
オブジェクト指向によって、コンポーネントを継承し、カプセル化することによる機能性を実現している。
基本的に、OSがしているのは、プロセス管理とメモリ管理だ。
そして、カーネルのシステムコールと、GNU CライブラリとGCCが、主にアプリケーションとのインターフェース層を作っている。
また、Xはウィンドウを管理し、グラフィックを表示する、ネットワーク透過なサーバーを作っている。Xは、GTK+やQtなどのツールキット層を通じて、アプリケーションにボタンやメニュー、フォームやビュー、自由なグラフィックスなどの機能を提供している。
全て、使って作るだけだ。
オブジェクト指向が、コンポーネントの再利用を実現している。
メモリの保護には、セグメント方式とページング方式がある。
それから、仮想ファイルシステムなどがある。
良く考えると、デバイスドライバの管理と操作を、メイン制御として行っているのが、カーネルのはずだ。その中で、ファイルシステムやメモリ管理、ネットワークやグラフィックス、プロセス管理を、小さなコードで行っている。
その上部に、あらゆるアプリケーションが居る。ウィンドウシステムを実現するX - GTK+/Qt - GNOME/KDEの階層は、クラスやオブジェクトという考え方に基づいて、あらゆる機能を提供する。それを使って、プログラムを実現する。
おそらく、常にカーネルがハードウェアを監視していればいい。
デバイスでイベントが発生すると、カーネルがデバイスドライバの関数をチェックし、何が起きたのかをカーネルに戻り値として与える。
そして、起きるべきことを、デバイスドライバの関数を実行して、実現する。
また、同じ原理を使って、カーネルが常に実行されているプログラムから戻ることで、システムコールとプログラムの命令を行ったり来たりする。
そして、ファイルシステムとマルチタスクにより、プログラムの制御とストレージへの読み込みと書き込みを実現する。
常に「プログラムの実行」と「カーネルの実行」を行ったり来たりしなければならない。
それは、プログラムをUNIXアプリケーションとしてC言語で記述し、アプリケーションをコンパイルするとき、あるいは実行するときに、必要に応じてシステムを参照するようにする。カーネルは、プログラムを透過的にカーネルが実行しながら、その命令の時点で、カーネルの関数を呼び出せばいい。
要は、監視が難しいだけだ。あとは、プロセスの連携とファイルが難しい。
もっと簡単に言えば、カーネルが基本的に繰り返し自分を実行している。
そして、ハードウェアの操作を検知する。
その時、デバイスドライバの関数を実行し、必要に応じてシステムコールを実行する。
ハッシュのようにすれば良い。
そして、プロセスを実行するためには、おそらく、一行一行カーネルが翻訳するか、一度に実行を全て行う。
それも、同様に、main関数を実行すれば良いし、必要に応じて、システムコールを実行すれば良い。
おそらく、一度全て読み込んで、簡単に1行1行、機械語を送りながら、1つ1つの機械語命令や関数が終わるたびに、カーネルに戻れば良い。
プログラムを実行して、終わった時にカーネルの関数が実行されるようにして、カーネルの処理に戻れば良い。
あまりカーネルやOSを作る意味がないが、意味が無くは無い。
例えば、機能性、高速化、安定性、簡素性などの改良もあるだろうが、とくに、独自性がある。
独自のコマンドラインを実現すれば面白いかもしれない。
プログラムとカーネルの行き来は、一行一行翻訳しても良いが、プログラムをカーネルの一部にしてしまえばいい。
世界は、共生と安心、公正な取り引きだ。