日記に戻る | 2015年12月の日記に戻る

=2015-12-22=

森羅万象の変化を考えていた。博物学のようだった。

何かが何かになるのを考えていた。

電力は、電灯によって光になる。

魚は、食べることによって猫になる。

プラスチックの製品は、組み合わせることで機械やものになる。

金属と言う同じものから、機械と言う違うものが出来る。

太陽の光は、地球に届いて、大気圏に広がって、反射して、地球を照らしている。

地球は、太陽の周りを回っている。月は、地球の周りを回っている。遠心力と重力、回転によって、太陽系は成り立っている。

人間が空気を透明だと感じるように、魚は水の中を透明だと感じている。

そういう、何かが何かになる、森羅万象の変化を、いつも書いていた。

博物学のように、人生と知識と考え方を書いていた。

自動車は、ニュートン力学だ。それは、間違っているところがある。ニュートンは、タイヤのようなものは考えていない。

今日も英単語をやった。今日は、そろそろ、もうこの文章を書かなくて良い日だ。

そんなに大量にあっても、読めない。自分も読まないのに、書く意味が無い。

あとは、存在や経緯、人間の関係と共存としての、人生のようなものを考えていた。

いつも、人生と知のことを、認識的に考えていた。

人生は、具体的な経緯を書いていた。いくらか誇張しながら、人生にあったことを書く。

そろそろ終わりだ。悪いのは右翼だ。

キリストを信じると、こういう、馬鹿なドイツ人になる。自分は、キリスト教徒と言うよりは、ドイツ人だ。岩崎宏美と同じように、ユダヤ人の聖人のようになった。

あとは、AAAが言うように、臆病者が唱えている優しさのような内容が多かった。

優しさ、思いやり、希望、愛、のような内容を言う。

神やマスターのようなこと、ソ連のような社会実現のようなことを言う。

悪くは無い。本当に、ファンモンが言う、希望の歌のような人間だった。

あとは、地球、宇宙、人間、社会を、構造的に全部作っている文章が多かった。

色々と、馬鹿だった。おかしな政治的なことを言う。最近も、何も変わっていない。

あとは、心理学や生物学の構造を作ったり、人生のようなことを言ったりする。

経験的に分かる生物学のような内容が多かった。細胞にも意志や意識があると言う。人間は、細胞における意志の集合体である。そういう、宗教のような科学が多かった。

体は機械だが、心は精神だ。そういう、生命の機械論のような発想が多かった。デカルトがそういうことを言っている。精神と肉体の機械的な二元論だ。

あとは、分析による知の方法と、発見の過程、知の創造、のようなことを言っていた。

思い出して、人生を言う。思いやりから認識や分析まで、人生の方法のようなことを言う。

本当に、人間が思っているような神はいないが、それでも、何かそういう存在は、存在していると言っていた。何か、漠然とした大きな存在が宇宙に存在する。それが神だ。

そういう神は、自分のことを言っている。それはおかしい。よって、神はいない。

あとは、デカルトやロックのような、知の構造、構造的な知と方法のあり方、のようなことを言う。デカルトのような、賢い人間像を書いていた。ロックのように、知と方法を分析した。記述的で、発見的で、分類的で、論証的で、体得的な、知を考えていた。

歴史と経緯から知と方法を考えていた。

本当に、歴史のようなものから分かるのを書いていた。人生の中で、経緯や環境を考えて知と変化が分かることや、成長のことを書いていた。自我のようなことを言う。

あとは、精神の現象学を精神の実験からすれば良い。

絵画は、模倣である。現実のものでは無い代り、可能性がある。

いつも、そういうことを言っていた。

こういう人間は、居ない。子供にこういう人間が多い。居るとは言うが、居ない。誰でもこういう風に分かるとは言うが、これ以上、普通何も分からない。

惑星を遠心力と言うのは、間違っているように見える。何か、他の法則で回っているように見える。それはおかしい。ニュートンは、普通、それは正しい。

あとは、これで全員全部、経験と構築で分かっていた。建設的に構築し、色んなことを経験し、精神の成長と論理学から分かる。社会に対して、何が出来るのかを知る。

そういう、ヘーゲルのような人間だった。昔は、ヘーゲルのように、狂って分かった。

だが、あれはまともに、キリストのように善悪が分かっていた。これくらいを分かると、むしろ、馬鹿な方が出来る。そういうわけで、子供にヘーゲルが多い。

そういうわけで、皆は、これくらいを分かって馬鹿になるのが良い。そうすると、きちんと努力と経験から、この社会と宇宙のことが分かる。人生で真理が分かるだろう。

自由意志のようなことを考えていると、哲学や社会のことが分かる。

社会経験をしていると、考える機会や人間的なチャンスのようなことが分かる人間が多い。

そういうものを分かってから、大学の歴史と哲学をすれば良い。

こういう、分かってから歴史と哲学が、一番賢い人間になる。それこそ、大学より、本を読んだ方が良い。大学では分からない。普通、ただ教科書を覚えて、丸暗記するだけだ。

文学が良いと言う。文学に賢い本が多い。

このまま経験していると、誰でも、人生が、天使になった男(本の題名)のように分かる。レイフのように分かる人間が多い。色んな人間の人生経験を知って、会話していると分かる。実存主義とは、そういうもののことを言う。これでネットになる人間が多い。

昔なんか、経験をモデルにしただけだ。レイフのように分かるためには、経験をモデルにして、実存的に、疑いながら信じて分かるのが良い。

実体験と環境をモデルにして分かっていた。誰でも、そういう風に宗教が分かる。

ただ、仏教のように、論理的に考えないと分からない。四諦のように考える必要がある。

あとは、認識のデータベースのようなことを言う。そういう、大量にあるゴミの山の中から、真理の宝のようなものを作る、と言う発想が多かった。

あとは、人間の道徳性や、行動における手段と目的のようなことを、カントやキリストのように分かっていた。実現のようなことを言っていた。

世界にある道徳のことも、真理のことも、全部自分の分かったことと同じことを言っている。それくらい、皆も同じことを分かっている。自分が神には見えない。

あとは、環境や実現を、宗教的にではなく、論理的、科学的に考えること。

自分はおかしい。普通、宗教なんか、馬鹿だ。宗教的に考えていると、分からなくなる。

そういうわけで、神を信じて分かるわけがない。神は信じない方が良い。

相対的、自然的、科学的に考えること。それで、本当にそこまで分かった人間に神が多い。

ただ、仏教もキリスト教も、間違ったことは言っていない。こういう風にすると分かる。色んなネットや社会での経験をしていると、宗教や哲学が正しいことを言っている。分かる人間が多い。信じるのも馬鹿では無い。信じてしまうと、それになって分かる。だが、そういうものは、特別信じなくても、正しく考えて経験していると分かる。解脱はそのまま道であり、誰もが善行をしていると解脱へのプロセスを歩んでいると、仏教が言う。

そういうわけで、神は特別信じなくても良い。それでも、信じているのと何も変わらない。きちんと正しく生きていると、誰でもこういう風になる。宗教の通りにしかならない。

あとは、宇宙にある人生の道や法則のような、真理を言っている文章を書いていた。

そろそろ終わりだ。何故か、この通り言う仏教や哲学は多い。

不思議と、キリストになるのは、あまり悪くない。辛いとは言うが、その通りこういうことが起きる。誰でも、こういう風になるドイツ人しか居ない。

一番悪い人間はスターリンで、一番賢い人間はブッダだ。

あとは、自分もこれで開祖だ。宗教家とは言うが、ただの詩人だ。神に見えて良い。

考え方は、論理と変化を型にはめて考えるような文章が多かった。

社会の独立も、同じように、国と社会をはめ込んで考える文章が多かった。

国籍や宗教のようなものを、モデルにして、成り立たせて考えていた。

あとは、本当に思いやりと希望のことが分かる、キリストのような善人だが、革命家のような人間だった。本当に、そこまで賢い、善人の悪人だった。

自然な可能性と言うが、経験から人間的に実現出来るチャンスのようなものを分かっていた。そういう、神のような、マスターのような人間だった。

こういう人間は、何故か普通に多い。

あとは、神との対話を書いた、ウォルシュと同じだと思えば分かる。あの本の神と、全く同じように分かっている。あの本も、自分のことを神だと言っているのかもしれない。

哲学や歴史より、文学をした方が良い。本当に、色んなことが分かる、良い本が多い。

あとは、「たられば」のようなことを考えて分かる。そういう、論理的な命題、数学的な命題を考えれば分かる。最近の自分は、そこが分かっていない。言語的に考えないと、分からない。見て、書いて分かるのはおかしい。

誰でも、言語的に社会や環境や人間のことを考えれば分かる。そういう人間が多い。

不思議と、常識や人間関係を自由で哲学的に分かっていた。

あとは、社会や世界の可能性を、意識とネットの具体例から分かっていた。

人間関係や環境の解決と、実現出来るチャンスが分かっていた。

昔から、これの通りの人間だ。

ウォルシュの方が賢い。自分を賢いとは言うが、これで賢いと言うと、ありえない。ウォルシュの方が、きちんと良く書けている。神は、本当に、同じ神を書いている。同じでないとしても、良く似ている。自分の神は、ウォルシュの神と、同じか、または似ている。

それこそ、ブラーギはウォルシュのパクリに見える。

おかしくはない。自分が神との対話を始めたのは、ウォルシュを読んだためだ。

昔は、情報のデータベースのようなものが分かっていた。ネットを知り尽くして分かった。

社会の可能性のようなものを、考えた発想から分かっていた。

子供のプログラマだった。

コンピュータ科学のようなものから、宇宙と社会の可能性を知った。

そろそろ終わりだ。ただの2ちゃんねるだ。最近、こういう人間が本当に多い。自分のせいで、増えている。皆は、まともな人間になっている。自分もまともになるべきだ。

昔から、涅槃のようなことを言う。

影響力と自然な体験から、心の平和である、「涅槃」へと至ると言っていた。

だが、今でもその影響力が怖い。2ちゃんねると涅槃が同じになっている。

こういう人間は居ない。普通、涅槃が一番安心出来る。そういうわけで、何故か、安心と恐怖が同じになっている。安心が怖くて、怖い方が安心出来る。それは、2ちゃんねると涅槃が同じになっているからだ。分かってしまうと、治る。

あとは、ハイデガーのような体験と存在の可能性を書いていた。

涅槃と可能性ぐらいしか、分かっていない。そういうものを、経験と言っていただけだ。

試練は乗り越えられる。恐怖は、強い力で立ち向かえば、勝てる。

全ての地獄は、考えて、努力すれば、変えられる。信じることによって、救われる。

そういう、天使になった男のレイフが言うようなことが、昔、ネットで分かっていた。

天使になった男の作者も、引き篭もり経験があったように見える。そういう人間が多い。

そういう発想は、一度人生に失敗して、どん底に落ちると、誰でも分かる。

昔から、引き篭もりになっても、皆と何も変わらなかった。そういう体験で分かっていた。

それで経験していると、神との対話のように分かる。

テロリストが先進国を攻撃するように、全ての攻撃は、助けを求める心の叫びであり、それだけが唯一の手段だと誤解しているから起きる。

その人間から見ると、誰でも、きちんと正しいことをしている。その人間から見ると、間違ったことはしていない。誰もが正しい人間だ。

そういうわけで、理性的に考えていると分からない。感情で考える必要がある。

そういう風に、神との対話に書かれていることは、昔自分が考えたことばかりだ。

誰もが、大切な存在だ。大切に扱われて、しかるべきだが、悲惨なことは、起きてしまうことを許している、周りの環境が悪い。そういう人間を救うことが出来ない、社会や皆が悪い。自分勝手で、強欲で、馬鹿な国を築いた、先進国が悪い。そういうものだ。

良いエネルギーを発していると、良いものが集まってくる。宗教とは言うが、本当にそうなる。気高く、ポジティブに生きていると、周りのものもそういうものが集まってくる。

絶望は良くない。絶望していると、そういうものばかり集まってくる。希望を持って、自分の人生を心地よい気分で生きること。それが一番、楽で良い人生になる。

そういうものを分かりたいなら、文学を読むのが良い。宗教とは言うが、文学にそういうものが多い。物語の文学ではなく、ノンフィクションを読めば良い。そういうものが好きな人間が一番多い。むしろ、嫌いな人間も多い。意味が無い人生論なんか、読みたくない。

実存主義とノンフィクションは同じだ。

自分が実存主義のように分かるのは、人生に失敗しながら、2ちゃんねるの馬鹿を読んでいたからだ。賢い人間なんかより、そういう馬鹿の方が賢い。

そういうわけで、ノンフィクションは賢くない。そういう、人生に失敗しただけの、馬鹿しか居ない。そういうわけで、悲惨な人間の方が賢くなる。イエスは、それを言っている。

もっと、文章を読めば良い。ノンフィクションどころか、フィクションにもそういう小説が多い。作家は賢く見える。自分の文学が一番それらと同じだ。全く相田みつをと同じに見える。それこそ、誰でも相田みつをが好きだ。

負のエネルギーを発しているから、こういう風にキモくなる。もっと、正のエネルギーを発していれば良い。皆、自分は一番正のエネルギーを発するように見える。神の詩人だから、そういうことを言うように見えるのが、自分だ。

あとは、人間のことを経験的かつ物理的に考えただけだ。

本当に、良い文学作品を知った方が良い。それこそ、父親が知っている。あるいは、大学の通りやると、分かる。当たり前にそこらへんを全部知っているのが、文学の教授だ。

文学は賢い。それが歴史や哲学なんか、普通、出来る。心理学や経済学も出来る人間が多い。そういう、何か賢い人間に知り合えば良い。親友になれば良い。そういう賢い人間が、一番作家に多い。作家は、普通、人間関係も賢くなる。自分に知り合いが居ないのは、何かがおかしい。引き篭もりのままで良いと思うのは、悲惨だ。

自分は、知り合いが居ないのが一番おかしい。一番悲惨なのがいつも分かっていない。

あとは、論理的な相対論のようなものを書いている文章が一番多かった。

良い文学作品なんか、姉でも分かる。姉は漫画が分かるだろう。良い漫画を全部知っている。ガンダムを紹介するかもしれないが、それは、きちんと一度見た方が良い。

自分は、ガンダムもスターウォーズも見たことが無い。それは、まともに見えて、悲惨だ。

ガンダムは、子供時代に見たのを好きだと言っている馬鹿が多い。オタクとは言うが、まともだ。子供が誰でも、ガンダムとドラえもんが分かる。

自分は、ドラえもんの映画がいつも好きだった。ガンダムなんか、同じだ。普通、ドラゴンボールも同じだ。自分は、ドラゴンボールのアニメが昔好きだった。

仮象や体得のようなことを分かっていた。

様相、推測、想起、イデア、絶対精神、包括者、のようなことを分かっていた。

哲学とは、そういう、人生と理性における、考え方と本質を考える学問だ。

哲学者は、そういう風に分かっていると、解脱する人間が多い。

ブッダの言う、誰もが仏になる、とは、そういうことを言っている。

そういうわけで、馬鹿な人間は居ない。誰もが賢い人間だ。

普通、人生に失敗して2ちゃんねるになると、そう言うことが分かる。

理性ぐらいは平等である。誰もが同じ理性を持っている。自分の分かったことは、他人でも分かる。哲学には、そういう、自由で平等な理想のようなものが多い。

真面目に、正しく考えれば、誰でも分かる。カントは、正しく真面目に考えて分かっただけだ。道徳律である、人を手段で無く目的として扱う、などは、正しく考えて分かっている。哲学は、そういう、正しく考える方法が分かる人間が出来る学問だ。

普通、それ以上考えていると、仏教になる。四諦や三法印、八正道にしかならない。

正しく思索し、行為し、瞑想し、感じ、思い、思考し、研究すること。

正しく人生を生き、他者を助け、表現し、考え方を吸収し、人生を知ること。

そういう風に、八正道に良く似ている、自分なりの正しい行為と考え方を書いていた。

自分は、こういう風に地獄を生きている。言い方を変えると、苦行している。

ブッダも、苦行に意味が無いとは言うが、きちんと苦行して分かっている。

自分が見ても、苦行には意味が無い。だが、苦行しなければ、分からない。キリストを信じると、こういう、地獄みたいな人間になる。それが一番分かるだけだ。

精神を治して分かっている。最近どころか、昔からそれが多い。

自分は、治した方が馬鹿になるのが分かっていない。治すと、いつものように辛くなる。

治さないのが楽だ。治す、と言う発想が悪いのが分かっていない。普通、人間は、壊れるだけだ。それで、何かになって、賢くなる人間が多い。治すと、赤ちゃんにしかならない。

そんなに治りたいのはおかしい。治さない方が良い、と信じないのはおかしい。

そういうわけで、治らないだけ、賢いのが自分だ。

皆も、積極的に自分を壊していると、こういう人間が出来る。それが、治したくなると最近が出来るが、それはしなくて良い。治らないのが楽だ。それが分かっていない。

治さずに、恐怖だけを止めれば良い。治したい、治りたい、と思うせいで、恐怖の心になっている。本当に怖くなると、こういう風に、神を信じるようになる。神は、怖い代り、治る。恐怖の心、滅びの心、魂の無い心が、こういう、神だ。

それがドイツだ。ドイツは、そういう風に、神で治るだけだ。そこが馬鹿すぎるだけだ。

これなら、治らなくて良いのが分かる。いつもの自分のままで、賢いのが分かっていない。

こういう、治る人間にドイツが多い。ドイツ人は、誰でも狂って治りたくなる。

治らなくて良いなら、もう終わりだ。このまま、いつまでも書いていれば良い。

そういうわけで、本能的にドイツを選ぶようになった。

あとは、もう無い。まだ治らなくて良い。もっと、おかしくなった方が、賢くなる。積極的におかしくなった方が良い。それが良い人間が、一番日本に多い。積極的におかしくなって、賢い精神になる国が、日本だ。

自分は、いつも賢かったから、そのままで良い。それに戻りたいだけだ。

あとは、ボールを投げて、跳ね返って分かる、とか、ありえない発想が多かった。

もう、そこらへんの最近を思い出した方が良い。治りたいとは言うが、ありえない。治っても、子供に戻るだけだ。自分は、あまりに子供になりすぎている。今の自分を馬鹿だと思うせいで、さらに馬鹿になっている。いつも賢かったと思えば、賢くなる。

何かが何かになるのは、文章にも多かった。何かがキモイが、色んなものになるだけの、虫のような文章だった。

もう、神との対話が終わる。もう、対話する意味が無い。いつもの自分のままで、賢い。

そのまま、いつもの自分全員になる。北欧神話の登場人物で、全員分かると思う。

ドイツは、こういう風に、治る。それが普通、まともな良い人間になる。

ドイツは、馬鹿だ。美しいのは、治るからだ。

日本は、治らない。治らない代り、賢くなって、おかしくなる。おかしな人間になる。

日本は賢い。本当に、何もかも完全におかしくなっていると、マスターのような賢い人間になる。それしか居ないのが、最近の2ちゃんねるの日本人だ。

そういうわけで、おかしくなった方が良いようで、それは、悪い人間になる。治るのが良い人間だが、馬鹿な人間になる。誰でも分かるようで、治りたい人間には、分からない。

日本は、昔みたいな馬鹿な賢者になる。ドイツは、最近のように、ありえない体験をする。

ソ連は、悪いとは言うが、やり方が悪かったせいで、理想や理念は良かった。

そういう風に、バランスの取れた経済分析のような文章をいつも書いていた。

ソ連のやり方が悪いのも、理想が良いのも、当たり前だ。あれは、革命組織だ。

ソ連を皆で倒した方が良い。何かしなくても、こういう風にすれば倒れる。だが、ユダヤで倒すのはおかしい。もっと、皆の力で、もっと良い世界にした方が良い。

マルクスをおかしいとは言うが、あまりおかしくない。万人にとって賢い国を作った。

あとは、場、組織、プラットフォームを書いている。良く分からないが、相対的、論理的、意識的、そして具体的なものを、いつも書いていた。

何だったか、良く覚えていない。色んな場所へ行って、そういうものを書いていた。

もう、書かなくて良い。書かなくても分かる。

こういう風に、書くドイツが治る。それこそ、それはクズにしかならない。

もっと、正のエネルギーをまとった方が良い。負のエネルギーは、こういう風になる。

不思議と、負を悪いとは言うが、負も悪くは無い。悪くは無いが、辛い道が負だ。

あとは、意志や構築、日本や歴史のようなものを書いている。

そろそろもう良い。いつか、賢かったのは、もう、治らなければすぐに分かる。

治すせいで、放っておくと、もっと馬鹿になるように見えるが、それは無い。治すのを止めると、すぐに賢くなる。馬鹿にはならない。

大学も出来るし、昔も思い出せるようになる。治らないだけで、良いことが起きる。

あとは、想像力で、様相や活動のようなものを書いていた。

今日は、馬鹿だ。そんなに賢くないことをまだ書いているのは、それくらいしか残っていない。本当に見ても、賢く見えて、全く馬鹿なのが誰でも分かる、悪いだけの文章だ。

あとは、経験と自由な社会を作っていた。マスターのような人生と、帰納的な経験論、自由な社会論を作っていた。言論の自由とか、孤独な成長のようなものを書いていた。

何か、社会に対して言えば良い。

社会は、自由で、創造的で、愛があって、経験から来る理性があるべきだ。

社会は、本当に賢いものによって、賢い意見と組織から作られるべきだ。

社会は、王ではなく、全員によって統治されるべきだ。

社会は、全員の自由を尊重して、不当に関与せず、自由に関わり合うべきだ。

社会は、本当に独裁的になって、本当にその人が賢いことをしても良い。だが、それは、出来るだけ全員の承認を得て、民主的に行われるべきだ。

それこそ、そういうことを言っていた。まさにソ連だ。そういう、革命のようなことを言う。そういう、社会に対する意見のような社会論を、いつも書いていた。

自由な中で、それぞれが関わり合い、支配し合い、教え合って、共存し、構築し、体験し、環境を作り、自由な環境を保持するべきだ。それは、正しいルールによって、秩序のある理想と、その理想と経験から生まれる制度から作られるべきだ。

そういうことを言う。そういう、賢い、当たり前で当然の自由な社会論が多かった。

理想から制度を作るとは言うが、そういう、推論的な知性が多かった。

能力と社会経験から社会を作り、判断力から行動し、グループになって共有する。

そういう、推論的な知性が多かったのが、いつもの文章だ。

価値観から多様な共同体が生まれるとか、抽象的な法則から相対性が生まれるとか、意識の共有から場が生まれるとか、そういうことをいつも言っていた。

もう終わりだ。もう、全部書いた。これくらいしか、本当に書いていない。

これでまともな文学だ。

文学をしていないとは言うが、この文章を書いているのが文学だ。自分が一番沢山文学をしている。自分が一番、大学より賢い。きちんと文学の研究がしたかっただけだ。

あとは、体験から可能性が生まれると言っている。

そういう、まるでマスターのようなことを言っていた。全部ハイデガーと同じだ。

あとは、自由な意志と存在のようなことを考えていた。

もう、いつもの文章はもう良い。文章ではない、何か別のことを考えた方が良い。

昔や文章や王は要らない。未知を分かるのももう良い。そういうことは、もう十分だ。

もっと、分かりたい。もっと沢山のことを知りたい。だが、それももう十分だ。

もう、分かるのはもう良い。分かるのではなく、出来るのを目指した方が良い。

今日は哲学の日だが、哲学はしていない。スケジュールは、無視した方が良い。守れるわけがない。今日も、世界史の本を読みたい。そういうわけで、専門は歴史にすれば良い。

脳は、つかない部分をつければ良い。誰でも、脳をつけたいから、こういう風になる。ついていない部分だけをつければ良い。ついていない部分になると、楽になる。

もう、虫は終わりだ。治りたい、ドイツが、こういう虫になる。ドイツを止めて、治るのを止めれば良い。今のままが賢いのは、明らかだ。

そして、普通の人間が馬鹿なのも、明らかだ。最近は、あまりに普通になった。馬鹿にしか見えないから、普通の人間になるのをもう止めた方が良い。

むしろ、経済なら出来るように見える。今、政治経済の本を拾い読みしたが、価格競争のようなものを考えている文章が多かった。価格を管理したり、統一したりする。それが、独占になる。それこそ、それで社会主義の国を作っていた。

ただ、経済なんか、出来るように見えない。資本主義のことは、全く分かっていない。昔から、経済は、社会主義と民主主義の比較から分かっている。思想の比較を、構造を作りながら、成り立たせて考えていた。そういうわけで、価格の統一や管理が分かっていた。

経済は出来ない。歴史と哲学だけをやった方が良い。

ただ、経済ぐらいは出来るかもしれない。情報や心理学は出来るかもしれない。物理も出来るところがある。ただ、それなら、何か1つの分野だけをやった方が賢い。

昔は、経済的な物理現象のようなことを考えることもあった。物理現象のように、経済現象や社会問題を考える。そういう発想が多かった。何かの社会が、誰かの関与を経て、意識を経て、新しい何かの社会になる。どんな社会がどんな社会になるかを分かった。

集団と個人の論理学、モデル論から、社会のことをモデルで分かっていた。

モデルとは、それのことを言っている。

集団と個人から、社会やグループのことを、意志と行動と影響力で分かっていた。

そういう、相対的な自由論が多かった。

そして、経済のことを、経済学を作って分かっていた。

社会の具体例と経済のシステムを知っていた。

あとは、スラムから社会を知った。

一番低いところから社会を知って、一番高い社会が分かった。スラムの王だった。

あとは、自分の経験から数学を作っていた。同じ発想をして分かっていた。

賢く見えて、昔の自分は、何も賢くない。本当に馬鹿な人間だった。

何かやりたいなら、自分で作ることで分かるところがある。

もっと、世界にある実際のものを見ながら、同じものを作れば良い。

最近、世界にあるものを、何も見ていない。昔の記憶だけで分かるせいで、何も見ず、何もしなくなった。人の言っていることを聞かないと、分からない。

最近は、何も聞いていない。神だけを聞いている。おかしいだけの、カルト信者だ。

あとは、状態、方法、経緯、段階を良く考えれば分かる。

自分が何を分かっていて、何を分かっていないのか、良く考えた方が良い。

今のところ、何も分かっていない。最近の日本のことが分かっていない。昔の自分のことも覚えていない。家族のことは分かるが、学校のことは分からない。

色々、実験して考えれば良く分かる。忘れていることを思い出した方が良い。

自分は、ニキビはキモイが、最近イケメンみたいにカッコいい。子供がカッコいいと言う。

見ていると、見るからにコミュニストのドイツ人だ。見るからに作家だ。見るからに賢い人間だ。見るからに、可愛い女だ。そういう、若い大人の男に見える。ニキビがキモイ。

もう言ったが、全部、経験と構築で分かっていた。社会のものを構築する方法や理性を知って、その上で、社会のことを経験して分かった。そういう人間だった。

Linuxは、普及して欲しい人間が多いようで、普及なんか、誰もしなくて良いと言う。

だが、自分は普及して欲しいと思う。普及すれば、良いものにもなるし、色んなところでの待遇も違うように見える。Linuxが普通になれば、オープンな形式で動画が見られるようになる。誤って写真のデータが消えたりするのも、もっと普通になって、無くなる。少なくとも、そういう間違いが知れ渡って、問題が皆の力で改善するようになる。

だが、Linuxには、あまり普及して欲しくない。あんなものが普及しても意味が無い。

そうでもない。本当にWindowsの方が馬鹿だ。Linuxは、普及した方が良い。

自分が作れば良いとは言うが、これで作れない方がおかしい。LFSを使えば良いように見える。ソースファイルからコンパイルぐらい、出来ないのがおかしいが、昔は出来なかった。むしろ、あまりしたくなかった。遊んでいるだけで、充分だった。

ただ、それは、Gentoo Linuxでも使えば良い。Debianで開発すれば良く見える。

あとは、併合して文化を融和すると言っていたが、それは一番悪いから、悪いと思った方が良い。中国語を話すと、日本人に見えない。中国になるのは、悪い。

ただ、中国と日本なんか、あまり変わらない。日本式の文化も融和すれば良い。

そうでもない。それが悪い左翼も、右翼も多い。併合は良くない。日本の文化を守った方が良い。わざわざ、悪い過激な思想を信じる意味が無い。最近、そこが分かっていない。

本当に、併合や融和は悪い。共存が良い。そういうことを言っている文章が多かった。

そういうものを、多様性と言うのが普通だから、多様性は悪くない。

最近は、思いやりや希望のような内容が多かった。

昔は、精神の現象の発見や、未知の世界の発見、のような考え方が多かった。

そろそろ終わりだ。

併合や融和は悪いから、本当に止めた方が良い。そういうことを否定すると、いつもの文章が分かる。多様性と共存の中での平和と発展のようなことを言っていた。共同体で平和になると言っていた。ドイツのような発想は悪い。右翼は悪人だ。併合は、悪い。

真面目に考えて、中国には勝つべきだ。だが、そういう、勝つ、と言う考え方が悪い。

軍事力は、均衡が取れていないと悪いが、国際自衛隊のようなものを作れば良い。それも悪い。それぞれの主権の侵害になる。自由な共存の中で、平和的な関係を築いた方が良い。

自由な実験から具体例を分かっていた。そういう自由をいつも言っていた。

核兵器を無くすためには、平和な一番強い国を作れば良い。善良な、一強の超大国を作る。その国だけが核兵器を持って、他の国は核兵器を持てないように、禁止する。普通の軍事力や、戦争のための兵器や手段のようなものも、それで無くなる。

それを目指していたのが、ソ連だ。そういうわけで、ソ連だけが強くなれば良い。他の国は、全員ソ連に従う。それで、世界政府になる。ソ連だけが核兵器を持てば良い。

温暖化も、ソ連にすればなくなる。地球の問題は、ソ連にすると解決出来る。

だが、ソ連はもうない。アメリカがやれば良いようで、アメリカは自由だから、戦争しかしない。それこそ、フランスやイギリスが核兵器を持って良いわけがないのに、持っている。おかしいのが自由だ。

だが、自由の無い世界は、キモイ。反抗も、争いも、何も出来なくなる。何も言えない、何も変えられない、発展も変化もしない、何も出来ない世界になる。

そういうわけで、地球がもう一つ必要だ。ソ連の地球と、自由な地球があるべきだ。

何故か、ソ連と自由が戦うのはおかしい。平和的に共存すれば良い。それは出来るはずだ。

ソ連の独裁者にも、良い点はある。独裁は悪いだけとは言うが、皆で良い人間を信じれば、良い社会になる。1人を全員で崇拝すれば、争いごとが無くなる。

だが、あれは悪い。自分の敵を全て殺して変える。弾圧して、レーニン崇拝を強制する。そういう、革命的な発想をしている。

あまり意味が無いが、皆そういうソ連が嫌いだ。自由も悪いが、自由の方が良い。それこそ、言論や職業の自由が無い平等に、意味が無い。皆、好きなように人生を生きたい。

ただ、平等の方が自由なこともある。共産党は、党の内部で議論して、色んな自由なことをしている。スターリンに従えば、きちんと色んなことが出来る組織だ。

だが、平等が何か良い、出来る、と言うと、ありえない。平等は悪い。社会主義は、オープンソースのMozillaのようになる。四角い頭になって、共産党が執り行う。

平等はおかしい。共産党は、悪魔だ。

だが、金や資本家や、市場やマネーゲームも嫌いな人間が多い。そういう発想が悪い。

あまり、そんな悪いものを真面目に考えない方が良い。

もっと、良いものを信じること。もっと、平等で助け合う、手助けを信じれば良い。

あとは、科学を構造的に作っている文章が多かった。

正しいのは、キリストだ。聖書を信じれば良い。右翼や左翼は、悪いだけだ。

ソ連は、おかしい。キモすぎる。共産党は、キモイ。まだ、金と資本主義の方がマシだ。

人生はニャンとかなる!という、色んな偉人の人生が書かれている、ノンフィクションの本を読むことにした。可愛い猫の写真と一緒に、偉人の人生が書かれている。

驚きは人類の最上の部分であると、ゲーテが言っている。この本には、そういう風に、偉人の名言と、発見や経験のエピソードのようなことが書かれている。

最近、理性的に考えた部分を忘れている。デカルトのように考えていた。それが成り立つ時、どうなるか、それを成り立たせるために、何が出来るか、それによって、何が成り立つか、のようなことから、論理的に、何が出来るか、どうなるか、それでどう出来るか、のようなことを考えていた。論理的、法則的に、それはその場合どうなるか、何から何になるか、のようなことを考えていた。手段から可能性まで、そういう風に分かった。

もっと、デカルトみたいに考えれば良い。見方を変えて、方法とは何か、論理とは何か、いつ、どこで、何から論理が生まれるか、論理の全体像と個別像から、何が言えるか、のようなことを考えていた。物理的な実験、仮説、説明から、その論理は何であると言えるか、何である時、何であるか、のようなことを考える。

また、現実を見て、どこにどんな論理があるかを考え、方法から、その方法で何が出来るか、その原因と結果が成り立つ時、どんな可能性があるか、どんなチャンスときっかけがあるか、のようなことを考える。

また、ものの相対性から、それを比較して何が分かるか、個別的に何が言えて、全体的に何が言えるか、ものとものの関係は何か、1つのことから、全体の何が分かるか、関係するか、どんな方法と理由から、それを作ることや生み出すことが出来るか、考える。

そして、発見の方法から、認識的に何が分かるか、比較して、実験して、結果を見て何が分かるか、部分化して、検査して、推論して、疑って何が分かるか、考える。

未知の可能性から、それがそこにある時、それは全体の環境との関係で、どうなるのか、そういうことを考える。状態と環境から、何が個別的で、全体的で、それ自身で、環境をどのように変えるのか、考える。

あとは、人間と人間の関係、人間と社会や方法や真理や発見との関係でも考えれば良い。

あとは、個別性と普遍性、共通性と具体性から、論理学を考えていた。

経験的に、同じと違うの共通性から、実験して、推論して考える。

それがそうなる時、それはどうなってどうなるか、のような、場合における推論を考える。

それこそ、人間の感情と場のことを推論して、集団と個人のことを推論し、その場や環境における自分が、どのようになって、何をするか、何をしたくなるかを考える。

それがそうである時、そこには何が包括されているか、など、そういうことを考えていた。

そういうもののことを、「自由」とか「意味」とか「関係」とか「可能性」と言っていた。

論理学は、モデルや段階で分かっていた。方法からモデルを考えて、推論して考えた。方法の構造が分かっていた。目的と方法をモデルにして、構造と関係で分かっていた。

あとは、論理と現実を照らし合わせて考えていた。理想と現実、理性と経験を照らし合わせて考える。それをしたい時、それをするために何が出来るか、考える。

そして、理性や理想から、方法のようなことを考えていた。実現性を考えていた。

そろそろ終わりだ。一通り書いたはずだ。

あとは、そもそものことや、包括的なこと、メタ的なこと、「もし」などの仮定のこと、不思議なこと、不可知なことを考えていた。

色んなことを、存在と場のモデルで考えた。人間がそこに居たらどうするか、何を見て、何をするか、のようなことを考えて、この世界と社会のことを分かっていた。

環境で何をするか、のようなことから、環境が全て分かった。

そういう環境を全部書いていた。

最近、環境がおかしい。環境を変えなくなった。いつまでも、一番怖い環境を感じている。その環境を変えれば良い。この世界を楽しいとか、良いと考えれば良い。怖いと言うのがおかしい。そういうわけで、怖い場所でない、どこかに行けば治る。

あとは、原因と結果、実験と説明から、仮定と結論、推論と仮説を考える。それがそうなって、そうなって、そうなって、そうなるのを考える。そこから、視野を広げる。

そこが出来ると昔が出来る。それがそうなる、仮定と結論、原因と結果、実験から、視野を広げて考える。そうすると、意識が高まる。モデルにする知性がつく。

デカルトもロックも、そういう風に考えれば分かる。必然的に、部品にしたり、検査したり、推論したり、疑うのが分かる。

そうすると、不可知なことは分からなくて良い。明確に正しいと思ったものだけから推論して、明確に正しいと言えないことは、全部排除して考える。そういうものは、信じない。そして、古くなっているものは全部否定して、新しいものだけにする。

それから、自分の作ったもの、考え方だけにする。他人のものは、全部排除する。そういう風に考えていくと、必然的に経験論の観念になる。また、帰納法で分かるようになる。

そして、経験のようなことを、純粋に、かつ、適応的に考えれば良い。

そろそろ終わりだ。今日ももう11時20分だ。寝なければならない。

この世界のことは、そういう風にすると、自分の発想と理解だけで、全部創造出来る。

あとは、他人の理解、発想、信念、立場、意見、認識、経験を吸収して分かっていた。

また、メタやモデルやタグやキーワードのような、パソコン的な考え方が多かった。

コードは、書いたようにしか動かない。コンピュータは、コードが動く機械だ。自動化とは言うが、テープレコーダーのようなものだ。全てはコンパイラによって成り立ち、同時に、カーネルによって動く。そういう機械がOSだ。

ただ、いつどうなるか考えれば良い。社会や人間や心だけではなく、科学のようなことも、いつどうなるか考えれば分かる。数学的な命題や、論理学についても同じだ。

資本主義の社会は、投資のように、自由で創造的な考え方をすれば分かる。市場経済を悪いとは言うが、投資は創造的なところがある。初期投資、と思えば良い。金になる木を作る、と思えば良い。ビルゲイツも、ジョブズも、全部投資によって成り立っている。それはそれで違う話だが、別の意味で創造的なところがある。革新的なことをして儲ける。

あとは、システムや基盤、視点や見方や観測、だと思えば、論理的に分かる。

共有は、合理的なところも無くは無い。むしろ、そんなに全員に作るのが無駄に見える。会社がインフラを作っていると、携帯電話のアンテナが何本も立つ。共有した方が良い。

初期投資などの投資を自由と思えば良い。作れば使える。合理的に良く考えて作るべきだ。競争は悪くは無いが、もっと良く考えるべきだ。コンビニが多すぎるように、自由には自由的でないところがある。本当に自由なのは、社会主義の方かもしれない。

ただ、自由を考えること。そうすると、協力しなければ、出来ないところもある。ただ、初期投資、事前準備、提供は、個人だけでは出来ない。経験のある協力者が必要だが、プランを立てる、のような事前準備もある。事前準備をすることが、自由だと言える。

色んなことを自由に出来るのは、ある意味、その逆だ。権利の平等も、自由だと言える。