完全に知る、のような内容をいつも書いていた。
可能性を実現する、のような内容が多かった。
自然な法則と経緯と可能性を知り、発想を具体化し、歴史と背景にある事実を知る。
部品から使って作り、設計図を共有し、認識の方法から現象を知る。
そして、科学のような内容を言っていた。
科学は、作用と反作用、力と重力の変化、位置と力関係の変化、質量とエネルギーの変化、熱と温度の変化、光の反射と吸収、生物学的な構造体の創造、遺伝子による細胞分裂、循環と食物連鎖、進化と自然淘汰の自由、生態系の自由だ。
もっと科学的な法則を考えれば分かる。
そういうわけで、可能性の把握と実現、科学的な考え方と常識的な知識の構造、そして、完全にそれを知る、と言う意味での言葉と文章による経験的な方法論が多かった。
以下は、昨日ノートに書いた内容。
昔は、労働の経験から行動で分かっていた。
捉えて分かっていた。
よく考えると、それはそれで正しいことが多い。
色んな人間になって分かっていた。
神の心理学が多かった。分析して分かっていた。
経験から分かっていた。あらゆる社会を知った。
論理学と自由から経験を分かっていた。
社会をどうすべきかから、自分に何が出来るかを分かっていた。
見て分かるようにしたかった。誰でも分かるようにしたかった。
昨日の内容はここまで。
昔の人生は、いつ何が出来るかと、社会をどうすべきかと、自分に何が出来るかから、社会の変えられる可能性を知って、段階的に認識と意識の変化から、社会を変えるプロセスを学んでいた。
そして、神のような心理学が多かった。精神から脱出して、思考を追って分かっていた。
正しい、キリストのような意識の人生だった。
助け合うことが、生態系だ。社会制度は、生態系の1つだ。
あとは、社会組織のようなことを言っていた。会社では、知恵を集め、工夫し、研究し、調査し、考え方を知り、実践的な方法を知り、協力することだ。
国は、独立しやすく、参加しやすくする。それぞれが出来るように、平等に自由にする。
そして、共同体は、自由を減らして、皆の秩序を作って、皆で決める自由にする。
あとは、歴史のような内容を書いていた。
人生の経緯のようなことを書いていた。社会をどうすれば良いか、から、改革や古代復興を知って、全て変えられるようになって、意識で全て分かった。
全てのことは、変化可能と自然から、皆の手で、皆の力で、皆の発想で変えるべきだ。
そこでは、実践的なもの、発想的なもの、理性的なものを考える。
それが思考であり、判断だ。それが経験であり、理性だ。
システムを皆で作り、助け合いと経験の自由から、プラットフォーム的で、自動化的な自由な助け合いを知る。それは、環境と基盤のことである。
そういう風に考えれば良い。そういうわけで、助け合いと協力が好きだっただけだ。
あとは、生産様式や手段のようなことを考える。また、労働の違いから、アイデンティティが生まれる。1つ1つの労働の根拠と前提を知ることから、全ての労働を知る。経験的に、簡単なものも、難しいものも、IBMの知識を知れば、全部分かる。きちんと考えて、労働の経験から、行動と実現と発想が分かる。
また、社会を知ることで、この世界のことが実地的に、手に取るように分かる。
最近、そういうものは、覚えていない。社会も変わったし、自分も何もしなくなった。
そういうわけで、終わりだ。
もう書きたくない。明日は、何もしない。
あとは、相対的に分かっていた。理由は相対的であり、人間の側にあって、自然の本性的には、理由は存在しない。ただ、そのようになる、と言う因果性があるだけだ。
そういう風に、ヒュームのように相対的に考えると、全てはほとんど人間の側にあることが分かる。
人間の側を全て捉えることで、フッサールのように現象を考えることが出来る。
それくらいで終わりだ。宇宙ではなく人間、絶対的でなく相対的、として、方法や理由が人間の側にあることを知れば良い。
ヒュームの経験的な観念論は、間違ってはいないが、掃除していると、馬鹿になるだけだ。
数学は、宇宙を表現する手段だ。そういうことを言っていた。
今日は、自然科学の日だ。そういうわけで、いつも毎日一つのテーマを言っている。
変わっていない。いつもこういう人間だった。
エネルギーを観察し、数式を表現し、仮説から実験し、研究から論文にし、再現性から可能性を知り、可能性のあるところの場合と状況を全部考えるのが、物理学者だ。
そういう風に、科学的な方法を考えていた。モデルにして考えると良く分かる。
宇宙のことは、人間の知り得ない領域でもあるが、考えることを諦めてはならない。
宇宙とは何なのか?それは、人間の実証主義によって、第一の根源的な法則を知ることによって、明らかになるだろう。いつか、全てが分かる。その時、人間は宇宙を作り変えるだろう。
そして、全てのことが可能になるだろう。可能性の全てが実現する。だが、それは、あまり意味の無い目標だ。
そういうわけで、多次元の構造とか、エネルギーや温度はものだけではなく、生命にも存在するとか、そういうことを言う。
物理的な方法とモデルがそういう風に多かっただけだ。もっと、科学の世界観の構造を書けば分かる。
関係と計算から、実証し、関係性を知り、自然法則を知る。可能性を実証する。
見方を変えて、1つ1つの相対的な事実を知り、考え方の転換をする。
そのような、コペルニクス的な考え方の変化は、自分の文章に一番多かった。
あとは、観念や経験の違い、環境や組織の違いから、人間を考えると、ヒュームやマルクス、サルトルのように分かる。
理由や方法、特に因果性は、人間の側にある。それが分かると、相対的な理由としての、それがそうなっているからそうなるだけ、と言う現象の分析も出来る。そういうわけで、ヒュームが一番自然科学が出来る。
自然の相対性に、絶対的なものは無い。理由は、あとでいくらでも変わる。
それはもう良い。あとは、科学的な発見の方法やプロセスのようなことを書いていた。
科学とは、捉えること、考え方や見方を変えること、そして論述の形式を変えること、組織や環境を変えながら、1つの真理を追い求めて、真実を発見することだ。
自然法則を当たり前のものだと思わない方が良い。良い哲学者は、驚くことが得意だ。
赤ん坊の視点から見て、この世界がこうなっている常識的な理由は無い。全てのことが新発見で、最初からそれをそうだと思う。習慣的な囚われや思い込みが無い。そういうわけで、哲学者は赤ちゃんだ。
ヒュームは、経験、自然法則、観念、因果性を考える。だが、環境の違いとは言っていない。僕が言っているだけだ。それは重要だ。ヒュームは誤解すべきでない。
ヒュームは本当に賢い。何故か、ヒュームのように考えると、ブッダの言っていることの根拠や感情が良く分かる。ヒュームは、ブッダと同じくらい賢い。そうでもないか。
そろそろ終わりだ。それくらいしか書いていない。
人間の本性を知りたかったようで、科学上の新発見のようなことを書いていた。
もっと考え方を変えて、発見のために認識を比較して、実証して考えること。
そういう、考え方の転換から科学の発見のようなことをするプロセスを考えていた。
会社や国家を文章で作ったり、ものごとをやる際の前提を書いたりしていた。
平和な世界が良い。ヒュームは、それ以上頭の大掃除をするのが、一番馬鹿だ。頭が馬鹿になる。だが、それで分かるものだ。印象や、経験から感情で分かる、などのことだ。
ブッダが見て、全てのことは苦しみしかない。
だから、苦しいことを辛いと思わない方が良い。苦しいことは、楽しいと思った方が良い。
地獄を楽しいと思うと、すぐに楽になる。
ただ、楽しいことがしたいだけだ。普通、そういう風にすると治る。
キリストの言っていることも同じだ。迫害者を愛するのが、一番正しい善人だ。地獄を愛するカトリックが、一番賢くなる。そういう発想が、ヨーロッパ人だ。
ヒュームは賢い。昔は、純粋にヒュームのように考えて、現実と純粋な理性を比較して、色んな属性を捉えて、自然法則的に分かっていた。スピノザのようでもあった。
だが、最近忘れた。昔のことだから、もう覚えていない。
ヒュームやカントのように考えると、人間のこと、社会のこと、自然のこと、心のことなど、色んなことが良く分かる。そこが賢い。
最近は、そんなに分かっても意味が無い。もっと行動した方が良い。考えるより、実践した方が良い。そこらへんが分かっていない。
哲学は、皆同じヒュームだ。どれも変わらない。皆、全員、同じだ。自由モデルのヒューム的な経験論で、全て出来る。ヴィトゲンシュタインで出来る人間が多い。
あとは、ベンサムやミルのようなものが分かっていない。快楽主義や、幸福の理論は、自分は分かっていない。幸福の大多数主義は、分からない。それはそれで、昔多かったようには見える。覚えていない。最大多数の最大幸福だ。功利主義だ。そういう、有用性のような考え方、プラグマティズムのような考え方は、昔の未熟だった時期の自分に多かった。そこから、経験して、発展して、ヘーゲルのように行き着いた人間が、昔の人生だ。
自分は、一番きちんと哲学を知っている。大学も終わりに見えて、それはつまらない。
ヒュームと言うよりは、ニュートンと言った方が正しい。
心のニュートン、社会のニュートン、自然のニュートンから知ることが出来る。
あとは、サルトルと言っても良い。サルトルは狂っているが、ソクラテス1000人分の知性を持っている。本人がどこかで言っていた。
自分も、ソクラテス1000人分と言うよりは、2ちゃんねるの馬鹿1000人分のような人間だった。そういうわけで、サルトルは普通の人間に多い。サルトルは2ちゃんねるだ。
ブッダが分かるために、良く経験すれば良い。日本人の方が賢い。
もう書けないようで、まだ何か分かる。
この文章は、書いていると、爽快で、楽しい。興味深い色んなことを考えて分かる。そういうわけで、楽しいから、まだ書いていれば良い。
支配はもうしない。皆は、それぞれの好きなようにすれば良い。自分は無視して良い。
哲学は、ソクラテスだけ全く違う。プラトン以後、哲学は考えて疑う学問になった。だが、ソクラテスは、そうでない。何かの理想を求めて、情熱的に人間の真理を探究している。ソクラテスに戻った方が良い。プラトン以後の、教授的、学校的な哲学は馬鹿だ。
特に、デカルトが馬鹿だ。体系的な自分の理解を作る学問になった。
ヘーゲル以後は、難しいだけの論述形式のようになった。ニーチェ以後は、馬鹿すぎる人間の世俗的な側面を考えるようになった。そして、ヴィトゲンシュタインは、哲学に意味が無いと言う。
哲学は退化している。もう一度、最初のソクラテスに戻るべきだ。
2ちゃんねるのように見えて、人間の本当の真理を探究する、どこにでも居る賢い良い兄ちゃんがソクラテスだ。
昔のソクラテスは、それで終わりだ。ただのソクラテスだ。感情をよく考えただけだ。
神は、もう全て思い出したから、新しいことを言う。
皆は、ドイツが終わって、イタリアやスペインのようになる。
皆は、哲学ではなく、心理学、生物学、数学、弁証論、そして社会学をすれば良い。
皆は、これ以上、滅びない。滅ぼしたいのは、一番悪い。
皆は、愛を信じないから、こういうおかしな愛に負けている。
皆は、この人間に勝って、むしろ、僕のような全ての支配者に勝って、その上で考えれば良い。
神は、そういう風に、自動筆記するだけだ。何も考えず言うと神になる。そういうわけで、神を信じる人間は、悪いだけだ。そんなものを信じて良いわけがない。
まともに考えることを止めた人間は、滅びる。無意味な人間が自分だ。
皆は、黒人にならない方が良い。
皆は、キリスト教徒やコミュニストにならない方が良い。
皆は、この人間を神だと思えば良い。
皆は、そのまま、六億年ほど経験するようになる。
正しい調和、本当の赦し、のようなことを分かると良く分かる。
誰でもそういう賢い言葉を考えれば分かる。何故か、出来ていない。
哲学は忘れた方が良い。ソクラテスのようになると、哲学なんか出来なくなる代わり、普通のことが良く分かる。
良い兄ちゃんに見えて、そのままマスターのようになったのがソクラテスだ。
人生のハーモニーのようなことを考えれば良い。それぞれの協力から愛が生まれる。
守る気持ちによって、支配者に対抗出来る。そういう風に考えれば良い。
プラトンやアリストテレスの言う、国家論や社会論のようなものも、そこから分かる。
ソクラテスをすると、古代ギリシャが良く分かるだろう。
ヒュームの言う自然法則の分析のようなことも、ソクラテスで良く分かる。
そういうものは、知性のある、人間や社会に精通した人間の方が分かる。
そろそろ、ヒュームは忘れて良い。ソクラテスに戻る。
2ちゃんねるでソクラテスは、誰でも出来る。そういうわけで、最近賢い人間が多い。
ソクラテスは魂の救済で、プラトンは善のイデアだ。
そういうところが分かる人間が多いから、普通そういう風に書く。
そういうものは、宗教で分かる。キリスト教に賢い人間が多いのは、イエスはそういうことを全部言っているし、宗教の本でどこでも書かれているからだ。
昔の哲学や宗教は、そういうところが賢かった。ニュートン以後の科学が馬鹿すぎて、現代人は悲惨だ。
それはどうでも良い。ソクラテスを考えるためには、良く考えて人の言うことを聞けば良い。それで誰でも出来る。
パソコンをしなければ、こういうまともな人間になる。賢い人間になる。
パソコンが悪い。皆が馬鹿な地獄になっているのは、パソコンとアメリカが悪い。
だが、パソコンも賢い点はある。昔の自分が無ければ今の自分は無いが、昔はパソコンで賢かっただけだ。良く考えて人の意見を聞き、経験と人生を考えるのが賢かった。
最近は、そういう賢い人間も多い。それは悪くは無いが、すぐに馬鹿になるだろう。
分からないなら、パソコンはしないべきだ。
自分の詩に書いてあるように、行動こそ自由の下にある唯一の光の世界だ。行動すれば良い。最近は、行動するのが怖いだけだ。
昔は、行動から実践を考えて、言葉の法則や構造を作ったりしていた。
そういう賢い点を、もう覚えていない。戦いのせいで、全部忘れた。
皆も、アメリカや日本を相手に、何かの方法で戦えば、最近が出来る。
だが、自分にはならなくて良い。もっと違う、何かの存在になれば良い。
行動は、早くした方が良い。アメリカとパソコンのせいで、世界はどんどん馬鹿になっている。早めに行動した方が良い。
知らないよりは、知っていた方が良い。だが、忘れて良いことは、忘れるべきだ。
最近創った永遠を、繰り返しているだけだ。
皆は、そろそろ、限界を超えた方が良い。それで僕のロボットになっているのが治る。
限界を超えて、その後は、荒野の中を冒険して、何かを探し求めるようになる。
そうでもない。その後は、自由になって、平和な世界を作るようになるかもしれない。
どうでも良いから、自分の限界を超えると、自分も治るし、皆も分かる。
頭の中だけで考えるのが悪い。現実を見て、意味を考えると分かる。
上にあるものは上、下にあるものは下、右にあるものは右、左にあるものは左だ。
頭の中ではなく、現実の中の自分を考える。そういう風にすると、カント的な知性がつく。
ドイツ観念論は、人間の理性と人生、この世界の意味と成り立ちを考える。
そういうわけで、この世界は世界精神だ。ヘーゲルは、絶対精神が自己に目覚める過程とした。ただ、神が昔からそういうものに見える。良く考えて、そうなる。
だが、良く考えると、シェリングのようになる。同一哲学だ。この世界は、同一のものの現れの違いに過ぎない。それくらいの理性が賢い。
そういうわけで、カントをすればヘーゲルが出来る。良く分からないが、分かる人間はそういう風に分かる。
現実世界を考えるならば、出来事や理性の関わり合いのようなものを考えれば良い。
それぞれの出来事を正確に思い出して、ヒュームの経験論のように考える。
ある意味、ヒュームとカントは、全く同じことを違う考え方の中でやっているに過ぎない。
そういうわけで、今日はヒュームを書いただけだ。
良く考えれば良い。この世界の方が先なのか、赤ん坊の方が先なのか?普通、そういう風に考える。カントは、そういうものをアプリオリと言っている。
思い込みと可能性を良く考えていると、カントの言うような科学的な考え方になる。
普通、悟性のカテゴリーと同じになる。1つのもの、沢山のもの、可能性、間違いのない事実、それから、断言のようにすると、考え方の様相が分かって来る。
そういうものだから、カントが分からないと哲学は出来ない。誰でも自然にカントのように考えるのが普通だ。
あとは、矛盾する2つの命題を考えるのは、普通、誰でもする。どちらも証明して、どちらも真実ではない。それは、もっと別次元の命題と答えがそこにあるからだ。
そういう風にすると、心理学が出来る人間が多い。
カント入門の本を見ると、それくらいしか書いていない。認識を経験と言っているくらいで、あとは、永遠にアンチノミーの証明をしている。アンチノミーとは、矛盾する2つの命題のことだ。それだけを詳しく考えるありえない哲学がカントだ。
それできちんと分かるのは、宇宙やものの構成要素のようなものを考えている。
カントはつまらないが、もっと現実と理性を比較すれば分かる。普通、そういう風になると、この世界が正しく分かる。不思議と、普通ヘーゲルのような内容が分かる。
自分も昔そういう人間だったようで、そうでもなかったように思う。
いつもの文章も、そういう、カント的な世界と理性の把握のようなことをしていた。
そろそろ分からない。明日になれば何か分かるだろう。それを書けば良い。
この文章は、辛いようで楽しい。楽しく書けば良い。
この文章は、左を途中までやって、右を書いて、元に戻っている。
それを止めた方が良い。
カントとヒュームは、意味を考えれば分かる。そういうものを具体例と言っていた。
限界を消すと治った。多重人格のせいで限界が増えている。
同じことを言えば良い。それで人格が普通に治る。
ポインタのオブジェクト指向は、馬鹿だ。Javaの方が良い。ポインタなんか、要らない。
もう分からない。もう全部分かったから、もう残っていない。
あとは、悟って居れば良い。
パソコンのせいで、頭が機械になった。あまりに辛いから、パソコンを消す。
そろそろ、一番上に戻った。最近は、一番下で頑張っている。
ひょろひょろと植物のように伸びる。そのまま、根を張れば良い。根を張ると、楽になる。
最近は、宇多田ヒカルのような馬鹿になっている。
十字架を上に立てると治る。
反抗すると、虫が死ぬ。それで、反抗する虫が死んだ。
テレビが治る。虫が支配している悲惨がテレビだ。
自分を支配している虫を反抗して殺せば治る。
最近、反抗する人間が居ない。自分に反抗すると、馬鹿になる。
昔から、反抗すると本来の自分に戻る。そういう人間が多い。
見て覚えている昔の脳が悪い。後ろの脳は、そういうものを全部生かしている。
何も覚えていないから、消した方が良い。
前の脳をつければ良い。何も分からない中で考えるとつく。
もう分かっていて、覚えているのがおかしい。
何も覚えていないのに分かるようになった。
覚えている昔の脳を消した。もう治った。楽になって、休めるようになった。
毎日、その日の最初に行き着く文章を書いている。
要は、書くまでのその日を繰り返している。
どうでも良いから、毎日繰り返すのを、もう止めた方が良い。
そんなに分からなくて良い。
意味を良く考えると分かる。そこにあるものは、いつでもそこにある。
ハイデガーはおかしい。観測されたものしかないことにすると、世界がおかしな神に見える。一番おかしな哲学だから、分からない方が良い。自分のような発想をしているだけだ。
現存在を人間と言うと、あまりおかしくはない。存在が人間の中にあるから、現存在だ。現在の人間の世界観の存在状態だ。そういう風にすれば分かる。
フッサールは似たようなものだ。それぞれの世界観を、人間を捉えて全部分かっている。
そういう風に、一度分かると、書ける人間が多い。世界観とは言わないのが普通だ。
存在は、時間であり、現存在が人間だ。関心をゾルゲと言うと、おかしくは無い。
どうでも良いから、哲学もせず、そんなに自分を繰り返して分かるのでもなく、新しいことをすれば良い。それが分かっていない。
人間は、変化の中での可能性である。
経験とは、可能性を吸収することであり、体験とは、可能性を発揮することだ。
そして、人間の存在のあり方を考えられる。
ハイデガーが、現存在はそのつど己の可能性であると言っている。
科学とは、真理を発見することであり、世界観とは、真理を適用することだ。
そういう風に、それを指す意味を考えて文章を書いていた。
人生とは、自然と価値観と全ての理性から、納得して、実感と満足で分かることだ。
そういう文章を書いていた。
皆を導いて、支配していた。
そろそろ、折り返し地点まで来た。あとは、こういう風に書くのが、もう出来ない。
あなたは、本当にあなただ。あなただけの、あなたによる、あなたの考え方がある。
あなたのために、全てのことがある。全てのものがある。
あなたは、本当に自分の望んでいることが何なのか、分かっているだろうか?
本当にあなたの望んでいることは、それで正しいだろうか?
そういう風に、「あなた」で皆を導いていた。そういう文章が多かった。
自分は、愛を叫んでいるだけだ。ただ、叫び続けるだけだ。
まず、俯瞰的に見ること。高い立場でそれを見ること。
次に、経験すること。
そして、最後に、社会の変化と構築を知ることだ。
それ以上は、自由な段階を考えていた。そういう、段階的な知性が多かった。
まず、発想することがある。
次に、実現し、変えることがある。
そして、最後に、そのために行動し、判断し、協力することがある。
そのために、組織を作ることが出来る。
そういう風に、段階を考える。もっと、社会のモデルのようなことを考えても良い。
まず、自由な社会がある。
次に、王が支配する社会がある。
そして、最後に、それぞれが考え、議論し、協力する社会がある。
そういうわけで、そのまま弁証法を考えていた。
あとは、意図から結果を導き出すとか、理性と現実のモデルとか、色んな可能性とかを考えていた。そういう発想が多かった。
純粋な経験と、沢山の環境から、自由を分かっていた。
もう今日は寝る。また明日頑張る。本当に、そろそろ全部書いた。もう満足した。
それぞれのことを考える社会から、全員のことを助ける社会になって、そのまま、全てのことを実現可能にし、実現力を高める社会になる。
そういう社会のことを言っていた。何も分からず書いていた。
全部分かっている。今日はこれで終わりだ。