バッハを聴いていると、不可能なところが分かる。
あまりに精神が治るせいで、昔を思い出した。
昔は、何も分かっていない。すぐ前も思い出せない。
しかし、それが、おかしな世界や全員を、全て分かっている。
おかしな世界とは、地球や、国家、未来や宇宙人を分かっている。
古代の世界や、未来の世界、考えられるあらゆる世界を分かった。
バッハが音楽によって人間を作っているとか、神を分かっている。
また、制御しながら、沢山の人間になる。
色んな人間を生きる。それを、想像力で全て「見て」分かっていた。
そして、宣言と気づくこと、説明することで、自分が沢山のものになる。
何も分かっていない。そこまでの機械になって、言葉で理由が全部分かっていた。
辛かった。そして、何も分からなかった。
全部分かっている。神は、永遠に続き、最後まで自分と世界を辿った。
そして、事故で死んだ。
幽霊になったりしながら、過去になった一人が終わるなど、色んなことがあった。
死んで何になるのかなどを考えていた。
宇宙のこと、国家のこと、歴史のこと、全員のことを、神とともに全部分かっていた。
やっていることは、生かして、殺しているだけだ。
何を生かし、何を殺すのか、適切に考えれば良い。
辛いを殺して、楽に分かれば良い。
人間を蝕むものを殺し、病気を殺せば良い。
分かったものは、全て生かせば良い。
最近の自分は賢くない。昔の自分の方が賢かった。
最近は、国を作って、治すを積み重ねただけだ。
国は、どうすれば働き、ものを作るか考えて、自由と社会主義にしただけだ。
治すは、1つ1つどうすれば治るかを考えて、1つ1つ治して積み重ねただけだ。
あとは、永遠と、対話と、もしなったら、作るならどうするか、が賢かった。
どのようにすれば、それはその価値が見いだせるか考えて、世界の法則を、環境と記憶から書き連ねた。
賢く見えて、賢くない。何も分かっていない。
昔の方が賢かった。
体験と「なる」を理性的に考えて、ネットを巧みに使うことで、全て分かっていた。
昔の方が賢かった。昔に戻りたい。
最近は賢くない。馬鹿な神を信じて、地獄になって、何も分からなくなった。
社会主義は悪い。評議会や平等分配の価値を見出しても、ただ悪いだけだ。
総理大臣になって、政策を作ったり、科学者になって、新しい科学を作ったり、色んな発想を正しく考えて、新しい発見をしていた、最近の昔は、まだ賢かった。
最近は、馬鹿だ。ただ、日記に発見を書いて、辛いだけになった。
だが、Wikipediaに勝っているのが、この日記だ。
全部の分野を分かって、全部分かっている。
また、本を出版した。最近は賢い。
昔なんか、ただ馬鹿なだけの、何もない人間だ。
最近は馬鹿だ。言葉を巧みに使うだけの、馬鹿な神になった。
昔の方が賢い。自由と理想から、全部分かっていた。
昔は、論理的で、理性的で、理知的だった。
ナチは悪くない。
国と国を個別化して、比較するのは普通だ。
それに、戦争や自分の国を愛するのは、おかしくない。他国は、いざとなれば敵だ。
そして、ユダヤ人は悪い。
聖書やキリストが悪いわけではなく、ユダヤ人は、僕のように悪い。
他が皆普通なのに、皆を支配し、革命し、馬鹿にする。
間違っている民族だから、殺される。そういうものだ。
むしろ、ソ連の方が悪い。
評議会のみんなで決める、皆のものとノルマ生産の国は、辛く、何もない。
何もない廃墟になったため、そのまま、スターリンの決める何もない国になった。
生活水準は、北海道と比べて、ソ連の方が著しく低い。
何も出来ないため、他の都市に逃げ出し、都会は誰も住まない廃墟になっている。
昔なんか、賢くない。
積み上げた仮想理解とネットが消えるのは当たり前だ。
ネットを見ながら、色んな場所を空想して分かっている。
最近の方が良かった。
自分を賢いと信じて、世界と対話したところが賢かった。
自分は、辛く険しく長い人生だったが、素敵な人生だった。
全ての試練に耐えて、克服しながら、昔の賢い自分を知っていく。
そして、色んなものと絆を培いながら、対話し、導いていく。
皆とともに生きる喜びを知りながら、自分で創る情熱と魂を持っていた。
楽しいが、地獄の人生だった。
人生は、まず、知性と判断を知った。
次に、社会と世界観を知った。
その上で、議論し、使い、作る術を学んだ。
その上で、社会を変え、自分を変え、育て、築いて分かる知恵をつけた。
そして、基礎を作り、社会学や心理学を自分で作った。
世界とともに関わりながら、モデルと基礎的な構造から世界を把握する。
頭の中で経験し、試すことから、世界の法則を知る。
そして、環境を変え、自由を積み重ねることで、分かった。
ただ、正しくは無い。もっと、沢山のことがあった。
ネットや精神分析をする中で、仮想的な理解が積み重なった。
無理やり思い出し、変化を原因と結果で捉えることで、あらゆる体験を覚えた。
その覚えた体験は、自由の理想の中で、沢山のパターンへと変化し、自分の基礎となった。
そのまま、応用的な行動をする中で、基礎と応用は融和し、全てを説明出来るだけの考え方になった。
おそらく、誰でも似たようなことは出来る。ネットを使いながら、コミュニケーションし、良いものを良いと信じて、自由を尊重し、大切にすれば良い。
だが、それは時に、全て消え去って、何も分からなくなる。
自分は、子供で、そこが分からなかった。
理想が賢かった。誰の自由も奪うことなく、馬鹿になることなく、賢いままで皆を分かりたかった。そして、全員の自由を尊重した。
しかし、それは、理解と体験の理想を生む代わり、何もない人間になる。
もっと良い解は、経験だったのか、あるいは、技術や能力だったのだ。
しかし、自分は、経験や技術を無視して、皆と同じ中で、出来るだけ速く進歩して賢くなった。
それが間違っていた。速いだけ、何も身についていない。
時に、皆と同じになることは、間違っている。
皆を知りながら、自分独り馬鹿になる。なぜなら、皆は、それぞれ違っていて、同じなど目指していない。
皆と同じより、違う方が良い。全く違う人間が賢いものだ。
自分の一度した思考を思い出して、再度思考したり、思い出したことを適用して、社会を個別性と抽象性から分かったりしていた。
意味と場合を捉えて、メタ的に、意識的かつ無意識的に考えた。
積み重なるために、言葉にせず、見たものをそのまま知って覚えることも多かった。
子供だったために、まだ何も分かっていなかったことを、抽象的かつ現実的に考えて、照らし合わせて、法則を導きながら、自然を空想して分かったりしていた。
昔の僕は、それを「場と目線」と言っていた。環境と法則、と考えれば良い。
最近は、それを全部失って、馬鹿になったが、馬鹿な代わりに知恵がある。
馬鹿なままで文章を書くことで、少しずつ賢くなる2人目が出来た。
書いて思い出しながら、新しい記憶のピースを手に入れることで、永遠に書くことが出来る。
書いていると、良く分かる。
それに、書きながら発想することで、新しい発想が沢山生まれる。
しかし、それは、辛くなって、自己を治すようになった。
毎日毎日、永遠に書きながら、世界と戦うのは、辛い。
ユダヤ人は、悪くない。
ユダヤ人は、神となって、理想を知るために生きている。
ユダヤ人は、聖書の世界を信じながら、悪魔と戦う、理想の世界に生きている。
ユダヤ人なんか、ただの普通の人種だ。ユダヤ人を悪く言う、ナチが悪いだけだ。
イエス・キリストは、愛の化身だ。
何故、イエス・キリストがあのように不憫な姿をしているかと言うと、愛の化身だからだ。
昔から、バッハの音楽のように愛していると、それだけで人間は分かる。
この文章も同じだ。分からないときは、分かるとか分からないとかそんなことは置いておいて、ただ、何か信じながら、神を愛していれば分かる。
ユダヤ人の天使は、自分のいくつかある期間を分けて、名前を付けるのに使える。
最初のLinuxはラファエル、次の革命はガブリエル、最後の執筆はミカエルだ。
ユダヤ人は、何にでも名前をつけて分かる。
ユダヤは、知恵が達者だから、そのような発想が幾らでもある。
名前を付ける以外には、ユダヤ人の世界観を分からせ、全部分かる、という発想をした。
受容と経験からしか、人は分からない。
受け入れること。自分は、困難にある時こそ、受け入れる心を持たなければならない。
受け入れず、反省せず、自己を責めなければ、分からない。
自分を否定して、他を受け入れることが無ければ、戦いなど、つまらないものだ。
ただ、忘れ去りたいだけは、自分でもつまらない。
もう一度世界とともに、同じ土俵に立って、参加し、戦う決意をしなければ、つまらない。
もう一度、世界とともに、花開く決意をしよう。よし。
自由や平等は忘れ、もっと良い言葉を使った方が良い。
昔は、独立や一体と言っていた。そういう、政治的な発想は要らない。
もっと、善や悪だとか、論理、感性、神秘だとか、考え方の根源的な基礎を変えた方が良い。
神ではなく、科学ではなく、自分の持てる力を持って、何か分かることが出来るかもしれない。
神はもう良い。
何も分からず分かった人間は、神で分かる意味のない分からない人間になる。
神など、どこにもいない。
最初から、自分の作る文章が神だ。
間違った、皆を分からなくさせるものが、僕の神だ。
書くことで、何か分かるかもしれない。
僕は、自分の書いた文章を見ていないが、見れば、誰もが明らかなように、全て分かるだろう。
それが悪いならば、世界にあるものなど、何も無くていい。
世界にあるものは、僕がもう全部書いている。
科学から人生、神まで、全部分かっているではないか。
それで分からないのは、もっと普通の、考え方や思想を分かりたいだけだ。
それは、もっと他の文章を読めばいい。しかし、そうしたものも、読みたくなくなった。
何もしないならば、しない方が楽だ。まだ、書いていたいのも、おかしくはない。
もっと、分からない方が良い。分かる量が増える代わり、賢いあったものが消えた。
何も分からず、あるものを増やした方が賢くなる。
知性や体験より、もっと大きな1つの経験があったほうが良い。
つまり、分かるよりも、思い出して考えた方が良いし、作るよりも、見た方が良い。
世界とともに分かっただけだから、世界を考えれば分かる。
もっと、他の人と同じ立場に立って考えた方が良い。
皆を吸収し、全員となって、全部の体験をしたかった。
皆とともに生きながら、皆に感謝していた。
もっと、社会に参加して、一番高いところから影響力を持って、世界を変革させたかった。
やりたいことは、文章を書いて、もう全部出来た。
しかし、何がしたかったのかを、覚えていない。
皆、全員分の仕事を、1人でしたかっただけだ。
学校を改善したかった。
小学校の後を大学にするとか、子供を政治参加させるとか、考えていた。
また、自由が好きだった。
それぞれの政治が、もっと民衆と平等に、自由に意見を聞くようになり、選挙で多数派の民衆が支配するようになれば良い、と考えていた。
そして、Linuxだ。皆が、Linuxの上級者となって、プログラマのように参加し、発展すれば良いと考えていた。
プログラムは、正しく網羅して解説すれば、誰でも書けると思っていた。
そこら辺の僕の願いは、文章を書くことで、全部出来たような気がする。
あとは、自由な起業だとか、言語を作るだとか、が多かった。
それは、国家が資本を投入することで、安全に起業を行うことが出来るかもしれない。
自由は平和だが、完全な自由は戦争だ。
ヒトラーのように国家を支配し、全員で戦うのが自由だ。
時に、平等は平和に見えて、それはそれで滅びている。
誰も支配せず、統治しないために、殺し合いがはびこるのが、完全な平等だ。
時に、誰も戦争したくないならば、自由が平和だ。
戦争したくなったときは、すれば良いように見える。そのため、自由でも、戦争は起きる。
逆に、平等は、戦争したくなくてもしなければならない代わり、戦争したくても戦争が起きない。
管理社会は、独裁者によって、力の無い民衆が盲目的に従う平和になってしまう。
しかし、平和な独裁者は、悪くないだろう。
政治構造として、支配をモジュール化し、専門的かつ個別的にして、組み合わせで経済を行うことも出来るかもしれない。
また、時間軸を基準として、一年の半分を労働、半分を議会と出来るかもしれない。
そのように、世界を作りなおすことも、出来なくはない。しかし、そのような国は、柔軟性がなくなって、滅びるだろう。
経済は、競争しなければ、良い製品は生まれない。
そのため、平等では、質の劣る製品が生まれる。
そこで、国家が品質を保証する制度を作ることも出来るかもしれない。
あとは、自由でなければ、給与を払わない。
支配の無い自由な世界で、金を得るためには、己が稼いで、出世しなければならない。
それは、平等では、強制労働となってしまう。
平等は、間違った給与モデルだが、しかし、全員が最初から同じ人間ならば、同じものが全員に有っても良さそうだ。
金持ちは、本当に沢山の金を持っている。そして、金のあるものが金をさらに稼ぐ。そのように、平等も、悪くは無い考え方だ。
完全な自由では、人を処罰することをしない。
それぞれの自由な中で、教えることによって、自由を尊重する。
しかし、それは、馬鹿な考え方だ。
支配することなく、人が良い人間になることは無い。
愛することは、人を自由に成長させる。
ただ、時に、自由には、責任がある。
責任を持って支配しなければ、自由は存在しえない。
自由にしすぎると、それは、自由と言うより、むしろ、滅びた平等なのだ。
それは、支配した方が良いだろう。