昨日と今日、分かったことを書く。
本当は、あまり書きたくない。書くのは辛いし、書かなければ分かるからだ。
しかし、分かったことは、いつも通り、書いておきたい。
考え方は、いつも書いているように、言葉での認識を書いている。
それを、自分から考えただけだ。
記憶と文章、感情と認識、想像力と言葉だ。
そして、自然な世界を分かっている。
理解、体験、発想、環境、そして多様性と創造性だ。
それは、もう書いた。
そして、当たり前のことから推論する。
それで分かった。
書いて分からないのは、その世界は、全て消え去った。
消え去っただけで、消え去ったが賢く見える。
あとは、そして、皆を馬鹿にしただけ、キモイだけだ。
昨日分かったことは多かった。
出来ることを増やしたのに、思い出して出来ないから、認識を思い出してすれば良い。
あとは、認識と認識を関連付けて、繋げたのが悪い。バラバラにすれば良い。
そして、認識を捉え直して、全て決めただけだ。
あとは、理性とは、自然の側でなく、自分の側にある。それを増やせば賢くなる。
そして、社会問題や教育の世界観を考えて、書いていた。
何もしないのが良い人間なのが分かった。
何もしないと、楽になって、知性がついて、良い人間になる。
あとは、良いものは悪い。良いもの、賢いものを殺す。
そして、楽を殺せば楽になる。それを分かって、楽になった。
昨日はそれで終わり。休めるようになった。
今日分かったことは、あとは少ない。
黙れば、分からなくなって、狂う。しかし、それで死んで、楽になる。
分かれば、狂うから、分からなかった。
あとは、言葉づかいをもっと良くすれば良い。
人間の心理、環境における自由と時を、当たり前のことから推論して分かった。
皆がどういう風に生きているのか分かった。それは、ネットの力も多かった。
宣言のせいで、言って変わるようになったのを、言わずに変わるように、変えれば良い。
科学的、哲学的、数学的、物理的に分かるのは要らない。
また、文学的にも分からない方が良い。
そのせいで、全部構造的になった代わり、知を忘れて、何も無くなった。
仏教や物理のように分からない方が良い。
いきなり賢いことから言って、後で前を説明すれば、日本語的に分かるようになるから、日本語的に分かったほうが良い。それでしか、分からない。
想像力で推論すれば、分かっていることが正しく良く分かる。だが、言葉で書きながら推論すれば、分からないことを発見できる。それも良い。