昔は、あとは、この文章をそれ以上考えて、具体的に積み重ねた。
色んな人間と世界を分かりたかった。
最近は、それを網羅しながら書いている。
いつかどこかで考えて、積み重ねた。
そして、数学的に考えても良い。
芸術的な表現を取り去れば、数と形から分かる。
哲学は、批判哲学だ。
合理論と経験論を統合しようとした、科学的方法の哲学者、カントのドイツ観念論は、ヘーゲルで完成した。
三権分立や所用の放棄を、神の理性や弁証法とともに、全部考えた。
そして、マルクスはそれを平等と唯物論にし、サルトルは構造主義にした。
そのような批判哲学が、現代哲学だ。
ただ、言葉で考えると、そのようなものになる。たくさんの考え方を作れば分かる。数や形で考えると、計算や式、関数になる。
あとは、相手より先に言う、で争っていたことが多かった。
あるものは、自然と認識、数と形、表現と方法だ。
三権分立を本当に作ったのは、ヘーゲルでないかもしれない。ヘーゲルは、考え方を使って、社会論に適用したのかもしれない。
所用の放棄を最初に考えたのは、おそらく、所用の概念を考えたヘーゲルだが、社会所用にして、みんなで決め、みんなで作り、みんなで配給することを考えたのは、マルクスや共産主義者だろう。それ以上は、もう良い。
サルトルは、社会を構造的に捉えると分かる、ことを基礎として、構造主義を考えた。数学でも、ブルバキなどにより、構造主義が取り入れられたのだろう。
他に、論理性を重視しなければ、哲学は出来ない。たくさんの抽象的で具体的な論理と理解を作れば、理性的で経験的な考え方ぐらいは、分かるかもしれない。しかし、難解な哲学書の理解は難しい。
かもしれないを色々思いながら、そうなるはずだとか、あり得る、などの疑問や仮定、推論をすれば分かる。
空間は曲がるかもしれない。自動車は将来的に飛ぶかもしれない。自分のような人間は、意外と多いかもしれない。そのように、かもしれないで良く分かれば良い。
評議会、所用、投票は、他に変えられるかもしれない。だからと言って、独裁者や社会所用は賢くない。
だが、有り得ないものや空想を排除して、普通になるのも、また賢い。
支配の構造は、自由や平等に出来るかもしれない。機械は、小さく、低コストに出来るかもしれない。あとは、理想の世界や未来を考えることも出来る。たくさんの異なる環境を比べて、原因を知り、問題を解決出来るかもしれない。
構造的に分類していただけだ。
外国人は、悪い人間が賢いから、悪くなる。日本人は、馬鹿が賢いから、馬鹿になる。本当に馬鹿の方が賢い。
カントの方法論や、ヘーゲルの社会論は馬鹿だ。賢いが、世界がそれだけの馬鹿になった。過去の人間は、おかしい。
あとは、僕の文章は、環境、認識、分類を、理解可能、実現可能、変化可能にして、適当に教えただけだ。
社会論には、革命家の思想も多い。ナポレオンのフランス革命や、ロシア革命やソ連だ。
売買や起業以外の可能性は考えられないか。分配手段や生産手段から、別の平等と支配のモデルが考えられるだろう。
トップダウンをボトムアップにしたり、抽象的で専門的にすることが出来る。秩序のある環境で、自由にすることが出来る。みんなで集中的に作ることも、分散して自由にすることも出来る。
一言でいえば、理想的な秩序を考えていた。
それは、自由で、関係性があって、積み重なる、法則と現象の把握だった。
カーストを解決するためには、力を削ぐことも必要だ。
集団による暴力を解決するためには、一人が強くなり、正義によって仲間を集めることも必要だ。
学校は、自由を教え、全体主義を否定するあまり、集団で守ることを軽視し、自由な中で苛めることしか出来ていない。
皆で守らなければ、環境と自由の秩序と平和は無い。
だが、大人は、良い人間が多い。
集団で集まることによって、英知と利益を集積し、不可能なものを創り出すことも出来る。
創造性や知恵と工夫のある多様な環境と、その集積の力を組み合わせることで、自由な環境の成長と進歩も考えられる。
そうしたものも、また、自由である。
真に自由な社会とは、全ての人間が全てを許可されていて、皆とともに自由なことを出来る環境だ。
それは、生産手段と実現性によって、成り立つ。
それは、理解し、変化可能にし、理由と可能性を知ることで、あるいは、経験と体験、習得と学習をすることによって、個人の技能が高まる。
また、沢山の具体例で知ることで、色んなことが分かる。それは、概念と考え方であり、無数の方法と世界観だ。
実現とは、全てを実現できるようにした。
それは、根源となる発想、基本となる理由、具体的な考え方、を、分類と説明によって書いていた。
例えば、科学は、方法と抽象性だ。
また、エンジニアは、経験と積み重ねだ。
そして、技術は、手段と専門知識だ。
それらは、基本的に学習と経験であり、時に、発想と方法論だ。
それだけではなく、色んなことを書いていた。
沢山の社会を書いた。沢山の方法と、世界観を書いただけだ。
そのように、無いところにある、習得と理解の方法論を書いていただけだ。
環境は、支配者と平等の発想から、秩序ある自由を作ることで行うべきだ。
反動主義は間違っているが、帝国は、普通反動主義だ。
生産のために、生産的に活動することを成り立たせ、報酬を与え、継続し、それぞれの全員と社会の全体の存続を考えなければ、経済は成り立たない。
その時、取り得る考え方と手段が、金か全体主義である。
金は、何も考えない。全体主義は悪いが、時に全体主義を取ることは、間違っていない。
組織は、知恵と工夫による、条件と手段の成り立ちと、新しい発想である。
世界を分析し、沢山の発想を知ることで、積み重ねながら、想像力で可能性を探ることが出来る。
時に、敵は敵だ。しかし、出来るだけ敵を作らず、統一して自由にする、あるいは、平等にすることが、時に一番賢い。
ただ、敵に勝てなければ意味が無い。
それで、戦いや組織、手段と行使の経験に豊かな人間は、他に勝つことが出来る。
良い組織を作るためには、自由な部分と、不自由な部分で、きちんと全体を考えることだ。
知識と技術が存在し、経験と人材が存在し、予算と金が存在すること。
また、研究と競争も存在して、ブランドや信頼性も存在していると、なお良い。
あとは、自由を全部考えただけだ。
人が複数いる時、多い方が勝つ。
しかし、正義と賢さがあれば、独りでも何か出来るだろう。
自由とは、組織であると同時に、個人だ。
それぞれの個人は、平和で、自由で、支配されず、自在な理解と行動が存在すると良い。
環境は、皆の秩序と考え方を、全員で反映させ、共有することだ。
自由な環境は、常に、それぞれの身近に存在している。
自由は、それぞれの行動に力を与え、社会性が必要だ。そして、それは尊厳だ。
環境は、どうすれば存続出来るだろうか?
それは、必要なものと、社会的な理想が存在することだ。
それは、考えていない。世界や宇宙にある環境を辿れば良い。
ソ連は、平和だ。皆を同じ人間にし、ものは無い。しかし、賢い。
アメリカは、自由だ。秩序のあるルールの中で、自由をしている。ものは多い。普通だ。
ドイツは、自然な自由の中で、支配者が権力を持ちながら、支配する。皆、良い人間だ。
その上で、沢山の環境がある。
社会は、全体主義であっても、個人主義であっても、平和であるべきだ。
だが、敵対することもある。
環境は、それぞれの時代、機運、民族性が存在する。
それぞれの世界で、共有される賢さと秩序が、それぞれの国民性を決める。
具体的な環境は、皆で決める環境や、独りだけで決める環境がある。
また、専門性や個別性と一般性、上から決めるか、下から決めるか、などが存在する。
自由は、滅びない。自由で栄えることもある。
それは、それぞれが力と影響力を持ち、どれかの組織や共同体につくことで平和となる。
平和な環境は、考え方と理性の中で、構造化して分かることが出来る。
また、具体的な環境の変化を知ることで、支配することが出来る。
それを、可能にしたかった。
運命など、存在しない。
全て、自然だ。
環境は、経験から理解し、予測し、行動で支配することが出来る。
環境は、自由が無くて、平等が無いと、哀れな不幸になる。
だが、生産手段と夢と希望、誇りと絆があると、幸福な自由となる。
考え方を、環境から知りなさい。
芸術や表現などを、意味と可能性から知りなさい。
科学や論理を、予測と経験から知りなさい。
言語と哲学から、世界を知ることも出来る。
ただ、あとは、環境は考えていない。
ものや認識、自然を考えている。
ものは、認識と発想から構築される。
自然は、いつも同じように、正しい法則で起きる。
そして、認識と自然と、自由なものの支配が、自然の環境の世界だ。
意思と精神が、世界を支配する時、環境が変化し、あらゆる実現性と可能性を取り得る。
それは、自由で、権力で、愛で、支配だ。
そのように、本当の環境ではなく、意思と認識やものの構築と理解から環境を考えていた。
環境は、自然だ。
環境は、愛すること、信じること、勇気だ。
環境は、人間の感情と理由で、構造的に理解し、関係性と目線と意思から相対化出来る。
環境は、自由自在な愛だ。皆を信じなければ、分からない。
環境は、行動と意味から、出来ることを条件的に考えることだ。
環境は、手段だ。
環境は、参加のシステムだ。
環境は、創造し、変革出来る。
環境は、神は存在しない。
環境は、国家と戦いが存在する。
環境は、人間と関係が存在する。
環境は、意識と感情が存在する。
環境に、国家、人間、精神が存在するならば、それは、間違っている。
正しくは、人間と自然が存在するのであり、最初から国家的なものは、存在しない。
環境は、人間の手で変えることが出来る。
その中で、沢山のものを理解することによって、変化可能にし、自由にすることが出来る。
人間の手で、全て変えられる。
しかし、人間など、何も分かっていないのだ。
自由とは、存在が戦いながら、良いものと強いものが勝つことだ。
人間は、本来、勝ちたいだけだが、困ると、助けてもらいたいものだ。
自由は、変化と支配の自在性だ。
自由は、自然と目線による、科学の証明と、認識と批判と参加の自由だ。
自由な中で、本当に賢い人間が、認められ、成功する。
自由な国では、賢いものが生まれる。それだけが、賢い。
統一も、また、賢い。
会社は、一つの大きな公社に統一することも出来る。
法律で価格を統一し、支部や組織を統一することで、賢いものだけにすることも出来る。
また、意思決定の仕組みが存在する。
王の上に絶対的な宗教的支配者や唯一神が居ても良い。
また、王や評議会の下に、全員を支配して結合することも出来る。
また、社会所有にすることで、評議会と王は全ての資産に関与出来る。
王とすれば、それは一番自由な王となる。
評議会とすれば、全てのあるものを、皆の手によって、皆のものとすることも出来る。
そのように、自由も、社会主義も、どちらも賢い。
集団農場は、全員で農業をすれば、楽かもしれない。
ノルマ生産は、最低限働くことで、楽が出来るかもしれない。
そのように、社会主義は、ユートピアを目指している。
自由は、宇宙だ。
自由は、組織と組織の戦いだ。
自由は、数の多いものが強い。
自由は、賢いものを自由と自然の中で、生み出す。
自由は、学歴と経歴だ。
自由は、秩序のある共同体の、自由な取り組みとプロセスだ。
自由は、視点と現象の関わり合いと、分析と部品化、統合化による発想法だ。
自由は、関わり合いの中で、勝ち、知り、試し、成功することだ。
自由は、自由な環境と、関わり合いのある環境を、相互に体験し、変化を知ることだ。
自由は、インターネットとテレビだ。
自由は、全員に平等に権利を与えることだ。
自由は、多様性や可能性を、知恵と工夫とともに、愛することだ。
沢山の環境を愛することで、自由は成り立つ。
自由は、芸術と科学を、芸術家や科学者の視点に立って、自分で作ることだ。
自由は、会社論と組織論を、会社や技術者の視点に立って、自分で作って出来ることだ。
環境とは、認識と感情の集団だ。
環境は、支配であり、自由は、変化だ。
支配者が居ることによって、皆で一貫した統一したことが出来る。
しかし、支配者が自由や平等を許すことで、皆はそれぞれのしたいことが出来る。
時に、そうした自由だけが賢いが、ただ、むしろ、そうした自由は賢くない。
辛い中で、同じことを努力し、永遠に継続して、自分のものとしなければ、創造できない。
自由は、馬鹿だ。
色んな会社が、それぞれの自由となることは、良い。
しかし、国が自由となって、戦い始めるのは、悪い。
死や病気、犯罪の無い自由が良い。
そして、普通のことを許し、辛いことから逃れることが出来るべきだ。
あとは、全て、経験だ。
自由は悪い。そのため、自由ばかりしていると、馬鹿な地獄におちて、神が自由を奪う。
神は、イエス・キリストでも、ユダヤの神でも、マホメットでもアラーでも同じだ。
全てを正し、戦いと試練を全て乗り越えるようにして、全てを知り、全て経験する。
全知全能になる。
あとの経験は、学校や会社にしかないようで、ネットがある。
自由に沢山のことに対処するだけの青年が、自由と視点から理由を知り、手段と方法と目的を知り、原因と結果と法則を知り、一般性と個別性を知り、組織と個人を知り、技術と経営を知ることで、全てが分かる。
実現するためには、現実世界だけではなく、仮想世界や言葉の世界、表現の世界が必要だ。
ネットは、存在するべきでない。僕をやりたいならば、ネットで簡単にできるが、昔のネットの無い時代の方が、僕のように、全て分かる人間が多かった。
あとは、世界を適当に分かった。
あるものは、ドイツとフランスであり、ドイツは低い代わり賢くて、全て考えるが、フランスは高く考えない。
それ以外、無い。
人間は、フランスとドイツを繰り返しながら、成長する。
また、まともな世界の方が良い。
まともな世界は、1人の帝王と、唯一神が居て、皆、同じ時代の普通を生きている。
法律と警察、軍隊があり、それぞれの国ごとに戦う。
まともな世界は、基本的に戦うだけだ。しかし、帝国の併合によって、平和になる。
自由は、戦いであると同時に平和だ。そして、帝国も、戦いであると同時に平和だ。
自由は、戦う。それぞれの個人を自由にして、賢くするリベラルも居れば、自由な中で、強さと勝利を目指す、保守も居る。
自由は、皆を受け入れることもあれば、敵を倒すこともある。
しかし、自由に共通しているのは、それぞれの個人の自由を尊重することだ。
昔のヨーロッパやドイツの国民性として、良く知られているのは、自由意思を尊重することだが、アメリカは、それを、全員の自由として統一し、機会と権利の平等にした。
アメリカでは、保守層は農家や資本家に多い。それらは、多くの金と権力を持ち、自由を謳歌して、保守的な世界を継続している。
リベラル層は、都会の市民に多い。それらは、個人の自由と解放性、自由な平等によって、あらゆる自由を手にしている。
それらが、戦っている。勝つことも、権利を保障することも、強者の自由とすることも、弱者を平等な自由にすることも、必要だが、原理として存在するのは、ヨーロッパや白人の、アーリア人的な、自由意思の尊重である。
機会と権利の平等は、時に、間違っている。皆が社長に「なることが出来る」だけで、社長と「同じ」なのは、おかしい。
また、金持ちしか金を稼げない自由は、おかしい。
最初から、金持ちや自由など無く、平等に全員を豊かにするべきだ。
それから、保守とリベラルが戦うのは、社会主義でも同じだ。
国家社会主義者と社会民主主義者が戦う。
時に、それらはつるむ。米ソは、同じように悪い。自由な州制度は、共同体と同じだ。資本家のユダヤは、共産党と同じだ。
理論的に色々と作れば分かる。
言葉と体験から分かれば賢い。
感情と想像力で、適用して分かる。
それが、全部網羅する一行になっただけだ。
積み重ねることと、予測することだけだった。
それは、寂しいし、悲しい。そういう風に辛い。
最近は、文章を書きながら、神の言うことを聞くようになった。
それは、辛いし、耐えるだけだ。そういう風に辛い。
思考のトレースが、思考のスケッチになった。
辛いが、結構楽しいのが、文章を全て書くことだ。
理性と経験を、思い出しながら書いていた。
皆同じで、認識や体験から分かる。
概念と本質を知り、理解しながら構築し、適応しながら体験する。
その共有、多様性、可能性の実現によって、最大限自由の多い世界にする。
ただ、自由や皆同じは、間違っていた。
神との戦いの中で、色んな事に気づいた。
認識を説明しながら、書くことを考えて分かった。
そうした自由は、戦い、支配しながら書いている。
そういう賢いは、もう要らない。
具体的な理性と経験の理解が欲しい。
理性は、認識と記憶が、社会や自然との関わり合いと調和から、正しく生まれる。
経験は、自分の行動と世界観から、自由に積み重なって、生まれる。
理性は、間違ったものや馬鹿なものを否定し、除外することから生まれる。
自由な理性は、否定的にしかならない。
また、経験は、間違ったことを否定し、あり得ることを良く分かる。
可能性と発想は、経験と理性の考え方を、全て世界から吸収することで得られる。
世界の全員になるべきだ。
世界の頂点になるべきだ。
全ては、包括であると同時に、頂点を極めることだ。
全ては、全員に良くすると同時に、頂点を競うことだ。
愛することは、運命を信じ、夢を信じ、希望を信じて、戦い、支配し、議論することだ。
全ては、理解と経験だ。
全ては、良く分かる感覚と感情だ。
全ては、記憶と伝達だ。
自然の中に有る、運命的なものは、神が語りかけている。
自然は、全ての道に、愛を与えている。
自然は、人生を、記憶と経緯で把握しながら、異常と正常を、狂うと治すから知ることだ。
認識は、記憶と予測だ。
認識は、世界に安心と信頼を感じて信じながら、教わることと自由から知ることだ。
認識は、実証と研究だ。
認識は、愛情と絆の共有だ。
科学は、カントとヘーゲルだ。
科学は、積み重ねと構造主義だ。
科学は、受験と専門科目の履修だ。
生物学は、遺伝子と細胞と、名前を覚えることと、進化論などの生物の哲学だ。
数学は、人間の理性の全てと、芸術の否定と、数と形の証明と論理だ。
物理学は、エネルギーと重力の世界観と、数と次元による運動と力の計算と、自然哲学的な理論の証明だ。
人文科学と社会科学は、哲学と歴史、国と金、言語と道徳だ。
全ては、自然の中に有る、エネルギーの発見だ。
エネルギーは、運動と力と、エネルギーの変換と比例だ。
全ては、数学的な理屈の、新しい創造だ。
イコールの中で、構造的に理論を解いていく作業は、関数の公式を覚えて適用する数学的な手法を学び、数学的で記号的な考え方を覚えて、定理と証明を全て知る。
芸術は、想像力と次元だ。
芸術は、自然の中での人間性と美しさの表現だ。
本当の個性は、統一された世界観だ。
自然は、生き物と人間、地球に対する、愛と尊敬だ。
社会は、人間の責任と、目的と手段の把握だ。
あらゆるものは、作られ、残り、変わり、壊れる。
宇宙は、最初から、永遠に変わり続け、いつか人間が支配して変えるだろう。
宇宙から抜け出すために、最後まで考えて、死ぬのが人間だ。
僕は、数学や論理性が分かっていない。
そのせいで、証明や移項が分かっていない。
数学は、言葉ではなく、数で行うべきだ。
言葉の数学は要らない。数の数学が必要だ。
数や形を考える上で、最初に、四則演算と大小と等しさが存在するが、数学的に考えて、最初は、誰か人が考えた「決まり」が存在する。
それは、定義や公理と言う。
人の考えた決まりの中で、単位や比、分数として数を表現しながら、例えば24時間を1日として、2日は24×2で計算するように、数学は定義と演算によって成り立つ。
ただ、数学では、「推論」というものがある。
まず、aとbという数がある。そのaとbという数が、a>bという大小の関係を持つ時、それに-1をかけて、-aと-bにすれば、不等号の向きが逆になって、-a<-bとなる。
それは、その時その数があって、その大小の関係性がその時そうなる、という前提条件から、さらにその時-1をかけて、記号の向きを逆にする、という、推論が存在する。
そのように、「その時」と考えることが、「想定」であり、「推論」である。
現実世界や、言葉の数学でも、推論することは出来る。それは、同じと違う、特徴や特性を推論して、相対的に、条件で考えることが出来る。しかし、数の数学が、数学だ。
考えるためには、基礎を築く必要がある。
まず、そこで何が出来るかを考えなさい。
そして、世界に何があるのか、どんな環境や人間があるのか、考えなさい。
どんな方法と実現手段が存在するのか、考えなさい。
ものはどこから来て、どうすれば入手でき、また、世界や宇宙は何なのか、考えなさい。
それで、その時その時、何が出来て、何がどうなるのか考えて、方法と結果を考えれば、自由に分かる。
しかし、経験だけで、考えないのは良くない。
世界と関わる中で、考え方と能力を吸収するのも良い。
しかし、理由や、実証や、世界観から、あるいは構造から考えても良い。
1つ1つの知や理解が、世界とともに関係して、何を意味するか、考えても良い。
そして、数学的に考えれば良い。
それは、先ほど否定したが、言葉の数学だ。言葉の数学は馬鹿だ。
言葉や考え方を作って考えても良い。
言葉にならないことを、想像力や感情で考えても良い。
それを言葉にしても良いし、書いて考えても良い。
色んな人間の考え方を予想して、世界を空想しても良い。
そして、何かを信じて、そのために頑張るのも、良いだろう。
可能性や「かもしれない」から、「その時そうなる」法則を作り出す。
それは、定理や原因と結果を1つ1つ、作って積み重ねることで理解が生まれる。
1つ1つの理解を、その世界の構造性とともに、相対的に作ることも出来る。
それは、UNIXのプログラムのように、汎用的で、組み合わせて分かることが出来る。
僕は、全部決められるようになってから、全部決めただけだ。
自由でも平等でも良いものを、自由に決めた。
組織でも共同体でも良いものを、組織に決めた。
昔、そこまで分かっていた。
全部知って、何でも実現できるようになって、その結果が分かる中で、決めた。
決めるのは、対話し、文章に書き、宣言しながら、自分と文章を決めていく。
アメリカにも、ソ連にも、ドイツにもなれる自分を、ドイツに決めた。
文章は、1つ1つ決めながら、1つ1つ、全ての文章を作った。
もう一度、決め直せば良い。それで、分かる。