この世界には、あるいは人生には、決める、と、決め直す、ということがある。
決めると、分かるようになる。決め直すと、分からなくなって、賢くなる。
まず、決め直すのが先だ。
既に決まった認識を考え直し、見つめ直し、捉え直して、賢く良く分かるようになる。
そして、決める。
それは、既に分かっていることを、どんどん決めていく。
目の前にあるものを、例えば飲み水を、水、と決め、コンピュータを、計算機、と決める。
また、その上で、説明し、分類や特性を、全て言葉にして決めていく。
どんどん決めていくことで、分かる。
それは、そのまま、対話や宣言になり、出来るや、分かるや、治すになるだろう。
世界にあるのは、決まりと、出来ることだけだ。
また、悪くなれば、賢くなる。
昔から、出来ると体験しか分かっていない。
書きながら、出来るようになって、知性をつけ、沢山の体験をした。
昔は、目線と視点を変えながら、環境と自由に関わり、沢山の基礎を作って、出来る。
また、色んな物に変わる。
想像力とは何だろうか?
記憶とは、受容とは、体験とは、視点とは、愛とは何だろうか?
認識とは、理由とは、経験とは、知性とは、学習とは何だろうか?
それは、昔の僕であり、同時に、自由の理想である。
人々を愛するならば、運命的な許しと、世界の把握と、実体験や疑問による理解があった。
最近の僕、とは何だろうか?
それは、永遠に判断し、人を導き、教えるだけの、世界を司る神や天使のようなものだ。
それは、それで、皆を導く理想である。
人々を従えるならば、毎日の対話と、世界の継続と、安定と治すことによる変化があった。
昔から、考えながら考えていた。
それは、何故だろう?
積み重ねと基礎、そして相対的な目線や感情の変化を全て知った結果、色んな時と場合によっての結果が分かるようになった。
そして、推論し、思い出すことと、世界観を知ることから、あらゆる論述が出来るようになった。
そして、全ての体験を知りながら、理性的に考える当たり前の結果が分かりたかった。
それは、その前の文章から、1つ1つの文章をその場その場で追加することから、また、自由や平等の意味から、積み重ねて推論して分かるようになった。
判断しながら、文章を書きなさい。
それは、むしろ、言えば良い。判断しながら、言葉を言って、分かることも出来るだろう。
世界に全てを教えるため、そして、自分の全てを与えるために、世界観と記憶と認識の全てを残して、意識の全てを詰め込み、最後から逆戻りすることで、自分の全てを書いた。
疑問として、存在するのは、最初から、人間全体の関わり合いと、世界や環境の変化である。
それは何で、誰が、いつどこで、何故、どのように行ったか。
それは、人間と変化を全体視することで、増やすことが出来る。
実感は体験と自分の行動や経験、言葉から生まれ、宇宙や人間、科学を作り出す。
その時、仮定と結論による、論理学を、1つ1つ、実際の経験と文章と考え方を考慮して作りなさい。
分かるの構造体は、日本全体の全員と全ての変化となって、予測可能になるだろう。
自由は、あらゆる経験を正しく理解することが出来る。
世界は、戦うべきではない。
それぞれの命と、自由と、財産を守るべきであり、平等はあまり間違っていないが、自由が無ければ意味が無い。
民主主義の世界では、全員の平等な権利を守り、代表をいつでも自由な判断で変えることが出来て、その上で、良い人間と判断できる者に権力を任せて、民衆の意思で変えるべきだ。
戦うならば、それは全体主義にしかならず、国民は、自由なく死を強制させられるのだ。
全体主義の戦いの国家は、それぞれ同じになるか、違うになっても、極端な間違った思想の濃いものになるだけで、良い世界にはならない。
平和な馬鹿は治るかもしれない。だが、それは、間違った理性の無い判断だ。
理想は、全員が1つになって、融和し、一体となれることだが、単純にそれをしてしまうと、間違った結果になる。
それぞれの自由な意思が存在しなければ、すぐに何も出来なくなり、悪い国になるだろう。
自由は、独立し、分裂し、それぞれの好きにさせることであり、妥協とはいうが、現実的に考えて、その方が理想である。
あとは、経験や感情的な変化と状態を書いただけだ。
宇宙には、宇宙観というものがあり、本当に宇宙が何なのか、まだ分かっていない。
しかし、感情から知ることは出来る。
その時、宇宙には、ユダヤや神、ヒトラーやイスラムなど、あるものが最初から全てある。
そのような、イデア、あるいは、遺伝子、などと呼ばれる、最初から宇宙にあるものが、おそらくあるだろう。
そして、自分の力で、宇宙の結果を曲げることは、出来るかもしれない。
だが、それは、すべきではない。
神は、幾らかそれをして、僕を導き、ここまで来させたのである。
ただ、普通の存在する時間と空間の中では、科学が正しい。
再現性の無いことは、極力起こらないし、神を居るか、とはいうが、どこにもいない。
神など居ない。運動と力が比例して、科学的な原因と結果が起きるだけの宇宙だ。
まとめると、行動や体験、疑問や実感を、予測し、積み重ねて、再度行うこと。
また、その変化を思い出すことで、色んな体験を分かった。
そして、ネットには、知の集積と、世界観、色んな人間との対話が多かった。
そして、色んなことを賢く実現でき、全てを変えられる人間となった。
自由と体験から、世界の全てを創り、変えたのだ。
認識すること、記憶すること、支配することが全てだ。
同時に、戦いながら、楽を望み、生を望み、治癒を望むことも、全てだ。
自由とは、記憶し、変え、戦い、理解しながら、その環境を知り、体験することだ。
自由とは、存在理由を認め、許し、絆を培い、同じ立場に立つことだ。
環境は、適応であると同時に、認識と学習による、人格、あるいは感情だ。
そして、世界と環境を共有し、新しい創造物を実現すること、それが、自由だ。
あるものを全て捉えなさい。そして、その全てを書きなさい。
自由で、愛情豊かな環境が、理性的に、抽象的に、創造的に、環境として、あるいは、存在として、全てを残した。
愛することは、信じることと同時に、認め、許すことであり、今までの全てを許して、新しい人生を生きることが、希望だ。
人は、過ちを犯したり、自由を削いだりすることもある。
しかし、それは、逆の視点から見れば、支配し、人を高め、導く作品を創っている。
昔は、引きこもりになって、自由になった。
LinuxのWikiを書いて、捉え直して分かっていた。
手段と方法の共有から、自由な世界と発想、可能性を分かった。
自由な経験があって、それで分かっていた。皆に、それを与えたかった。
視点と目線を変えながら、捉え直して分かっていた。
最近は、文章を書き、神と対話し、自分に言い聞かせた。
決めながら、おかしな左翼の人間を書いていた。
世界は、僕と関わらず、あるいは、止まって、そのまま自由になれ。
僕は、一度何も分からず、最初から分かるようになる。