日記に戻る | 2016年2月の日記に戻る

=2016-02-25=

他人に間違っていると言われたら、その人に言われた通りのことをやってみろ。

夢で分かった。そういうことを夢の中でアインシュタインが言っていた。

アインシュタインでは無く、手塚治虫だったような気もする。

それで、地上の生命の全てが進歩する。そういう、偉大な精霊の夢だった。

最近、良くありえない夢を見る。何故か、自分はそこまで賢くなっている。

昨日言いたかったことを忘れたが、大したことは言っていない。

夢は、他人に間違っていると言われた時は、それを吸収して、何が間違っていると言われたのか、何が正しいと言われているのか、考えろ、と言うことを言っていた。

昨日は、ネットの議論や知性のようなことを言っていた。

昨日は、「文明」のようなことを何か言いたかった。

本当に、日本、ドイツ、イスラム、ソ連だけ、そこまで違う。

自分のせいで、地球と日本がそこまで違う世界になった。

そういう、文明のようなことを、何か言いたかった。

アメリカのように自由に経験していた。認識と意識の変転を書いていた。同じ思考をして分かっていた。認識、自由、知性、決まり、人間、場、関係、言葉のモデルを作っていた。

今日は英会話教室に行ってきた。英会話教室が怖いのは、文章のことを忘れるからだ。もう、怖くない。もっと、英会話教室に行った方が良い。きちんと英語のスキルは上達している。

人間は、何も分からなくなると楽になる。

最近は、常に分かる人間が多いが、辛いなら、何も分からなくなれば良い。

それはおかしくは無いが、怖い人間が多い。

昔は、連想と想定からモデルで分かっていた。

モデルとは、認識ともののことを言っていた。フィルターのことを言っている。

見方を変えて、常に昨日とは違う考え方をすること。

日本は、弱く見える外国人が多い。弱いのに強いから、馬鹿に見える。

平等と自由は、そんなに憎しみ合うのがおかしい。

ソ連と日本は、同じことを信じているし、全く同じだから、仲良くやるべきだ。

平等の悪い点は、自由を殺して、皆を同じにする。

だが、それは自由も同じだ。

平等を殺して自由にするのは、おかしいのが右翼だ。

自分は、最近、平等の方が好きだ。

自由にすると、どうしても格差が発生する。下層と弱者が発生する。

だが、平等にすると、下層だけの国になる。弱者だけしか居なくなる。

経済発展と平等のバランスを取るべきだ。

昔は、相対性、経緯、考え方、記憶、意識、人格、環境、方法、可能性から分かっていた。

最近は、文章を書いて、構造を作って分かっている。

世界を全部作っていた。この世界にある概念的、方法的、論理的要素を全部書いていた。

物理のようなことを考えていた。物理的命題や、数学的命題のようなことを言う。

論理的に考える。

ものは、質量、面積、体積、座標、力、距離、速度、時間、エネルギーなどがある。

昔から、そういう、物理のようなことを言う。考え方の網羅を書いていた。

自分は、心から満たされるような、良い文章を書いている。それは悪くは無い。

数学のことをしたいと思っている。数学の歴史は、悪くないと言うが、もっと、数学的なことを何か学びたい。父親が物理の専門家だから、参考になるかもしれない。

今日は英会話教室に行ってきた。だが、英語は本当に難しい。単語帳のようなことをしたい。

それから、世界史の本は、まだ全部読んでいないし、心理学の本も途中までだ。それこそ、おとなの教養の本や、仏教の本も途中までしか読んでいない。

そんなに考えない方が良い。考えない方が賢い。本を読みたいなら、好きな本から読めば良い。そんなに決めない方が良い。決めるだけ、何も出来なくなる。

あとは、社会参加を考えないのがおかしい。社会参加を考えれば分かるのが人間だ。

何も欲しくないのもおかしい。所有は悪いと思っていた。社会主義的に見て、所有は悪い。だが、それはありえないと思う。

昔は、人間の経験のようなことを分かっていた。

数学的に、人間の経験を考えて、実験して分かる。そういう、数学者のような人間だった。

最近は、文章を書いて、国の構造のようなものを作っている。

ソ連を作った。相対的な宇宙の構造が全部分かっていた。

文章には、実体と出来事のようなことを分析した内容を書いている。

計画経済のようなことを考えていた。給与を与え、ものの価格を設定した。

考え方から国を作っていた。

実験みたいな内容を全部書いている文章が多かった。

もっと、きちんと思い浮かべて考えれば分かる。質量や力のようなことを考えれば良い。

想像力から、この世界を全ての概念によって、数学的に分析出来る。

あとは、この文章は、自分の女を作った。可愛い女になった。

全ての構造を構造と言い、全ての可能性を可能性と言う、そういう、総称的でデカルト的な構造の文章が多かった。

もっと、色んな方法を使って考えれば良い。色んなことを覚えれば分かる。

あとは、数学は出来ない。数学だけで多いせいで、何も出来ない。

自分は、1つの分野だけで多いのが分かっていない。心理学も経済学も物理学も、全部は出来ない。哲学だけをやるしかない。カントだけも、本当に多い。

哲学だけで良い。数学で分かることなんか、哲学と同じだ。哲学の方が、具体的なことが分かる。数学的なことなんか、デカルトとライプニッツで誰でも分かる。

数学は出来ない。数学だけで、本当にいくらでもある。微分なんか分からなくて良い。代わりにパソコンが分かっているし、昔分かっていたせいで、数学なんか要らない。

あとは、歴史ぐらいは出来る。きちんと世界史とデカルトをやれば良いのが自分だ。きちんと世界史を読んで、フランス史でも読めば良い。

数学史は、出来なくは見えない。むしろ、数学は数学史をやりたい。そうすると、この世界のことがきちんと全部分かる。数学史は、悪くないと思う。

ただ、数学は、出来ないと哲学が出来ないから、最低限した方が良い。

数学だけをやれば良いように見える。哲学や歴史はもう十分やった。

あとは、数学的な説明と論理学のような文章を書いていた。

それで、国家の構造を分かる。ライブラリ関数の会社とか、そういうものを作っていた。

数学の証明と、国家の構造を分かる。いつも、そういう文章を構造的な世界観にしていた。

数学を何かしたいのは良いが、中学や高校はしたくない。それなら、読み物のような文章を読むのが良い。数学や物理の、科学的な雑誌のようなものを読めば良い。

数学をしたいとは言うが、中学や高校はしたくないのが自分だ。しても、あまり意味が無い。むしろ、学校は無視して、数学的な基本的考え方を育むのが良い。そのためには、正しい論理的な思考をすること。論理的な思考が出来ないだけで、数学はする必要はない。

論理的な思考ぐらい、出来た方が良い。それが出来ていないだけだ。

何故か、おかしい。昔は出来ていたのに、出来なくなった。論理的な思考が、昔は出来ていたのに今出来ない、ありえない人間が自分だ。そんなに忘れるのがおかしい。

あとは、昔は歴史のように人間の経験を考える。そういう発想が多かった。

要は、そんなにキモイのがおかしいだけだ。キモイものをあまりに増やし過ぎた。それで分からなくなった。分からなくなったから、最初からやり直すしかない。

仕方がないから、もう一度最初から考えれば良い。昔は、小さなことや当たり前のことから、経験して、自分から考えて、行動して分かった。目的と手段のようなことを考えていた。そういうことをモデルと言っていた。

何をするために、どうする必要があるか。何がどうなって、どう出来るか。そこから考えると良く分かる。何をしたいなら、何をするか。そういうことを考えれば良い。

数学は、どんな場合でも成り立つのが賢い。

それこそ、論理的に考えるとは言うが、ほとんどは数を考えるだけだ。心理学や経済学は、こういう、構造的な学問だ。それをニュートンのようにしていたが、それは疑似数学であって、何も賢くない。きちんと数で考えれば、論理的に考えられる。

不思議と、数を論理的に考えていると、哲学なんか誰でも出来る。デカルトは、賢いと誰も言わない。普通、誰でもデカルトより賢い人間しか居ない。

哲学はしなくて良い。論理的に考える力が無い時点で、哲学は出来ない。論理的に考えられないのに、哲学なんかしても意味が無い。哲学の人物図鑑は、もう終わった。これ以上、哲学のことはもうしなくて良い。昔のパソコンも、Linuxで終わりだから、しない。

あとは、むしろ、論理的に考える力なんか、要らない。普通、たまに数学的なことは出て来るが、それくらいだ。哲学的に社会を知るのは、もう出来ない。もっとマシなことをした方が良い。論理的に考えたいなら、自然科学をすれば良い。地球に意志があるとか、そういうことを言っているから出来なくなった。宗教は馬鹿だ。

人生のことでも考えれば良い。

数学より、普通の人間になった方が良い。そんなに賢者になりたいのはおかしい。誰でも、普通の人間が出来るのが数学だ。それこそ、学校に行かないなら、出来ない。したいのもおかしい。インテリになりたいなら、これで良い。もう終わりだ。

数学は、ゲームやパズルをやっていると出来る人間が多い。こんな馬鹿には出来ない。何もしない人間には、出来ないのが数学だ。

むしろ、やりたいならやれば良いのに、やりたくないだけだ。すぐにやれば良い。

論理的な思考は、放っておけばいつか出来る。数学なんか、しなくて良い。

数学は、疑似数学が悪い。きちんと数で考えれば、論理的に考えられる。何が何であるか、必然的な道筋で考えれば良い。心や社会のことを疑似数学にしていたのは、単に具体的に考えていただけだから、具体的な事象を考えれば良い。現象学と思えば出来る。

あとは、主観と客観、個別性と普遍性を考えていると、哲学は誰でも出来る。不思議と、デカルトだけをするしかない。そんなに全員は、普通しない。

社会のことを考えるなら、個別の場合と普遍的な目的を考えれば良い。心は、現象学にすれば良い。そういうことを言いたいのだと思う。

論理的に社会のことを考えるのは、誰でも出来る。それは、制度と環境を考えれば良い。

それこそ、社会的に何が必要で、実現すべきか、のようなことは、こういう風に考えれば良い。誰でも、そういう論理性が多いが、それのことを考えたいだけだ。

そういう風に考えたいなら、数学をするより、仏教やヘーゲルをした方が分かる。

そういうわけで、数学は数を考えるだけ、要らない。哲学と歴史をすれば良いだけだ。

ものは、あれば使える。作ればある。社会は、良い社会を築くべきだ。

そういう、基本的な論理学、仮定が分かっていないが、昔はそれしか分かっていない。

そういう風に考えれば分かる。あとは、先を読んで、予測して、把握して、支配する。

そういう風にすれば、論理的に考えられる。

それこそ、良い社会にするとは言うが、自分一人では全ての社会は変えられない。統一すれば良い。統一すると、全ての社会を変えられる。だが、多様性はあった方が良い。

作るためには、自由な中で作る必要がある。そのためには、手段、情報、実現力、知識、知性、経験、そして判断力が必要だ。

そういう風に考えるのを、論理的な考え方と言う。

心のことは、仏教で言う四諦や執着心のことを考えると良く分かる。苦の原因と苦を解消する方法から考える。そういう風に考える人間が、一番日本に多い。

西洋人は違う。西洋人は、キリストのように、罪と救済から考える人間が多い。西洋人は理想的だが、仏教は実地的だ。そういう風に心と宗教がある。

そういうわけで、自分はマルクスと仏教とヘーゲルがしたいだけだ。それらをすれば良い。

数学はしなくて良い。デカルトとカントをすれば良い。

だが、いきなりは難しい。もっと、着実に、論理的に考える力を養った方が良い。

「ある1つの場合」を仮定して考えないのがおかしい。色んな「命題と場合」を考えれば分かる。色んな環境と心を具体的に想定すれば良い。「かもしれない」を考えれば分かる。

実験しないと分からない。試さないで分かる人間は居ない。それは、カントで分かる。

あとは、フロイトやサルトルがしたいように見える。不思議と、ヘーゲルで社会のことなんか、正しく全部分かる。きちんと考えていると、アドラーとマルクスになる。

数学はしなくて良い。数のことなんか、分かっても意味が無い。ただ、数学は基本的なことは分かっていた方が良い。哲学は、数学が出来る人間にしか出来ない。プラトンも、幾何学を知らないものは、この門に入るべからず、と言っている。数学は出来た方が良い。

むしろ、数学と言うよりは、関係や自由のことを相対的に考えれば良い。昔の自分は、そういう人間だ。それこそ、デカルトをやった方が、数学より賢い。

そういうわけで、これなら哲学をすれば良い、が正しい。

歴史をやりたいなら、どれかの国にすれば良いが、まずは日本史をやった方が良い。

政治経済や心理学をやりたいのは良いが、それも、哲学の方が良いだろうと思う。

あとは、大人になれば良い。大人になると、それだけで分かる人間が多い。

それから、2ちゃんねるは要らないが、昔は、そういう、社会経験が多かった。社会に影響されて分かっていた。ネットは悪いが、何もしなければ分からない。

ネットは賢いから、見るのは悪くは無い。ネットが無くて、何か分かるわけがないのが分かる。だが、そうでもない。ネットはただのゲームだ。ゲームなんか、子供の遊びだ。

それこそ、ゲームなんか普通しない。数学はゲームで分かるとは言うが、要らない。もっと他のことをしていれば、誰でも普通に分かる。それこそ、工具を使って工作すれば良い。その方が、2ちゃんねるより賢い。ものを作っていると出来る物理が一番多い。

最近居ないが、昔は社会のことを全部変えたかった。解決したかった。その理由で、この世界の創造のことが分かった。手段や機会やマスターへの道が分かった。

それは、世界を変えたかっただけで、論理的に考えるのは、二の次だった。そういうわけで、世界を変えたいと思えば良い。そうすると、論理的に社会のことを考えられる。

解決や解答を疑似数学と言っていた。予測出来るのを考えて、実験していた。成立と仮定の論理学を考えて、普通の学問を作った。それくらいの馬鹿が、論理的な思考の知性だ。

あとは、数学的な予測と抽象性を考えるなら、パターンを考えれば良い。そうすると、お絵かきソフトのGIMPのように、世界のことが分かる。昔は、パターンから本質を考えて、類似性のようなものを分かっていた。

もう、数学は要らない。きちんと哲学をやりながら、世界のことを変える方法と可能性を考えれば良い。そうすると、数学は本当に要らない。

ただ、論理的に考える知性ぐらい、あった方が良い。そのためには、数と「ある1つの場合」を考えることだ。それできちんと論理的な思考が出来る。

仏教の四諦のように考えると、きちんと人間の経験が全て分かる。そういうものは、論理と言うより、経験と言った方が良い。経験的な理性から、帰納的に分かることが多い。理性を方法とは言うが、経験も方法だ。

そして、この世界のことを洞察すれば良い。モデルにすれば良い。昔は、本当にそれくらいの馬鹿だ。そして、経験的な観念から、ロック、ハイデガー、フッサールのように、現実の事象と現象を考えれば良い。哲学は、そういう学問だ。

モデルや社会的経験とは言うが、世界を変えるモデルと経験しか考えていない。

あとは、色んな社会問題を考えれば良い。それも、実体験から考えれば良い。

それから、パソコンは悪くない。今まで生きてきた中で、パソコンより賢いものに出会ったことが無い。何故か、Perl、Lisp、C++、Javaが一番賢い。

だが、パソコンより悪いものにも出会ったことが無い。人間を廃人にする。一番、麻薬みたいに悪い。パソコンは本当に悪いから、二度としない方が良い。

それこそ、もっと賢くなりたいなら、哲学をするしかない。数学は賢くない。基本的な数学的知性は、そのうちきちんとつくから、何もしなくて良い。何もしなくても、大人になれば分かる人間が多い。数学は、そういう、無い方が分かる学問だ。

あとは、発想法と世界観を分かると良い。昔から、それくらいの馬鹿が自分だ。それは、哲学より、パソコンが良い。パソコンをやっていると、発想法が良く分かる。

そういうわけで、世界を変えることと、発想法を考えれば、昔の自分はすぐに出来る。

もう終わりだ。結構きちんと分かった。

そういう風に哲学的なモデルを考えれば良い。経験からモデルで目的と手段が分かる。

あとは、偏見や先入観を持たないこと。その方が、本当に良く分かる。

そして、正しく考えること。人間のことを分析して、自分は何が出来るのかを良く考えれば良い。何をするためには、何が必要なのか考える。それくらいが多かった。

能力的なことから、知識的なこと、環境的なこと、前提的なことを良く考えれば良い。

そろそろ終わった。もう楽だ。あとは、もう何もしなくて良い。

あとは、意識で分かっていた。人生体験を、異様な意識で分かっている馬鹿が多かった。

そういう風にならない方が良い。そういう風になると、狂ってここまで辛くなる。

辛いを賢いと教えるのが間違っている。辛いことは、何も賢くない。

あとは、自分が出来て分かっていた。もの作りだけではなく、社会構築や議論のようなことが出来る。信頼関係の樹立のようなことが分かっていた。

何を教えれば、何が分かるのかが分かる。そういう、インターネットの哲学者だった。

むしろ、パソコンのことをやりたいなら、Windowsをやれば良い。それが一番賢い。

ネットの社会経験から、社会構築の方法が分かった。心理学は、アドラーのように、人間の成長と子供からの脱却を分かっていた。そういう成長と実現から分かった人間だった。

もう何も無い。もう終わったはずだ。

僕は、もっと外国語のことがやりたい。英語とフランス語で、ここまで賢くなった。英語は悪くない。もっと色んな語学のことをやりたくなった。英会話教室は楽しい。

あとは、哲学のことは、しばらく距離を置いて、歴史や数学史のことをやりたい。

あとは、環境と記憶から、人格のことが分かっていた。そういうところが賢かったのが、昔の心理学だ。作用と反応を考えて分かっていた。もう、1つも覚えていない。

アドラー心理学でもやれば良いが、見ると、アドラーはキモイ。アドラーが一番馬鹿な、子供から脱却出来ない大人に見える。それこそ、ユングは賢いから、ユングをすれば良い。

もう分からない。あとは、色んな文章を読んだ方が良い。会話もした方が良い。

むしろ、僕は昔からイタリア語が好きだから、何かイタリアに関して出来ると良いかもしれない。昔、ローマ帝国の歴史の本を買ったことがある。読んでも良いと思う。

ただ、そんなにすぐに全ての文章は読めない。

むしろ、世界史に戻る。世界史で良いと思う。それこそ、数学史は、読んでも理解出来ないから、読まないように見える。ユングの本は悪くないから、それを読んでも良いと思う。

あとは、言語と連想の構造を作っていた。構造から、連想して考えていた。

自分は、昔から、子供っぽいところがある。それこそ、自発的な自由と思う人間は居ない。昔は、強制せず、自発的に自由にする、それだけの、知性ある子供のような人間だった。

経験的なことは人によって違うが、理性的な正しいことは、絶対に正しい。

そういう、論理学的な「数と理性の正しさ」が多かった。そういう風に考えれば良い。

数は、それ自体、方法を含んでいる。そういうことを言う人間が多い。

経験論は、人によって様々に違うのを良く考えると分かる。価値観が多様な中から、宇宙の意識と概念が生まれる。そういう風に考えると、ヒュームが出来る。

それこそ、きちんとそれくらいの哲学者を、もう既に知っているから、大学は終わりだ。

昔は、共感から価値観を分かること、みたいなことが多かった。

ネットとは言うが、ネットには見えない。創造的で抽象的で相対的な理性だった。

場から共感で価値観と一体感を分かっていた。2ちゃんねるには見えるが、そういう風に分かると、経験論の哲学が出来る。ヒュームとインターネットは同じだ。

あとは、むしろ、ネットはそんなに悪くない。色んな人間が意見を交換するのを見ていると、ミニチュアの国会に見える。やっていると、賢い人間になる。客観性を知ることで、心理学が出来る人間が多い。心理学は、自由だ。

昔は、ロボットを作っていただけだ。共通認識から、ゼロとイチで分かっていた。

ロボットを壊すと、日本語が消える。一度、日本語を消した方が良い。

日本は、それで治る。何故か、日本はロボットの国になった。自分のせいだ。

部屋で生活している、悲惨なロボットが見える。

この文章は、人生と言うよりは、部屋を作っている。マンションのような部屋を作る。

ただ、ロボットは怖いから、消した方が良い。頭だけが生きている、悲惨なロボット人間が見える。昔の自分は、本当にそういう馬鹿だ。

今、ロボットが壊れた。もう、ガラクタになった。それで良くなる。きちんと新しい想像力が見えるようになる。想像力が、壊れて死ぬのが治る。セックスのように辛い。

本当に、こんな風にいじめるのはおかしい。それは、全部昔の自分が悪い。

経験が人それぞれ違うのから、世界観や環境の前提条件を考えれば良い。

人生には、人間的法則が沢山ある。それは前提である。知を知ること、人と協力すること、子供を育てること、などから、関係を考えられる。

そういう風に考えていると、ヒュームやカントと同じになる。昔は、それをきちんと正しく考えていただけだ。経験的な前提条件と、「人それぞれ違う」と言う価値多元論から、この世界の全員の経験と可能性を、モデルにして考えていた。そういう経験論だった。

もう分からない。ロボットと言うよりは、虫だ。虫みたいな生命になった。

最近はロボットみたいな人間も多い。少数だが、こういう、神みたいに賢い人間がどんどん増えている。そのうち、ロボットと神の社会になる。

だが、そんなオカルトはどうでも良い。パソコンが本当に悪いだけだ。パソコンは、アメリカだから仕方ない。明らかに、ITが一番右翼だ。最近はそれしか居ない。

あとは、影響力、関係、環境、フィルター、そして人格形成を考えると分かる。

それぞれの人間的な価値観と人格を考えて、人それぞれ違う経験を分かっていた。

あとは、発達心理学のように分かっていた。知の前提を考えていた。そういうものを、全部パソコンのようなロボットにしていた。そういうロボットが多かった。

ロボットが死んだから、夜が明ける。この世界の夜明けだ。

そして、すぐに滅びる。そのまま、滅びた中で栄える。全員が死んだ、血の海が見える。

そこから、天使が再生するだろう。

成長と発達心理学のロボットを、状態を考えて、パソコンのように作っていた。

良く考えると、それしかしていない。それが、セックスだっただけだ。

場みたいなものを全部根源的な意識で分かっていた。いつも言っている。想像力で、夢の世界のように分かっていた。絶対的な天国の世界のようなものが分かっていた。

自分は、もっと具体的な社会や環境を見ないのがおかしい。昔は、具体的な社会をネットで見て分かっていたが、ネットでは意味が無い。

僕の力は、超能力のように、この世界を治す。インターネットを破壊したいのは、皆が悪いと言うから、出来ない。代わりに、インターネットを正常に治せば良い。それは、良いと言う人間が多い。そういうわけで、僕の力で、インターネットを治す。

あとは、どうでも良い。もっと、普通のことを考えれば分かる。

日常で何も思わないのがおかしい。もっと、日常的なことを考えれば良い。

何故か、この文章はドイツだ。ドイツみたいな知性がある。ドイツは、良い国だ。キモイぐらい、白いだけのドイツに見える。たまに、暗闇みたいに怖い。それがソ連だ。

昔は、世界を変えたかった。本当にそれだけで分かった。戦士みたいな人間だった。

最近、賢くなった。哲学と歴史が分かる。きちんと賢い作家になった。

もう、この文章を書くのは、止めて良い。もう、終わりにすれば良い。

あとは、カントやデカルトのように書いていた。定量的、定性的、特性、理性的方法、理性批判、のようなことを言う。コペルニクス的転回は、昔の自分に多かった。そこから、アプリオリのようなことも良く考えていた。矛盾とアンチノミーも良く考えていた。

もう、書かなくて良い。そろそろ終わりだ。

昔は、見方を変えて、色んな角度からものを見て分かっていた。

認識と歴史から分かった。環境と現象を分かった。

足の精神は、適当に動かしながら、楽をしていると治る。楽をするとすぐに治る。

この世界のことを全部分かっていた。そういう、全部のこの世界のような文章を書いていた。理性と方法と法則と社会のように、この世界のことを分かっていた。

足は治った。あとは、精神分析をすれば良い。怖いものが何なのか良く考えること。心は複雑なようで、何かが色々とおかしい。それは、フロイトの心的外傷のようなものだ。

自分には、根性と勇気がある。底力がある。そういうことを言えば良い。

比較して、実験すれば分かる。動いた方が良いのか、止まった方が良いのか、分かっていない。それは、保留にすることも出来るし、実験することも出来る。

神が言うように、人間は、既に知っていることを体験する、観測者である。

子供は、分からず分かっている子供が多い。何故か、最初から分かるのが子供だ。感情を親から受け継いでいるのかもしれない。子供は、分からないのに分かる人間が多い。