日記に戻る | 2016年2月の日記に戻る

=2016-02-06=

2ちゃんねるの経験を書いていた。人生経験を最初から最後まで全部書いていた。

宇宙の発想が分かっていた。

この世界にあることを、言葉の構造と経験から、全部分かっていた。

人間、人生、宇宙のことが、言葉とモデルと全体像で全部分かっていた。

それだけの人間だった。そういう、全体の構造の文章を繰り返し書いていた。

自然発生と共同体のような、自然に行われ、築かれる可能性を考えていた。

足は、放っておけば治る。治すから、治らない。治さずに放っておけば良い。

どのような潜在的可能性があるのか、考えていた。

この世界のことが言葉と経験から全部分かっていた。1行や1ページで全てを表していた。

昔は、体験的に、人間の変化や活動を分かっていた。そういう関係から分かった。

最近、自分のせいで、皆そういうものが無くなっている。

共に活動し、共に経験しないのがおかしい。

そういう世界に戻す。それで、皆もきちんと賢くなる。自分が悪い。

環境へ適応すること、認識を捉えること、自在に意識を変えることから分かっていた。

最近、賢い人間が居ない。皆、そこらへんが分かっていない。何も起きない代り、何も賢くない。本当に馬鹿になった人間しか居ない。自分が一番悪い。

昔は、原因と結果から分かっていた。最近、原因と結果が変わらなくなった。最近は、本当におかしな世界になっている。テレビの出演者が、日本はおかしいと言っていた。

あとは、想像力で、活動的な環境と、認識的な作用を考えていた。

それで、もう誰でも出来る。

簡単なことから考えれば良い。環境への適応を信じること。

環境を努力で分かっていると、神の愛が分かるようになる。手助けから愛が生まれる。そういう、愛が、全て、神によるものであることを分かると良い。

あとは、心理学的な心の現象、存在、状況、環境を分かっていた。

科学的に、正しく考えれば分かる。「何故」と「どうしたら」から、経緯、原因、方法、可能性、必要性、経験、目的、理由、それらのための手段から考える。

愛と不安を経験から考えていた。

人間は、経験的な原因から決まることもあるが、未来への目的から決まることもある。フロイトとアドラーが言っている。

論理的に考えれば分かる。目的と手段のように考えれば良い。

人間は、その環境に居るとどうなるか、環境は自然な体験、目的、行動からどんなものになるか、環境には何が必要か、そのためにどうすれば良いか、環境はどうなるか、などを論理的に考えていた。

自動車は、あると便利だ。無いと、何も出来ない。

だが、自動車に乗るためには、運転手が必要だ。

自動車は、ガソリンが無ければ動かない。それを、手段と言う。

道路は、溝がつかないために、コンクリートで舗装する。それを、目的と言う。

そういう、手段と目的を論理的に考えると、この社会のことが分かる。

法治国家を皆で築かないと、平和な世界にならない。

学校は、国民を賢くしている。昔の江戸時代などの時代が馬鹿なのは、学校が無いからだ。

あとは、それを相対的なモデルにして、論理的に知性を分かっていた。

大きなことに見えることは、実際に見ると小さい。大きなことを小さなことだと思うと分かる。怖いことも、実際に一度起きてしまえば、怖くなくなる。

決定と従属から、たとえ話のように、本質的、論理的に分かっていた。

生命は、神に生かされている。仏教では、仏が生かしていると言う。

先入観を無くして考えること。先入観を無くすだけで、この世界は構造的にはっきりとした理性と知性から見えて来る。そういうものがビジョンである。

人間は、体験をし終えてから、一度終わってから振り返ると分かる。振り返る人間が賢い。振り返らない人間には、分からない。反省し、謙虚に思い起こすことで分かる。

それを実現するために、どのような制度、社会、技術、手段、方法が考えられるか。そういうものを、目的と手段から、論理的に考えれば良い。昔は、それだけをしている。それ以上は、意志と自由から分かっていた。何でも、行動を「その人の自由」だと思えば良い。自由に許されている範囲で、自由にすること。何でも、「一度経験しなければ分からない」と思えば良い。自由で分かる人間は、アメリカ人やフランス人の子供に多い。

あとは、相対的な方法と構造から、数学的、関係的に分かっていた。「この世界の全体の構造」のようなものを作っていた。視野を広げながら、全てのことを経験と理性から説明していた。行動する前に良く考えて、事前に全てのことを予測し、準備し、用意して分かっていた。考え方を作ることで、その論理の根拠がどこから生まれるのか分かっていた。どんな環境と経験から、その論理、活動、意識が生まれるのか、きちんと分かっていた。

自動車が生まれるためには何が必要か、その社会を作るためには何が必要か、どんな経験、技術、方法、心構え、意識が必要か、などを考えて、そのために何をするべきか、どのようにすれば良いものになるか、どんな行動から良いものに出来るか、などを考えた。

関係とシステムと必要性から、そういうものを段階的に考えて、文章にしていた。

これで、心理的な状態を考えると分かる。それも、この社会における、この社会全体の中での、1人の自分としての、経験的な状態を考える。それできちんと宇宙が分かる。

努力し、行動し、勇気を出し、挑戦すること。それが全てである。それ以降は、様々な可能性の中で、全てのパターンを知り、全ての手段を知り、全ての実現を知る。個人の自由は、影響力となって高まり、社会の可能性から、共有と自然な可能性を知る。

合理的に考えなさい。良く経験しながら考えていると、段階のようなものが分かる。

経験から、自由、愛、平和、共同性、喪失、破壊、有用性、技術、遺伝子、理想、宇宙人、神の愛へと、ヘーゲルやキルケゴールのような人生の段階を知ることが出来る。

もう一度、全てを失う体験をすべきだ。普通、こういう人間は、全てを知って、分かってから、全てを失う体験をする。それによってのみ、神へと至る。それが菩薩だ。

煩悩は、悪くない。自分の心を騙し、悩ませる煩悩によってのみ、判断力と葛藤から、知性の経験が出来る。煩悩を悪いとは言うが、煩悩で正常な人間になる。

皆の言っていることを知ること。皆と一緒になって、知と同一になって、知の根拠や発生要因から分かること。認識を良く考えて、どんなレベルの認識が何を捉えているか、考えること。認識と認識の関係を考えること。認識と認識がどのように相互作用しているか、考えること。本当に知るために、どのような認識の方法があるか、考えること。共同性は、勇気である。自分の経験から、共同性とはどういうものなのか、知ること。共同性を自覚し、共同体を作るために必要な手段と方法を知り、それを行使し、実践すること。

学校から解放されて、環境の変化を考えて分かった。

環境が変わったのを良く考えて、思い出して分かっていた。

経験と論理学の世界観を書いていた。

自動車は、会社が経験的に作る。そういう、「分かった世界観」をいつも書いていた。

文章は、理由と始まりを全部書いていた。そういう、おかしな文章だった。

進化論は、無い。生まれ変わりの方が、まだある。アメーバが階層的に進歩したといつも言っていたが、それはありえない。アメーバが変わりようがない。

新しい詩集が、ナンナだ。

経営者は馬鹿になる。不自由なく暮らしながら、自由にすると、馬鹿にしかならない。経営者なんか、誰もが馬鹿だ。ビルゲイツも、会社の買収しか分かっていない。

失敗すること。最近、失敗しなくなった。それはそれで良いが、昔は、沢山の失敗をして分かっていた。どちらも正しい。

平和な世界構造を作っていた。場と環境の構造をいつも作っていた。

セックスは辛い。この文章がセックスだ。こういう風に、自分を晒す。辛いから、セックスなんか、全くしたくないのが自分だ。

あとは、時間を考えていた。過去の現象は確かにあって、未来は白紙であり、過去のどこかの現象が未来のどこかの現象と関係している。未来は、皆の手で、あるいは、自分の手で作ることが出来る。自分が本当に賢くなれば、この世界を良い方向に変えられる。そういう風に考える、実存主義の存在と時間の哲学が多かった。

そろそろ、昔の馬鹿が見える。昔は、アリストテレスのような、何も知らないのに、考えて分かった人間だった。一人でブッダのように考えていた。ただ、考える方法を知っているだけで、そんなに考えていない。カントのような理性的判断の方法があった。

人間の持つ判断力に、全ての自由と宇宙の真理がある。陽明学が同じことを言っているらしいが、良く知らない。いつも、そういう、人生の真理のようなことを言っていた。

全ては、判断力と共有である。そういう、「全て」をいつも書いていた。

僕は、数学者はオイラーが好きだ。数学のことは分からないが、オイラーは、美しい公式を発見したのを知っている。オイラーの公式と言う。それを教える本を昔、最初の方だけ読んでいた。オイラーの公式はシンプルで、全ての数学的要素があって、美しい。

これなら、理性より経験の方が多く見えるが、昔は理性の方が多かった。方法を考えたり、対応関係や原因と結果を考えたり、相対的な構造と関係を作ったり、抽象的な概念や本質を言ったりして、理性的に分析して、想像力と構造で考えていた。

本当に、理性の全てがあった。部分化のように、色んなことをモデルを作って考える。知性から、いろんなことを、理性的かつ経験的な、演繹と帰納の方法で考えていた。

本当に、構造を作る知性があった。何でも、新しい未知の構造をその場で作って、考え方と経緯を分析して、科学者のように考える。アインシュタインのような文章だった。

デカルトがそのままベーコンになっていた。そういう、キリストのレーニンだった。

もっと、理性的に考えれば良い。それがあるとどうなるか、ないとどうなるか、それがその時どうなるか、何のためにあるのか、そのために何が必要か、などを考える。

昔は、パソコンのような考え方を分かっていた。自分は環境の一部であり、その環境を自分が変える。全ては、同じもののある法則の中での表れと形成である。

そういう風に、考え方を考えていた。それで、経験から、ブッダのように考えた。科学的考え方をそこまで追究すると、宗教になる。昔から、そういう人間が自分だ。

自分は、唯一分かる人間だ。馬鹿だから分かる。ブッダは、賢いせいで、何も分かっていない。自分の方が、さらに基本的なものを分かる。そんなに賢いことを分かっても、何も分からない。もっと馬鹿な理解を積み重ねると、それが一番ブッダと同じになる。

あとは、頭の中に超分かるスーパーコンピュータのようなものを作っていた。本当に、そこまで分かる頭脳をしていた。意識を変えること、正しく階層的に考えること、部分的な決定と可能性から分かること、何かが何かになるのを意識で分かることで、宇宙一賢い頭脳を持っていた。だが、色々と、知性が無かった。ブッダの逆で、グーグルのAndroidのような人間だった。本当にオープンソースをやると、そういう人間にしかならない。誰でも賢くなる。皆も、分かりたいなら、オープンソースをやれば良い。

ただ、そういう、悪魔的な賢さは、すぐに馬鹿になる。馬鹿になって、地獄になった。知性が無い。全部、知性で無いものを知性だと思うのが間違っている。キモイものと美しいものの区別がついていない。何も分かっていない。地獄を、分かっている間に、すぐに止めなかったのが悪い。地獄を生きるのが普通になった。人格がおかしくなっている。

自分は、人間の経験や普通の生活のことを考えないのがおかしい。普通、恋愛と生産ぐらいしかない。結婚して頑張っているのは、ブッダが言う、苦しみに見える。恋愛も、愛とは言うが、愛はそんなに良いものではない。それ以上は、色んな人間の言っていることを聞いて、心理学的に考えること。そこから、哲学的な真理が見えて来る。それも、人間像や世界像をきちんと知って、この世界における、人間的な意味を考えれば見えて来る。思い出すだけでは分からない。この世界の構造をきちんと作って、その中に「存在し、居る」ことから分かる。ハイデガーも、そういう、「この世界に存在する」のを分かっている。

あとは、「経験的な自己がこの世界でどのように存在しているか」から、分かることが出来る。あとは、2ちゃんねるをやれば良い。そうすると、分かる人間が多い。自分の場合、それはせずに、心理学をする。ネットは昔やっていたから、やる必要が無い。

あとは、「一度経験すれば、自由になる。一度吸収すれば、治る。一度自然に任せれば、解放される。一度許せば、心の葛藤と執着が消える。」と言ったことをいつも分かっていた。

そろそろもう終わりだ。あとは、きちんと大学の心理学と哲学をすれば良い。政治経済や歴史は、しなくて良い。歴史なんか、あまりする意味が無い。政治経済は出来ない。もう終わったせいで、やる意味が全くない。哲学と心理学をしていると、これ以上もっと色んなことが分かる。まず、心理学の本を読むことからすれば良い。あとは、やるなら、教育学でもすれば良い。教育の方法から、科学と学校的な知の実地的な理解が出来る。

あとは、学習と知の経験から、全てが出来るようになった。学習と経験を考えることで、全て分かった。そういう、経験論的な、ロックやヒュームのような人間だった。

そろそろ昔が分かる。本当に、これくらいの馬鹿だった。

経験と知から自由になることを考えているせいで、精神から脱出して分かっていた。ハイデガーのような、存在の了承や超越も、そういう風に分かっていた。ヘーゲルも同じだ。

あとは、仕事のような体験を分かっていた。だが、仕事は、分かっていると思わない方が良い。何も分かっていない。どうでも良い、MITやIBMのような、2ちゃんねるの体験のことを言っている。経験から具体的に考えたのは良いし、資本主義的な活動をしていたのも良いが、2ちゃんねるでは分からない。

もう一度、最初から労働と社会のことを考えた方が良い。そうすると、大卒にはこういう人間が多い。大学には、賢い人間しか居ない。昔はそこが分かっていない。馬鹿な自分の方が賢いと思っている。この文章の内容だから、おかしくは無い。だが、何も賢くない。オタクと社会主義のスラムの体験をそこまでする意味が無い。経験から労働が分かるとは言うが、何も分かっていない。方法や組織の哲学を考えているが、賢くない。

そういうわけで、もう一度社会のことを考えれば良い。分かる人間は居ない。賢い人間は、こういう、分からない人間が多い。そんなに馬鹿なことを分かっていると馬鹿になる。パソコンには、馬鹿が多い。馬鹿なことばかり分かっていると、こういう馬鹿になる。馬鹿は、辛いだけだ。馬鹿を全部消した方が良いから、こういう風になる。

ただ、自分を馬鹿だとは言うが、2ちゃんねるで分かるのは結構賢いのが分かっていない。社会がどのように変化して、どんな社会からどんな社会になるのかが分かるし、ある意味では、環境的な、プロフェッショナルを生み出すような、土壌でもある。人間のことも、考え方のことも、知や体得のことも、経験的な観念の創出のことも、2ちゃんねるで全部分かる。2ちゃんねるは、馬鹿に見えて賢い。哲学が分かる人間になる代り、狂う。

そういうわけで、もっと人生や世界のことを考えれば良い。それなら出来ると思う。

2ちゃんねるの馬鹿が一番分かるから、こういうレーニンになる。

あとは、皆を馬鹿だとは言うが、皆は大学時代、賢かった人間が多い。何もしないのは、もう全て、過去にし終えているからだ。今でも賢い人間が多い。自分が一番馬鹿に見えて、何も変わらない。哲学や歴史が馬鹿なだけで、馬鹿では無い。普通の人間には、なるわけがないのが分かっていない。自分の欠点さえも、個性だと思って、愛するしかない。日本語が分からないのは、会話を全くしないからだ。この文章を書いているせいで、日本語は本当にプロ並みに分かっている。普通の会話なんか、する意味が無い。したいなら、会話をきちんとしていると、きちんと分かる。皆の言っていることを覚えないのがおかしいだけだ。自分だけの経験だけで分かるから、仕方ない。皆に、経験なんか無い。大学が賢いだけ、経験なんか、まるで何も無い人間しか居ない。見ていると、皆の方が、まともに賢い経験がある人間しか居ない。2ちゃんねるは賢くない。それに、テレビを見ていると、自分よりはるかに賢い人間が多い。これで劣等感を感じるのは、仕方ない。

見ていると、賢い人間なんか、居ない。父親が賢いのは、物理が出来るからだ。物理が出来る人間は、賢く分かる人間になる。見ていると、父親以外は、賢くない。母親や姉なんか、ただの馬鹿だ。姉の夫が賢いのは分かるが、あれは一般的な普通の人間だ。

それこそ、自分の方が賢い。きちんと本を出版出来ている。神が見て、色々と賢くて良い人間だから、こういう風になる。最初からこういうことがやりたかっただけだ。出来たのがありえない。どこにも、これくらいをやりたい人間が多い。テレビの出演者が賢いのは、こういう賢い人間しか居ない。昔の馬鹿にしか見えない。ポルノグラフィティのような馬鹿は、馬鹿にしか見えない。そういうわけで、こういう人間が一番賢い。

ただ、昔が2ちゃんねるだったのが悲惨だ。それが馬鹿だ。もっと、MITのような賢い大学の方が良かった。だが、内容はMITと同じだ。何も変わらないことをやっている。オープンソースに関して、そこまで研究しているし、ネットを大学の授業と思えば良い。

それこそ、インターネットは、最近本当に多い。悲惨な人間は、インターネットを見ている馬鹿しか居ない。今はLINEだが、昔は2ちゃんねるが普通だった。そういうわけで、こういう馬鹿が最近本当に多い。それこそ、大学は、普通、何も分からない。高尚なことをそんなに分かるより、下世話なことを分かった方が分かる人間が多い。最近少なくなった。自分のせいで、そういう人間にならなくなった人間が多い。

ゲスの極みみたいに、こういう人間が増えた。見るからにネットの掲示板だ。ああいう人間を本当に映すのがおかしいのが、最近のおかしなテレビだ。日本はおかしい。

ユダヤ教が偶像崇拝や姦淫を禁止しているが、もっと、性愛のような表現を全部禁止した方が良い。最近、性愛みたいなものが、どこでも溢れている。最近少なくなったが、まだ多い。そういう、退廃的な芸術を消した方が良い。

あとは、この文章を読んでいると、頭に虫が増える。皆は、そういう風に、虫になっている。その虫を、消した方が良い。皆、それで楽になる。そういう風になると、認知症になって狂う人間が多い。未来の人生に意味が無くなると、そういう風になる。それが自分だ。

そういうわけで、あとは、暴力的な表現も禁止するべきだ。そういう発想が悪い。人を殺す、死ぬ、と言った場面を映すテレビが悪い。むしろ、テレビを禁止した方が良い。

ただ、出来るだけ自由にすべきだ、とは言える。そうすると、皆でテレビを見なければ良いが、それは出来ないだろう。だから、きちんとパソコンなどを禁止すれば良い。

昔は、超越した言語を話すとか、そういう発想が多かった。

ニーチェのような超越論や権力論は、本当に多かったのが自分だ。

この文章は、社会と理性を言葉を変えて繰り返しているだけだ。

昔は、もっとポジティブに考えていた。もっと、ポジティブに考えれば良い。

ただ、暗いことを言わないのも悪い。

昔は、本当に辛いノートを書いていた。あれが、一番辛い時代だ。何も分かっていない。読んでいると、何も分からなくなる。本人が辛いだけ、キモく見える。だが、あれはまだ賢かった時代だ。哲学のことを最初からやっている。それできちんと分かった。

今から、暴力表現や性愛表現が無くなる。僕の中から無くなって、対話が終わる。

こんな対話になるのは、そういう、左翼的で退廃的な表現が多いからだ。

あとは、テレビからも無くなると思う。そのうち、そういうものに意味が無いのに気づく。

最近、そういう「一番キモイ」が日本にどんどん増えている。そういうもので馬鹿になっている人間が多い。良い機会だから、そういう人間を治した方が良い。これで分かる。

日本が、そろそろ、悲惨な世界になる。

あまり悲惨で無くなって、怖くない、良い世界になる。

場に居ること、存在していることを、良く考えて、その場になったつもりで考えていた。

環境が止まっている。環境を変える。

環境は、一度消した方が良い。一度、全部消える。それで、動くようになる。

目が良くなる。目が悪い人間は、狂っている。

全部融和するのがキモイ。環境を消すと治る。

要は、一番馬鹿にはなれるから、こういう風になる。

認知症になっているから、それを止めた方が良い。認知症になると、治る。

今日はアドラー心理学の本を買った。要らないとは言うが、母親が欲しいと言った。自分は、先にユング心理学の本を読みたいと思う。

世界がおかしいから、世界を消す。そうすると、怖くなるだけだ。

アドラー心理学を読んでいると、昔の自分に見える。ああいう人間が一番多い。子供時代の自分にしか見えない。王になる少年を考えるように見える。

アドラーの言う、いつも自分が一番でありたいのは、昔多かった。見ていると、劣等感は悲惨な昔の自分のことを言っている。見ていると、キモイ。

アニメを殺せば良い。アニメなら、殺せる。そうすると、テレビや、悲惨な人間が死んで行く。そうすると賢くなる。イモムシみたいな自分が死んで行く。

ただ、この世界を消すのは止めた方が良い。不思議と、消しているだけ、世界が増えている。そういう発想がキモイ。世界に何もせず、放っておけば良い。何もせず、性愛と暴力だけを否定すれば良い。その方が良い社会になる。この世界に何もすべきでない。

あとは、思い出して分かるのが悪いから、思い出さない方が良い。

いつも、遡って分かっているが、それが悪い。

それから、全てのものを虫にしていると、分かる。それを、治さない方が良い。虫にすると分かる。それで、安心出来る。治さない方が良い。人間は、誰でも虫から始まる。

認識がどんどん虫になるのは、治さない方が良い。それでしか、人間は分からない。

怖いものは、怖い方が良い。怖いと、覚える。

一行を変えて分かっている。それがおかしい。

宇宙から見た自分の視点のようなことを言っていた。

ソ連の全員や、マルクスの理論のようなことを書いていた。

そろそろ怖くない。不思議と、怖いものは悪い。怖いものが何なのか分かると、分かる。

あとは、出会いやきっかけを作るとか、記憶と概念とか、本当の理由とか、環境の考え方とか、成長とか、そういう色んなことを言っていた。

自然な中での正しい可能性のようなことを言う。正しい可能性が多かった。

最初に言う言葉が悪い。それは、全部学習したことを言っている。

学習が悪い。ロボット的な学習が全部悪い。

あとは、種をまいたと言っている。色んな種をまいたから、仕方ない。

もうまともになった。ロボット的な学習を止めれば良いだけだ。

自分が死ぬくらいなら、世界が死ぬ。この世界を殺す。そうすると、楽になる。

もう、どんどん死んで行く。もう楽になる。

昔、15歳の頃、アドラーみたいに考える心理学が多かった。子供は誰でもアドラーだ。ああいう風に考える人間が多い。色々と、同じだ。自分が考えたのと同じに見える。

自分は、アドラーを付け足すと、本当に自分に見える。

自分は、「何故」を辿って行くと分かる。きちんと思い出して考えれば良い。

自分が死ぬ意味が無い。自分は生きれば良い。

あとは、客観的なことを言っていた。

自分は、分からなくなる意味が無い。分かれば良いのが分かっていない。分かるように考えれば良い。そんなに分からなくなっても、意味が無いだろう。

認識を良く考えて、認識していることの意味を考えると、哲学が出来る。

心理学は、馬鹿な学問だ。賢い人間なのに、考えている内容が馬鹿だ。

アドラーを見ていると、本当に自分に見える。昔、本当にアドラーと良く似たことを考えた。だが、同じには見えない。アドラーは、2ちゃんねるにしか見えない。心理学が賢いのは分かるが、賢い代り、2ちゃんねるだ。ただ、きちんとした方が良い。

ただ、2ちゃんねるは馬鹿では無いだろう。心理学や哲学をネットで出来るとは言うが、そこまでキモイ人間との付き合いを考えて分かるだけだ。

そうでもない。アドラーは、本当に子供に多い。ネットを見ていると、そういう、子供の殻を壊して、今までの人生から脱却して分かる。そこで、劣等感のようなものが見えて来る。アドラーは、そういう、子供からの脱却、不穏な人生からの脱却を考えている。昔から、自分もそういう風に考える。だから、誰が考えて生きてもアドラーと同じになる。

良く読んでいないが、アドラーは、甘やかされて育った人間は、共同体感覚が育たないと言っている。だが、それは違うと思う。ただ、単純に溺愛されて育ったのではなく、本当の自覚と理性を与えるために、本当に愛して育てる必要がある。

だが、本当に愛するならば、きちんと厳しい現実も教えるべきだとするのは分かる。

それこそ、そういうことを言う人間が多いせいで、最近、自分の子供をきちんと愛せないで、厳しくしつけをしすぎる人間が多い。アドラーのような発想が悪い。自由を良いとは言うが、自由も愛も悪い。現実と理性と共同性を教えながら、考える子供を育てるべきだ。

アドラーの4つの基本理論は、目的論、全体論、対人関係論、認知論だ。読んでいない。

分かる方法は、1つしかない。その1つで分かるしかない。

確かな分かることを継続すれば、分かる。

昔は、ネットに色んなことを書いて、攻撃して、攻撃に意味が無いことを知って分かった。

一体感、共感、内面化、共同性の自覚などは、全部そういうネットで分かっている。

2ちゃんねると言うとキモイから、ネットと言えば良い。哲学者は、こういう風になる。

社会のこと、世界のことを全部作っていた。

自由な環境と平和な環境を繰り返して、環境的な考え方を作っていた。

そろそろ、足が治る。ただ、足が何故治るのかをすぐ忘れる。そういう、分からない時は、何故と考えるべきだ。「分からない時は何故」だ。そういう風に考えれば良い。